2016年 アイルランドの旅 3

まだ生きています。

今日は、アイルランド対フランスのサッカーの試合をテレビで見て過ごした。普段サッカーなどには興味がないものの、一応建前でアイルランドの応援をしていたが2−1で負けてしまった。

天気も良くなったので、ちょっと買い物に出かけた。

川のほとりに鴨や白鳥が憩う最高のロケーションであった。

ところで忘れていたが、ソーセージはキアランも食べたが、彼曰く、味がやっぱり違うそうだ。

僕らにはあまり馴染みのないタイプのものだし、彼の意見のほうが正しいかもしれない。

ここで、じゃがいもとアップルパイに次いで、ソーセージの違いがわかる男が登場したわけだ。

おかげでソーセージは敢えなく屑かご行きとなった。だから三人ともまだ生きているのかな。

夜になり、普通なら暗くなっている時間だが、まだ例によって明るい9時頃、町まで歩いて飲みに行く話がまとまり、外へ出た。

ここからはさくさく歩いて20分ほど。ちょうどいい距離だ。

なにもない「奥の細道」のような道路が唯一町へ出ることのできる比較的安全な道だが、結構せまい。車はこんな道を100キロほどのスピードで行き交うので、帰りのことも考え、ライトに光るジャケットを羽織って変な組み合わせの三人が一列になって歩く。

途中、道がさらに細くなるので、その区間は広い墓場を横切るのが通常の行き方らしい。

サマーズ家代々のお墓に挨拶して墓場を出ると、少しだけ歩道のある道が続く。

やぎの子供達が佇んでいる。普段はやぎのチーズの香りが漂ってくるらしいが、今日はあまり匂わない、ということで僕としては助かった。強い香りのするチーズは苦手なのだ。

しかし、やぎの子供達はかわいい。6〜7匹が一目散に駆け寄ってくる。何を言っているのかわからないが、メ〜メ〜言っている。

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しばし相手をしていたせいか30分ほどで町に到着。お昼はゲームがあったので、さぞにぎやかだったろうが、まだそれでも多くの人が飲んでいる。

小さい町だ。みんながキアランのことは知っているし、キアランも彼らのことは知っている。

あまり飲めない僕にとっては、こうして毎晩のように集まって飲む、という行為がわからないが、これは明らかにこの国の文化だ。

キアランのように、普段からあんまり酒、酒と言わない男でもあっという間に1〜2パイントは終わらせてしまう。そして決まり切ったセリフのように、もう一軒行こうなどと言う。

決して酔った勢いとか、もっと飲みたいから、とかいうのではなさそうだ。

それでも彼、明日の朝は早く出掛ける用事があるので早々と11時頃に二軒目の店を出て帰路に就いた。

西の空がまだほんのり明るい。やぎももう寝ているようだった。暗くなった墓場も広いせいかあまり怖くない。日本のお墓の方が怖いような気がするのは日本人だからだろうか。

この時間になると蛍光ジャケットは効力を発揮する。墓場を出てまたしばらく細い道を歩くと、やぎと遊んでいたわけでもないが足元がおぼつかなかったせいか、30分で家に着いた。

家に着いたら「ワイン飲むか?」というキアラン。どこまで強いんだろう。

 

一夜明けて朝8時。キアランがシャワーを浴びている。8時半に出ると言っていたのでほぼ時間通りだ。

この男はアイルランド人には珍しく時間に関する観念がしっかりしているようだ。

ちなみに6月27日、カーロー。素晴らしくいい天気だ。

 

2016年 アイルランドの旅 2

アイルランドに到着して5日目。やっとまともな時間に目が覚めたようだ。

今日も外はどんより曇って寒々としている。まだ夏はやってきていないのだろうが、やっと来たかと思っても1ヶ月ほどで終わってしまう。

しかし、湿度は新聞で見る限り、昨日などは70%以上あったのに楽器の鳴り方が異常にいい。

建物のせいだろう。特にここ、キアランの家は広々として基本コンクリート造だし、周りはどこまでも広がる緑だし。周りは気分的なものだろうが…。

よく、練習はできるだけ響かないところでやったほうが良い、ともいうが、これだけ「いい音」というものを感じると自分自身が楽しめると思う。

確かに自分の技術の範囲をだいたいわかっているのなら、いい響きの所で弾いたほうが面白さを感じることができるだろう。

いわゆる「思わずのってしまった」みたいな。もちろん脱線もあるのだろうが音楽はそのほうが面白い時もあるし、そういう音楽もある。

とかなんとか云って、音楽に関わってからたかだか60数年。人の一生からすると確かに短い時間ではないが、文章ではいくらでも偉そうなことが言える。特に今の世の中、そんな奴が多すぎるから気をつけなくては。

おっと、年寄りの愚痴が始まりそうなので、ちょっと外でも散歩してこようか。

 

久々にパディ・キーナンのFactory Girl を聴いて「おー、コンサートではこれに2番からギターを乗せて、キーを変えて確かMan of the Houseに行ったなぁ」などということを想い出した。

そこで、iTunesで流れるものにギターを乗せていたら、それを動画で録音していた希花が早々とパディに送っていた。すごい世の中になったものだ。

すぐパディから返事が来た。「今日、ニュー・ハンプシャーにフランキーが来ているから見に行くつもりでいる。動画は後で見るよ」

慌てて「そんなにシリアスなもんではないから見なくてもいいものだ」と伝えてもらった。

ふと壁に目をやると、Matt MolloyとSean KeanのContentment is Wealthというアルバムのジャケットが飾ってあるが、同じタイトルのアルバムをアンドリューもリリースしているし、これはEmのジグだ。「たしかこういうメロディだった」

など、ここには多くの資料もあるし、探し出せばいろんな曲を掘り起こすチャンスも出てくるだろう。

午後、天気も良くなったので、キアランと一緒にキルケニーに出かけた。ここはマーブル・ストーンで有名らしい。

そういえばCarrickfergusという歌の2番にこの町の名前が出て、マーブル・ストーンという歌詞につながっていく。

歌の歌詞や曲名からその町を見ていくのも面白い。

キルケニーから戻ってしばらくして、パディからフランキーのソロステージの様子がビデオで送られてきた。パディは自撮りで美味しそうにギネスを飲んでいた。

 

6月26日。昨夜、期限切れのソーセージをキアランが捨てようとしていたので「いや、これくらいならまだいけるだろう」と保存を促した手前上、みんなが寝ている間に12本全てをクックしてみた。

それから保存するなり、細かくしてパスタにいれるなりすればいいだろうと思ったからだ。

しかし、そこはやっぱりみんなに食べさせる前に自分が食べてみなければいけない。犠牲になるのは一人で十分だ。

本当はその行程を昨夜から考えていた。やっぱり料理がすきなのかもしれない。食べ物にはあまり執着がないのに、こういうことは大好きなのだ。

かくして、立派にクックされたソーセージは普通に食べられるので、後でナポリタンもどきでも作ってみるか。

もし、2016年アイルランドの旅がここで終わっていたら、ソーセージのせいだと思ってください。

2016年 アイルランドの旅 1

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6月19日、いよいよアイルランドに向けて、暑い日本と暫しの別れを告げた。今回もアブダビを経由してダブリンに着く予定だ。

フライトも快適、といえども多少揺れたが、これくらいの揺れは空気の中を飛んでいるのだから致し方ない、という程度のものだった。が、しかし「飛行機大好き」という人の気持ちがわからない。

僕はあくまで外観が好きだったのでしょっちゅうプラモデルを作っていたのだ。まぁ時代のせいもあってか、零戦、隼、紫電改などの戦闘機をはじめとして、ドイツ、イギリス、アメリカの飛行機はよく作ったものだ。

だいぶ前に、久々に零戦を作りたいなと思い購入してみたが、最近のプラモデルはあまりにもよくできていて細かすぎるので、全然手つかずで置いたままだ。もう根気もなくなっているし、眼もよく見えないし、何事もあきらめるのが早くなっている。

それはともかくとして、問題なくダブリンに着いた。見たところ、なにも変わっていない。それは嬉しいことだ。

気温は18℃ということだが、今はお昼過ぎ。夕方になったらきっと寒くなってくるだろう。

僕らはそのままゴールウェイに向かった。この辺はもう慣れたもので、こちらも大した問題もなく2時間半ほどで到着。

今回のゴールウェイ滞在は短い。和カフェのオーナーである早川さんに会うのが目的だ。

ぼくら三人は去年の出来事以来、説明のつかない深い絆で結ばれているような気がする。

3日ほどゴールウェイに滞在して早川さんの車でダブリンに向かった。少し用事を済ませて、ラーメンなんかを食べてしまった。

84年にニューヨークでラーメンが結構なブームになり、ラーメン屋さんに入ったことを思い出した。

ナターシャー・セブンのファンの男の子が働いていてサインをお願いされたことがある。

今はそんなことはないが、ラーメンに関してはヨーロッパの他の国で結構流行っていて、それが今、じわじわとアイルランドに来つつあるらしい。

そういえば、先の話に戻るが、和カフェで早川さんとお話をしていたら、日本人の若者が入ってきて「あ、城田さん、内藤さん」とびっくりした様子で直立不動のまま固まってしまった。

なんでも、アイリッシュ・ミュージックが大好きでギターを弾いている、ということだが、初めての海外旅行でアイルランドに来てしまったという。

本場の空気に触れたいという彼は、その行動力と音楽に対する感性でいいギタリストになるに違いない。

古い録音をいっぱい聴いて、機会があったらまたアイルランドに出向いて、独自のスタイルを創って欲しいものだ。

最初の数日はこんな風に過ごし、僕らは今回来たことのないところに来ている。

Muine BheagというCo.Carlowの小さな町だ。

先日来日したCiaran Somersに幾つかのギグをセッティングしてもらっているので、彼に会うためにここに来ているが、これはまた何もないところだ。

とことんトラッド・アイリッシュを肌で感じることができる。

着いてすぐになんだかよくわからないけど、誰かのバースディ・パーティに出かけた。

どこをどう走ったのか、山道を延々と抜けて着いたところは人里離れたようなパブ。

Ciaranと三人で少し演奏しただけで、山のようなサンドイッチや、じゃがいも、ソーセージ、それに勿論ギネス。

まだまだ時差ぼけも抜け切れていない身にとってはなかなかにきつい。やっぱり酒飲みにはこの国はいいだろうなぁ。

10時に出て1時間で帰ると言っていたが、結局パブを出たのが1時過ぎだった。

アイリッシュの見積もりはあてにならない。普段きっちりしている好青年のCiaranでもリラックスするとこんな感じだ。

しかし、このアバウトなところが彼らの、そして彼らの音楽の素晴らしさでもあるのだろう。

ここで全く別な話で申し訳ないが、今日ラルフ・スタンレーの訃報を聞いた。僕が最も好きなブルーグラス「スタンレー・ブラザース」はこれでふたりともいなくなってしまった。

いま、このCarlowの深い緑を見ていて、山々に囲まれた緑のVirginiaを歌い続けてきたスタンレー兄弟に改めて思いを馳せている。

ジェリー・ガルシアとグレイトフル・デッド

グレイトフル・デッドについても、ジェリー・ガルシアについても今更何の説明もいらないだろうが、最近、何人かの熱狂的なグレイトフル・デッド・ファンの若者や、そこ迄でもないが、彼らに興味を示す若者に出会った。みんな20代だ。

僕は何度も何度も彼らのコンサートを観に行ったが、彼ら、若者たちは生で観たことが無い、という。

無理もない。ジェリー・ガルシアは1995年の8月に亡くなっている。

当時サンフランシスコに居た僕はその日のことをよく覚えている。

ヘイト・アシュベリーには多くの人が集まり、道端に座り込んで蝋燭を立て、花を飾ってお祈りを捧げていた。

どこまでも真っ青に澄み渡った空の下、街全体が失意のどん底に突き落とされたような光景だった。

8月13日にゴールデンゲート・パークのポロ・フィールドでメモリアルセレモニーが行われた、とあるが、25000の人の中に確かに僕も居た。

遡ること、僕が彼らの存在を意識し出したのは、特にジェリー・ガルシアの、あるいはグレイトフル・デッドの音楽に興味があったわけではないが、それはジェリーのバンジョープレイによるものだったかもしれない。

オールド・アンド・イン・ザ・ウエイで聴くことが出来る絶妙なタイミングのバンジョーは、まさに彼ならではの感がある。

また、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのヒット曲で演奏されたスティール・ギターも絶妙だ。

それくらいの知識と、サンフランシスコという土地に住んでいるというだけの流れに乗っかって彼らのコンサートには何十回も足を運んだ。

曲間に話すことはなく、前の曲が終わると同時に自然と次のイントロに入っていく。3時間もそのままだ。

前の方では5~600人のヒッピーたちが踊っている。座席には2000人もいるだろうか。そして、数百人が後ろの芝生でフリスビーをしたり犬と戯れたりして楽しんでいる。

そして会場の外には数千人のヒッピーたちがキャンプをしている。

ほとんどのコンサートで毎回そんな光景が繰り広げられていた。

会場には入れなくても、彼らの近くにいればもうそれでいい、という人達が世界中から集まってくるのだ。

僕がその文化の中心、ヘイト・アシュベリーのすぐ近くに住んでいたことは非常に幸運だったかもしれない。

近くのコーヒー・ショップでまだ始めたばかりのアイリッシュを演奏していると、グレイトフル・デッドのメンバーであったフィル・レッシュが聴きに来たりしていた。そんな日常もこの地区に住んでいたからこそ、だろう。

また、若いデッド・ヘッズたちにそんな話を聞かせてあげたいものだ。

だが、多分グレイトフル・デッドについても、ジェリー・ガルシアについても彼らの方が詳しいだろうな。

2016年5月27日

この日は広島にとって、日本にとって、そして世界にとって歴史的な日として意味あっただろうか。できればそうであってほしい。

金曜日の夜、酒に酔った若者が奇声を上げているのが聞こえてくる。取りあえず平和だ。

広島のことは勿論、熊本の地震も、東日本も忘れているわけではない、と言いたいが普段の自分自身の生活にはあまり関係してこない。

これは決して責められることではないと思う。何事も当事者にしか理解できないものがある。

フォークソングに長いこと関わってきたけど、反戦集会に出たことは一度も無い。もし、自分が反戦をテーマにしたコンサートに出てくれ、といわれても恥ずかしくて出るわけにはいかない。

高校の頃、それでもいくつかの反戦歌をそれと知りながら唄っていた。ほとんど原語のものばかりだったが。

折しも日の丸を掲げることに反対意見が発せられていた頃。親父が祝日になると嬉しそうに日の丸を玄関に掲げるのを見て、何も言えなかった。

この人、このために命を懸けて南の島にいたんだな、と思うと、それは何も言えなくなるのは当然だろう。

僕らはなんにも知らない。でも知る義務があることは確かだ。

知る権利というと、知らなくてもいいことに首を突っ込んでは、間違った情報を嬉々として書き込んだりする輩もいるので、「事柄によっては知らなくてはいけない義務がある」と言ういい方の方が良いのかな。

僕にとって一番身近な戦争は湾岸戦争だったかもしれない。身近というと変だが、少なくとも、毎日のように帰ってくる帰還兵を題材にした「ヒーロー・インタビュー」みたいな番組が放送されていた。

高校生たちは海兵隊には入ってみたいけど、ブッシュのために死ぬのはごめんだ、と言っていた。

レストランに御用聞きに来る日本人の女性の息子さんが湾岸に出征していった話を聞いた。空港で、それはそれは泣いたそうだ。

ジョン・デンバーの「傷心のジェット・プレイン」を想い出した。

ジュリー・ゴールドの「フロム・ディスタンス」にも随分感銘したものだ。

ボブ・ディランは「答えはいつも風に吹かれてさまよっているのではない。フッと目の前に落ちてくることがある。その時、気がつくか気がつかないか、それが問題だ。気がつかなければ答えはまた風に吹かれて何処かへ行ってしまう」と言っていた。

そんないろいろなことを想い出しながらテレビを観ていた「記念すべき日」だった。

反戦運動とフォークソング

俗に言うベトナム戦争というのは、1960年頃から1975年くらいまでだろうか。ちょうど僕らが高校、大学、そして社会へと進む時代だった。

何不自由なく、普通に暮らしている僕らにはほとんど無縁といえるものだった、としか言いようがない。

実際には数々の恩恵にも授かっただろうし、悪い方の影響もあったかもしれないが、そんなことも全く感じることなく暮らしていた。

フォークソングに興味が出てくると、当然のごとく反戦フォークなるものも耳に入ってきた。

だが、それらが本当に自分の気持ちに入ってきたのは正直、終結してから随分経ったアメリカに渡ってからだろう。

歩いていると多くのホームレスに出会った。

「空軍兵士としてベトナムから帰ってきて、職もなく困っています。どうか少しのお金をめぐんでください。エディ。」

通りの向かいには「僕の兄貴は空軍の元軍人でエディといいます。ベトナムから帰ってきて困っています。どうか彼を助けてあげてください。マイク。」

どこまで本当か分からないが、少なくとも見た感じエディの歳はそれ相応だ。親しくなってたまには25セントあげたりしたが、こちらも小銭が必要になったら貸してくれたりした。

また、道に腰かけてハーモニカを吹いているやつもいた。

彼が友達のところに連れて行ってくれたが、それはそれは驚きの光景だった。真っ暗な部屋にベトナム帰還兵が2人で暮らしている。一日中ほとんど部屋を出ることがない。

怖いそうだ。いまでもジャングルが脳裏から離れない。敵も怖いけど、蛇や身体に引っ付くヒルみたいなやつが寝ても覚めても襲ってくる、と云いながら煙草をふかし、ウイスキーをあおる。

こんな奴らが街角に、あるいは人知れない部屋の片隅にうようよ居た。

ゴールデンゲート・パークにもいっぱいいたし、すぐ近くのヘイト・アシュべリ―地区は言わずと知れたグレイトフル・デッドを始め、いわゆるヒッピー文化の発祥地だ。

また、対岸に行けば学生運動の街、バークレイもある。

そして働いていた先には多くのベトナム人がいた。彼らからの話はこのコラムで既に書いているが、僕らが普通に生活をしていた最中に起きていたことを多く知ることとなった。

湾岸戦争では、友人の息子たちが多く出陣していった。

街では多くのデモ隊が拘束されているのを遠巻きに見ていた。

世界中の偉い人達は絶対的に守られているので、庶民がいかに騒ごうが何とも思っていない。

税金を上げることばかりを考えないで、自分たちの給料を少し減らせばいいのに。知事なんかがネコばばしたお金を復興に使ったらいいのに…っていうのは簡単だけど、そうも言いたくなるくらいに守られている。

と、ここまで書いてきて何を言いたいのかが自分でも良く分からなくなってくるので、プロの小説家にもコラムニストにもなれないだろうことは良く分かる。

ただ、あの時代にフォークソングから学んだこともいっぱいあったことは確かだ。それは音楽的にも思考的にも。

そして、その思考的な部分をアメリカで体験できたことも確かだ。

だが、それほど音楽に思考的なもの、強いて言うならば思想的なものを入れたいとは思わない。僕自身それはそれとして、音楽を大切にしていきたいと考えている。

 

2016年6月17日(Fri)ラ・カーニャ

キーボード奏者 宇戸俊秀とベーシストの河合徹三を迎えてのユニットで、アイリッシュ・ミュージックの数々を演奏します。

彼らは言わずと知れた、日本最高峰のミュージシャン。彼らのような、縁の下の力持ちである伴奏者(僕もその一部ではありますが)は本物の実力と経験がないと、どんなシーンでも音楽がきちんと成り立たないのです。

そんな彼らの懐を借りて、本場で演奏を展開してきた僕らにとっても、また違う風を得るコンサートになるはずです。

「アイルランド行ってきますコンサート」
出演:
内藤希花(fiddle,irish harp&concertina)

城田純二(guitar,banjo&vocal)
河合徹三(bass)
宇戸俊秀(keyboard&accordion)

日時:2016年6月17日(金) open 19:00 start 19:30
予約・3000円+1drink order
当日・3500円+1drink order

ご予約・お問い合わせは下北沢ラカーニャlacana1980@mac.com まで

高橋竹童コンサート

先日、ひょんな繋がりから、津軽三味線の高橋竹童の音楽会に出掛けるチャンスを得た。

隣の会場では森山良子さんがやっていたみたいで、ちょうど同じような時間帯にそちらに並んでいる人を見ると、大体僕らの世代。

こちらは僕より10~15は上の世代がほとんど。恐らく希花さんが一番若いかもしれない、というような感じだったが、一杯の人だった。

ほぼ満員御礼と言えるだろう。

まず、彼自身が苦労して録音してきたという津軽の波の音と、なかなか鳴いてくれなかったというウミネコの鳴き声が会場に響く。

そこに登場した彼が最初に演奏したのが「十三の砂山」

僕は昔京都にいたので、これは大阪の十三(じゅうそう)かと思ったことがあった。それこそ初代竹山と出会う前の話だが。

お話もなかなか落ち着いていて面白く、お客さんを引き込んでいく技術もしっかりしていると感じた。

僕にもなじみのある「津軽甚句」(どだればち)や、「弥三郎節」。もちろん「じょんから節」に至るまで、トラッドの素晴らしさを存分に味わった。

尺八や胡弓。コンサートのアクセントとしても、演奏としてもとても素晴らしく、ひとつの世界を創りだしていたようだ。

また個人的にゆっくりお話しできる機会があれば面白いかもしれない。あれだけきちんとトラッド(和楽に使う言葉ではないかも知れないが)をできる人なので話は合うかもしれない。

益々の活躍が期待できる人だ。

ギター弦に関すること

ギターを始めた頃、最初はクラシック・ギターだったので、当然ナイロン弦だったが、フォークギターを買ってからはどうしていたのか覚えていない。針金を代用したことは覚えているが、それはいつもというわけではない。

70年代に入って、マーチンギターを手に入れると、まぁその頃にはいろんな会社の弦が手に入ったのだが、最初はやっぱりマーチン弦だったと思う。

特にゲージに拘ることなくライト・ゲージを張っていた。

常に僕はフィンガー・ピッキングが多かったのでライト。省ちゃんはフラット・ピッキングが多かったのでミディアム。

マーチンの他にはダルコというのもあったし、ギルドの弦も使っていた。それが良かったからという覚えもないが、今のようにネットで買えるような時代でもなかったので、良く行く楽器屋さんからまとめ買いしていたのだろう。

アイリッシュをやるようになってからはずっとブルーグラス・ゲージを使っている。これは

1、2、3、がライト、4,5,6がミディアムというものだ。

以前、僕はギグごとに張り替えていた。それがどんなに小さなセッションでも。なので月に20セットくらい使っていたことになる。

そんなに簡単に切れるものではない、ということは百も承知だが、僕はギタリストとしてバンドのベース、リズムを一手に担っている。

もし、途中で切れたらどうしようもなくなる。これで飯を食っている以上そういうわけにいかない、という怖さからしょっちゅう変えていた。

しかし、困ったことに新品の弦より少し腐り気味くらいのほうが良い感触の音が得られるのも事実だ。僕はそれでも3つ目の仕事では必ず変えている。

今ではかなりロングライフの弦も出ているが、ロングライフの弦は値段も高い。怖いという感覚だけでそうそう変えるわけにはいかないので使っていない。

ともあれ、このブルーグラス・ゲージというものは低音の力強さが好きだ。ライト・ゲージでは出せない迫力が出るので今のところこれで決まり。因みにダダリオのブルーグラス・ゲージ、フォスファー・ブロンズの012-056というものだ。

6弦はDまで下げているし、056という太めの弦でガツンと弾いた方が音に深みが出る。

だが、これも好みだし、プレイヤーにとってもギターにとっても向き不向きがあるだろう。

因みに、DADGAD専用、というゲージもあるが、僕には不向きだった。1,2がミディアム程度の太さがあり、3,4,5が少し柔らかいのだ。慣れればどうってことないのかもしれないが。

究極、好みであることは確かだ。

健康に関すること

最も大切なテーマだろうが、つい最近、若いタレントが急死した。もうみんなが知っていることだろう。それにしても若すぎる。

もちろん歳がいっていれば仕方ないかということもないが。

詳しい話をきいていると、僕らの去年の夏のことが蘇ってきた。ほとんど同じ症状だったが、

彼は希花さんの渾身の心臓マッサージの末、運が良かったのだろうか、生き返った。

しかもアイルランドで。救急車が到着したのが20分後。AEDも手に入れることが出来なかった。

やっと運ばれた病院はまるで野戦病院。血だらけの若者から、元気のない老人までが廊下のあっちこっちにごろごろしていた。

そんなところで、それでも最優先ということですぐに運ばれて行った彼は真っ白だったのを覚えている。

希花さんが医師と面談をして、カルテから心電図までチェックした。遠い日本に住む親とも病院の電話から話をしたが、さすがに医師としてツボを得た説明をしていた。

とにかく僕らだっていつ何時どこで倒れるか分からない。

健康なものを食べていれば大丈夫なわけでもないが、できれば不健康な食べ物は口にしないほうがいい。

でも、そういうものが結構美味しいということはだれにも分かっている。

運動を欠かさずおこなっていればいいことも分かる。なので、ジムにも適度に通っている。よく歩くことも心掛けている。

だが、僕の健康の秘密は(というほどのことでもないが)おそらく「歯」だろう。

35歳くらいの時に京都のカントリー歌手兼歯科医の永富先生に「お前一生自分の歯で行けるわ」と、口を開けただけで言われたことがある。

だが、僕は子供の頃から寝る前に歯を磨いたことが全然ないわけではないが、あまり記憶にない。

今でも朝や出かける前、あるいは気の向いたときに磨く。それで、虫歯というのは1回しか経験していない。

それも63歳くらいの時。何が痛いのか…頭痛か、口内炎か…分からなかった。歯痛というものの経験がなかったからだ。

それでもかぶせ物をして、あっという間に治った。医者は「なんと立派な歯」と感嘆して言った。親に感謝だ。

僕が思うに、そんな歯なのでこの歳でも結構食べられる。食べ物が美味しくないと思ったことがほとんどない。アイルランドは別。

美味しく食べることが出来るというのは基本だろう。

僕の嫌いな言葉で「不味い」という言葉がある。確かにそういうものもあるが僕は敢えて「美味しくない」か、「苦手」を使う。

おそらく作った人は美味しいと思っているのかもしれないし、せっかく作ったものに「不味い」というのは気の毒だ。自分には合わないだけかもしれない。

僕には好き嫌いがあまりない。強いて言うならば「漬かりすぎた漬物。特になすの漬物」は苦手かな。「魚醬」のあんまりきついもの。「生ハム」や「フォアグラ」は食べない。

ありゃ、こうしてみると結構あるのかな。

でも、普通に出されるものはなんでも食べる。「気持ちいいくらいによく食べるね」と言われるのが好きだ。

それってやっぱり健康の秘訣かもしれない。

良く食べて、適度に運動をして、寝る時間を大切にして、ストレスをストレスと思わないのが一番だが、なかなか難しい。

取りあえず、いま位の感じを行けるところまでキープ出来れば良し、としておこう。

ついでに、歯について普段僕がやっていることは、練り歯磨きはあまり落とさないで少しだけゆすぐ。本当は食べる前に磨くようにしたい。くらいかな。

それと、これはメーカーの宣伝になってしまうかもしれないけど、クレスト社から出ている「Glide」というデンタルフロス。日本ではほとんどネットでしか手に入らないようだが、これは万人に勧めたいものだ。

ブルーグラス、オールドタイム、アイリッシュ

この順番は僕が歩んで来たものなので、本来歴史上では書くべき順番は逆になるのだろう。僕の場合勿論ブルーグラスの前にフォークソング、というものが入るが。

初めてフォークソングというものを耳にしたのは、ひょっとすると1960年、うん、まだ10歳?

ブラザース・フォーの「遥かなるアラモ」だろうか。しかし、同じグループの「グリーンフィールズ」も1960年。「アラモ」より少し前に出ている。そしてすでに知っていたので、取りあえず1960年にフォークソングと出会ったと言っていいだろう。56年前?

それから4年か5年ほどして初めてのピアレス・バンジョーを手に入れ、フォークソングに夢中になるのだが、その辺のことはもう既に書いている。

ギターはそれより少し早く手に入れているので、なんとなく知っているメロディを自分なりにアレンジして弾いていた。

小さいころからのピアノの訓練で、和声と云うものはいとも簡単に理解できた。バンジョーについても同じだった。

そして、もっともっとバンジョーを弾いてみたくなったら自然とブルーグラスにのめり込んでいった。それにしても、フォギー・マウンテン・ボーイズの来日はいいタイミングだったと言えるだろう。

朝から晩までブルーグラスのことを考えていたら、今度は自然とルーツに向かうようになる。そして友人と3人でニュー・ロスト・シティ・ランブラーズのスタイルを目指す。

そこにはもちろん、ブルーグラスで演奏したものからカーター・ファミリーの歌まで、旧知の曲がいっぱいあった。

もちろん、たまには別な仲間と4人、5人集まってブルーグラスも楽しんだ。

この際、ナターシャー・セブンというものはさておいて、1991年からはアイリッシュ専門である。

よくいろんな人に「なぜアイリッシュか?」という質問を受けるが、そんな時よく「ルーツに戻っていっただけ」と答えるが、これは決して間違いではないものの、正しくもない。

散々ブルーグラスを経験すると、そのルーツはスコティッシュだということがはっきりわかる。

アイリッシュは独特だ。もちろん隣国であるスコットランドの影響を受けたものも数多く存在する。

そしてその演奏形態、ジャムのあり方は実にオールドタイムとよく似ている。が、もっともっとヨーロッパの匂いがする。

そこにはクラシックの要素もいっぱい入っている。だからこそ、クラシックの演奏家は好んでアイリッシュの曲を演奏したりするのだが、そこにはどうしようもないリズムの違いが生じる。

クラシックの演奏家の最も弱いところはリズムだろう。えも言われん、楽譜で記すことのできないきちんとしていないリズム感覚。

これが把握できないと単なる音の羅列になってしまう。

パディ・キーナンが日本の若手アイリッシュ・グループを聴いた時「とても上手いけどパッションが全く感じられない」と言った。

この音楽は生活の音楽だ。そうして考えてみるとオールドタイムからもそれを感じる。ブルーグラスはもっとショウとしての魅力に溢れる音楽なのかもしれない。それに、宗教も色濃く感じる。

ともあれ、ブレンダン・ベグリーが畑を掘り起こし、出来たジャガイモをクンクンして「うん、いける」と僕に渡した。

ジョー・カーターが「畑にラディッシュを植えるから手伝ってくれ」と鍬を持ってきた。

アンドリュー・マクナマラが「草むしりをするから、ジュンジ、そこの長靴を履いてきてくれ」と自分の分と仲良く並んだ長靴を指さして言った。

これ、全て音楽だ。オールドタイムだ。アイリッシュだ。そして、本来、ブルーグラスもその流れの中にある。

60年代からこれらの音楽に接してきて、ようやくそんなことが身に染みて感じるようになってきたのはやっぱり、彼らとの生活を体験してきているからだろう。

50年。いろんなものを見て、やっと分かりかけてきたのかも知れない。

キアラン・サマーズ Ciaran Somers

とてもいいフルート奏者であり、僕らが生きている証であるアイリッシュ・ミュージックの基本中の基本をたっぷり聴かせてくれた演奏家であった。

この音楽を演奏しているにもかかわらず、楽し気に飛び跳ねるパフォーマンスばかりが横行している昨今。そしてそれがもてはやされているこの国。

確かに、あまり一生懸命になっても時間が足りないし、一般的な人達にはどうでもいいことだし、本場の超一流のミュージシャン達と関わるよりも、自分たちの身内でつるんでいるほうが気楽だ。

もちろんみんなで楽しむことも音楽のひとつの大切なかたちであるのだが、これでお金をいただいている僕らにはこの音楽に対する飽くなき探求心と尊敬の気持ちがとても大切なこととなる。

知る限り、本当に真面目に取り組んでいるミュージシャンもこの日本には数少ないが居ることも確かだ。問題はそのことがさっぱりわからないのにこの音楽に関わってこようとする人間が居ることなのかもしれない。

とに角Ciaranの演奏からはまた気を引き締められるいいチャンスを与えてもらった。

僕は、アンドリュー・マクナマラに始まり、ジェリー・フィドル・オコーナー、ブリーダ・スミス、トニー・マクマホン、ジョン・ヒックス、コーマック・ベグリー、パディ・キーナン、フランキー・ギャビンを日本に紹介した。イデル・フォックスは大使館の招聘だったが、彼女との素晴らしい演奏も体験させていただいた。

そして彼らは一様にトラッド(伝承音楽)に対する真摯な姿勢を僕らに見せてくれた。

だが、この日本でアイリッシュ・ミュージックを自分たちの生業の一角として演奏している人たちがほとんどそういった会に姿を見せないことが不思議でならない。

ま、諸々の事情もあるのだろうし仕方のないことだが…。

80年代、トニー・マクマホンがコマーシャリズムに乗りかけたアイリッシュ・ミュージックを嘆いていた、というが、アイルランドですらそういうことが起きるのだ。

そんな中で、しっかり伝統を守っていきながらこの音楽で生活を築いていく人達は貴重な存在だ。

Ciaran Somersにもう一度「ありがとう」と言っておきたい。

京都産業大学 ブルーリッジ・マウンテンボーイズ

大学へ入学したその日からバンジョーを持って学内を歩いていた。大学に行ったらブルーグラスをやろうと決めていたからだ。

今でもはっきり覚えている。「自分、バンジョー弾くんけ?」とザ・関西ともいうべき言葉をかけられたことを。

それは初代バンジョー弾き、酒井さんだった。そして先輩たちに出会ったわけだ。

ギターとヴォーカルの細谷さんは僕とは全然違って坊主頭だった。フィドルの松井さんはニコニコして「お、新メンバー獲得」と、言ったか言わなかったか、そこまで覚えていないが、二人で嬉しそうな顔をしていた。長身のベース弾き山本さんはクールに出迎えてくれた。

僕が2代目ブルーリッジ・マウンテンボーイズのメンバーとなった瞬間だ。

さすがに先輩たちは練り上げられたサウンドでスタンレー・ブラザースや、バージニア・ボーイズの曲を歌い、演奏していた。

僕は必死になって裏打ちの練習をした。ブルーグラスの基本というべきだろうか。

やがて、新入生歓迎会というのがあって、京都会館で先輩たちと演奏したが、その時に僕の演奏にぶっ飛んだのが坂庭君だったのだ。

因みにこの時だったと思う。大阪歯科大学のブルーリッジ・マウンテンボーイズの連中が「わしらこそブルーリッジや」と楽屋に押し寄せてきたのは。

フラムスのバンジョーを得意げに弾いていた奴に思いっきりピアレスのバンジョーを弾いて勝負してやった。

喰うか喰われるかだ。絶対に負けるもんか。そんな気持ちでバンジョーを弾いていた。

やがて、先輩たちの卒業も間近に迫り、新たに加わったメンバー達とブルーリッジ・マウンテンボーイズを続けていた。

ベースは野口さん。彼は初代のひとつ下だったので、ベースマンとして残った。フィドルに伊藤さん。この人も一つくらい上だったかもしれない。そしてマンドリン奏者が入った。中村、いや仲村だったかな。ここで、ほぼフルの編成になったわけだ。

やがて、ひょんなことからフィドルが抜け、4人編成のカントリー・ジェントルメンスタイルに移行していった。

とに角この頃はエディ・アドコックに夢中で、来る日も来る日も彼の音を拾っていた。

ナイト・ウォーク、サン・ライズ、ブルー・ベル、ハート・エイクス、歌物では「ダイナおばさんのパーティ」もう破竹の勢いだった…かな。

とに角、京都産業大ブルーリッジ・マウンテンボーイズここにあり!という感じだった。

毎日遅くまで部室に残り、真っ暗くなった山道を二軒茶屋の駅まで歩いて帰った。しかもバンジョーを持って。

今なら絶対にやりたくない。いや、なかなかできない。それくらいに情熱を注ぎ込む力が体中にみなぎっていたのだ。

ほどなくしてベースの野口さんが抜け、バンドもなんとなく消滅状態になった。その少し前に、ジム&ジェシーが大好きという、藤田君が入ってきた記憶がある。ギターを少し斜めに構え、長身のなかなかハンサムな、いかにもジム・マクレイノルズが大好きって顔に書いてあったような感じだった。

しかし、僕もなんとなくグループから離れていって、個人的に川西の早川君、それから大阪の伊藤君と三人で、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズをお手本にオールドタイムにのめりこんでいった。

そうこうしている間に高石ともや氏と出会ったわけだが、ブルーリッジ・マウンテンボーイズはまだまだ続いていたようだ。

藤田君が引っ張っていってくれたのかな。

5年ほど前に後輩の木内君に出会うまで、ほとんどブルーリッジのことは忘れていた。しかし、彼がいいきっかけを作ってくれて、あれから約50年ぶりにもなる初代の面々と再会することもできたのがつい最近。

先輩も後輩も、みんながあたたかく出迎えてくれて、ブルーリッジ・マウンテンボーイズは自分のブルーグラスの原点であったことを再認識させられた。

いつか近いうちにもう一度みんなで会って演奏に、そして話に華を咲かせてみたいものだ。

ブルーリッジ・マウンテンボーイズの軌跡を辿る意味に於いても。

聴こえてくる音に関して

僕には、音楽が聴こえる時、その一つ一つの音に対しての和音が同時に聞こえてきてしまう。因みに希花さんには色が見えてくるらしい。これはキーであり、和音でもあるのだが。もちろん、それと同時に同じ基音のコードでもマイナーとメジャーでは色もかわってくるのは当然のことだろう。

そういう人は他にもいるらしいが、その色は人によって違うらしい。いろいろ調べてみると、これは「色聴」というらしく、絶対音感の持ち主に多いということだ。

また、それとは違うケース、例えば絵を見ていてその色彩から音が浮かんでくるなど、そういう感覚を総じて「共感覚」と呼ぶらしい。こういうことについてはかなり詳しく書いている人もいるので今更…なのだが。

話を自分のことに戻すと、昔から和音という観念に取りつかれ、ここはこれでないと気持ち悪いという感覚が常にあった。

しかし、例えばひとりが明らかにFのコードを弾いているのに、もう一人がDmを弾いているような、言うならばF6が出来ちゃいました、みたいなのが気持ちいいこともよく分かる。

Foggy Mt. Break DownではGの後Emが通説だが、何故か1949年の元々の録音ではギターがEmajを弾いている。そしてまた、1小節ずれてGに戻っているなど、えも言われん不協和音とも取れるものの気持ちよさもよく分かる。

面白いものだ。

僕のように、ある音に対して常に別な音が同時進行で聞こえてくるのは、いわゆる相対音感の一部だろうか。

曲を聴くと、必ずベースとコードが同時進行で思い浮かぶ。もちろんとんでもなくややこしい曲などは別だ。

それがアイリッシュ・ミュージックにとってどれだけ便利なものだったかは言うまでもない。他人にコードを尋ねる必要は全くない。

たまに自分が思うコードとは違うコードで「なるほど。これも理に適っている」と思うものがあるが、その逆もこのアイリッシュ・ミュージックにおいてはかなりの頻度で遭遇することも事実だ。

かといって、誰もがそういっぺんに音がきこえてくるわけではないのだが、多分普段の訓練でなんとかなるのだろう。しかし、それは出来れば6歳くらいまでに訓練しておいたほうがいいのかも。

僕にしてみると、希花さんの発する442を覚えておこうと思うのだが、すぐ忘れてしまう。ギターの弦を変えた時、自分の声で、下のCはこんなもんだし、弦の張り具合からみてこんなところだろうと判断する。そしてそれはかなり近い確率で442なのだ。

僕には絶対音感は無い。色も見えていない。では、なにが見えているんだろう。希花さんにとっても不思議な音感の持ち主なのかもしれない。

クロウハンマー

言わずと知れたオールドタイムに於けるバンジョーの奏法だ。最近はギターにも応用している人もいる。ジョディ―・スタッカーや、よく一緒に演奏したスティーブ・ボウマンなどがその代表だが(どちらもサン・フランシスコ)取りあえず今回はバンジョーに限って書いてみよう。

初めてこの奏法のことを知ったのは、多分ピート・シーガーの教則本だったかも知れない。彼自身はもうちょっとシンプルなダブル・サミングという弾き方を使っていたようだが。

スリーフィンガーといわれるブルーグラスに於けるスクラッグス・スタイルとは全く違って派手さはないが、そのなんとも言えない味わいのあるサウンドには随分前から興味があったし、それなりに極めてみようかという考えも持っていた。

しかしそこには多くの面倒なことが存在する。

まず、中指の爪の甲と親指の2本指だけでメロディを作りださなくてはならないので、考えようによってはスリーフィンガーよりも複雑だ。

というより、スリーフィンガーに比べて無理も生じてくる。

そのために、その曲だけに使うチューニングというものも考案しなければならなくなってくる。必然性を求めるわけだ。

そして、厄介なのがそうして綺麗にメロディを創りだしても、いわゆるスタンダードなキーで演奏できるとは限らない。

例えばMiss McLeord’sという曲。スタンダードにはAmajかGmajで演奏される。だが、Cチューニング(この場合gCGCE)にして創り出すメロディがとてもきれいなのだ。そうなるとどうしてもCか、カポをしてDでの演奏がベストなサウンドになる。

勿論、普通にGチューニングでも演奏できないことはないが、それでは本当に普通になってしまう。

そんな風に他の人と合わせる時などにいろいろと面倒なことが起こる。

更にアイリッシュ・チューンなどをその道の第一人者Ken Parlmanを筆頭に、多くの人が実に見事に演奏するが、それはソロ・パフォーマンスという評価でしか語れない。

リズムも違ってくるし、メロディも多少変えなければいけない部分も出てくるし、キーも曲によってはスタンダードなキーでは演奏できない、ということも出てくるし、しょっちゅうチューニングも変えなければならない、ということも出てくるだろう。

それを考えなければ、とても魅力的な奏法だ。

特にある程度歳がいってくると、スリーフィンガーのような細かい奏法よりも、よく言えば味わい深いこの奏法に移行していく人も多いようだ。

そして、この奏法は多くの場合、リゾネーターのないオープンバックのバンジョーを使用するので、何といっても軽い。年寄りにはやさしい物となる。

そんなクロウハンマー(フレイリングあるいはドロップサムとも呼ばれる)を今一度研究してみようかな、と思っている今日この頃だ。

回想

前回、初めて外タレを見に行ったのは…というようなことを書いたので、もう少しなにか想い出してみようかな、と思う。

幼稚園から小学校4年までは、とに角クラシックに浸かっていた。

しかし、2歳年上の姉は先生のいうことを忠実に守っていたようだが、僕は自分なりの解釈を大切にしていたようだ。

生徒の中では全くの異端児だったらしい。

初めてフォークソングなるものに触れたのは、恐らくラジオから流れてきたブラザース・フォアの「グリーン・フィールズ」だったと思う。

1960年ということなので、まだ小学生だ。

東京の放送局から流れてきた、それはそれは受信状況の悪い中、なんと美しいんだろうと思った記憶がある。

ほどなくして同じグループの「遥かなるアラモ」を聴き、この映画を何としても観なくては、と思い立ち、一人で上京。

もちろん新幹線など無かった時代。しかもまだ小学生だった。

その後「9500万人のポピュラー・リクエスト」なる番組が、どうやら1963年に始まったらしいが、当時、ギターを手に入れたか入れないかの瀬戸際だったような記憶がある。

取りあえず、流れてくるいろんな音楽をピアノやギターで真似してみた。

そして、街の小さなレコード屋さんで「ビートルズ」という聞き慣れないグループのドーナツ盤を買ったのもこのころだ。

片端から当時のヒット曲をギターでメロディとコードを弾いてみた。もともとピアニストを目指していたせいか、さほどの苦労も無かった。

そして、衝撃的な「フォギー…」との出会いに続いてゆくのだが、まだバンジョーなる楽器がどんな形をしているのか見当もつかなかった頃だ。

やがてバンジョーを手に入れると、あらゆるフォーク・グループの演奏を耳にタコができるほど聴きに聴きまくった。

ひとつの音も聴き逃すまい、と、コピーに明け暮れる毎日だった。

キングストン・トリオのMTA ブラザース・フォアのDarling Coreyに始まり、徐々にブルーグラスへと興味が移っていった。バンジョーという楽器に惚れてしまった者にとっては当然の結果だ。

考えてみればブルーグラスという音楽はコピーに明け暮れるものだ。もし、「あなたのプレイはアール・スクラッグスそのものだ」と言われたらブルーグラス・バンジョー奏者にとっては最高の栄誉だろう。

もちろん、ドン・レノしかり、エディ・アドコックしかり、J Dクロウしかり、そして、僕のアイドルのひとり、ビル・キースしかり、みんなそれぞれのスタイルを持っている。

しかし面白いことにその誰もがブルーグラス魂を持ち合わせている、と感じる。

僕らは日本でなんの情報も入らなかった頃から、こんな感じだろうか…という方法でしか弾くことができなかった。

やがてピート・シーガーの教則本を見つけ、アール・スクラッグスの教則本を見つけ、段々いろんなことが解明されてきた。

それと同時に外タレの来日も徐々に増えてきた。

マイク・シーガー、リリー・ブラザース、ビル・モンロー、デビッド・グリスマン、トニー・トリシュカ、ピーター・ローワン……。

まだまだ挙げればきりがない。

だが、元々様々な音楽に興味があったので他の分野のコンサートにもよく行っていた。山下和仁、チック・コリア、ジョージ川口、後藤みどり、エマーソン・レイク&パーマー、何故か欧陽菲菲も聴きに行ったことがある。

他にも前出したサード・ワールドなどはブルーグラス畑の人はまず、わざわざ出かけて聴きに行かないだろう。やっぱりどこの世界に居ても結構な異端児だったのかもしれない。

91年からのアイリッシュでは、この音楽の奥の深さにとことん引きずり込まれていった、と言えるだろう。

だが、相変わらずホット・ツナ、BB King、ジョージ・ウィンストンなどを聴くために様々な場所に出掛けて行ったものだ。そういえばTower of Powerなんかも聴きにいった。

とに角、ギタリストとして他人の持ち合わせていないスタイルで、なお且トラッド魂をきちんと踏まえた存在になること。そればかりを目指してきた。

そんな意味でも、いろんな場所に顔を突っ込む異端児であったことは大いに役立ったと感じる。

様々な音楽の要素を取り入れて作り上げてゆく独自のスタイルを持つことと、この音楽に対する敬意を常に忘れずにいたいものだ。

伴奏者にとって最も大切なところだ。

たまに昔のことを想い出してみると、欧陽菲菲や、Tower of PowerのWilling to Learnでもまた聴いてみようかな、なんて思う。

2016年1月

毎回感じるのだが、あっと言う間にもう正月ではなくなってしまう。

今年は日記でも書いてみようかと思いながら書かずしてもう1週間も過ぎてしまった。そうなると2~3日前は何をしていたか、よーく考えないと出てこない。

昔、省悟が「どこで何を食べたかメモしておくんや。忘れてしまったら食べてないのと同じことになる。特に美味しかったものはそれではもったいない」と言っていた。

彼は好き嫌いも比較的多く、また、歯も悪く、本当に食べるものを吟味していた感があったし、特別なことでもない限りある程度パターンが決まっていたのかもしれない。

お好み焼きには異常にうるさかったかな。

何はともあれ、その特別なことを忘れてしまっては、という彼の言うことには一理ある。僕もこれから何を食べたかメモしておいたほうがいいかな。

さて、2016年、音楽の世界はどうなっていくのだろう。

考えてみれば、初めて「外タレ」というのを見たのはThe Brothers Fourだったかな。それからArt Blakeyどちらも1961年が初来日だったらしい。

立て続けに聴きに(見に)言った覚えがあるからその頃だろうか。

それから先は、やっぱりFoggy Mountain Boysかな。京都産業大学入学直前だった…と思う。ほら、やっぱり日記に書いておけば良かったのに。

そして、いろんなブルーグラス・ミュージシャンが来日し、カルロス・サンタナやニール・ヤング、サード・ワールドまで見に行ったものだ。

アメリカへ渡って初めて見たのが、なんとDe Dannanだった。それからはStephane GrappelliやSuper Guitar Trio, そして何度も行ったThe Greatful Dead いろんな音楽を経て91年からアイリッシュの世界に入った。

そしてDervishもSolasもLunasaもみんなツァー仲間になった。

今年はどんな音楽シーンが待ち受けているだろう。

そういえばまだ手帳も買っていなかった。大体のスケジュールは希花さんに把握しておいてもらったほうが間違いないと思い、自分の手帳なるものは後回しに考えていたが、日記代わりにひとつ持っておかないとやばいかもしれない。これからは忘れることも更に多くなるかも知れないし。

日曜始まりは譲れないが、デザインのことはあまり考えないようにしよう。

「ぐでたま」がいいとか、「スヌーピー」がいいとか、は…。

取りあえず、今年もよろしくお願いします。

2015年 12月 今年の総まとめ

また今年も終わってしまう。2000年問題、などと大騒ぎしてからもう15年が過ぎようとしている。

2015年という年、皆さんにとってどんな年だっただろう。

僕らにとってはなかなかに濃い年であった。

まず、1月早々、アイルランドに出掛け、パディ、フランキーとレコーディング。この二人は揃えるのになかなか難しい。

もう皆さんご存知のように特殊な人間であり、アイルランド音楽の中でも特別な存在であり、世界中のどこにいるかわからないような二人だ。

スタジオはゴルウェイ近郊のキンバラという小さな町(村落かな)から更に奥地へ行った、限りなく風光明美な場所にあった。

そこに4日ほど通い詰めての録音だったが、それはそれは寒かった。

1月にアイルランドへ来るのは初めてだったが、これでは鬱になりそうだな、という感じがひしひしと伝わってきた。

毎日が嵐のようで、風はビュービュー、雨はザーザー、スタジオ近辺はみぞれ交じりの極寒。

それでも湿気があるので日本の冬ほど肌を突き刺すような感覚はない。

元々寒がりではないけど、歳と共に寒さも感じてくるようになった。とは言え、暑さにもめっぽう弱いのだが…。

そして、帰ってきてすぐにオッピー今富君とツァーに出掛けた。それが10日間。アイルランドと合わせると、1月はほとんど出っぱなしだったので、正月だった、だの、新しい一年が始まった、だのという記憶があまりない。

3月にはかねてから希花さんが希望していたニュー・カレドニアにも行った。古くからの友人に同行させていただいたわけだが、そんな機会でもないと、少なくとも僕はいかなかっただろう。

美しい海を見てのんびりして。そのおかげで帰ってから自分たちの新しいアルバムをフレッシュな気持ちで作るいいきかけになった。

そして、夏にまたアイルランド。

ここでとんでもない体験をする。これが今年の一大事かな。

希花さんがいなかったら、大変なことになっていたことが2つ。特に最初のほうは僕らのアパートのキッチンでの出来事だったので、そこは、まるでERの撮影現場を見ているようになってしまった。

僕もパニックになりながら走り回った。

気がついたら何もできない自分と向き合い、倒れた奴の洗濯ものを回しながら、明けていく空を眺めてただただ祈るだけだった。

結局、死から蘇った彼、今はピンピンしている。これは紛れもなく希花さんの知識と経験、それと的確な指示能力のおかげだ。

もう一人は日本でもアイリッシュ・ミュージックの世界では知らない人はいない、という人物。なんとその彼の命も希花さんが救った。

これ以上詳しくは書かないが、とんでもない夏だった。

日本に帰ってきたらAEDが至る所で目に入った。アイルランドであれほど走り回ってもなかなか見つからなかったのに。

今はいろんな人がAEDを普及させる運動を展開しているが、今回のことで、それが無かった時どうすべきかも、きちんと知らなくてはいけないということを知った。

また、今回は和カフェのオーナー、早川さんとみんなでイギリスにも出掛けた。

アイルランドとはちょっと違った、こう言っちゃ語弊があるかもしれないが、どこか高貴な雰囲気が漂っていて、あまり好きではなかったが、建造物の美しさには心を打たれた。

ここはひとつ、観光ということに徹して楽しむことができた。

そして、いよいよ帰り道で立ち寄ったドバイ。

急激にサウナに入ったような、10メートルほど歩いただけでも石川五右衛門になったような気分。

超高層ビルが立ち並ぶ市内。こんなところでヘリコプター飛ばして「イエス!」なんて言っていたらぶつかりそうだ。

砂漠のど真ん中のアブダビ空港。アラビアのロレンスさながらの夕陽が砂漠の彼方に沈んでゆく…。

そして日本。2015年もあと4ヶ月。ゆっくり活動を開始し始めた。帰ってきた矢先に久しぶりにこうせつとも会ったし。

が、10月に控えたパディとフランキーとのEire Japanのツァーに向けての準備もしなければならない。

と同時にアイルランドに行く前にほぼ仕上げた僕らのアルバムも完成させなくてはならない。

2015年はどちらかというと、パフォーマンスよりも、それに付随したことか、全く関係のないことで忙しく明け暮れた年だった。

特にあの日、あの時間、あの場所に居合わせた人間同士は何かに引き合わされているのかな、と感じざるを得ない、そんな1年だったかもしれない。

コンサートもそうだろうか。

だからこそ、PC相手にクリックしたらいつでもなんでも見ることが出来るとか、自分の名前も正々堂々と言えない連中が、人の悪口を言うことにつまらない人生をかけてみたりとか、そんなことが横行している世の中に、ちゃんと顔を合わせるということが大切なんだと思う。

コンサートでみんなの元気な顔をみたいし、同じ日、同じ場所で、同じ時間を共有したいものだ。

話は変わるが、今年亡くなった人で野坂昭如さんについては小さな思い出がある。

あれはどこだったろう。たぶん新宿厚生年金会館とか、そういうところだったと思うが。

楽屋でリハーサルの順番を待っていた僕と省ちゃんのところに野坂さんが入ってきてこう言ったのだ。「新人歌手の野坂昭如と申します。よろしくお願いします」

今でもあのシーンをよく覚えている。

さて、国民がどう思おうがどう困ろうが、お構いなしの贅沢三昧政治家たちには早く消えて欲しい2016年だが、更に彼らの自己満足ぶりには拍車がかかりそうな予感もしないではない。

結局、自分のお財布からお金を出したこともない連中が国民だけに負担を強いるのだからたちが悪い。こっちの方が安いけどポイントが付かないし、でもあっちは結構高いな、なんて国民が一生懸命考えていることなんて知らないのだろう。知っていて知らないふりか…。

だから僕らは僕らで自分の信じる道を行くしかない。

そこでアイルランド音楽の話もしておかなくてはならないだろう。

アイルランド音楽の世界にどっぷりつかり始めて25年。まだまだ赤ん坊みたいなものではあるが、かなり濃い経験は積んできた。

ここ毎年アイルランドでパフォーマンスをしてきて、この音楽をやるんだったらやっぱり現地の一流ミュージシャンと対等に勝負できなければこの道で生きているトラッド・アイリッシュのミュージシャンとは言えないということが分かってきた。

今、僕らがやっているような最小限の編成というのはやはり難しい。だが、僕にとってはこれが基本中の基本だ。

2016年、僕らはまたアイルランドに出掛ける。

Eire Japanもいくつかできるかもしれないし、今回はどこでどういう人達と演奏することになるだろう。

そういえば、アンドリューのお母上も亡くなってしまった。僕がアンドリューと一緒に「鉄砲獅子踊り唄」かなんかをやっていたら、横で一緒に足踏みしていたっけ。

彼にも会いに行かなくちゃ。お母さん子だったからさぞ悲しんだだろうと思うけど、なにか生活が変わっただろうか。

僕にとってのアイリッシュ・ミュージックは25年前、彼から始まっているのだ。

あの日、あの時、あの場所で彼と出会ったことで。

Irish Musicその100

その100といっても100曲ではない。もう何曲載せてきたか自分でも分からなくなっている。自分たちのレパートリーとしてのアイリッシュ・チューンや少しのアメリカン・チューンを掲載してきたが、まだまだ想い出せば出てくるだろう。できるだけダブらないようには心がけてきたが、これからも書き続けていったら、というか、残していったらどういうことになるかわからない。一時のようなペースでは書けないだろうが、まだまだレパートリーとして取り入れたい曲は沢山出てくるだろうし、想い出す曲もあるだろう。100回目にふさわしい曲は何だろう、と考えても仕方ないので、今回は敢えてレパートリーとして取り入れてはいない、非常にポピュラーなもの(ポピュラー過ぎるもの)を数曲羅列してみる。

例えば…。

  • Morisson’s   (Jig)
  • Off to California (Hornpipe)
  • The Wind That Shakes The Barley  (Reel)
  • The Kesh   (Jig)
  • Connaughtman’s Ramble (Jig) ※最近は好んで取り入れているが。
  • The Mist Covered Mountain (Jig)
  • The Dusty Windowsills  (Jig)
  • The Hag At The Churn (Jig)
  • The Tar Road To Sligo (Jig)
  • The Humours Of Glendart (Jig)
  • The Pipe On The Hob (Jig)
  • The Silver Spear (Reel)
  • The Banshee (Reel)
  • The Cup Of Tea (Reel)
  • The Old Concertina (Reel)
  • The Salamanca   (Reel)
  • Carolan’s Concerto   (O’Carolan)
  • The Bird In The Bush (Reel)
  • The Tailor’s Twist   (Hornpipe) ※結構好きな曲
  • The Little Stack Of Wheat (Hornpipe)
  • The Boys Of Ballycastle (Hornpipe)
  • The Orphan (Jig)

取りあえずこれくらいにしておこうか。これらの曲はたまに練習中、思い出して復習ってみるもので、多分他にも一杯あるだろう。常識的に知っておかなくてはいけないものが多すぎて困る。しかし、記憶をよみがえらせるためにもこういうこと(記しておくこと)は必要なことだ。

Irish Musicその99

The Garden of Butterflies / Miss Galvin’s    (Hornpipe)

  • The Garden of Butterflies

“Poll Ha’ Pennyというタイトルの方が有名だろうか。ずっと前にJody’s Heavenで録音しているが、それとは別に僕らはWest Clareのバージョンから、Jody’sで演奏してきたバージョンへと移行している。どちらも変わったメロディで、ちょっと聴いたら変な感じだ。しかし、こういうへんてこなメロディというのは何故か頭から離れない。West Clareバージョンも長いこと聴いていなかったが、ゴルウェイのチャーチでClareからのフィドラーが弾いていて思い出したのだ”

  • Miss Galvin’s

“特にこれといって特徴の無い曲ではあるが、ほとんどの場合、前の曲とセットで演奏されることが多い。そんな意味でレパートリーとして取り入れている。因みにMrs. Galvin’sという結婚後の、違うバージョンも存在するが、こちらの方はあまり注目されない”

 

The Coalminer’s / Anderson’s   (Reel)

  • The Coalminer’s

“ずっと前からしょっちゅうタラの連中(アンドリューやケイリ・バンド)の演奏で耳にしていた曲。実にのりのいい覚えやすいメロディだ。特に目立った特徴はないが、何回繰り返しても飽きが来ないような感じだ。それだけにどんな曲とも組み合わせが可能な、いい曲だとも思う”

  • Anderson’s

“時々、前の曲とセットで演奏されているようだが、これも比較的覚えやすい良いメロディの曲だ。Paddy Keenanの演奏でよく一緒にやっていたことがある。いかにも彼が好きそうな、ちょっとロックっぽいビートの曲”

Irish Musicその98

★Crabs in the Skillet    (Jig)
“オニールのコレクションからTara Breenの演奏で覚えた曲。Gmで演奏される3パートのジグ。特に3パート目が好きだ”

 

★Larry Redican’s Bow    (Reel)
“ここしばらく頭の中にAパートのメロデイが浮かんでいて、どうしてもBパートが想い出せなかった曲。随分むかし、ティプシー・ハウスで確かGreat Eastern(別名The Land of Sunshine)という曲の後にやっていたと思う。全く記憶になかったBパートはBmから始まる意外な展開だった。取りあえず、こんな風にどうしても思い出せない曲はしつこくしつこく調べまわるしかない。そして見つけた時には相当な喜びになる。僕らはこれによく似た曲Oak Tree(その20)を後にもって来てみた。どちらもなかなかに好きな曲だ”
★Great Eastern   (Reel)
“ついでにこの曲も。Martin Mulhaireのペンになる単調だが美しい曲。キーはCmajorで演奏される。AパートもBパートも全く同じコード展開なので(くずせばいくらもくずせるだろうが、理にかなわぬくずしは好きでない)曲のテキスチァーをよく把握することが伴奏者として大切なところだろう。どのようにすべきか、どのようにすべきではないか、その見極めは重要なポイントだ”

ギブソンRB-250

‘60年代からバンジョーに親しんできた者にとってこのRB-250というモデルは絶対的存在だろう。

それも、’70年代以前のいわゆる「ボウタイ」といわれるインレイのもの。

まだ情報を得るのが極めて難しかった時代。ほとんどはレコードのジャケットでしかお目にかかれなかったアメリカ製のバンジョーは本当に遠い存在だった。

確かブラザース・フォーが何かのジャケット写真で持っていたような気がする。しかし、当時、フォークをやっている人たちの主流は何といっても、ヴェガのロングネック、ピート・シーガー・モデルだった。

ロングネックって今見たら極端に長く見える。あのころは写真などでも良く見かけ、これが当たり前だと思っていたのでそんなには感じなかったのだが。

そうこうしている間に、バンジョーもそこそこ見かけるようになり、RB-250を店頭に飾っている店も出現した。

そのせいか、ギブソンと言ったらRB-250という観念が生まれたのは極自然の成り行きかもしれない。なんといっても初めて見る本物がRB-250だったのだから。

しかし、‘70年か‘71年か、そこらへんでRB-250も大幅にモデル・チェンジしている。詳しくは京都の小野田博士にでも訊いてください。

印象的だったのが、友人の一人がRB-250を欲しくて、神戸のある有名なバンジョー弾きに頼んでいたところ、やっと手に入った、という連絡をもらい、それが送られてきた。

本人はわくわくしながら「待ちに待ったボウタイ…」と、ケースを開けたら、見たこともないバンジョーが入っていたのだ。

ペグヘッドの形も、インレイも…もはやそれは僕らの知っているRB-250ではなかった。

因みにモデル・チェンジ以後のペグヘッドの形は「フィドル・シェイプ」というものだが、それ以前のものは「ハエ叩き」(Flyswatter)と言われる。

インレイに関しては、ボウタイに対して‘70年以降のものは「スタイル3」という。

本人は結構がっかりしていたが、それはおそらくモデル・チェンジしたRB-250の日本上陸第1号だったのだろう。それが確か‘71年ころだったような気がする。

今、ボウタイを探すとしたら中古でしかないのだが、僕は少し前に‘66年のものを手に入れた。

全てがオリジナルではないので安かったのだが…いや安くなければ買わないが…。

憶えているだろうか。坂庭君が「花嫁」のジャケットでRB-250を誇らしげに持っている姿を。

そして、今、僕もホームページのトップ写真で誇らしげに抱えている。

誰もが、憧れる「誰か」みたいに弾きたい!と思っていた時代。来る日も来る日も想像を張り巡らせて、同じバンジョーを手に入れる夢を追いかけていた時代。

RB-250はそんな時代のひとつの象徴である。少なくとも僕にとって。

Irish Music その97

Blackbird(Hornpipe)

“その11とその82に既に出ているが、ここでは違うBlackbirdを2種挙げておく。

困ったことに同じタイトルで5つのメロディが存在しているが、僕らがレパートリーとして取り上げているのは4種。もうひとつは明らかに誰かが作り上げたバージョンのような気がするので特に気にしてはいない。そう聞かれないバージョンである。

僕らは“その11”で掲載したケビン・バークとジャッキー・デイリーのバージョン、実を言ってこれもポピュラーなものではないが、メロディの美しさと、明らかに他のものとは違う点でレパートリーに取り入れた。アンドリューはそんなホーンパイプは無い!と言っていたがそれはひとえに彼の頑固さの象徴だろう。立派なホーンパイプである。それに“その82”で登場しているパディ・キーナンのパイプ演奏で有名なバージョンをよく演奏している。その他、のバージョンとしてOld Blackbirdと呼ばれるもの。これは大好きなメロディだ。それと、これもボシー・バンドがリールとして演奏していたメロディのもの。僕らはこの4つを好んで演奏している。ややこしい話であるが、Blackbirdと言ったら、どのバージョンで演奏するかを確認したいものである。少なくともビートルズの…ではないはずだ。

取りあえず、分かりやすく記しておくとこうだ。

Blackbird Em Hornpipe From Kevin Burk & Jackie Daly その11

Blackbird G/D Set Dance From Paddy Keenan その82

Blackbird D   Hornpipe   (Also as known as Old Blackbird)

Blackbird D   Hornpipe/Reel From The Bothy Band

この4つのBlackbirdが僕らのレパートリーとして存在する”

 

オッピドム

2012年3月19日の月曜日、初めて訪れたオッピドム。京都産業大ブルーリッジの後輩、木内君がオーガナイズしてくれたが、マスターの今富君とは旧知の仲。

約40年ぶりに再会したわけだ。木内君に感謝すると同時に、頑張ってお店を切り盛りしている今富君にも感動したものだ。

そのオッピドムが閉店するという。

僕は行くたびに調理場で黙々とお料理を作っていた平岩さんにもいつも感謝していた。

その平岩さんが亡くなった、という話を聞いたのはアイルランドにいる時だった。

平岩さんのご冥福を祈るとともに、今富君大丈夫かな、と心配したものだ。でも、それからも頑張っていた今富君。

今年初めには一緒に九州にまで僕らを連れて行ってくれた。

彼の出身地は大分。希花さんの母方の実家が大分。偶然のことで大いに盛り上がったものだ。

今富君の「国東半島」を僕が「くにひがし半島」と読んで笑われた。

楽しいツァーだった。

10日も一緒に居たのに、そして、僕らはアイルランドでのレコーディングが終えてすぐだったのに、ちっとも疲れなかった。

ひとえに今富君のお人柄だ。

平岩さんのこともあり、そして他のことに関しても、やっぱりお店をやっていくことって大変だっただろうな。

僕らは勝手にライブのお願いをして帰ってきたらいいのだけれど、彼は大変だっただろうな。

今富君、閉店が決まってしまったにせよ、あなたのやってきた10年間、とても意義のあることでした。オッピドムのことは誰も忘れないし、これからも今富君の活躍を多くの人が期待しています。

僕もそのうちのひとり。内藤希花も大好きな今富君に期待しています。

お疲れ様。少しゆっくりしてまたなんか考えてください。

ビル・キース

長年のアイドルであったビル・キースが先日亡くなった。僕が5弦バンジョーなる楽器に出会った60年代初頭、日本に於いてこの楽器はまだそれほどポピュラーでなかったが、その当時(詳しくは63年頃)彼はビル・モンローのブルーグラス・ボーイズにいた。彼の回想記の中にこんな文章があった。

「GからCにいくとき、僕は7thだけではなく、9thを強調したフレーズを弾くことにしている。そうすることによって次のコードにいく予感が更に増すんだ。一番最初にそれをやった時、ビル(モンロー)がハッとした表情で後ろを振り向いたのを覚えている」

この“予感を与える”という音運びの選び方に感動したものだ。もともとピアノお宅の僕にとって和音の組み立てはとても面白い作業だ。

70年代、ずっと会いたかった彼を自宅に招待した。来日時、すぐ近くに宿泊していたので連れ出した、というわけだ。

ジャズ曲のアレンジに関する様々なアイデアを見せてくれた彼は、何度も何度も「うん?ここはこの方がいいかな?」などといいながら、親切に説明してくれた。

また、いろんなものの構造を穴のあくほど見つめ、中身がどうなっているか調べてみたい、という顔を見せる彼がキース・チューナーの考案者であることはうなずける。

もの静かな勉強家という感じだ。

その彼と、アイルランドで再会したのは2002年頃。ジョニー・キーナン・バンジョー・フェスティバル、ロングフォードでのことだった。

偶然にも同じB&Bに宿泊していた彼と朝食を共にしたが、話が弾んで2時間以上も紅茶を飲んで過ごした。他にピート・ワーニック夫妻、それからモーリス・レノンも同席していた。モーリスは言わずと知れたStockton’s Wingのフィドラーだ。ブルーグラスとアイリッシュの両面から…話は弾むはずだ。

彼のメロディック奏法は、今では頭が混乱し、指がもつれてなかなか弾けないが、長い間僕の重要な一部分であった。

Beating Around the BushやNoraなどは最も得意とする曲だった。

彼の話で、本当に彼らしいなと思ったエピソードがある。

「映画Deliveranceの音楽を担当しないか?という話があったんだけど、よく考えた末に断ったんだ。あの時僕は世界を見てみたかったし、旅をすることがとても好きだった。そしてそれをできるのは今しかない、と思っていた。だから断ったんだけど、映画は大ヒットし、Dueling Banjoも大ヒットし、世界のどこでも演奏されるようになった。おかげで僕の代わりにこの仕事を受けたEric Weissbergはハリウッドに居た切りになってしまった。どこへも旅ができなかった。お金はいっぱい入ったかもしれないけど、僕にとって大切なのはお金じゃぁない。その時自分がなにをしたいか、そして本当にやりたいことに向かって進むことがとても大切だと僕は思う」

ビル・キース 75歳。多くのことを教えてくれた人だった。

Irish Musicその96

今回は3rdアルバムThe Rambler で録音した楽曲から。

  • The Rambler / Banish Misfortune / Bye A While

“ご機嫌なジグ。結構音が飛んでいるのでリズムを取るのも、テクニック的にも難しそうだ。2曲目はアメリカでもこぞって取り上げられるもの。どこか、言うなれば“らしい”といった感じの曲だ。ハンマー・ダルシマー奏者には結構人気がある。3曲目は超絶テクニックのコンサルティーナ奏者、Padraig Rynneの作。彼とは2001年か2年頃、ゴールウェイにてセッションしたことがある”

  • Anna Foxe

“ジョセフィン・マーシュから直々に教わった彼女の作品。CD発表時はまだタイトルがAnna Fox かと思っていたが、正しくはFoxe ということなので、ここで訂正しておく。ライブなどで演奏すると、みんなが「可愛らしい曲」と言って覚えてくれる”

  • Coilsfield House

“Kevin Crowford やGearoid OHAllmhurain(いまだに発音できない)のプレイでよく聴いていた曲。ひたすら美しいメロディに心を打たれる”

  • Jackson’s

“フランキー・ギャビンから習った曲。他の人の演奏ではあまり聴いたことがない”

  • Breton Gavotte(Ton Double Gavotte)

“ケビン・バークのアルバムから覚えた曲だが、これも他の人の演奏は聴いたことがないような気がする”

  • She’s Sweetest When She’s Naked

“とても古く、とても美しい曲だ。こんなに美しい曲がそんなに昔から演奏されていたなんて驚きだが、確かにヨーロッパの建造物などを多く見てみると納得がいく。こういうものを幼い時から当たり前のように見ていたら、この曲のような感性が芽生えるんじゃないかな、という気にさえさせられる”

  • Thomas Farewell / As The Sun Was Setting

“このセットはすでに「その7」に登場している”

  • O’Carolan’s Welcome

“彼の作品の中でもとりわけ大好きな美しいメロディ”

  • The Banks of The Suir

“ファーストアルバムでも録音している美しいエアー。今回はハープとフィドルをメインにまた違った美しさが際立っている”

 

その他、このアルバムでは「この想い」「おわいやれ」の日本語の歌、それにバンジョーによる「クリンチ・マウンテン・バック・ステップ」も収録されている。

こちらのアルバムはまだ在庫があります。

Eire Japan tourを終えて

フランキーが帰り、そしてパディが帰っていった11月。

あまりの強烈さにほぼ「抜け殻」状態。

やっぱり彼らとまともに渡り合うことは、並の伴奏者では無理かもしれない。

その辺は誇りに思ってもいいかもしれない。

「かもしれない」ばかりだが、ここで言い切るほど自信過剰でも、いやみな男でもない。

ただただ、どれだけの神経を集中させて演奏しているか、終わった後のこの感覚はなかなか他では味わえないものだ。

歳のせいかもしれない。しかし、パディは僕とおない年。フランキーももう60だ。あいつらのパワーの源は良くも悪くも…酒か。

飲み過ぎた時の自由奔放さは果てしなくどぎつい。まわりの空気が破れるような感じだ。

そこにシラフの僕がギターを乗っけていくわけだが、そうしないと崩壊してしまうかもしれないのだ。しかしながら、その崩壊一歩手前、あるいは片足を突っ込んだあたりが一番面白い。そこを常にコントロールするのが僕の役目なのだ。

フランキーのフィドル・プレイ、好き嫌いはあろうが、アイリッシュ・ミュージックの世界では避けて通れないひとつのスタイルだ。

それに、長年De Dannanを引っ張ってきた超大物だ。この機会を逃すとなかなか日本ではお目にかかれないだろうし、昨今の来日アイリッシュ・ミュージシャンの全ての者が聴いてきたフィドラーのひとりであろう。

それにパディ。限りなく絞り出される魂の叫びにも似た力強い音色。Bothy Bandのことはあまり言いたがらないが、こちらも誰もが聴いてきた伝説のバンドだ。このふたつのバンドの核である2人はもう日本では揃わないと思っていい。

フランキーからは自由奔放なクラシックとジャズ、パディからは限りなくブルースとロックを感じる。そして二人とも経験豊富な本物のアイリッシュ・ミュージシャン。この組み合わせは多くの音楽シーンを体験した僕にとってもってこいだ。

Lunasa, Solas, Dervishなど、日本では認知度も人気も高い、素晴らしく完成されたバンドの連中が「え!フランキーとパディ?すごい組み合わせだな。ジュンジ、どうしたらあいつらと一緒にツァーまで出来るんだ?」と口を揃えて言った。

それが2003年にアメリカで、そして2015年にこともあろうに日本で実現した。

希花が「ふたりを呼ぼう!」と言い出してから約1年。そのひとことが無かったら実現しなかったかもしれない。

今年1月のレコーディング以来2人が揃うのは10ヶ月ぶり。次に揃うのはいつだろう。どこで…だろう。

また崩壊覚悟で挑まなくては…。

Eire Japan

怒涛の約10日間。やっと終わりました。

報告はいずれ。今は足を運んでいただいた皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。

アイリッシュ・ミュージックの歴史に於ける最も重要な人物の中の二人、2大巨頭ともいえる二人を日本に連れてくることが出来て本当に良かったです。

もし叶うことが出来るなら再び、ということも考えますが、何せそれぞれに忙しく飛び回っているふたり。彼らが揃うことはほとんど奇跡に近かったのです。

1月のレコーディングでなんとか彼らを揃え、今回のツァーの計画を練ったわけですが、これがなかったら、おそらく二人はそれぞれに世界を飛び回っていたでしょう。

そんな奇跡の来日でした。

関係者の皆様、様々なかたちでサポートしていただいてありがとうございました。

各地の旧友たちもみんなお手伝いしてくれてありがとう。

そして、なによりも、聴きに来ていただいた全ての皆様に重ねて感謝いたします。彼らからもみんなに「ありがとう」と「よろしく」とのことです。

なおEire JapanのCD、ネット上での販売が近く始まります。

パディ・キーナン、フランキー・ギャビンの二人が揃ったアルバムは世界中どこを探してもこれしかありません。

どうかご購入漏れの無きように。

ギタリストという立場から考えるアイリッシュ・ミュージック

この音楽に於けるギタリストの役割などというものは無いに等しい、というようなことは既に書いている。

僕は‘91年からこの音楽のギタリストとして、ほとんどのリビング・レジェンド(現存する伝説)と呼ばれる人たちと共演してきた。

それはセッションというような気軽なものではなく、対その人、対お客さん、という緊迫した状況でのものがほとんどだった。

聴いたこともない曲が突然出てくることもあったし、ここにはギターは必要ないだろうと思われるところにまで最適な伴奏を求められることもあった。

とにかくスタンダードな曲、この音楽では「トラッド」と言うけど、それらは数限りなく全てのパートを把握していなければはなしにならない。

何度か僕自身のスタイルを教える、ということもやってきた。しかし“教える”というのは別な作業だ。別な才能だとも言える。

この音楽に関していえば、リード楽器の人達は10年や20年のキャリアでは到底“教える”なんていうことはできないはずだ。最低でも30年以上、あるいは40年以上の経験が無いと無理だ、と僕は思う。

もちろん年数の問題ではないが、少なくとも僕ら日本人は、母親の胎内でこの音楽を聴いてこなかった…と思う。

そんな僕らにこの音楽を伝授することはできない。真面目に考えれば考えるほど、できないことなのだ。

一方ギターは、といえば、そういった点では可能性がある。比較的新しく加わった楽器だからこそそれが言えるのだが。

しかしながらそこが難しい。ギタリストこそ楽曲に詳しくなくては話にならない、というのが僕の考えだ。

ギタリストに限らず、伴奏楽器全般に言えることだが、まずそこがスタート地点になる。また、そうでなければリード楽器に対して失礼にあたる。

彼らは全ての楽曲にたいして正確にメロディを覚え、正確に弾けることが最低条件となり、そのうえで自分らしさを出していかなければならない。しかもそれが数百曲にも及ぶわけだ。また、各地方のリズムの取り方、バージョンまでもがその上に課題としてのしかかってくる。

それに対してギタリスト(伴奏楽器)が適当でいいわけがない。

どんな音楽でも、グループで、あるいは誰かと一緒にやる以上、相手に対する自分の責任を考えなくてはならない。

このアイリッシュ・ミュージックというもの、これは試練の音楽だ。

Irish Music その95

今回は2枚目のアルバム「Music In The Air」での録音曲を掲載してみました。

★Si Bheag Si Mhor

“アイリッシュ・ミュージシャンのみならず、他の分野でもこぞって取り上げられる、親しみやすい、それでいて美しいメロディ。言わずと知れたO’Carolanのペンになる。あまりにポピュラーなため、演奏する機会も少ないがいい曲であることは確かだ”

★The Mountains Of Pomeroy

“ブレンダン・ベグリーの歌は格別だが、もちろんインストでやっても美しい。元はマーチとして書かれたというからちょっぴり勇敢な曲だろう。そう思って演奏してみると意外と面白い。Pomeroyは北アイルランドのCo. Tyroneにある”

★Lord Inchiquin

“O’Carolanによるこれも美しい曲。少し早い目に演奏されることが多いが、確かにそういう感じのメロディだ。僕も随分前にガット・ギターで録音したことがある”

★Jim Donoghue’s / Road to Cashel

“B♭とCmでの演奏が独特な世界を創り出している。コンサートではこの後Neckbellyという曲に突入する”

★May morning Dew

“大好きなエアー”

★Inis Sui

“Maire Breatnachのペンになる美しい曲。2013年に彼女と出会い、セッションにまで一緒に行ったのに彼女だとは気付かなかった、という不覚な出来事があった”

★Eleanor Plunkett

“これもO’carolanのペンになる美しい曲”

★O’Carolan’s Ramble to Cashel

“すでに“その66”で登場している”

★A Stor Mo Chroi

“1929年に書かれたと言われる曲。僕にとってのベストはBonnie Raittの歌かも知れない。初めて聴いたのはジャック・ギルダーとバークレーに行く途中の車の中だったが、いまだにその時の衝撃は覚えている”

★Hector The Hero

“スコットランドの美しいエアー”

★Valse Des Jouets / Going To The Well For Water / Fairy dance

“ワルツからスライド、そしてリールで締めくくり”

 

このアルバムも現在は完売。ありがとうございました。

フォークソング考 2

いろいろ考えていたら、想い出したことがあった。ひとつにまとめられたらいいのだが、記憶と言うものはそう一度に蘇ってこない。

80年代後半に、ある新聞記事が載っていた。見出しはこうだった。「Where Have All The Folk Songs Gone」ジョーン・バエズがインタビューに答えていたものだった。

最近、そういう名目でいろんなシンガーが出演しているコンサートがあるようだ。日本でも「懐かしのフォークソング」のようなタイトルでコンサートが開かれている。

だが、フォークソングも80年代にはほとんど消滅したといっていいのかもしれない。それは本国アメリカに於いても、だ。

60年代から70年代にかけては、よくニューポート・フォークフェスティバルのライブ盤を聴いたものだ。

そしてその頃最も深く感銘を受けたのはDoc Watsonの演奏だったかもしれない。そんな昔から歌い継がれているものや、フィドル・チューンなどに興味が湧いた。

やがて、ブルーグラスの世界に入っていくと、自然とフォークソングから離れていったが、何かの本でジャニス・ジョップリンもうんと若いころはストリートでオートハープを演奏していたり、フォギー・マウンテンボーイズと共にツァーに出ていたり、という記事を見て面白いなと思ったものだ。

アメリカでのフォークソングの成り立ちは日本のそれとは全く違うものだった。僕らは訳も分からず、恰好だけは真似てみたし、音楽も真似てみた。

今、アイリッシュ・ミュージックに深くかかわっていると、本当のフォークミュージックというものはどのように伝承され、その中からフォークソングなるものがどのように生まれてきたのか、ということがよくわかる。

フォークソング~ブルーグラス~カーター・ファミリー~アイリッシュ・ミュージック、この流れは僕にとってごく自然なものだった。

まずフォークソング。1964年頃、ギターを初めて手にしてフォークソングを始めた。それから数々の歌が反戦歌、反社会的な要素を含んだ歌だと知った。もちろん、アイルランドあたりからやってきた歌が沢山あることも知った。

そしてブルーグラス。フォーク時代からバンジョーを担当していた僕にとっては、この世界に足を踏み入れたことはごく自然な成り行きだった。

それからカーター・ファミリー。カントリー・ジェントルメンや、キース奏法などを追及していたものの、古いスタイルの演奏にはかなり興味があった。ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズからチャーリー・プールなどの録音をよく聴いていた。そしてカーター・ファミリーにも行きついた。そういえばフォギー・マウンテンボーイズのカーター・ファミリー集というアルバムもあった。

最後にアイリッシュ・ミュージック。1991年、タラ・ケイリ・バンドからのアンドリュー・マクナマラとの出会いにより、この世界に入る。

そして、彼らの生活や音楽を体験することにより、これが本当の意味でのフォークミュージックである、と感じるようになった。

ここアイルランドやスコットランド、イングランドから渡ったフォークミュージックがアメリカでフォークソングを産む基となった、という誰でもが知っているだろうことを身体で感じることとなる。

やっぱり僕にとってフォークソングというのは60年代から70年初期にアメリカで歌われていたものだけを指す。あるいは、日本全国に存在する我夢土下座のような人たちが歌っているものか。少なくとも、この日本で売れているものでフォークソングと呼べるものは存在していないような気がする。

もちろんいい歌は沢山ある。が、それらをフォークソングとして扱うには無理がある。少なくとも僕にとっては。

おそらく最初の記事「Where have all~」を書いた記者もそのような気持ちから本物のフォークシンガーと言える人達にインタビューしたものだろう。

今、様々な問題が提議されている中、フォークソングというものはまた生まれてくるだろうか。そしてそれらは(古いものも含めて)どう評価されていくだろうか。

Irish Music その94

The Maid I Ne’re Forgot / JB’s / Lad O’Beirne’s   (Reel)

★The Maid I Ne’er Forgot
“コンサルティーナ奏者のPadraig Rynneの録音から覚えたものだが、随分前にArty McGlynnとNollaig Caseyのアルバムで聴いていたものだ。彼らはEm Reelとして録音していたので同じ曲だとは気がつかなかったし、とっくに忘れていた。なお、RynneはBm Reelと名付けていた。O’Neillのコレクションにも含まれているというので、そんなに新しい曲ではなさそうだ。Michael Gormanの曲とも言われているが、とても現代的なメロディを持った曲だ”

★JB’s
“古いスコットランドの曲でF#mで書かれている。James Murdoch Hendersonによって1932年に書かれているというから驚きだ。JBとはどうやらJames B Patersonという人物のことらしい。これは多くの人がエアーのように演奏しているものだが、Rynne はReelとして超絶テクニックを披露している。僕らは彼の演奏から学んだので今度はエアーにしてみてもいいかもしれない。Old Blind DogsのJohnny Hardieがいい味を出している”

★Lad O’Beirne’s
“Josephine MarshやSharon Shannonの演奏でさんざん聴いた曲だが実にいいメロディだ。キーもFで書かれているし、一味違う感じがある。
この3曲はPadraig Rynneのセットだが、あれはいつだったか。恐らく2002年頃ゴルウェイでブリーダ・スミスとセッションに出掛けた時に初めて彼と出会った。ブリーダが「今、若手で一番売れているコンサルティーナ奏者」と言っていた。もともとはクレアーの出だがその時はゴルウェイにいた。今はまたクレアーに戻っているようだ。
その日のセッションではCherish The Ladiesのアコーディオン弾きMirella Murreyとも再会した”

Irish Music その93

敢えて書いてこなかったレパートリーもいくつかある。それはCDですでに録音、解説しているものなので、タイトルだけでも書いておこう。

詳しくはKeep Her Lit! スペシャル・サイト

 

★Far Away Waltz / Trip to Skye  (Waltz)

“フランスからやってきた美貌のティン・ホイスル奏者“マリー”から90年代に習った曲。その頃はタイトルが分からず、マリーズ・ワルツと呼んでいた”

“John Whelanのペンになる美しいワルツ”

 

★The Maids of Selma / Coloraine Jig / Mouse in the Kitchen (Jig)

“Selmaは1965年 アラバマ州のマーティン・ルサー・キング・ジュニアによる行進が始まった都市のことだろうか。定かではない”

 

★The Girl Who Broke My Heart / Paddy Ryan’s Dream / The Boys of Malin (Reel)

 

★The Banks of Suir  (Air)

 

★Jackie Tar / Golden Eagle     (Hornpipe)

 

★Ookpick Waltz (Waltz)

“CDでは歌の挿入曲として演奏したが、僕らはよくKevin Keegan’s というワルツの後で演奏することも多い”

 

★Teetotaler’s Reel / Whiskey Before Breakfast / The Virginia  (Reel)

“オールドタイム、ブルーグラスの流れを汲むレパートリー”

 

★Garech’s Wedding / Kid on the Mountain   (Slip Jig)

 

★Planxty Hewlett / Give Me Your Hand     (O’Carolan / O’Cathain)

 

★Jenny’s Welcome to Charlie / Rakish Paddy Donegal Setting (Reel)

 

★Inion Ni Scannlain (Donogh Hennessy)

 

★Calliope House   (Jig)

★An Drucht Geal Ceoidh     (Air)

 

アルバムKeep Her Lit!は2011年に発表したもので、既に絶版となっています。

2人で始めてわずか数か月という時に録音したもの。当時(今でも)名もないこのデュオのアルバムを購入していただいた皆さんに感謝いたします。

フォークソング考

音楽評論家でも、歴史研究家でもないので、詳しい話は書けないかもしれないが、日本にフォークソングなるものが上陸したころから歌い、演奏してきたのでなにか想い出して書いてみてもいいかな、という気がする。

それというのも先日、初めて南こうせつのコンサートというものを聴きに行ったのだが、それはそれは驚きだった。

今の若者たちが立ち上がって盛り上がっているのとほとんど同じような光景が、開演前から見られた。でも、明らかに歳のころは僕と一緒くらいか、5~10歳くらい下の人達だったが。

確かに僕も宵々山コンサートでの盛り上がりは経験している。しかし、それとは明らかに違う盛り上がり方だ。

恐らく、アリスや他のいわゆる“売れているフォーク・グループや、フォーク・シンガー”のコンサートというものはああいう感じなんだろう。

実に面白い。もう、もはやフォークソングではない。すくなくとも僕にとっては。

フォークソングを始めた頃、よく感じたのは東京方面の人達はいわゆる“モダーン・フォークというものに憧れて、ひたすらPP&M, Kingston Trio, Brothers Fourなどのコピーを展開する、あるいはそのスタイルを取り入れた人達が多かったのに対して、関西では早くから自分たちの言葉、スタイルでフォークソングを解釈する人達が多かったような気がする。

もちろん、反戦運動は東京でも起きていた。

僕は静岡という立地上、東京に出向くことが多く、記憶によると森山良子、PP&Mフォロワーズ、フロッギーズ、ニュー・フロンティアーズなどのフォーク・グループをよく聴いていた。

中でもオックス・ドライバーズという2人組の演奏に魅かれていった。彼らはキングストンやライムライターズのコピーをしていた。他にもハイウェイメン、タリアーズ、トラベラーズ3などのコピーもしていたかも。

とに角、多少の反戦、反社会的な息吹きは残しつつ、あくまでモダーン・フォークであったことは事実だ。

大学入学と共にブルーグラスに傾倒していったが、フォーク・グループとの接点もかなりあった。

高田渡と知り合ったのも、坂庭君と知り合ったのも大学時代だ。

京都産業大学ではいなかったが、立命館や京大に出向くとヘルメットをかぶって、角材を持った連中が一杯いた。

フォークソングも1975年のベトナム戦争終結後には少しづつ変化していったようだ。いや、少し前の泥沼化したころからかな。そして、いわゆるニューミュージックなる言葉が頻繁に使われ出したのもこの頃だろう。

僕自身、さんざんピート・シーガーやボブ・ディランなども聴いてきたが、そのメッセージ性よりも音楽としてのフォークソングに興味があったので、彼らのルーツを探ることの方が面白かったのかもしれない。

そして行きついた先がブルーグラスやオールドタイム、カーター・ファミリー、ということになるのだろう。

“売れたい”“テレビに出たい”というような欲望もなく、更に、メッセージ性を出したい、といった思いもそんなに強くはなかったのだ。

そんな中で高石氏と出会った。当時は彼のことを“反戦フォーク・シンガー”として認識していたが、彼もニューミュージックなるものの出現は予知していたのだろう。いち早くフォークソングのルーツを探る旅に出たのだから。

やがて、僕らは日本に於いて特殊な存在となった。

ブルーグラスでも、反体制でも、ましてやニューミュージックでもない。しかし高石氏のカリスマ性による何かしらのメッセージを残すという、それこそ新しい形のフォーク・グループとなったわけだ。

あの頃が良かった、という気もないし、時代背景も多分に影響していたのだろう。それと何といっても組み合わせの妙、というものは大きかった。

とに角、最初の話に戻るが、あんなに盛り上がるコンサートの中でも何故か“しらけている”自分。こうせつは友達として大好きで、音楽的にも優れているし、素晴らしい感性を持ち合わせているし、申し分のない男で、ショーも楽しい。

これはひとえに自分の性格なんだろう。他人と一緒になって大騒ぎ(バカ騒ぎではない)できないのだ。

幼稚園の時も「みんなと一緒に踊りましょう」なんて言われようものなら、一人だけ隅っこで立っていた。そんなことを思いだした。

フォークソング。その社会性と音楽性、イベント性。様々な視野から今一度考えてみるのも面白いかもしれない。

ついでに、2015年を機に、再び安保闘争という言葉が聞こえてくるか、も。

Irish Music その92

 

Miss Thompson’s / Derry Reel     (Reel)

  • Miss Thompson’s
    “Sharon Shannonの演奏で有名だが、Fisher’s Hornpipeとはどういった関連性があるのだろう。BパートはほとんどFisher’sだ。なのでリールというよりはホーンパイプというイメージが強い。とは言え、ブルーグラスのホーンパイプはほとんどリールと言えるが。Errington Thompsonという人によって書かれた、という資料があるようだ。但しホーンパイプとして。
  • Derry Reel
    “Charlestownとも呼ばれ、またシンプルにDerryとも呼ばれる。Sharon Shannonでこのセットが知られるようになり、もうかれこれ15年ほど前から僕らもよく演奏していたセットだ。非常にノリのいい曲だが、Bパートに入るとメロディがちょっとセンチメンタルになる感じでとてもいい。急に想い出したのでレパートリーに取り入れてみた。

Irish Music その91

Kitty O’Shea’s     (Barndance)

★Kitty O’Shea’s

この曲を初めて演奏したのは、パディ・キーナンとのツァー中だったと記憶している。彼はたしかKitty O’Neil’s Hornpipeとして演奏していた。それは2パートのシンプルなものだったが、後になってEdel Foxとのツァー中、彼女が演奏したのは6パートだった。いや、7パートだったかもしれない。それくらい長くて混乱する曲だ。この人物は1870年代から80年代にかけてニュー・ヨークで活躍したダンサーということだ。Kitty O’Neil’s Champion Jigとよばれるこの曲。ジグでもないのに何故ジグなんだろうと思っていた。これは多分に時代によるものらしい。19世紀のアメリカでは2/4 2/2などでもミンストレル・ショーなどの躍動するダンスの象徴とされていたらしい。そういえば、何かの映画でブルース・ウィリスが全ての大活躍が終わった時「ジグでも踊るか」と言っていた。それがアイリッシュ・ジグに限ったことではないだろうことが、ここからも分かってくる。でも、なんでO’Neilと言ったりO’Sheaと言ったりするんだろう。一説によると、それはトミー・ピープルスが間違ってKitty O’Sheaと言ったのが始まりだ、と云われている。元々はKitty O’Neilだったはずだ。もっと調べればいろんな説が出てくるだろうが。ところで、最も古い資料では2パートだ、という説もある。

 

Billy in the Low Ground / Ragtime Annie  (Reel)

★Billy in the Low Ground

“これは決してアイリッシュ・チューンではない。アメリカン・オールドタイムと呼ばれるカテゴリーに入るものだろう。面白いことにSharon Shannonがやっているようだが、随分僕の知っているメロディとはかけ離れているし、タイトルもなにかもじったようなものになっている。僕はというと、70年代初頭、Nitty Gritty Dirt Bandの最初のアルバムで聴いたのが初めてだった。Uncle Charlie and His Dog Teddyというタイトルのアルバム。その中で マンドリンとギターでフェイド・インして入ってくるしゃれたやり方が印象的だった。後年、アイリッシュの世界に入った時、Maid Behind the Barという曲に出会ったが、どこまでもこの曲に似ていたが、どこかでクロス・オーバーしたのだろうか。とに角これは希花さんに古いギブソンで弾いてもらうことにしたが、とてもいい音で曲調にもよく合っている。

★Ragtime Annie

“これもアメリカン・チューンだがアイリッシュ・ミュージシャンにも好んで取り上げられている。僕は1922年頃のEck Robertsonの録音をよく聴いていた。おそらくこれが最初のこの曲の録音だと言われているが本当だろうか。日本では石田一松が「のんき節」を録音したのと同じ年だ。なお、ほとんどのブルーグラス・ミュージシャンは2パートで演奏するが、この録音を聴く限りではもともと3パートのようだ。その昔、宵々山コンサートでジョー・カーターと弾いたのはこの曲だった。このようにアメリカン・チューンでもアイリッシュ・ミュージシャンに取り上げられているものや、決してそうでないもの、また、その逆の現象もあるので、こと細かに見ていると面白い。

時差ボケから解放されてまた、考え事

やっと時差ボケが解消されてきたようだ。というか今年はちょっとパターンが違った。

戻ってきたその晩はぐったりと寝てしまったが、次の日くらいから、夜中の1時頃眼が覚めて朝まで寝付けない、という状態が続いた。

やっぱり歳取ると時差ボケも遅れてやってくるのか…。

2011年から5年連続で希花と一緒にアイルランドに行っている。

最初の年は希花をいろんなミュージシャンに引き合わせることで、僕が90年代初頭からどっぷり浸かってきたこの音楽が、どういう生活から、どういう感性から生まれてきたかを身体で感じてもらう、というのが目的だった。

実際、僕も84年のカーター・ファミリーとの生活で、真剣に取り組むには彼らの生活に入っていくのが一番だろう、と感じたからだ。

その上で自分の感性を合わせていくことが必要になってくるのだ。

フランキー・ギャビンと家でゆっくり食事をし、音楽や生活の話をし、近所を散歩し、演奏し、アンドリューの家で、なかなか出てこないシャワーに苦戦しながらも、買い物に行って食事を作って、夜中まで演奏しに出掛け、ブレンダン・ベグリーの家でいやいや寿司を作らされ、ボートに乗せられて大西洋のはるか沖まで連れていかれ、無事戻ってきた喜びを噛みしめてキッチンで演奏し…等々、こういうことがいかにこの音楽を演奏するうえで大切なことか分かるには10年やそこらの経験では無理かもしれない。そういうことは後から感じることだろうし。

とにかくいろんな人と演奏をして、いろんなスタイルを学んで、迷いに迷った方がいい。

20年や30年ではなかなか人に教えるなんてことのできない奥深い音楽なのだ。

2012年からはセント・ニコラス教会のトラッド・コンサートのレギュラー演奏者として迎えられている。

ここでは有名無名を問わず、きちんとこの音楽に取り組んでいる者しか演奏することが許されない。

ここで演奏できるというのは限りなく光栄なことだ。同じ時間、街のあちこちでセッションも行われている。

もちろん騒がしいパブでのセッションもアイルランド音楽のひとつの姿だが、歴史ある教会でのきちっとしたコンサートもいいものだ。

この曲にはこういう謂れがあって、何年の誰それの録音ではこのように弾かれたが、後年、誰それによってこう弾かれている、というような説明もきちんとできなければならないし、究極、自分が好きなのは前者のほうだが、後者のこの部分の音使いはなかなか言えてるかもしれない、などとレパートリーについてもこと細かに考えておかなければならない。

そのためには数限りないアイリッシュ・ミュージックに耳を傾けなければならないし、様々なジャンルの音楽も聴いていたいものだ。

しかし、フィドラーは大変だ。今回だけでもBrid Harper Yvonne Kane Eileen O’Brien

をはじめとする名フィドラー、偉大なフランキー・ギャビン、そういった人物たちと、ともすれば仕事まで入ってきてしまう。

これは正直、心から楽しめるものではないだろうな、と思う。

ブルーグラスからオールドタイム、果てはスウィングまで登場することもある。そうなると、

Gid Tanner & Skillet Lickers もKenny Bakerも Papa John Creachも聴いていなければならないし、もちろんMichael Colemanも、そして自分を見つけていかなければならないし、人に教えている場合ではない。

少し無理させ過ぎだろうか。でもそれがきっと一味違うフィドラーとして、あるいはトラッドに真面目に取り組んでいるフィドラーとしてアイルランドでも通用する存在になれるということなんだろう。

アメリカでも経験していることだが、日本人としての珍しさなんて、もってせいぜい6か月くらい。

まだまだ奥深いアイリッシュ・ミュージック。

帰ってきました

ほとんど毎日15℃前後の所から、この蒸し暑い日本に帰ってくると本当に空気の重さを感じる。

但し、今回は乗り継ぎの関係上、ドバイにも立ち寄ったので、暑さに関しては「暑いぜ熊谷」の比ではなかったような気がする。

44℃、灼熱の砂漠にそびえ立つ高層ビル。思わず「イエス!高須クリニック」と呟いてしまった。あれがドバイかどうか良く知らないが。

砂漠の彼方に沈んでいく夕陽は“アラビアのロレンス”を彷彿とさせる。

ここで暮らす人たちと、アイルランドで暮らす人達、そして日本で暮らす人たち、同じ人間なのにやっぱり環境っていろいろだな、と思わざるを得ない。

さて、日本に着いて先ずしたいこと。それは野菜をはじめ、体に優しいものを食べたい、ということかもしれない。

アイルランドの食文化についてはさんざん書いてきているのでもういいが、日本はどう考えても素晴らしい。

テレビをつければ、自称“芸人”という面白くもない連中が食べ歩いている番組か、デパ地下の食品コーナーの案内の番組か、兎にも角にも食べ物に関する番組の多いことに今更ながらに驚く。

やっぱり食に対する関心度の違いか。アイルランド人は飲めれば幸せ、というところだろう。

でも、酒に関するテレビ番組などはない。当たり前か。

野菜も肉も日本に比べれば格段に安いが、それでもほとんどすべてに於いてクオリティは日本の方が数段上なので仕方がないだろう。

僕はオート・ミール(ヨーロッパではポリッジという)が大好きなので、必ず購入するが、これも1㎏入りで200円くらい。

同じものを日本で買ったら1000円くらいするだろうか。これは輸入物だからかな。

でも結局食べきれずに鳥たちと分け合って食べていた。

そんな国、アイルランドにはもし音楽をやっていなかったら来ていただろうか。その辺は至って微妙だ。

食べ物はどれをとっても大したことはない。シャワーの出は悪い。公共のトイレなんてほとんど野っぱらでするのと変わらない。その上この国で最も大切な酒にもあまり強くない。

やっぱり音楽がなければ来なかったかも知れない。

音楽を聴くために毎年来る人たちもいるし、やっぱりこの国の音楽は魅力的なものなんだろう。

少し体が戻ったらまたアイルランド音楽についていろいろ書いてみたいのだが、時差ボケも歳のせいか、遅れてやってきているようだ。

2015年 アイルランドの旅 30

いよいよ最終回。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

最後の方はなんかバタバタとして、たいした報告はできなかったけどなんとか楽しんでいただいたでしょうか。

トラッド・アイリッシュは真剣にやればやるほど日本では相手にされなくなってくる。

かといって、かっこよく見せる事や、トラッドとしてのかたちを崩していくことには興味が無い。と言うよりも自分の主義ではない。

勿論、ナターシャー・セブン時代から面白い事や、新しい事には節操無く飛びついたものだが、それも古いものをきちんとフォローし続けて成り立つものだ。

僕らは、このままトラッドを愛しつつ、こちらのミュージシャンにも恥ずかしくないものができるような存在でありたいし、それでいて視野の広い、スケールの大きいミュージシャンでいたい。ここがとても大切なところだ。

まだまだ模索は続いていくのだろう。

2016年 アイルランドの旅、というのはどんなコラムになって登場するだろうか。

2015年 アイルランドの旅 29

そういえば、鳥たちについてしばらく書いていなかった。

相変わらず、いつもの3羽は仲良く現れるが、最近もう1羽増えた。

鳩だ。どうも“ハト”というのはいつだったかの総理大臣以来、印象が極端に悪い。おっと!

ともあれ、こいつは人慣れしているせいか、かなり近くまでやってくる。そして長居するのだ。

昨日、試しに部屋の中にパンを置いてドアを開けてこっそり見ていたら、少しのぞいていたが、ちょんちょんと中に入ってきて食べていた。

それも結構長い間、そして奥のほうまでやってきたのだ。

他の鳥では決してそんなことはない。

ちょっとばかし図々しいといえばそう言えないこともないし、他に比べて図体がでかいので、もしかしたら他が恐れて出てこなくなるかもしれない。

しかし、餌をまけば必ずどこからともなくやってくるし、完全にこの場所を覚えてしまったようだ。

来年もやってくるだろうか。とっつかまえて目印でも付けておこうかな…なんちゃって。

そう思っていたところにまた別な鳩もやってきた。ところが元からいた鳩がそいつを追っかけ回して追っ払う。

気まぐれかな、と思いきやそんなことが何度も繰り返される。俺が見つけた貴重な場所だ、とでも言いたいのだろうか。

やっぱり部屋の中までおびきよせ、とっつかまえて「こりゃ大変」と思わせてみようかな。

それでもいつもの3羽は代わる代わる出てきて平和に共存している。鳩も彼らには敵対心は抱かないのでこのままにしておこう。

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2015年 アイルランドの旅 28

セント・ニコラス教会での最後の(僕らにとって)コンサートも終えて、また来年の話も出た。

その日のセカンド・ハーフはダブリンからやって来たパイパー.Maitiu O Casadeという若い、希花より年下の男の子。

彼もまた、きっちりとトラッドを演奏するミュージシャンだった。

ここに出演することがなければほとんど会う事がなかっただろうミュージシャン達との出会いはとても貴重なものだ。

勿論日々のセッションでも、ひょっとすると前回のマーチン・オコーナーのような人と会える事はあるが、それくらいの人物になるとあまり観光客向けのようなセッション、あるいはラフなオープンセッションには顔を出さないのが普通だ。

来年はこのセント・ニコラス教会でどんな出会いがあるか楽しみだ。

 

2015年 アイルランドの旅 27

大体のイベントは終わったが、まだまだ細かい事が残っている。いつもそうだが、帰る2週間前くらいから急な用事が入ったりしてバタバタと忙しくなるのだ。人生もそんな感じかな。

歳がいってからのほうが時の経つのは早い…ような気がする。でも、これも結構みんなが言う事なので、なにを今更、という感じかも。

今年の旅は僕らにとってある意味忘れがたいものになった。

このコラムをどれだけの人に読んでいただいているかわからないが、おそらく僕らはこの世界で最も尊い事柄に遭遇した。

今回のアイルランドにはなにか強い力で呼ばれてきたのかも知れない、と思えるほどの体験だったが、それは決して音楽との繋がりだけではなかったところがまた面白い。

いくつかのライブでお話しするつもりでいるのだが、先ずは東京の神楽坂にあるThe Greeというところが単独のライブになる。

後はまた故郷の静岡に行くし、名古屋にも行くかもしれない。

とにかく暑そうだし、体調の管理を心がけなくては。ここは相変わらず20度もないし。

また来年ここに来るつもりでいるが、今度はどんな事が待っているだろう。

2015年 アイルランドの旅 26

まだまだ忙しい日が続く。今日はこれからタラに向かう。

タラというとほとんどの場合Taraと勘違いされる。「風と共に去りぬ」で有名なHills of Taraだ。

なので、どちらかと言えば“トラ”に近い発音で言わなければ分かってもらえない。そこにカウンティ・クレアも付けても知らない人が多いくらいの何もないところだ。

1999年、僕は初めてアイルランドの地を踏み、アンドリューに迎えにきてもらって、マクナマラ家に2週間ほどお世話になった。

お姉ちゃんのマリーさんがシチューと、慣れないご飯を炊いてくれて、珍しいお客に会うためにお母さんまで手ぐすね引いて待っていてくれた。

その時に見つけたパブがフランのパブだ。

この村にある4つのパブの中でダントツに小さく、静かでアットホームな隠れ家的存在で、中に入るのにはある意味、抵抗がなかったと記憶している。

確かにドアを開けた瞬間、多くの目にさらされるか、数人だけかは…う〜ん、どちらがいいだろうか。

とにかく3〜4人の人がいたと思う。

多分その中にいただろう、クリスティという男の人が今回僕らをタラに呼んでくれたのだ。勿論アンドリューも一緒になって計画してくれた。

だが、オーナーのフランはもういない。

去年の冬に85年の生涯を閉じた。この村を訪れる度に必ず会っていたフラン。そして“彼を慕って毎晩のように来ていたお客さんみんなで彼を偲んでお話をしたり演奏したり、歌を歌ったりしよう。ジュンジとマレカが居るうちに”

そんな計画を練ってくれていたのだ。

クリスティとの夕食後、まず彼が僕らをフランのお墓に連れて行ってくれた。

アンドリューの家の前、通りを渡って坂を登った高台にある墓地。初めて来た時もアンドリューとここを散歩した。

朽ち果てた教会の跡がわずかに残り、本などでよく見る形の十字架が並び、四方に緑の大地がひろがり、山々が遠くに佇んでいる、なんとも寂しく、そして荘厳な気持ちになる場所。ここにも必ず散歩に来ていた。

僕らはフランが安らかに眠るようにお祈りをした。そしてパブへ。

今は彼の甥がここを継いでいる。

「良く来てくれた」と、まずギネスを注いでくれる。ブレンダン・ハーティがいた。アンドリューと一緒に演奏していて昔から良く知っているギタリストだ。間もなくしてフィドラーのアイリーン・オブライエンもやってきた。

希花が初めて会ったとき、怖そうなおばさん、と思ったそうだが、もう今ではいい友達のひとりだ。

アンドリューもやってきて奥の部屋でセッションの始まり。11時頃になると知った顔、知らない顔が次々と現れてにぎやかになってきた。

それでも他のパブのようには騒がしくならない。ちょっとゴルウェイのパブの騒がしさから遠ざかりたいこの頃だったので、とても心地よい。

そうしてフランを偲んで良い時間を過ごす事ができた。

1時過ぎ、みんなに挨拶をしてパブを出ると、いつものように満天の星空。

それから朝6時過ぎまでアンドリューとアイリーンが大騒ぎ。

アンドリューのお母ちゃんも病院だし(フランと同じ歳)彼も大好きなブルースやロックンロールを大音量でかけて大はしゃぎ。

お母ちゃん子のアンドリューも、さぞ心配だろうけど、ずっと面倒をみてきているので来るべき時の覚悟はしているだろう。

今のうちに大騒ぎ…かな。

そんなことを考えながら、4時頃には僕らは眠りに就いた。キッチンから盛んにアンドリューが「ジュンジ!」と叫んでいた。アイリーンの笑い声。ミシシッピ・デルタのどぎついブルース…。

最初のうちは僕も答えていたが、そのうち段々呼び声も遠くなり、そのまま爆睡。

翌朝、11時過ぎのバスでゴルウェイに戻ったが、エニスのバス発着所で「また来年もやろう」と眠たそうな目をして去って行ったアンドリュー。

その後、エニスの病院にいるお母ちゃんに会いに行っただろうか。

フラン、クリスティ、クリスティの奥さん、フランの甥のリチャード。みんなに感謝。

 

2015年 アイルランドの旅 25

今日はリムリックに行く。因に8月8日の土曜日。天気はまぁまぁ。やっとアイルランドにも夏がやってきたかな、と思えるこの数日間だが、やはり風は冷たい。

ブレンダンと待ち合わせして一路リムリックへ。

着いた所はMilk MarketというところにあるMari’s Cheese Shopというお店。

とても感じのいいオーナーと、いかにも外国のコーヒー店らしく、美味しそうなチーズやサンドウィッチ、パウンド・ケーキなどが並ぶ、狭いが素晴らしくアット・ホームなお店だ。

着いたとたんにお店の中で買い物袋をぶらさげたまま、お客さんのなかにまじっているおじいさんが、座ったまま誰に聴かせるでもなく歌を唄っている。

歌詞を語り、メロディーに戻って好きなように唄っている。お店のお客さんもごく自然にコーヒーを飲み、サンドウィッチを食べ、みんなが美しい昼下がりをごく自然に楽しんでいる。

その一角での演奏。2時間ほどだったが、地元のパイパーが現れ、隣でコーヒーを飲んでいたおじさんが、突然アコーディオンを弾き始め、10代の少年が恥ずかしそうにティン・ホイスルを吹きにきたり、通りがかりの女の子がフィドルで参加したり、大丈夫かなと思うくらい太った7〜8歳の男の子が台の上に乗っかって歌ったり、楽しいひと時を過ごした。

因に最初に居たおじいさんは演奏が始まる前に、自分の出番は終わった、と思ったか、じゃ後は任せたぜ、と言わんばかりに帰って行った。

マーケットではあらゆるものが売り出されていて大賑わい。食べ物から着るもの、装飾品。

随分前にリムリックに来たとき、中に入った事はあった。でも、その時は週末でもなかったし、もう終わりの時間だったので全くイメージは違っていたのだが、今回はいろんなものを見て楽しむ事が出来た。

ドゥーランから早野さん、古矢さんコンビも寄り道して、そのままケリーに向かって去って行った。

僕らがゴルウェイに着いたら、しとしとと雨が降って寒かった。また夏がどこかへ行ってしまったようだ。

2015年 アイルランドの旅 24

フィークルから戻ってすぐに、今度はショーン・ギャビンから電話。なんでもショーンの息子がやっているバンドで5弦バンジョーを弾いて欲しい、ということだ。

その日はベネフィット・コンサートでセコンド・ハーフにDe Dannan、その前に彼らが演奏する、という。

どんなバンドか訊いてみると、完全なアイリッシュ・ロックだ。

U2 , Pouges , Bruce Springsteenをはじめとして、ブルースやロックン・ロールを歌う5人編成のバンド。

ギター&ボーカル、カホーン、スネア&ハイファット&ボーカル、ダブル・ベース&ボーカル、そしてショーンの息子である、ショーン(ややこしいが同じ名前)のフィドル&ボーカル。

コーラスはなかなかに決まっている。ただ、演奏する曲は全部で10曲。そのうち知っている曲が2曲。後は彼らのオリジナル曲だったり、聴いた事の無いポップス系のものばかり。

だが、ほとんどはブルース進行で歌われる。

全員、25〜6歳の若者でトラッドなど知らないが、Michael ColemanやTommy Peoplesの存在は知っている。

随分前にかまやつさんと沖縄に行って、コンディション・グリーンと演奏した時のように、取りあえず相手の出方を見ながらやっていけばいいのだが、彼らも気に入ってくれたのか「ここはバンジョーソロでいこう」などと言い始める。

アカペラのコーラスになると、バンジョーだけが伴奏にまわるといったアレンジも突然思いついたり。

だが、なかなかコーラスがパワフルで良いので、こちらもガンガンいける。

結局全ての曲で弾きまくって無事終了。

セコンド・ハーフのDe Dannanもゆっくり楽しむことが出来た。

希花はこの日、同じ時間に教会でCo Mayo 出身のShane Mulchrone というバンジョー奏者のコンサートにフィドラーとして参加。バンジョーとフィドルのデュエットで演奏していた。

こちらは純粋なトラッド・アイリッシュ。後でDe Dannanを聴くために合流したが奇妙な一日だった。

2015年 アイルランドの旅 23

久しぶりにアンドリューとのセッションだ。メンバーはアンドリューと僕ら、そしてアイリーン・オブライエン。

フィークルのおなじみのパブ“ペパーズ”だ。

初めてアイルランドを訪れた時のこと。アンドリューとふたり、長靴をはいて(長靴といってもゴム長)野原を歩いた後、アンドリューは自分だけちゃっかり靴を履き替え、僕はそのままパブに入って行ったら、みんなが大笑いしていたのを覚えている。

ここは今でも昔のままの景色だ。勿論ほとんどの場所が同じ景色を保っている。そんな国だ。

セッションはいつものように僕とアンドリューが大笑いしながら進めて行く。となりの部屋ではマーク・ドネラン達がやっている。

困った事におそくなればなるほど盛り上がってくる。名うてのミュージシャン達が次から次へと来てなかなか帰してくれない。

ゴルウェイに戻ったのが2時半過ぎ。彼らはまだやっているだろうし、ひょっとするとこれから更に盛り上がるかも。

そして翌日、再びフィークル。どちらかというと、この日のほうがコンサート出演ということで先にきまっていた。

去年、一緒にツァーしたEdel Foxとのトリオ。その後Ivonne Kane Eileen O’brien Tara Diamond等とのセッションホスト。

フィークルとは来年、もっと関わっていたらいいかもしれない。

思えば2011年にはずっとフィークルに泊まって夜な夜なセッションホストをしては全てのパブを巡ったものだ。

去年からは仕事のある日だけ出向いていたが、来年はアンドリューの家にでも泊まらせてもらってもいいかも。

今年も日本から早野さん、古矢さんの名コンビがここに合わせてやってきてくれた。遠いところをありがとうございました。

2015年 アイルランドの旅 22

夕食後、あまりにいい天気になったので、近所の散策を楽しんだ。

老若男女、子供達、みんな太陽の光を楽しんでいる。もう夜8時になるが気持ちのいい夕方だ。

それでも日陰は風がかなり冷たい。

セント・ニコラス教会の横を通り過ぎたら、見た事のある人が電話をしている。

フランキーだ。

3ピースのスーツに身を包み、あっちへウロウロ、こっちへウロウロしながら話している。

電話が終わるのを待ち、声をかけてしばらく立ち話をしているとショーン(兄)が現れた。

実は10時からのセッションに誘われていたがちょっと遅いし、ギネスも半端じゃなく飲まされるし、と思い、今日は辞退しようと考えていたのだ。

そこに会ってしまい、再び一生懸命誘ってくれるので結局行く事になった。

さて、このセッションだが、本当に行ってよかった。

と言うのが、アコーディオン奏者、マーチン・オコーナーがひょっこり現れたからだ。

アイリッシュ界のアコーディオン弾きの中でも特別な存在だ。そのテクニックたるや、おそらく世界のアコーディオン弾きとしてもトップクラスのひとりだろう。

また、その上めちゃくちゃにいい人だ。

誰に対しても礼儀正しく、にこやかに人の話を聞き、そして静かに話す。

アコーディオンを弾き始めたらスラスラと多くの音が飛び出し、その全てがとても心地よい響きを持っている。

一流中の一流だ。

結局戻ったのは午前2時半。それでも本当に忘れる事ができない夜になった。「何度か会っていたけど、一緒にやったのは初めてだったな。すごく良かった。またやろう」と、にこにこして帰って行ったマーチン。本当にいい人だ。

この日の他の参加者は ギャリー・へスティング、デシ・ウィルキンソン、共にフルート、それにケビン・ホークがギター、珍しくフィドルが希花一人。

Jewish Reelをマーチンとふたりで演奏した時は往年のDe Dannanサウンドそのものだった。

あまりに強烈だったせいか、デシ・ウィルキンソンが喜んで動画を撮っていた。

誘ってくれたショーンに感謝。

ところでこの夜はお茶をメインに飲み、ギネスは1杯だけにしておいたので比較的楽だった。

これからこれでいこう。

 

2015年 アイルランドの旅 21

ついに4羽目のカモメを助けた。車に轢かれている同じくらいの年齢(?)のカモメを見たそのすぐ後だったこともあり、手早くサッと包んでまた同じ所に放しに行った。

昨日の事。しょっちゅう雨が降っては晴れる。風が吹いては雨が降り、そしてまた晴れるといった一日。

久しぶりに、ゴルウェイの名物アコーディオン奏者、アンダースと日本人の奥さん“まよさん”のセッションに顔を出してみた。

最近女の子が誕生したらしく、いつもにこやかなアンダースがさらにデレデレになっているようだ。いい男だ。

まよさんも赤ちゃんのこと、気がかりだろうが力強いプレイを展開する。彼らはゴルウェイを代表する夫婦演奏家だ。

パブを出る頃には美しい空がひろがっていた。8時、陽はまだ高い。

彼らはベビーシッターに預けた赤ちゃんのことが気になるらしく、急いで引き上げて行く。

アンダースの何とも言えず嬉しそうな後ろ姿。母親らしく落ち着いた振る舞いのまよさん。何とも言えず好印象の夫婦だ。

 

さて、一日経って、今日はいい天気だった。そろそろ7月も終わるが、今年のアイルランドには夏が来ないのかもしれない。

日本はかなり暑そうだが、ここは17℃くらいだろうか。午後になればもう少し気温が上がるだろうけど。

2015年 アイルランドの旅 20

さて、次の日。
昨日は清々しい青空で、やっと好天に恵まれたと感激したものの、今日は一変して小雨がぱらつき、空はどんよりした雲に覆われている。

これじゃ山は無理だろうと思いきや、朝、早速メールが来た。

「俺たち今から支度するから20分くらいで迎えに行く」登る気満々だ。

実際、彼ら曰く、300メートルくらいの山で、老若男女がこぞって登るらしい。

信仰深い人達は裸足で登る、とも言っていた。

彼らはしっかりしたブーツを履き、ダウンジャケットに身を包んで登場。一応僕らのために同じようなジャケットは用意して来てくれたが、今日は天候もそんなに良くないし、山だけ見て君たちはウェストポートにでも行っていたら後でピックアップしてあげるよ、と言う。

実際、ウェストポートを抜けて更に15分ほど走ると山の麓に到着する。ゴルウェイから2時間ほどドライブして、ウェストポートに到着。更に15分ほど走ってまたウェストポートに戻り、僕らを落としてくれて、山に戻るという。

彼らにとっては大した距離ではないのだろう。

山は確かに荘厳な雰囲気を漂わせ、子供から老人まで多くの人達が登って行くのが見えた。

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Croagh Patrick

 

雨も上がってきたようだが、霧がたちこめている。

ウェストポートで僕らを落とした後、そんな山を目がけて兄弟仲良く意気揚々と出かけて行った。

一方、僕らはしばしこの可愛らしい小さな町を散策する事にした。

ここには、有名なMatt Molloyのパブがある。言わずと知れたチーフタンズのマット・モロイの店だ。

そこだけでなく、パブは数限りなくこの小さな町に存在するが、そのどこでもLive Trad Musicという看板を掲げている。

お腹も空いてきたので、食事をすることにしたがちょうどお昼時を少し過ぎたくらい。

どこも家族連れや旅行者で盛り上がっているように見える。おしゃれな店も随分多い。

沢山見て回ったが、Mill Times Hotelというところが目についた。どうやらベストフードのアワードを何度か取っているらしい。

おそるおそるメニューをチェックするものの、そんなにべらぼうな値段ではないようだ。

アイルランド人の言う“ベストフード”というのも怪しいものだが、とりあえずお腹も空いているし、あまり高くないので入る事にした。

僕がシーフード・チャウダー、希花さんがチキンのホワイトミートをベーコンで巻いたものにグレイビーソースがかかっているものをオーダーした。

やがて隣の老夫婦に運ばれて来たディッシュを見て「おっ。あれはなんだろう」と思ったが訊いてみるわけにもいかない。僕一人だったら訊いたかもしれないが、見た感じ奇麗に盛りつけられてあり、とても豪華だ。

しばらく待っているとチャウダーが登場。これが実に美味しそうで量も決して少なくない。パンも美味しそうだ。

ほとんど同時にチキンもやってきた。隣の老夫婦と同じディッシュだ。

こちら、もう中川イサト師匠化して、ついつい写真を撮りまくってしまった。

そして、その味はさすがにベストフードと言われるだけのことはあった。珍しくアイルランドの外食で満足のいくものに巡り会え、大感激。

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デザートまで頼んでしまった。

後はまた町を散策して待ち合わせのパブに入り、ギネスを飲んで彼らを待つ事1時間程。あまり食事が美味しかったこともあり、3時間近く食事と周りの料理の見物で1カ所に留まってしまったのだが、退屈もしなかった。

彼らは6時頃戻って来た。山に登り始めたのが2時頃なので、大体彼らが言っていた時間通りだった。

アイルランド人としては珍しく時間に正確な人達だ。

山は霧がたちこめて寒かったらしいが、二人とも大して疲れた様子もなく、非常に清々しい顔で「今回は天気もあまりよくなかったし、それに今度はちゃんと着るものを用意して一緒に登ろう」と言ってくれる。

是非そうしたいものだ。彼らに感謝。

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2015年 アイルランドの旅 19

久しぶりにショーン・ギャビンとセッションをした。だが、彼の持ってきたアコーディオンはE♭。ギターはチューニングを上げるか、あるいはカポ位置をずらすとかで対処は簡単だ。その場合、ちょっと視覚的には混乱することもあるが。

しかし、フィドルの場合は半音上げてチューニングをしなければならない。こんな場合はほぼ100パーセント、いや100パーセントのフィドラーはそうするはずだ。

だが、希花さんが厄介に思うのは曲が半音上がったことで、通常のキーで演奏されているものと同じ曲に聴こえなくなる事なのだ。

それならばと、通常のチューニングで半音高いポジションで弾いてしまおう、と考える。

普通は無理だ。1曲2曲だったらいけるかもしれないが、10曲20曲どころではない。次から次へと繰り出される曲を見事に半音上がったポジションで弾きこなしていく。

これにはさすがのショーン・ギャビンも舌をまく。さすがにフォギー・マウンテンをG♯で弾けるだけのことはある。

フィドル界広しといえどもあまりいないだろう。

おかげでセッションも無事終えた。

そしてその日、1年ぶりの友人に出会った。去年知り合ったアンガスという男と、名前を聞き忘れたのだがその兄弟、もの静かな音楽通だ。

彼が音楽通ということは会話からも分かるように、クラシックからジャズ、ワールドミュージックに至るまで、幅広く聴いて、その分析たるやその辺の音楽評論家もかなわないくらいの鋭い感性を持っている。

実際、セッションを見ながら飲んでいる人達の中で唯一、彼だけが運指を変えている希花さんのプレイに気がついていたのだ。

音楽だけではなく、広い分野で様々な知識を持った男だ。

そんな彼と、兄弟のアンガスが明日、山に上りに行くけど一緒に行こう、と誘ってくれた。

Croagh Patrick(クロッグ或はクロー パトリック)という聖なる山で頂上に教会があり、360度のパノラマで全てが見えるんだ、と、ギネス片手に熱く語る。

あまりに熱心に誘ってくれるので、一応オーケーしたが、そのための靴も服も持っていない。さて、どうしたもんだろうか。

2015年 アイルランドの旅 18

今日、またしても迷子のかもめの子供を見つけた。一体川っぷちからどうやってここまで来るのだろう。

距離にして300メートルくらい。交通量もかなり多い。まだ飛べないので、歩いて来ているのだろう。

よく車に轢かれないものだ。こいつはジョナサンだろうか。

とにかく、また助けなくてはならない。

着ていたジャケットを脱いでサッとかぶせた。もう慣れたもんだ。一発で決めてやった。

くるっと包んだつもりだったが、顔が出るとやっぱり暴れる。

ちょっと噛まれた。というよりつつかれた。ロバに続きカモメにも。

だが、なんとか希花さんに顔を覆うように頼んで、川っぷちまで運んだ。

かもめはそのままチョイチョイと歩き始めた。

一体何度こんなことをするんだろう。もうすでに3匹、いや3羽目だ。それにしても、いちばん最初に見た死んだ子はかわいそうだった。

仕方が無いのでこれからも見つけたら助けてあげよう。もう段々“こつ”もつかめて来たから。

2015年 アイルランドの旅 17

セント・ニコラス教会でのコンサート出演もすっかりレギュラーになってしまった。

ホスト役のコーマック・ベグリー欠席時の代理として、必ず僕らがファースト・ハーフを担当することになったからだ。

今夜のセコンド・ハーフはアコーディオンがColm Gannonその奥さんで、コンサーティナ奏者のKelly Gannon

淡々とトラッドを演奏する姿は、ショーとして見るのではなく、本当にアイリッシュ・ミュージックを愛していて、本気で聴く人にとっては素晴らしいものだ。

この教会で、静かにトラッドを聴け、本物のオールド・スタイルのダンスが見れるというのは価値のあることだ。

そして、月曜日に続く、水曜日のセコンド・ハーフはパイパーのMick O’Brienと彼の娘さんであるフィドラー。名前が聴き取れなかったが、オール・アイルランドを獲得した人だ。

Mickはさすがベテラン。最後はエマのダンスと共に有名なマイケル・コールマンのTarbolton setで。

小さなステージ上、4人で立って演奏。あまりにステージが狭いのでミックの前に僕が立ち、娘さんの前に希花が立つ。彼女も180センチくらいありそうなので、もし希花が後ろに立ったらすっぽり覆われてしまう。

「あんたが前に行きなさい。それでないと全然見えないから」と言われていた。演奏が終わると4人並んで深々とお辞儀。もっとお辞儀しよう、とミックが促す。

心地よいパイプの響きが忘れられない日となった

2015年 アイルランドの旅 16

一日中雨が降り続きそうな予感。今日はフィドラーのBrid Harperがゴルウェイにやってくる。

ドニゴール出身のベテランフィドラーだ。

日本から来てアイリッシュ・ミュージックに関わろうとしているのだったら、日々のセッションもいいけど、こういう人達の演奏に耳を傾けることも大切だ。

相方のギタリストも結構イケイケだったが、変なコードは使わず、実につぼを得ていた。ティン・ホイッスルもなかなかの腕前、そのうえ饒舌で(ちょっとうるさかったかな)、でもBridが淡々と曲の説明をするので、コンサート全体を通していい感じだった。

親子連れで来ていた子供達も真剣な面持ちで聴いていたが、ここで、実に何年ぶりになるだろうか、Breda Smythに再会した。

僕が宵々山コンサートに彼女を呼んだのは2000年?それから1回アイルランドで会ったかな。

いつだったかSean SmythからBredaに子供が産まれたという話を聞いたが、その息子もすっかり大きくなって、やっぱりティン・ホイッスルとフィドルを演奏するそうだ。

希花さんは、医者でもある彼女からアイルランドの病院事情について、次回ゆっくり話を聞く事にしたみたいだ。

今日の収穫はBrid Harperの素晴らしいフィドリングを聴けた事と、Bredaに再会できた事だ。

 

2015年 アイルランドの旅 15

今日、またしても迷子のカモメの子供を発見。

そこで、先日見たレスキューのまねをしてみたが、これがなかなか難しい。傍目に見れば、いじめているように見えるかも知れない。

というのも何度も何度も持っていたジャケットをかぶせようとして失敗するからだ。

その度に必死に逃げようとする。こちらの気も知らないで。

だが、やっとの思いで捕まえた。

そして、抱きかかえたがこれがなかなか怖い。噛まれたらロバより痛いかもしれない。

ちょうど一緒にいた和カフェのオーナー、早川さんが顔を覆えば暗くなるから騒がなくなる、と(彼女、烏骨鶏を中国から連れて帰って来た事がある)教えてくれて、確かに少し静かになった。

それでも僕のジャケットの中で“もそもそ”している。道行く人達が不思議そうな顔をして見ている。

なんとかここなら、という川沿いのところで放してみたが、希花さんがもっと仲間が沢山いる所のほうが良い、というので、また捕り物帳の始まり。

でも今度は少し慣れたせいか、ほどなく僕のジャケットの中に収まった。

かくして、仲間の多くいる場所へと移動。

とりあえず“鳥”は長い“捕”物帳の末、そんなに“取り”乱す事もなくセーフであった。

2015年 アイルランドの旅 14

今日は7月15日。ゴルウェイは快晴だ。

日本には台風が来ているらしく、祇園祭も大変だろうな。そして、それにつれて自然と宵々山コンサートの事などを思い出している。

せみがうるさかったなぁ、暑かったなぁ…みんな若かったなぁ…。会場の周りに何日もかけて並んで、みんな友達になる。まさに青春だったんだろうな。

そのころからずっと応援してくれている、もう家族みたいな京都の人達。遠いところから今でも駆けつけてくれる人達。

みんな青春時代を僕らとともに過ごしてくれて、今も変わらず青春を楽しんでいる。素敵な人達に感謝。

あれ?晴れていてもセンチメンタルになるのは歳のせい?かな。

さて、快晴のゴルウェイでは、今日また、教会で少しだけコーマックと演奏をすることになっている。

それというのも、僕らがお世話になっている詩人の佐々木幹郎氏が、イギリスでの仕事の帰り、何年かぶりにゴルウェイを訪れているので、コーマックが教会に来てもらって、ここ、ゴルウェイで一緒に演奏しているところを見てもらおう、と言ってくれたのだ。

いつものようにコーマックのソロ演奏から入り、僕らがステージに上がって3曲ほど一緒に演奏。そして、エマ・サリバンのダンスと共にファースト・ハーフを終えた。

気がついたら今年はまだコーマックと演奏していなかった。

やっぱり素晴らしいコンサーティナ奏者だ。

セコンド・ハーフはBryan O’Leary & Colm Guilfoyle というSliabh Luachra出身の若い二人。アコーディオンとフルートの演奏だ。

いかにも出身地らしいポルカとスライドのセットが続く。

トラッドを継承する二人の真面目な若者。こういう若者を多く見て来た僕にとって、あぁ、ここにも素晴らしい演奏家がいるな、と思わざるを得なかった。

日本の、特にアイリッシュ音楽を語る人達は彼らのような、一見地味かも知れないけど、本当の本物に多く触れた方がよい。

やはりTune in the Churchに身を置く事はトラッド演奏家としてこの上ない幸せな事なのかも知れない。

21歳と27歳のこのコンビとは、またいつかどこかで会うだろうが、彼らからも先人たちの演奏について様々な見解が聞けそうだ。

2015年 アイルランドの旅 13

こちらでは特に変わった事はないが、日本では東京が38℃になる、と聞いた。先日、北海道ですら35℃になったというし、大分で震度5、なんていうニュースをみるたびに日本は大丈夫かな、なんて心配になってしまう。

アイルランドは相変わらず肌寒い。

去年、この時期にやはりゴルウェイにいたのだが、今年は去年より寒いような気がする。歳のせい?いやいや、若い人もそう言っているのでやはり本当なんだろう。

今日のようなどんよりとした肌寒い日はなぜか“追憶の日”という感がある。以前も確かダブリンかどこかで同じような日に“思えば…”に始まって、自分が関わってきた音楽の思い出を書いた事がある。

そう言えば、北海道にはよく出かけたが、同じような気持ちになったことがあった。

秋の夕暮れの函館あたりで電車を降りると、とたんにセンチメンタルになってくるから不思議だが、ここはやはり北海道に似ているような気がする。

函館は僕の一番好きな街だったが、転勤族の子供だった希花さんが、自分の故郷と呼べるのは函館かもしれない、と言うのには不思議な共通点を感じる。

特にこのゴルウェイという街は、坂はないけど函館に近い、という気がしてならない。

そう言えば、中標津というところはよく覚えているが、今思えばカウンティ クレアみたいだった…かもしれない。

そう言えば続きで申し訳ないが、先日またラジオから僕らの演奏が流れて来た。前回のお約束通りThe Ramblerからもう1曲。

今度はClinch Mt. Back Stepだった。きっと変わっていて面白かったんだろう。

というところで空を見上げると、うん、晴れて来た。

今日はいい天気になるかもしれない。

今日からアート・フェスティバルが始まるらしい。街が騒がしくなる。

急にアンドリューから電話。フィークルでまた一緒にやろう、と言って来た。こちらの人間は日にちを言わず、曜日で言ってくる。

もちろん彼の言うのはフィークル・フェスの間の事だから、間違いはないのだが、一応日にちで確認をする。

突然といえば、アイルランドでは(特に西)突然天気が変わったりするので、1週間先のバーベキューの予定などたてられなく、やるなら今でしょ!ということになるらしい。あくまでたとえ話としてだが。

なので、あれよあれよ、という間に物事が進むことがよくある、という。

本当に最後の最後までつかみどころのない変わった民族だ。案外向こうもそう思っていたりして。

とはいえ、10カ国以上の人達と仕事をしてきた僕にとっては大した問題ではないが。

弟分のアンドリューとの演奏、楽しみだ。

2015年 アイルランドの旅 12

Tune In The Church出演の合間をぬって、Miltown Malbayに出かけた。

Willie Clancy追憶のための、アイルランドでは最も大きなフェスティバルのひとつ、と言って良いだろう。

世界中から、この小さな村目がけて多くの人が訪れるので、数多くあるパブは全てが身動きの取れない状況となる。

僕らの目的は、数人の知り合いと会う事。特に先日、日本で一緒だったイデルには、自分の生まれた所だし、クラスで教えているから是非来てちょうだい、と言われていた。

もちろん、僕らも初めて訪れるわけではない。過去にジョン・ヒックスと再会したのもここだ。

とにかく、パブには入る事が不可能なくらいの人が集まっているし、しばし、200メートルほどしかないこの村の道路を行ったり来たり。

ロン・カヴァーナと、それに驚いたことにサン・フランシスコでよく一緒にやったケイティという女の子が声をかけて来た。

彼女、あの時は23歳だったと言っていた。あれからもう15年経つらしい。

キルフェノラの彼女の実家にアンドリューと泊まって、ダブルベッドで夜中までキャッキャッ言って騒いでいたら、彼女のお母さんが「あんたたち、まるで兄弟みたいね」なんて言っていた。

僕らはしばし、比較的広くて空いているレストランに入って(基本的にレストランではセッションは行われていないので)時を過ごす。

イデルも忙しい中、顔を出してくれるが、すぐまた行かなくてはならないから後で連絡してね、と、相変わらずニコニコしていた。

そのうち、もうひとり連絡を取り合っていたジョセフィン・マーシュが駆けつけてくれた。

さぁ、やりましょう、と早速アコーディオンを出す。

お店の人も大歓迎だ。

近くにいた小さな男の子(10歳くらい)もアコーディオンで加わるが、真面目な顔をして、限りなく本物のトラッドを演奏する。彼の演奏と表情からも、この音楽に対する敬意が感じられる。やがて彼の妹もコンサーティナで参加。素晴らしいセッションとなる。

ジョセフィンと1時間ほど一緒に演奏をして別れた後、イデルから、彼女が全ての仕事を終えて、家族で食事をしているから、そこに来てちょうだい、と連絡が入った。

そして、レストランのオーナーがここでやってもいいって言っているから一緒にやりましょう、と促され中に入る。

これがベストだ。地元の名のあるミュージシャンと共に静かなところで、ちゃんとした音楽ができる。

ともすれば騒がしいパブでは聴き取れない音がきちんと聴こえる。

彼女も30分くらい、と言いながら止まらない。

日本に来た時仲良くなった“たけちゃん”の写真を、家族や友人達に「この人最高に面白かったわよ。すごくいい人」と言いながら見せて回っていた。

どこまでも明るくていい子だ。

結局1時間ほど一緒に演奏して別れた。

今回のMiltown Malbayの目的は、ジョセフィンと会う事と、イデルと会う事だったのだが、その両方とも果たされたわけだ。

僕らを、中継地EnnisからMiltown Malbayに連れて行ってくれたアイルランド在住の赤嶺“フー”さんに感謝。

2015年 アイルランドの旅 11

7月6日、今晩のメインイベントは教会でのコンサートだ。これも2012年から僕らは出演しているが、トータルで6年目ということなので、ほぼ準レギュラーとも言えるだろうか。

僕らもここで数多くのトラッド・ミュージシャンを聴いて来た。一緒に演奏もしてきた。

それはパブでのセッションとは全く違うかたちだ。

今日は1部を若手の3人。パイプとアコーディオンとハープだ。さすがに、ここに出演する人達は本物のトラッド・ミュージシャン。

楽曲の説明に関しても、演奏に関しても筋が通っている。

こんな若者達が国中あちらこちらにいて、みんなが古い録音に耳を傾け、歴史をきちんと学び、真面目に取り組んでいるのだ。

そんな音楽を勘違いイベントにしてはいけない、と心から思う。それは決して安物のこだわりではない。

こういうところで彼らのようなミュージシャンの演奏に触れ、なおかつ世界中のいたるところから来ている人達にこの音楽を紹介するには、それ相当の覚悟が必要になってくる。

僕らが演奏した曲目は、Fear A’ Bhata / Two Days To Go / Once In A Blue Moose これらは1曲目がスコットランドの古い美しい歌。作者は…これがなかなか読めないのだが、Sine NicFhionnlaigh(Jean Finlayson)19世紀の終わり頃のもの。訳すとボート・マン。何故僕が英語に訳しているんだろう、言って笑いを誘う。そのまま続けたのはDiarmaid Moynihanの曲からNiall Vallelyの曲だと説明を加える。

そして、Kitty O’Neill’s Champion Jig これは別名Kitty O’Sheaと言って…これから先は僕がアイリッシュ・ミュージックその91で書いた説明をする。

その後は日本の古い歌と言って「外山節」でクロス・カルチャーを楽しんでもらう。

アメリカから来ている人も数多くいて(昨夜は20人ほどもいただろうか)次はDry And Dusty / Indian Ate The Woodchuckでオールド・タイミー、Foggy Mt. Breakdownでブルーグラス。

コンサーティナでAnna Foxe医学部の学生時代に手に入れて忙しすぎて全然練習する暇がなく、またいつものホスト、コーマック・ベグリーがいたらなかなか弾こうとは思わないけど、今日はいないから弾いちゃいます、と言ってまた笑いを取る。

最後はThrough The Wood /Mamma’s Petで静かに終わる。そしておなじみ、Emma Sullivanによるダンスの伴奏でTrip to Durrowを。

彼女も言っていた。ダンサーズはしっかりと曲を覚えないといけない、と。やっぱり軽い気持ちでは取り組めない音楽だ。

このTune In The Churchに出演するためにはこれからも研究を怠ってはいけないようだ。

2015年 アイルランドの旅 10

今日は珍しいものを見た。

ことの発端は、買い物の帰り、死んだカモメの子供らしきものを見つけたことだ。

かわいそうに。車にはねられたのかな、と思ったが、そんなに激しい損傷もなく、また、歩道の上だったのでどうしたのかな、と気になっていた。

そこから数メートル歩いて来たら今度は全く同じくらいの、やっぱりカモメの子供らしき鳥が、ある家のドアにさしかかる階段のところで右往左往している。

見たところ飛べそうにない。怪我をしているのではなく、まだ飛べそうではないのだ。

このままでは他の動物に襲われるかも…もしかしたらさっきのもそれが原因だったのかもしれない。

もう少し歩けば仲間が一杯いる川縁に着くのだが、子供のカモメには遠すぎるし、車もかなり走っているので危険だ。

僕らは「さて、どうしたもんだろう」と、ちょっかいを出しながら通りに出てこないようになんとか道をふさいでみた。

しかしこのままではラチがあかない。

10分ほど困っていたところに、スペイン語を話す3人の女性が(一人は子供)歩いて来てすぐ状況を察知すると、どこかに電話をかけた。

なんでも友人が動物のレスキューに関する仕事をしている、と言う。だが、電話が通じないといい、そのうちの2人がちょっと行ってくる、と川縁の方まで歩いて行った。

残った一人が「今、レスキューを連れてくるから。親はいないのかしら」と言いながらあたりを見回して「心配しなくても必ず助かるから」とにこやかに話す。

それから10分ほどしてさっきの2人がもうひとりの女性を連れて帰って来た。どうやらその人が彼らの友人のレスキュー隊員らしい。

そして、ものの見事に持って来たコートのようなもので、サット包んでニコニコしながら「これで大丈夫。みんなありがとう」と言いながら去って行った。

クリント・イーストウッドか、古くはアラン・ラッドの後ろ姿を見る思いだった。

何はともあれ、素晴らしい仕事だな、と感激した一日だった。

2015年 アイルランドの旅 9

コーマックから電話が入った。

急で悪いけど、教会で少しだけ演奏してくれ、と言う。(って言うじゃな〜い、って言う奴いたなぁ。)

こちらも特に用事はなく、ちょうどいいので即OKの返事をした。

なんでも今日演奏するロレイン・オブライエンがコンサーティナだし、自分もコンサーティナだから、少し違うスパイスが欲しいという事だ。

彼女はクレア・スタイルのとてもいい奏者だ。

今はドニゴールにいる、って言ってたかな。キュートなカーリーの金髪、それにかわいい声で喋る人懐っこい子だ。

まずコーマックがいつものように、アイリッシュ・トラッドについて、また、コンサーティナについての解説と演奏を20分ほど。

それから僕らが15分ほどやって、エマのダンスの伴奏をして1部終了。

2部では落ち着いたスタイルの、いかにもクレアーという響きのコンサーティナ・プレイがふんだんに楽しめた。

終わって後片付けをして外に出たら、3人の男女が歩いて来てそのうちの男一人が「ジュンジ!」と叫んだ。

誰だったかな。見た事があるような気がする。

相手も「俺、誰だか分かる?前はヒゲがなかったんだ」と言うので、彼の顔をじっと見た。

「あっ。コーマック。コーマック・ギャノン」「そうだよ。久しぶり。よくわかったなぁ」

彼はサン・フランシスコの“ギャスメン”という6〜7人編成のバンドでバウロンを叩いていた人だ。

屋根の修理を本職にしている人で、時々一緒に演奏もしたことがあるし、よく話もしたものだ。

実家がこちらにあるので夏には必ず帰ってきている、という。今まで会わなかったのが不思議だが、ここでバッタリ出会ったことも不思議だ。

それに、教会の後片付けもいつもより時間がかかり、済んでからも少しのあいだ立ち話をしていたので、そのタイミングで外に出た、というのも微妙なことだ。

彼らもパブで飲んでいて、出て来たら僕らを見つけた、という。

やっぱりここに来ると多くの再会がある。

ゴルウェイの様々な状況に感謝だ。

2015年 アイルランドの旅 8

7月に入って少し暖かくなってきたようだ。それにしても一日のうちにあまりに天気が変わりすぎる。

一番困るのは洗濯物だ。乾燥機のないところでは外に干す事になるが、こちらでよく見かける光景は、雨の中で洗濯物がはためいている、というもの。

どうせすぐに止むし、入れてまた出して、は面倒だと考えるのだろうか。

アンドリューの裏庭でもよく、天気雨のなかで洗濯物がはためいていた。それでもあわてないのはひとえに国民性なのだろうか。

彼らがスーパーマーケットで走ったりする姿は見た事が無い。レジでのろのろしている人に文句も言わず、じっと待っている。

よく観察していると、大量の買い物をまず何分もかけて自分の袋に詰めてから、おもむろに値段をみて、それから財布を探し、やっと出て来た財布の中の小銭から勘定し、やっとのことで支払いを済ませる。

レジの人も決して急いでくれという表情をみせない。そんなことをしてもらっても自分の給料は変わらないから、だろうか。

いったいなにを考えているんだろう。おそらくなにも考えていないんだろう。それでも待っている人は嫌な顔もせず(なかにはいいかげんにしろ、という顔をしている人もいるが)ほとんどの人は気長に待つ。

日本にもたまにそんな人もいるが、アメリカでもアイルランドでも圧倒的に多いようだ。

自分があんまり急ぎ過ぎなんだろうな、と反省もするが、同じようにはできない。

洗濯物も入れたり出したり、どうすれば事は早く済むか、などいつも考えてしまっている。

思えば、そのほうが人生は短いのかも知れない。常に自分の中では30分先、1時間先が気になっているのだ。

その予定が狂うと、ことによってはパニックになったりするが、結局たいした違いは無いのかも知れない。

もう少し落ち着いた方が長い人生が送れることは確かだ。気分的に。

今日は晴れ。でもこんな日に限って後からまた雨が降る。洗濯物、どうしようかな…。

2015年 アイルランドの旅 7

今日から7月。日本で大変な事件が起きたことを昨日知った。新幹線でのことだ。5分おきくらいにやってくる新幹線はとても気軽で(ちょっと高いとは思っているが)安全なのに、これからが心配だ。

こんな事がおきると、自分の身の安全をいくら考慮してもどうしようもない、ということを再認識せざるを得ない。

こちらではフランスに熱波、というニュースがあった。そしてそれがアイルランドにもやってくる、ということでみんなびびっているが、その気温の予想がたかだか25℃くらい、と言っているので驚きだ。

そんなことではとても日本では暮らせない。

日本ではもう夏休みに入っているんだっけ。あれ、学生の頃の夏休みっていつからだっけ。

高校時代だってもう50年も前の事。忘れてしまっている。

50年って結構な時の流れだ。

そのむかし、まだ20歳そこそこだった進藤さとひこ君が僕と省悟を前にして「ねぇ、聞いてくださいよ。このあいだ30過ぎのおっさんが…あ、いや、おにいさまが…」と言っていたが、そんな彼も、もう50うん歳。

僕にしても60歳越えた自分なんて想像できなかったものだ。

今年もあと半年。どんなことが待っているだろうか。

そういえば、アイルランド人には来年の話をしても無駄らしい。日本でも来年の話をすると鬼が笑う、というが、この仕事では来年のこともある程度決めておかなくてはならない。

こちらでは“一応頭には入れておくけど詳しい事はもう少し近づいてから。でないと忘れるから”というような感じだろう。

大体“メモする”ということが苦手な人達らしい。

そんなアイルランド人を相手にしているのでやっかいなことも多いが、なかなかに面白い。

今、希花さんに「高校生のころはいつから夏休みだった?」と聞いたら「忘れた」という返事が返ってきた。

こちらもだいぶアイルランド化してきたようだ。

2015年 アイルランドの旅 6

月曜のお昼過ぎ、パディが無事荷物を引き上げて、ダブリンに戻って行った。木曜日にはまたこちらに出てくるので、どこかで飲もうぜ、とこわいことを言ってご機嫌さんですっ飛ばして消えて行ったが、また嵐のような数日間になるのだろう。

さて、今日で6月も最後。去年もここで「一年の半分が過ぎてゆく」と書いたはずだ。

今年は7月に入ると、やっぱり教会での演奏が増えてくる。コーマックからの要請でラインアップされていない日もいくつか空けておいてくれ、ということだ。

そういえばショーン・ギャビンからも連絡があった。またいっぱい飲まされるのだろうか。

それでも上質なセッションには是非参加したいものだ。

ところでもうひとつ“そういえば”。

昨夜バッタリ出会った奴がいる。15年にもなるだろうか。デイナの友達で僕も良く知っていたコルムというシンガーだ。

元々サン・フランシスコにいたが、今はニューヨークに住んでいてバケーションでゴルウェイに立ち寄って、偶然僕を見つけたようだ。

「確かデイナもこの辺に来ているよ。ミルタウン・マルベイに行くっていっていたから」と教えてくれた。

もし会えたらおもしろい。ここに来て、道でバッタリ、セッションでバッタリという再会がいっぱいある。

お互い連絡を取り合って、というのとはまた違った趣がある。

2015年 アイルランドの旅 5

パディが、そこの角にいる、とメールしてきた。結局ダブリンからすっ飛ばして来たようだ。

今後の事等を話しながらコーヒーを飲み、食事をしてから少しセッションでものぞいてみるか、ということになりパブに出かける。

ジョニー・リンゴやブライアン・マグラー、ミック・ニーリーのご機嫌なセッションに僕らは加わり、パディは飲み始めた。

飲み出したら止まらない。もうパイプは置きっぱなしであっちへフラフラこっちへフラフラ。

フィドラーのトミー・マッカーシーがパディと会うためにやってきた。そして新たに飲み始める。

どうやら今日は彼の家に泊まるらしいが、荷物は僕の部屋に置いてある。必要な物は歯ブラシくらいだけど、明日取りにいくよ、と言っていたが、朝起きて「僕の荷物がない???」なんて言いそう。パソコンも入っているのに。

これが、昨日(6月28日)一日のできごと。

相変わらず嵐のような男だ。何時頃荷物を取りにくるだろうか。ここにあるよ、と電話してあげた方がいいだろうか。

まだ朝早いしもう少し寝かせておこう。

2015年 アイルランドの旅 4

日曜日。いい天気だ。今日はパディ・キーナンが会いにくると言っていたが、遠路はるばるなのか、近場から来るのかよくわからないので、時間もわからない。

アンドリューもそうだが、彼らには予定などあってないようなものだ。いや、予定はあくまで「予」なのだから狂うこともあって当然なのかも。A型の僕にとっては時として非常に難解(ホークス)な感覚に陥る事がある。が、しかし、僕にもO型の血がはいっているらしく、甚だ気楽に考える時もある。

こんなことを書くと、決まって「血液型なんて気にするのは日本人だけですよ」と、上から目線で述べる人が出てくるが、そんなこと百も承知。環境や経験も加味される事など百も、いや、千も承知だ。

今日は腕立て伏せを百回やりました、などと言うと、必ず「いや、回数は問題ではない」と言う人が出てくるが、そういった場合は単なる目安と考えているだけで、決して百回やったから素晴らしいと思っているわけではない。

何の話からこうなったんだろう。そうか、一般的アイルランド人の事か。いや、彼らミュージシャンは一般的アイルランド人ともかけ離れているのだろう。

ところで、今日は足の不自由な鳥とロビンがなかよくパンを食べている。そこにロビンの子供らしいのも現れた。とびきり小さくてちょんちょん跳ねている。

この鳥たちにもアイルランド気質というものが備わっているのだろうか。この鳥たちもアイリッシュ・ミュージックを聴いて育っているのだろうか。

話は急に変わって、最近特に思うのだが、僕がタイトルやレパートリーにこだわるのは、この音楽に対する敬意なのだ。

かたくなにトラッドにこだわったり、新しいものを拒絶したりするわけではない。

クラシックの時期も含めて音楽との付き合いも60年を越えた。バッハに憧れ、ナルシソ・イエペスに聴き入り、ラジオで50年代のポップスに照準を合わせ、フォークソングと出会い、ブルーグラスに真剣に取り組み、そのかたわらビリー・ホリデイに耳を傾け、ブルースにのめり込み、いいな、と思うものには見境も無く傾倒してきた。

そんな中で自分が生きてゆく道として何故か深く関わりを持ったのがアイリッシュ・ミュージックだ。

僕らのこの音楽に関しての知識なんて微々たるものだ。こうでなければいけない、などと思ったところで屁のつっぱりにもならない。

が、やはり大切に思い、敬意を忘れてはいけないことは確かだ。少なくとも僕にとっては。

それを単なるこだわり、とみるかどうかは個人の自由だが。

 

2015年 アイルランドの旅 3

今年も鳥達がやってくるかな、と思い、パンを裏庭にまいてみた。もうあれから1年。鳥は3歩歩いたら忘れる、という話もあるので、とりあえずまいておけばまた新しい奴がきて食べるだろう、と思っていた。

が、驚いた事に去年良く来ていた足の不自由な鳥が来て食べていた。それから間もなくしてロビンも来たが、こちらは同じ奴かどうか分からない。

明日、もしかしたらパディがゴルウェイにやってくる。

どうやらフランキーにも明日か明後日には会えそうだ。

ま、なんと言ってもアイリッシュ。仕事ならなんとか時間通り、とはいかなくても約束は約束だが、かるーく会おうか、ということは実現するかどうかわからない。

こっちも気長にいくのがいちばん。

鳥達でも眺めてのんびり行ってみよう。

2015年 アイルランドの旅 2

昨日(26日)アイルランドの国営放送RTEラジオで僕らのCDが流れた。これは決してサプライズではなかったが。

去年、コークで演奏した時に出会ったケビンという人物がCDを欲しい、とメールしてきたのだ。

商売が成立した後、彼から長いメールをいただき、その中にラジオ局に持って行く、というくだりがあった。

そして、26日に1トラック流れる、と言ってきたのだ。その日ならゴルウェイにいる、と返事しておいた。

ところが、ゲール語の放送だ。かろうじて聞き取れるのは知っている人物の名前くらい。

ハリー・ブラッドリーの歯切れのいいフルート演奏が流れ、ジョン・マクシェリーのパイプがモダンなサウンドを作り出している。

そしていよいよ僕らの番だ。名前を言っているのはわかる。トラックは2番目の「Anna Foxe」

と同時にあちらこちらからメールや電話がきた。

「聴いてる?」コーマック・ベグリーが最初だったので「うん・聴いてる。でも何言ってるのかサッパリ分からない」とメールしたら「彼はすごく気に入って今週中にでも別なトラックをかける、と言っている」と翻訳してくれた。

そんなこんなで一日がまた過ぎてゆくが、やっぱり楽器がよく鳴る。建物の造りと空気の乾燥具合だ。

しかし、一日のうちに少なくとも1回は雨が降るのが日常茶飯事。不思議だ。

相変わらず寒い。

2015年 アイルランドの旅 1

6月23日、アブダビ空港。どこもかしこも全く見当のつかない文字が並んでいる。

素朴な疑問。この国で言う「達筆」と、そうでない人の違いはあるのだろうか?だとしたら是非それを見てみたいものだ。僕らでも見て分かるのだろうか。

希花さんも同じ事を考えていたと言うから、日本人の多くは考える事なんだろう。

外はかなり暑いようだが、その分空港内は結構寒い。見るからにインド系やアラブ系の人が多い。そして、その多くは頭からすっぽり毛布をかぶって休んでいる。

やっぱり寒さには弱いのかも。

長い待ち時間を経てダブリンに着いた。長い待ち時間とは言っても、見るもの聞くものが全て珍しく、あまり退屈しなかったことは幸いである。

ダブリンは例によって「晴れ」どうやら先ほどまで雨模様だったようだ。

ここで友人のジョンと会うことになっている。

彼はダブリン生まれのオーストラリア人で、アコーディオン奏者だ。本職はいろんな会社を立ち上げてきたバリバリのエリート・ビジネスマン。

彼のいとこでオールドタイムのバンジョー弾き、ビルと一緒にホース岬のシーフードレストランで食事。

バンジョー談義、そしてアイリッシュ・ミュージック談義に大いに花が咲き、初日が過ぎて行く。10時にもなるのに、日本の夕方くらい。

これじゃみんな今から飲みにいくなぁ。だが、彼らもある程度の歳だし、ほとんど普段から飲まない、というので疲れている我々としてはラッキーだった。

たいした時差ぼけも無く、ゴルウェイに向かう。

きっと11時くらいまで彼らと食事や話に夢中になったことが良かったんだろう。でなければ、着いたとたんにバタン。気がついたら夜。今度は寝ようと思っても眠れない。という悪循環になったのだろう。

そうそう。ダブリンを出るときには、空が厚い雲で覆われていたし、途中、かなり激しい雨がバスの窓を叩いていた。

しかし、ゴルウェイに着くと、これまた快晴。先ずは上々。気温は12〜3℃くらいだろうか。

とりあえず、ここでしばらくゆっくりする。

アイリッシュ・ミュージックと我夢土下座

今年もまた、アイルランド行きが近付いてきた。ゴルウェイの教会でのトラッド・コンサートと、イデル・フォックスとのフィークルでのコンサートが今年のメインだ。

行って色々な人に連絡を取れば演奏の機会はまだまだ増えるだろう。

だが、それよりもなによりも、自然に音楽を奏でることの大切さを身をもって体験できるいつもの夏。そこに価値があるのだ。

フランキーとパディもちょうどその頃はアイルランドにいるし、アンドリューは相変わらずだし、ブレンダンも突然顔を出すだろう。

テリーとコーマックは希花のコンサルティーナ仲間になりつつあるし、マット・クラニッチも手ぐすね引いて待っている。

さて、ここ最近、1971年からずっと一緒に山登りや、川下りや、野球、そして音楽をやってきた我夢土下座との音楽会をやったり、残念ながら他界してしまった笠木氏の歌を唄ってきたりして、更に僕たちのアイリッシュ・ミュージックも力強くなってきたような気もする。

面白いものだ。やっぱりどちらも生活の匂い、人々の心の叫びが音楽になっているんだ、とつくづく感じる。

僕は以前から我夢土下座が大好きだった。そして、ケリーの断崖絶壁から大西洋をながめ、ブレンダンの歌を聴いていたとき、笠木透や我夢土下座を想い出していたのだ。

それは決してイベントもののようなアイリッシュ・ミュージックではなく、人々の歌、そして人々の音楽なのだ。

希花は未だに自分のスタイルを模索しているし、この音楽が20年や30年の経験で語れるような音楽ではないことをよく理解している。

本当はもっと軽い気持ちで楽しめればいい。軽い気持ちで「こんなに楽しいものですよ」と他人に教えてあげられたらいい。軽い気持ちで「今日ライブやりまーす」なんて言えたらいい。

それにしても、他人からお金をいただくのは苦しいことだ。その苦しみの中のほんのちょっぴりの楽しみのために100%の努力をするものだ。そしてそのほんのちょっぴりの楽しみはまた次の苦しみへと発展してゆくのだ。

トラッドを謳って楽しいだけでは、それは一種のお遊びだ。お遊びで他人様からお金をいただくわけにはいかない。

希花は、ここ数年アイルランドで人々の生活の中に溶け込み、一流演奏家の下を訪ね、また、かれらとのステージを経験し、多くのセッションホストをこなし、その上、真の意味でのフォーク・ソングを体験している。

アイリッシュ・ミュージックを演奏しながら、ジョセフ・スペンスやロバート・ジョンソン、スティービー・レイ・ヴァーンを聴き、ブルーグラス・ボーイズを聴き、果ては我夢土下座とまで共演させられてしまう。そこが大きくプラスになっているだろうし、未だに模索をする原動力ともなっているのだろう。

僕もフォーク・ミュージックに関わって50年。未だに模索は続いている。

アイルランドに行く前に本物のフォーク・ソングと再会したことはアイリッシュ・ミュージックをもう一度考えるいい機会になったのかもしれない。

帰ってきてから、またいろんな話ができるといいな。

レコーディング

今、新たなレコーディングに取り掛かっております。

Mareka&Junjiとしての4作目。

勿論、その前に伝説のバンド「Eire Japan」が発売になります。こちらは10月末のツァーに向けての発売。

70年代、80年代に世界中のアイリッシュ・ミュージック・ファンを虜にした2人と90年代のアイリッシュ・ミュージック・シーンで最高のギタリストと評された僕とのトリオ。

今回は内藤も少しではありますが参加しております。

常に時代を意識し、様々な音楽に溶け込んできた彼等ですが、そのうえで、本当の意味でのトラッド・アイリッシュ・ミュージックを演奏できる稀有な存在です。

内藤にとっても未知の世界であったかもしれません。しかしながら、彼らが認めるまでのフィドラーになってきたことは間違いありません。

いわゆる「もの珍しさ」や「人情」では、こと音楽に関しては妥協しない彼等です。

ツァー共々お楽しみください。

話をMareka&Junji4作目に戻します。

アルバム・タイトルは密かに決めていますが、どう変わるか分からないので、まだ伏せておきます。

今のところ2曲の黒人霊歌を含むアイリッシュ・チューンの数々。フィドル、ギター、バンジョー、ハープ、コンサルティーナといういつもの楽器に加え、今回はマンドリンとビオラ、そして12弦ギターをふんだんに使用しました。

音の厚みもかなりあると思います。

しかしながら、またアイルランドで新しいアイデアが浮かぶことも想定内です。なので、まだまだ未完成ともいえますが、12月頃の発売を目指しております。

ロストシティ・キャッツとの再会

  時は2015年、5月9日。今富君のお店、オッピドムにて、もう40年ぶりにもなるだろうか。彼等との再会を果たした。

 まず、ベースの伊藤君が、かなり酔っていたが深々とお辞儀をして出迎えてくれ、お互い元気で生きていることを確認。

 もう本当に40年ほどの月日が流れてしまっているのだ。

次にフィドルの森繁君。確か、くしゃくしゃのカーリーヘアーに口髭、といういで立ちだったと記憶していたが、今ではすっきりとした風貌になっていた。

次にバンジョーの稲井田君。熱くバンジョーについて語り続ける彼は、きっと昔から大好きなバンジョーを片時も離さなかったんだろうな。

そして、今回最も昔のイメージを保っていたマンドリンの井沢君。この4人と我らが敬愛して止まないリードボーカルの今富君。

まぎれもなくロストシティ・キャッツだ。少しだけだったが往年の力強いサウンドも聴くことができた。

1年に1回くらいは集まっているらしいが、今日、僕もここに来ることができて良かった。本当に心からキャッツに乾杯だ。

同じ日、夜からナターシャー・ナイトというのがあって、ナターシャー・セブンの歌を中心に歌うグループが集まった。

皆さんの名前全てが分からないので申し訳ないが、みんなそれぞれに素晴らしい歌と演奏を聴かせてくれて本当に嬉しかった。

この日、なんだか訳もわからず付いてきた希花さん。お疲れ様。

アイリッシュセッション

  今まで数多くのセッションを経験してきた。勿論ブルーグラスもだが、こちらの方は大体ジャムと云われるように、それぞれが腕前や感性を披露するような成り立ちだ。

 ここではアイリッシュのセッションについて書いてみる。

まず、僕の場合はサンフランシスコのプラウ・アンド・スターズのセッションがこの音楽に関わる最初の扉だった。

日曜から木曜まで毎夜行われるセッション。様々なホストが登場していたが、なんといっても地元の老舗バンド、ティプシー・ハウスのセッションは、30人ほどの人が集まり、ぴりぴりした緊張感一杯の上質のセッションだった。

僕もそんな中で若きアンドリュー・マクナマラと出会ったわけだ。やがて、ティプシー・ハウスのメンバーになった僕は日曜と水曜にはセッションホストとして、たまに月曜、火曜には他のメンバーとのセッションホストとして、木曜にはセット・ダンスのミュージシャンとして、金曜か土曜にはステージで、というような毎日をすごすようになった。

セッションをしているといろんな人に会う。グレイ・ラーソンがひょっこり現れたり、クレイ・バックナーもやってきたし。トニー・ファータードも。ピーター・モロイ、チャーリー・レノンなどが顔を出したりすることもあった。

フェスティバルの後は名うてのミュージシャンが大挙押し寄せるし、そんななかで自分なりに腕を磨いていくのだ。

パディ・キーナンやルナサのメンバーと親交を深めたのもそんなセッションに於ける出会いが始まりだった。

セッションでは曲を注意深く聴いて、聴いて聴きまくって、タイトルを訊ねたり、その曲の謂れを聞いたりしながら曲を覚えていき、リズムを叩き込んでいく。

ブルーグラスのプレイヤーが来ると悲惨なことになるのは、以前ジャズ・ギタリストがブルースのセッションに行ったら「帰れ」と云われた、という経験談によく似ている。

彼はアメリカ在住の素晴らしい日本人ジャズ・ギタリストだったが、黒人街のディープなブルース・セッションではそのテクニックは受け入れてもらえなかったようだ。心で弾くことの大切さを教わったよ、と言っていた彼はやっぱりいい音楽家だ。

アイリッシュのセッションでそこまで露骨ではないにせよ、曲をきちんと知らなければ険悪なムードになることがよくあった。いや、充分露骨な態度を取る人も沢山知っているが、みんな根はいいやつだ。

僕にしても、明らかに合わないコードなどを雰囲気だけで弾かれたら、その場から逃れたくなるし、露骨にやめろ!と…云わないが態度で示す時がある。

弾き始めたプレイヤーを制止してその曲のそのパートはこうだ!と言って自分で新たに始めてしまうやつもいる。

確かにセッションはみんなで楽しむものではあるが、そこには最低限のルールと礼儀が必要なセッションも存在する。

 そこをきちんと把握しておかないと、アイルランドでのセッションホストも務まらないだろう。

スタンダードな名曲は少なくとも数百知らないと務まらないし、タイトルを訊かれることもあるので、知らない、忘れた、ではまずい。

ボケている暇はないくらいに、いつもいつも考えていなければいけない。

ティプシー・ハウスのリーダーであるジャック・ギルダーは僕をギタリストに抱えてから、自分の和音感覚に合う人間がやっと現れた、と感じ、次から次へと曲を出してきた。

嫌われようが文句を言われようが、自分がホストのセッションでは自分の納得のいくセットを組み立て、納得のいくかたちで進めていく。

勿論彼は以前から、自宅でも一人こつこつと練習しているようなタイプだったのだが、やはりそんな彼とのセッション三昧が今の僕にもかなり影響を与えている。

しかし、いくら考えてもアイリッシュのセッションというのは独特だ。

Ry Cooder

久しぶりにライ・クーダーをいっぱい聴いた。彼についてはもう、沢山の人達が山ほどの情報を提供してくれているので、今更何も云うことはない。それに僕は彼の追従者でもないし、適当なことも言えない。

だが、結構早いうちから注目していたミュージシャンであることは事実だ。最初のアルバムがリリースされたのが1971年の12月ということだが、その頃すでに手に入れて聴いていた、と記憶している。

何故購入したかはよく覚えていない。ジャケ買い、というほどでもないし…。でも聴いてしびれたことは確かだ。

スライド・ギターの響きや、独特の唄、そのスタイル全てがオールドタイム、ブルースを越えてすでに彼独自の音楽だった。

そして、彼を通してブルース・マンドリンのヤンク・レイチェルを聴き、ジョセフ・スペンスなども聴き始めた。テックス・メックスにも憧れた。

フラコ・ヒメネスのアコーディオンにもしびれたし、グレート・アメリカン・ミュージック・ホールのライブ盤は擦り切れるほど聴き入ったものだ。

それにチャンプルーズの大ヒット曲で聴くことが出来るスライド・ギターにも涙がでるほど感激したものだ。

いろいろ調べてみるとアフリカのマリ出身のミュージシャン、アリ・ファルカ・トゥーレとのアルバムが出てきたが、アリはしばしばブバカル・トラオレと一緒に演奏している。

このブバカルという人。実は僕はカナダで一緒にステージに上がったことがあるのだ。その時はデビッド・リンドレーも一緒だった。リンドレーはライ・クーダーともつながりが深い。

ともかく、ブバカルはフランス語しか通じないので通訳がいろいろ僕に説明してくれた。そして、僕の横でほとんど眠るようなスタイルでギターを弾いていた。彼の連れてきたアフリカン・ドラムの人、それにリンドレーと一緒にやっているワリー・イングラム、ティム・オブライエン、ダーク・パウエル、パディ・キーナンやニーブ・パーソンズもステージ上にいて、もうぐちゃぐちゃだったが。

そう、そこでほとんど眠っていたかと思ったブバカルは、自分の出番が来るとAminorだけで何万人もの人を踊り狂わせた。まるで三上寛だ。違うか…。

そんなこともライ・クーダーを聴いていて思い出したのだが、またしばらく彼の音楽が頭から離れそうにない。

Irish Music その90

O’Mahoney’s/Swallow’s Tail     Reel

  • O’Mahoney’s

“アコーディオン奏者のMartin Mulhaireが1950年代に彼の奥さんCarmel Mahoneyのために書いた、と云われる曲。MahoneyともO’Mahoneyとも、また、作者が付けた最初のタイトルはCarmel O’Mahoneyだった、とも云われている。なにはともあれとても美しい4パートのリール。Breda Smythと一緒によく演奏したが、彼女のホイッスル演奏は耳を疑うほどに素晴らしい。2000年頃、僕が日本に連れてきて、宵宵山コンサートなどで演奏したので、その時聴いた人もいるかもしれない”

 

  • Swallow’s Tail

“最初の頃、教則本で覚えたものだが、Dervishのバージョンとは違うものだった。勿論最初は91年なので、まだ彼らの存在は知らなかった頃だ。彼等自体もまだ形になり始めた頃と言っていいだろう。とに角彼らのバージョンはキーナン・ファミリーがやっていた、トラベラーズ・バージョン、しかもパディのお父さんのバージョンということなのでおもしろい。そして、僕が最初に覚えたバージョンで演奏する人は今ではほとんど聴かない”

 

This is My Love, Do You Like Her?/I Ne’er Shall Wean Her   Jig

  • This is My Love, Do You Like Her?

“有名な曲だが、スライドとして紹介される場合もある。それにI Lost My Love And Care Notという1950年代に録音されている曲はほとんどこれと一緒だと考えられる”

  • I Ne’er Shall Wean Her

“いいメロデイの曲だ。様々なキーで演奏されているが、キーが違うとタイトルが若干変わったりするから面白い。I Shell Ne’er Wean Her となったり。その辺の詳しい事情は分からない”

友あり、またまた遠方より来たる

  サンホセに住む友人のK君がやってきた。去年の僕のバースデー・コンサート以来なので、そんなに長いこと会っていなかったわけではないが、彼が帰国すると大体会うことにしている。

初めて彼と会ったのは、サンタ・クルーズにルナサのコンサートを聴きに行った時のことだと記憶しているが…。

後で彼に尋ねたら、それ以前にプラウ&スターズで会っているそうだ。記憶と云うものもあてにならない。

とに角、それ以来ケルティック・フェスティバルに同行してもらったり、いろいろないい音楽の情報をいただいたりしている。

彼は30年ほど個人事業として、サンホセでピアノの調律の仕事をしている。それも、かなり有名どころの仕事をこなしているようだ。

チーフタンズやチック・コリア、ボブ・ディラン等々、錚々たる顔ぶれだ。そういえば、「アート・ガーファンクルの時は音楽プロデューサーが、あのエリック・ワイズバーグで、音響のチェックの際、大ヒット曲Dueling Banjoを弾いていたことにいたく感動し、それを本番でもう一度聴けたことは今でも鮮烈に思い出されます」と言っているくらい、大のブルーグラス・ファンでもある。

そんな彼の顧客の一部を紹介してみよう。前出の3アーティストの他に、ディブ・ブルーベック、トニー・ベネット、ブルース・ホーンスビー、ノーラ・ジョーンズ、スティービー・ワンダー、ジョニー・キャッシュ、エバリー・ブラザース、イーグルス、BBキング、レイ・チャールス…。

あまり長くやっているので想い出せない人もいるのかもしれないが、この人たちの縁の下の力持ちとなっている彼の実力が伺われる。

彼と長く付き合っている理由のひとつに、彼の音楽体験の豊富さがある。驚くほどに良く知っている。ロックからクラシックからオールド・タイミーまで。もちろんアイリッシュもだ。それも仕事上、というのではなく本当に様々な音楽が好きなのだ。

実際ブリタニ―・ハスの家のピアノを調律していたこともあり、ジャック・タトルからフィドルを習っていたこともあるので、その辺の人脈もかなり広い。

調律師としての感覚もさることながら、その辺の音楽にも精通しているところがかなり面白い人である。

Irish Music その89

Jackie Coleman’s/Moving Bog/Ships are Sailing     Reel

  • Jackie Coleman’s

Jackie Coleman #1としても知られる名曲。ジャッキーといっても決して瀬戸内寂聴さんのことではない。美しいメロディだ。僕は3小節目にEmを弾くか、G6とするか、いまだに悩んでいる。どちらにしても美しい。Emは非常にまともだが、G6はメロディに対して独特な響きを提供する。結局のところメロディをA A’と考えるとEmを弾いておいて次にD onF#からG6にもっていくのがきれいではないか、という結論に最近行きついた。その逆でもいいが、やっぱり曲の成り立ちから考えるとEm/D onF#/Gという並びの方がいいようだ。Em11th Em11th on Bということも考えられるか。そこまで考えなくてもDADGADという調弦で自然にそんな響きを得ることが出来る。たったひとつのコードでもそこまで考えるのがギタリストの役目だ。自分たちの全てのレパートリーについて、これくらいの考えを持つべきだと思う”

  • Moving Bog

“すでに2回も出てきている。その49と、その53だ。何故か変わっていて頭から離れない曲である。最近聞いた話で、希花さんは初期にMatt Cranitchの教則本で学んだそうだが、ある人が(知人ではないが、その人の文章で)Matt Cranitchのお父さんMichael Cranitchから学んだ、と言っていた。偶然で面白い”

  • Ships are Sailing

“特にこれといって情報はないが、古い曲だ。結構初期に誰もが学ぶ曲のひとつであることは間違いないだろう。シンプルで美しいメロディだ。Drogheda Bay(Co.Louth)というBパートが全く同じ(人によりバリエイションが違う場合も当然ながらある)曲があるが関連性はわからない”

 Drogheda Bay    (Reel

  • Drogheda Bay

“ついでにこの曲についても調べてみたが、AndrewMaryのマクナマラ姉、弟がやっていて、そのままMaids of Galwayという曲に入っているのだが、ほとんど同じ曲みたいだ。これじゃぁ、ついでにこの曲に関しても書かなければならなくなってくるが、そこには別にTie the Ribbonsというそっくりなリール(Aパート、Bパート共に少しだけの違いはあるが)も関わってきてしまうしこの辺にしておこう。とに角かなり古い曲であることは確かだし、多分にフルート・チューンと云えることも確かだ”

Tommy Jarrell そしてSonny Terry & Brownie McGhee

  久しぶりに古いTommy Jarrellの演奏を聴いた。YouTubeであったが、何はともあれ、今は亡き人を今一度見られるのはありがたいことだ。

僕は確か、1984年の夏、ヴァージニアのゲイラックスで彼を見たことがある。亡くなったのが85年の1月ということなので、ほとんど直前と云ってもいいくらいだ。1901年の生まれというからそんなに云うほどの歳ではなかったが、僕にとってはとうとう見てしまった伝説の人物という感じだった。

大きな木の下で数人とジャムを楽しんでいた。誰かが「トミーだ。トミー・ジャレルがいる」と言っていたがそれでなければ気がつかなかったかもしれない。

バンジョー弾きとしても有名な彼はノースカロライナの生まれ。アメリカでも最も南部訛りのきついところと言われる。また、アール・スクラッグスの生まれた州なので、5弦バンジョーの故郷としても知られている。

何はともあれ、トミー・ジャレルの演奏に耳を傾けるのは何年ぶりだろうか。それは常に、マイケル・コールマンやジェイムス・モリソンのプレイに耳を傾けるのと一緒のことだ。出来得る限り自分のルーツとなる音楽の先人たちの演奏を聴く。最も大切なことだ。

そんな意味では、今の世の中ありがたいものだ。

ついでに大好きだったSonny Terry & Brownie McGheeも観てしまった。Sonnyは86年、Brownieは96年に亡くなっている。

彼等のアルバムはよく聴いていた。Midnight SpecialPeople Get Ready今聴いてもとことんかっこいい。

ブルーグラスを演奏しているときも、アイリッシュを演奏するときも、ブルースは意識してしまう。

若いアイリッシュの演奏家である希花さんにもこれを見なくちゃ、と言ってB.B Kingから

Johnny Winterそして今回はTommy JarrellからSonny&Brownieまで無理やり聴かせてしまった。

そうこうしているうちにCurtis Mayfieldまでお気に入りになったようだ。

Irish Music その88

The Plains of Boyle/Cronin’s  (Hornpipe

  • Plains of Boyle

“バンジョープレイにもってこいといわれるホーンパイプだ。初心者向きの曲ともいわれるが、たまに思い出してやってみるとそう悪くない。可愛い曲だ”

  • Cronin’s

Paddy Croninの古い録音で聴けるというが、彼の作かどうかはよくわからない。これもかなり最初の頃に習う曲のひとつかもしれない”

 The Mountain Road        Reel

  • The Mountain Road 

“とてもシンプルで初歩的な曲だが、最近注目すべき情報を手に入れた。あまりにポピュラーな曲なので特に気にかけていなかったが、面白いことに6パートもある、という。(普通は2パートで演奏される)。スライゴーのチャンピオン・フィドラー、Michael Gorman(1895-1970)による録音でそれは聴けるが、この人は有名なCooley’s ですら3パート目を作っている。そしてそれはまた別なタイトルまでつけられている。Put the Cake in the Dresserという。こういうことはよくあり、調べれば調べるほど様々な事柄が浮かび上がってくる。きりがないのだが、この音楽に関わってしまった者の宿命ともいえるだろう。こんなどうでもいいことでも、知っていてこの曲を演奏するか、なにも知らずに演奏するか、その辺は僕にとって大きな違いだ。ひとつの知識として”

 Andy McGann’s    Reel

  • Andy McGann’s

“とてもモダンな、いいメロディのリールだ。これも良く分からないが、実際にはJohn McGrathの曲らしい。が、また別の人はSean Ryanの曲だとも云う。Andy McGannという人も著名な作曲家であるし、McGann #42という曲もあるくらいなので、それ以上のAndy McGann’sがあるのだろう。もうよくわからなくなってきたが、とに角できるだけ沢山の情報は得ておこう”   

Irish Music その87

The Galtee Rangers/Swinging on the Gate/The Green Fields of America

  • The Galtee Rangers

“別名Callaghan’sとして知られているとてもシンプルなメロディのポピュラーな曲だ。こういう曲は長いこと演奏していなかったが、メロディがすぐに思い出されるものだ。細かいところはいろいろな人の演奏を聴いてどれがいちばん自分の記憶に近いか、どれがいちばん道理にかなっているか、などを考える。そして、次の曲につなげていく”   

  • Swinging on the Gate

その42にすでに掲載されているが、前の曲とのつながり具合もなかなか良かったので今回はここで使ってみた”

  • The Green Fields of America

“出処はよくわからないが、古いマイケル・コールマンの録音で聴くことができるし、比較的ブルーグラスやオールドタイムの演奏家にも知られている曲ではないかと思われる。3パートある、という人もいるがまだ聴いたことはない。また、The Maid in the Meadowという曲はこの曲のジグ・バージョンだと言われるが、確かにそうかもしれない。更に同じタイトル、The Maids in the Meadow(複数形だが)というリールもよくやっていたことがあるが、それはまた全然違う曲だ。どうでもいいことかもしれないが、面白い。でも、どうでもいいこととしてスルーしてしまうより知っていた方がいいと僕は思うのだが”

桜、桜、桜 そして櫻井ギター工房 Voyager Guitars

  ちょっとした打ち合わせを兼ねて、修善寺へ出かけた。整体師を本職とする旧友のアルマジロ君のところだ。

畑、山、川、そして桜に囲まれたマイナス・イオン一杯の場所を堪能してきたわけだが、今回の目的のひとつとして、いつもアルマジロ君が主催する会で、音響を担当してくれる櫻井君のギター工房を訪ねる、ということもあった。

伊豆半島のほとんど南端、といっていいだろうか。素晴らしい景色を眺めながら、ちょっとアルマジロ君が道を間違えたが、たどり着いたところは、彼の実家。

素敵な作りの家と彼一人が働いている小さな工場。かなり整然としている。以前彼の作ったギターを見せていただいたが、それはオンリー・ワンを目指す職人の創り出すもの、といって間違いなかった。

四国の塩崎君とはまた違ったコンセプトで、自身の特徴を出すべく試行錯誤していくのも大変だろう。

マーティン・ギターというのはもう不動のものだが、そこを研究し尽くすことに生涯を捧げている、といっても過言ではない塩崎君、そして、自分のスタイルを模索していこうと考える櫻井君。どちらも素晴らしい職人である。

彼が初めて作ってみた、というバイオリンも見せていただいた。それも随分前、彼がギター作りを学ぶためにイギリスに住んでいたときの作品、ということだ。

それはちゃんとしたバイオリンだったが、彼は今ギター作りがメインになっているので、第2号はしばらく作らないだろう。

ただ、まだ32歳という若さである。クラシック・ギターにも挑戦している。僕らには音の違いは分かるが、なかなか内部構造の違いまでは詳しくわからない。

低音は今作っている鉄線のギターからの経験でそれなりの音が作れるが、高音の鳴りがなかなか出せない、と云う。内部の細かいところが微妙に違うのだろう。

ここでもクラシック・ギター制作家のドアを叩き、様々な知識を吸収しているらしい。

非常にもの静かな青年だが、16歳からギター作りを目指し、19歳で単身イギリスに向かうなど、その情熱は大したものだ。

彼のギターはVoyager Guitarという。もうご存知の方も多いだろう。でも、もしまだ見たこと、弾いたことがなかったら、是非楽器フェアなどで手に取って確かめて欲しい。

そして、塩崎君と同じく、彼の人柄というものにも是非ふれて欲しい、と思うのだ。

Voyager Guitar  http://voyagerguitars.tumblr.com/profile

 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

動画配信のお知らせ その2

曲はAnna Foxe.クレアーのアコーディオン奏者ジョセフィン・マーシュの作曲。2013年に希花さんがジョセフィン自身から教えてもらったとても可愛らしい曲だ。

ジョセフィンと僕との出会いは2000年頃。サン・フランシスコ・ケルティック・フェスティバルのハイライト・シーンでミュージック・フロム・クレアーという集いがあった時のことだ。

僕は多くのミュージシャンのアコンパニストを務めた。アンドリュー・マクナマラ&マーテイン・ヘイズとのトリオでも演奏した。メアリー・マクナマラ&キャサリン・マカボイともトリオで。その時にジョセフィンに「あたしたちにも参加して」と頼まれた。メンバーはあとひとり。超絶技巧のマンドリン奏者デクラン・コリーであった。これもトリオで45分のステージを務めた。

それ以来アイルランドを訪れると、必ず声をかけてくれる。そんな中、とあるセッションで彼女が弾いたものを希花さんが習いコンサルティーナでのレパートリーとして加えることになった。

ジョセフィンのセッションには、彼女のその類まれなスタイルのアコーディオン奏法と、誰からも好かれる人柄で多くのミュージシャンが集まる。

なお、この曲は僕らのアルバム「The Rambler」でも録音している。

動画配信のお知らせ

  春もやってきて、それでもやたらと寒かったり急に暖かくなったりと、これからいい季節になる前兆のような今日この頃。

溝の口のコーヒー・ハウス「バードランド」にて、動画を作成しました。藤森さんにも、せっかくのお休みの日、いちにち付き合っていただきました。

撮影はデザイナーの佐谷さん。クエート育ちという変わった人。日本人です。とてもにこやかでやわらかい感じの人なので、出来上がった映像も彼の人柄が感じ取れるものだと思います。

 是非お楽しみください。

M SHIOZAKI Guitar

  その昔、と言っても80年代初期だったろうか。いや、70年代後期だったろうか。とに角、初めてお会いした時、彼(塩崎氏)が手にしていたのは、マーティン・タイプのそれはそれは綺麗なインレイを施したD-45然としたギターだった。

僕と坂庭君が四国ツアーをした時のことだ。

充分注目に値するそのギターを制作したのが彼本人だということを知り、僕らは衝撃を覚えたほどだった。

勿論、当時から様々なギター職人が日本にも存在しただろうし、良い物はさんざん作られてきていたと思うが、これほどまでにマーティン・ギターを再現しているものは、あまり見たことがなかった。

当時、まだ今ほど情報が簡単には手に入りにくく、作り手だけでなく、弾き手も、楽器の細かいところについてはよくわからなかった面がある。

それ以前にはDoc WatsonD-18を持っていれば、比較的安いモデルを買うお金しか無かったんではないか、なんて思ったり、D-21というモデルの存在もよく知らなかった。

D-45は知っていても、D-41のことは全く知らなかったと言っていいだろう。

70年代に様々なギターを見、そしていろんなことが分かってきた80年代初期でも、まだまだ不十分な知識であった。

そんな中にあって決して異色なものを求めるのではなく、ひたすらマーティンを追い続けてきた塩崎氏の熱意は大したものだ。

僕は90年代に入ってマーティン・ギターにほぼ別れを告げた。アイリッシュ・ミュージックとローデン・ギターに出会ったことで。

それは僕がこれから展開していく音楽に最適な“道具”だったからだ。しかしそんな中にあっても機会があるたびに楽器屋さんで、あるいは新聞広告に掲載されているマーティン・ギターを試奏していた。

000-18, 000-28, HD-28, D-18, 00-16など、40年代のものから新しいものまで、中には衝動買いしてしまったものもあった。

当時は多くの手工ギターが世に出始めて、マーティン・ギターの価格も比較的安くなって(感じて)きた頃だった。

だが、それだけではない。やはりマーティン・ギターというのは我が人生の通ってきた大切な道のひとつだったからだろう。

塩崎氏のポスト・マーティン・ギターは僕らの胸を高鳴らせるものだった。シーガルというブランド名で数々の良質のギターを生み出してきた彼は最近、M SHIOZAKIというブランドにネーミングを変更し、奥さんと共に制作を続けている。

彼自身、試行錯誤は繰り返しているだろうが、マーティン・ギターをこよなく愛し、その再現に努める一途の姿勢には頭が下がるばかりだ。

前回の四国ツァーで初めて彼の工房にお邪魔させていただいた。とても大きな立派な工房で「あー、ここでもう何年になるのか、彼はずーっと頑張ってきているんだな」ということをひしひしと感じる場所であった。

彼は過去、僕のために数本のギターを作ってくれた。そのうちの一本は2001年、カナダでステージを共にしたデヴィッド・リンドレ―が「いいギターだなぁ」と言い寄ってきたものだ。

初めて見せていただいた時よりも、また、リンドレーがその存在を認めた時よりも、確実に進歩している彼の作りだす音は、真のマーティン・ギターのノウハウを受け継ぐものとしてこれからもっともっと多くの人に注目されていくことだろう。

そして、なんといっても彼の人柄がいいギターを作りだしている、と言っても過言ではない。

塩崎氏と、彼をサポートし続けている奥さん。お二人の益々のご活躍を願っている。IMG_1895

 

Irish Music その86

 Rathlin Island/Michael Joe Kennedy’s  (Reel

  • Rathlin Island

Josephine Marshのファースト・アルバムから学んだものだが、‘14年のDale Russ来日時、彼もやっていたセットだ。1953年ダブリン生まれのパイパーPeter Browneによって書かれたこの曲、日本ではLunasaの演奏で知られているだろう。またDervishも随分前のアルバムでやっていたかもしれない。北アイルランドBallycastle とスコットランドの間に存在するとても小さな島だ”

  • Michael Joe Kennedy’s

“メロディオン奏者Michael Kennedyによって書かれた曲。希花さん一発入魂のコンサルティーナ・セットだ”

 

The Highlandman who Kissed His Granny/Steeplechase/The Humours of Scarriff/Tone Jacket  Reel

  • Highlandman who Kissed His Granny

“謎多き曲だ。随分昔のスコティッシュ・チューン、それも1760年頃か、とも言われているくらい。その名もRobert Bremner’s Reelと言われるらしいが、O’Neillによると、なんとJolly Sevenと紹介されている、というからもうわけがわからない。確かによく似ているが”

  • Steeplechase

“出処はよくわからないがCarrigalineというタイトルでも良く知られている。この土地名はCo.Corkの2番目に大きい都市として存在する”

  • The Humours of Scarriff

Bothy Bandの演奏でよく知られている。前曲からの繋ぎはTipsy House時代からのものだが、実によくつながっている、と思う。ScarriffCo.Clareに存在する小さな村”

  • Tone Jacket

“作曲者はCo.Corkにある都市 KilnamartyraのフィドラーConnie O’Connellなので、彼のセルフ・タイトルでも知られている。とてもシンプルで可愛らしい曲だ”

 

ローデン・ギターひとり談義

  前回、ローデン・ギターに関して「ローデンにしびれるまで」というレポートを書いた。クラシック・ギターから始まって、国産のどこ製かもわからないギターを質屋で購入したりしながら初めてマーティンD-28を手に入れて…と、60年代、70年代、そして80年代を思いだしてみた。

前回のコラムでは詳しく書かなかったが、ローデンを初めて手にしたのは94年だったかもしれない。

今では存在しないモデルだろうか。スプルース・トップのマホガニー・ボディだった。S-7というラベルが確認できる、ボディの大きい、カッタウェイでないモデルだったが、実に深い低音と、それでいて高音の美しい響きがなんとも言えず豪華なギターだった。因みにこのギターにはピックアップは付けなかった。

記憶ではGryphonというカリフォルニアのパロ・アルトにある楽器屋さんだったと思う。このギターは現在高橋創くんの手元にあるはずだ。

そして、これも恐らくとしかいえないが、それから1年ほどして、ミシガンのエルダリーという楽器屋さんのカタログで中古のローデンLSE-Ⅱという機種を見つけた。

少し小さめのボディが薄く、カッタウェイで、ピックアップ内蔵のモデルだった。しかも破格の値段だった。それも当時だから、ということだが。

僕は現物を見ていないにも関わらず迷うことなく注文した。果たして結果は…ジャカジャン。

そのギターは僕を、アメリカやアイルランドに於けるアイリッシュ・ミュージックのギタリストとして不動の地位へと導いてくれた。

当時、まだジョン・ドイルやドナウ・ヘネシーなどの名前が世に出ていなかった頃、僕はミホー・オドムネィルやザン・マクロード、マーク・サイモス、ダヒ・スプロール、ランダル・ベイズ等のプレイに耳を傾け続けた。

95年の夏にはサンフランシスコのセッションに於ける中心人物として、遠く東海岸、またアイルランドまで名前が知れ渡ってきた。

そこに現れたのがジョン・ヒックスだ。同じタイプのローデン・ギターを縦横無尽に弾きまくっていた。その強烈なキャラクターから生み出される音は未だ健在だ。というよりますます激しくなりつつある。

日本のアイリッシュ、とくにギタリストが彼の存在を認識していない、というのは考えられないことだ。

僕は迷わず彼と交流を図った。彼は自分とは違う僕のスタイルに食いついてきた。そうしてお互いの音楽について語り合い、ツイン・ギターというアイリッシュではあまりないものを楽しんだ。

彼のローデンはシダー・トップでマホガニー・サイド&バックのものだったろうか。そのギターはイタリアでワインを飲み過ぎた後、道で寝ていたらトラックに轢かれてあえなく最期を遂げたそうだ。実に彼らしい。いや、実に彼のギターらしい。今現在は0-32Cを所有しているようだ。

ローデン・ギターとしてはリチャード・トンプソンが弾いていたものも、素晴らしいものだった。

ドナウ・ヘネシーとはよく一緒になったので、大いに語ったものだ。彼はその時点で、すでに5本のローデンを弾き潰した、という噂があったが、それについて確かめるのは忘れていた。

彼の弾き方を見ればそういう都市伝説が生まれるのも納得がいく。

ジョン・ドイルについては、ソーラスを一緒に観ていたスティーブ・クーニーが「あいつは6弦にベースの弦を張っていたけど、いまはどうかな」と言っていた。因みにその時はタカミネをつかっていたようだった。

僕は今現在、LSE-Ⅱ(トップがシトカ・スプルース、サイド&バックがインディアン・ローズウッド)F-32C(シダー・トップ、サイド&バックがマホガニー)O-32C(スプルースとローズウッド)F-32C(スプルースとローズウッド)の4本を所有している。

ローデン・ギターは僕にとってベストではあるが、勿論音の好みやスタイルの好みはある。

ハイポジションの弾き易さのためにはカッタウェイは必須条件だ。ピックアップは内蔵されていればそれに越したことはないが、シダー・トップのF-32には中川イサトさんの紹介で大阪の三木楽器の方に後付していただいた。

後の2本はすべて内蔵されているものだったが、(中古のため元のオーナーが後付したもの)これも購入時に緻密にチェックしないといけない。また、アンダーサドルのものは、各弦のバランス取りが難しい。

僕は必ず後から自分でサドルを作るので、その辺は重要なポイントになる。ローデンのもう一つの選択ポイントは、そのネックの幅だ。ナットのところで45mm。これは僕にとってベストだ。

LSE-Ⅱのネック(S-7も同じく)は45mmだったが、後年ほぼ同じはずのモデルのネック幅が変わってしまった。

これは、ジョージ・ローデン本人が型紙を失ってしまったので、僕の物を彼の工場に送り、彼がそれを基に新たに作ったSE-32というモデルだ。ネック幅は43.5mmに変更されていて、そのわずかな違いが僕にとっては納得のいかないものになった。

きっと、多くのフィンガー・ピッキング・スタイルのギタリスト達から要望があったのかもしれない。

様々なモデルを見たが、今僕が一番気に入っているのはF-32Cということになるだろうか。その大きさ、胴の厚さ、ネックの手触り、表板とサイド&バックの材、全てにおいて完璧と言える。

但し、このモデル、元々ピックアップは付いていないので、付けるか否か、それは自分で選ばなくてはいけなくなるのだが。

他人にとってどうでもいい話ほど長くなりやすいのでこの辺で。

パン派かごはん派か…

 日本食、特にうどんの類を食べると、無性にパン類が食べたくなる。だが、シンプルなお茶漬けも限りなく美味しい。それは明らかに年齢的なものだと、自分でも分かっている。

僕は元来パン派なのだ。ロバのおじさんチンカラリン~♪~

お茶漬けと同じ、シンプルな食パンというのがベストだろうが、総菜パンというのもなかなかに良くできている。

コロッケパン、焼きそばパンはその代表だろう。カレーパンに至っては…!僕より少し上の世代にはメロンパンとアンパンが定番だろう。

僕はメロンパンというものはその良さがよくわからない。アンパンも漉し餡がいいと思うが、つぶ餡でもいい。しかし、餡ドーナツは漉し餡がいい。

と、ここまでくるとなにがなんだか話がまとまらなくなってきた。他人の好みなど、どうでもいいわけで、昨今のネット投稿となんら変わりない。

アイルランドではアンドリュー・マクナマラがいつでも自分で作ったハムサンドくらいしか食べていなかった。自分で作るのは決してそれが好きでやっているわけではない。

安心だし、安上がりだからだ。他人はあまり信用していない。ジャガイモも本物でなければいけないし、海からあがるものは何をたべているか分からない、というのが彼の持論だ。

食べることに時間をかけたくない、という気持ちは僕にもよくわかる。レストランに行ってメニューをよーく見て、ゆっくり食事を、というような感性があまりない。

なのでアンドリューのハムサンドは僕には理解できるのだ。

僕がよく作るのはツナサンド。玉ねぎをみじん切りにして、ツナ缶と黒コショウをふり、マヨネーズをちょっぴりつけて、余裕があればそこにチーズを乗せてトースターで焼くと、ツナメルトの出来上がり。アルファルファがあれば完璧だが日本ではあまり売っていないようだ。

希花さんはツナ缶と玉ねぎだけで食べるらしい。まるで猫だ。曰く「猫は玉ねぎを食べない」そうだ。

とにかく、そんな食事というのが(食事というか、ほとんど非常食)結構好きなのだ。多分レストランでの仕事も経験しているし、外食では、あそこのお客さんが水を欲しがっている、だの、あそこのテーブル、早く片付ければいいのに、だの、そんなことが気になって仕方がないのだ。

そして究極は、これは自分でも簡単に作れる、と思ってしまうことがいけないのだが。

話はそれた。ごはんかパンか、だった。

結局のところ、ごはんにしようと思うと、おかずを考え、味噌汁の具は何にするか考え、白菜でもあれば漬物を作ってみよう、などと考え…そうこうしているうちに、トースト2枚くらいで紅茶でも入れたらそれで満足してしまうところをみると、やっぱりパン派なんだろう。

ここで問題になるのが一日の終わり、そう、晩御飯でもそれでいいか、ということだが、僕の場合それでもいい。

ただしそれが1週間続くと、そのあいだにはご飯を食べたくなるのはやっぱり日本人、という体質がそう感じさせるからだろう。

喫茶店?それともカフェ?

  喫茶店とカフェの違いなんて、百貨店?それともデパート?炉辺焼き?それとも居酒屋?っていうくらいの「世代の違い」程度のことなんだろうか。いやいや、そうでもなさそうだ。

最近、昭和の香り漂う喫茶店がまた話題になっている、という話を聞いた。それでも僕は喫茶店というものには入らない。

最大の理由は、ほとんどの喫茶店とよばれるところが、たばこの匂いと共に成り立っているからだ。

勿論、分煙がきっちりできている喫茶店もあれば、見た感じおしゃれなカフェでも喫煙可というところもある。

しかし理由はそこだけではない。多分、コーヒーいっぱいで何百円も払えない、という考えからだろう。

カフェでも数百円は当たり前だが、どうもそういったところで落ち着いて何時間も過ごしたりすることができない、という性格なのだ。

コーヒーを飲んでいていちばんそれらしい気持になるのは…例えば、長距離バスのバス・ディーポで飲む安いコーヒーだ。

グレイハウンドの、とても綺麗とは言いがたい発着所で、一杯60セントくらいで“なみなみと”入っている美味しくないコーヒーが一番好きだ、と感じることもあった。

大体、ヨーロッパの人のように紅茶やコーヒーを、多少高いお金を出しても楽しむべきだ、と考えてスターバックスのような店がアメリカにも登場した、ということなので、アメリカ人、イコールがぶ飲みコーヒー、というところは確かだ。

本屋さんにもいつでもただで飲めるようにコーヒー・メーカーがセットされているところもあるし、レコーディングスタジオでは、一日過ごせば10杯どころでは済まない。

コーヒーにまつわる話としていつも思い出すのが、多分6歳か7歳くらいの時だと思うが、父親が喫茶店に行くのについて行ったことがある。その時コーヒーというものを初めて見た。

値段を聞いてぶったまげた。確か50円…だったと思う。そんなに高い飲み物があるんだ。それじゃぁ一口だけ、と言って飲んでみてまたぶったまげた。

まずい。世の中でこんなまずいものがあるのだろうか。しかも、こんなものに50円も払うなんて、大人は変わっている。

これが僕の初めてのコーヒー体験だ。そういえば初めてチーズを食べたときは、間違って石鹸を食べたんじゃないかとおもったこともあった。

そして、いつごろからコーヒーなるものを飲むようになったのか、と考えると、やっぱり60年代後半、大学に入ったころからだろうか。

当時ジャズ喫茶というのが京都のあっちこっちにあった。いまでも多少はあるんだろうけど。

暗い空間で、コルトレーンやマイルスを聴きながら、それこそ、漂う煙草の煙の中でほとんど半日過ごしてしまう、なんていう人達もまわりにはずいぶんいた。

僕もブルーグラスをやりながら、たまにはそんなところに行ってウェス・モンゴメリーやジョー・パス、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソンなどに耳を傾けていた。

コーヒーというとそんな生活を想い出す。

だが、今は豆さえ買ってくればいくらでも自分でつくれるし、コンビニなら100円でそこそこ美味しいし、よそでゆっくり座っているより、自分なりのことが出来る自分の空間にいたほうが気楽だ、と思ってしまう。

誰か友人が来て、食事以外で会うとしたら、やっぱりミスタードーナツ?マック?スタバはいつも混んでるし、ドトールは煙草が匂うし、と、そこでもまず、喫茶店という観念は生まれてこない。カフェと名の付くような感じのところだったら行くかもしれない。

どこかしら、カフェというのは明るくて、喫茶店というのは暗い。そんなイメージを持っているのだろうか。

場末の喫茶店、というものはあっても、場末のカフェというものはないかな。しかし最近は場末のカフェというのも、その立地条件にも関わらず、マスターの人柄、こだわりなどからコアなお客さんの寄り集まる場所として多く存在しているようだ。(場末という言葉には少し語弊があるかもしれないが)

60年から70年初頭にかけては、いわゆる「カフェ」というもの(言葉?概念?)はなかったんだろうな。少なくともぼくらの周りには。

冒頭に書いたように、最近また静かなブームを呼んでいるらしい喫茶店。多分に昭和というものが遠い昔になってきた、という証かもしれない。あるいは高齢化社会の証か。

因みに僕はどちらかというと、紅茶。そして紅茶より日本茶だ。静岡生まれのせいかお茶にはかなりうるさい。

でも、季節の変わり目、特に春や秋の早朝、どこからともなくコーヒーのいい香りが漂ってくると、ちょっと飲みたくなってくる。

ひとりバンジョー談義

  Allisonというメーカーのバンジョーのことを調べていたら、Rhode Islandにある、Providence Banjo&Guitarという場所にたどり着いた。どうやら正確にはMichael Allisonという人物らしい。

これは、以前にも書いたかもしれないが、ニュー・ヨークのソーホーあたりで見つけ、そして暫くしてカリフォルニアで手に入れたものだった。

アイルランドのロングフォードにおけるバンジョー・フェスティバルでAlison Brownと一緒になった時、彼女も「あ、アリソンだ。Lがひとつ多いけど」と言っていたものだ。

日本では、彼の有田君が「とてもいいバンジョーですよ」と言っていた。坂庭君もいたく気に入って一時期彼が使っていたこともあった。

あまり一般的ではない楽器のルーツを探ることはとても面白い。

しかしそれはバンジョーに限ったことではない。マンドリンでもギターでも、もちろん、僕らにはあまり縁のない楽器でも、それに携わっている人たちの中には、周りの人には理解できないくらいに調べまわったりする人もいる。

つい先日、ギブソンのAタイプのマンドリンA-4をある人が持っていて、それはなんともいえない音色の素晴らしいものだった。

シリアルナンバーを覚えておいて早速調べてみたが、2番違いのものがあった。どうやら作られたのは1911年。こんなことを事細かに分からせてくれるのだから、すごい時代になったものだ。

僕は随分前にスチュアート・マクドナルドの比較的安価なバンジョーを持っていた。ほとんどキットと呼べるものだったかもしれない。しかしながら結構きれいなインレイが入っているものだった。

正確にはスチュアート・マクドナルド・イーグル・キット・バンジョーだったかな。72年ころだった。今になっていろいろ調べてみても同じものは出てこないが、そのディテイルや外観はほとんどよく似ている。

後年になって、京都の占部さんというギター職人(現在はウクレレ製作家として高名)に4弦のネックを作っていただいて、それを装着していたことがあった。インレイは銀杏の葉っぱの形にしていただいた、かなりきれいなネックだった。

グレイト・レイクスのことはもう既に書いているが、当時(70年代)は本当に手に入りにくいものだった。

価値的に、ということではなく、物があまりなかったからだろう。1977年のマッド・エイカーズ来日の際(だったと記憶している)同行していたビル・キースを無理やり連れ出し、彼のリックを探り出し、様々な話を聞かせてもらった。

そこで本題だけど、と切り出し「あなたの使っているバンジョーは?」と訊いてみると「グレート・レイクス・エリート。手に入れるのは困難だよ。もう作っていないし」という旨の答えがかえってきた。

そして彼のそれは、彼好みのトップ・テンションで異常に重たかった。しかしながら、そのデザイン、ネックのフィット感、サウンド、どれをとっても素晴らしいものだった。

僕は、ほどなくして神戸のある楽器屋さんを通してグレイト・レイクスを手に入れたが、それはビル・キース・スペシャルという、エリートのワンランク下のものだった。トップ・テンションではなかったものの(かえって軽いからその方がいいが)それはそれは素晴らしく、僕のメイン楽器となった。

また、79年にアメリカのバークレーで同じくグレイト・レイクスのオープンバック・モデルであるヴァンガードを見つけた。

因みに、ミシガンの公演で制作者と出会った時、持っていたのはこのバンジョーだ。

80年代に入ると、京都でひとり、グレイト・レイクスNo 5というモデルを手に入れた、当時高校生だった男の子がいたが、彼曰く、ニュー・ヨークかどこかで作られたコピーらしい。もしこれを読んでいたら是非またバンジョー談義に花を咲かせてみたいものだが。

90年代後半になると、坂庭君がちょっと変わったスタイルのグレイト・レイクスを手に入れた。

インレイパターンは明らかにビル・キース・スペシャルだったが、ブラケットがテンション・フープの途中で引っかけるという非常に変わった構造だった。

それによく見ると、インレイもどことなく簡素なものであった。が、しかし、彼は気にしてかビル・キース本人にものを見せて確かめたのだ。

その結果「これは本物だ」という答えが返ってきたそうだ。そしてそのバンジョーは坂庭君亡き後、僕の手元にある。

結局、グレイト・レイクスをまともに見たのはビル・キースのもの、僕のもの、そして坂庭君のもの、京都の彼のものはコピーということで外すとして…それだけだ。

そば派かうどん派か

どうでもいいことかもしれないが、よく、どんぶりものを注文するとセット・メニューで、うどんかそばが付く、というのがある。そんな時、僕は迷わずうどんにする。

そばが嫌いなわけではない。ただ単にそばよりうどんが好きなのだろう。

若いころ、そば屋の前を通りかかるとカツオをふんだんに使った「出汁」のにおいがして、それが苦手だった。

考えてみればうどんも同じかもしれないのだが。

思い起こしてみると、大体、そば、うどんのたぐいはあまり食べなかったのだ。

坂庭君はそば、うどんには眼がなく、どこへ行っても食べていた。大体僕らはほとんど全てにおいて逆だった。

僕は洋菓子、彼は和菓子。僕はパン、彼はそば、うどん。僕はフィンガー・ピッキング、彼はフラット・ピッキング。

話はそれたが、どうもざるそばというのは量が足りない。どこか由緒あるそば屋に連れて行ってもらっても、あっと言う間になくなってしまう。

その辺の切なさ、わびさびの世界がいいのかもしれないが、僕にはその感覚があまりないのだろう。

また坂庭君の話だが、彼はよくこう言っていた「いいかじゅんじ、何を食べたかしっかり覚えておかないと、それは食べなかったことになってしまうんや」彼はツァーの最中でも朝、昼、晩としっかり食べるようにしていた。

しかし、それは彼の歯がとても悪かったせいもあるかもしれない。一回、一回の食事は彼にとって物凄く大切だったのだろう。好き嫌いもあったし。

僕の方は、歯医者などという面倒くさいものには関わったこともないし、好き嫌いもないので、いつ何を食べても美味しく、食べるということに無頓着だったのだ。

彼と一緒の最後のコンサート。リハーサルが終えていつも行くうどん屋に行ってカレーうどんを頼んだが、彼は1本しか食べることができなかった。

僕は天丼だったので、のこりのカレーうどんは僕が平らげた。よっぽど具合が悪かったのだろうが僕の方は平静を装って「うまいなぁ」と言って全部食べた。

今でもカレーうどんを食べるとその時のことを想い出す。

うどんのなかでもカレーうどんは好きだ。かきあげうどんもいいかな。しかし、やっぱりそば、というものにはあまり手が出ない。

名古屋に行けば味噌煮込みうどん、四国に行けばぶっかけ。僕もあんまりあれやこれや試さないほうなのでレパートリーは少ない。

もし、どうしてもそばを食べるのなら天ざる、だ。多分温かいそばが苦手なのかもしれない。でもコレステロールのことを考えたら、天ぷらは控えたほうがいいだろう。

そうなると、素うどんか…ざるそばしかなくなってしまう。でも困ったことに僕はそういったものよりもパン類のほうが好きなのだ。

バンジョー談義

先日、木内君とバンジョーについていろいろ話をしていて、5弦のボディに4弦のネック…という話をコラムに載せて、京都のバンジョー博士である(本人は非常に恐縮して、「私は博士ではありません」と、ちいさくなっているが)小野田君にでも訊ねてみよう、と書いたところ、早速小野田君からメールをいただいた。

下記のようなさすがに小野田君、という内容で非常に興味深かった。

 

まず、古い(戦前の)4弦ネックのバンジョーが5弦ネックに換装される例のほとんどがギブソンバンジョーです。そもそも、古いオリジナル5弦ネックのギブソンバンジョーは、4弦のそれと比べても非常に市場価値が高い(数倍)ので、古いオリジナル5弦ネックのギブソンバンジョーが4弦ネックに換装される例はほとんど見られません。なので、高いクオリティで4弦ネックに換装されたものが、正当に評価される機会自体が無かったのではないでしょうか?逆にもし、古い良質の5弦バンジョーが、高いクオリティで4弦ネックに換装されたものは、個々の好き嫌いは別にして、良いものとして評価されるはずだと思います。もっとも、これはあくまで私の私見ですが。

 

以前、某バンジョー・プレイヤー兼コレクターの方の記事で「残念ながら5弦のネックに変えられてしまっている」ということが書いてあり、当時5弦にしか興味がなかった僕にとっては「なんにも残念なことではない」という感覚しか無かった。このことは既に以前のコラムで書いたが。

確かに小野田君の言うようにギブソンがほとんどだったと思う。

さて、アイリッシュを始めて、テナー・バンジョーに興味を持ち出し、古い安価なものをいくつか手に入れた。

Bacon, Vega, GibsonTB-100, Orpheum No1, May Bell, Paramount StyleC StyleF…当時はあまりよく分からずいろいろ試してみた。

サンフランシスコではMaxという人がParamount StyleB  Kerryという人がStyleA

スザンヌという人がParamount Leaderを使っていた。様々なバンジョー弾きを見てみると、圧倒的に多かったのがClifford Essex Paragonだった。後は僕らが大学時代、関西で圧倒的人気だったFramusのテナーが意外と多かった。Mary Shannonはギブソン。アイリッシュに於いては比較的珍しい。

最近、人気を分けているのがClareenとDave Boyleだろう。これらは明らかに5弦とは異なった響きをしている。

僕は常々、同じバンジョーという楽器でありながら、5弦と4弦では全く違う楽器だという考えを持っている。

その奏法、音の出方、ことごとく違うように感じる。僕は一台、国産のあるメーカーが作ったテナー・バンジョーを持っているが、それがどうも5弦のボディをそのまま使ったらしいのだ。弾いてみると、5弦バンジョー独特のサスティーンが、いわゆるアイリッシュのチューンには適していない感じがするのだ。あくまで主観。

これが、もし小野田君の言うように良質のGibsonだったら違うかもしれないが、確かにとても手の出る値段ではないだろうし、わざわざ4弦に換装しないだろう。

さすが博士…おっとまた恐縮してしまうかも。

次に会う機会があったらもっといろいろお話を聞きたいが、僕も‘91年からほぼブルーグラス・バンジョーとはご無沙汰しているので彼の豊富な知識はかなり参考になるだろう。

猫派か犬派か

世の中ではよく猫派か、あるいは犬派か、ということを言う。確かに僕は犬派だった。子供の頃、家には必ず雑種か柴犬がいた。父が犬好きだったせいか…。いや、そういう理由もさることながら、番犬として必要だったのだろう。とに角いつでも犬がいたし、父は毎朝恒例のテニスには必ず一緒に連れて行った。してみると、やっぱり好きだったのだろう。

夏の夕方になると、近くの川に行って洗剤をつけてゴシゴシ洗っていた。沢山の子供がそんな光景を眺めていた。今では考えられないことだ。

でも、猫もいた。猫は勝手気ままに過ごしていたようだ。犬はいつも同じところにつながれていて、犬小屋もあり、散歩も連れて行ったので猫よりも存在が近かったのだろう。

それでも、やはり雑種や柴犬という種類ばかりだったので、いわゆる“お座敷犬”には興味がなかった。そして、それは今も続いている。きれいにカットされて服なんか着せられていると「犬は犬らしくしてろ」と言いたくなってしまう。

朝、走っているとそんな犬をよく見かける。得意気に靴下まではかされてキャンキャン吠えているのを見ると蹴っ飛ばしたくなる。

ところが、先日、いつものように走っていたら、チワワがひとりで座っていた。見るとひもがついていて、いかにも迷子らしく、そして、僕になにかを訴えているようだった。「どうしたんだ?」と訊くと、眼が「迷子になりました」と言っている。そしてぴったりとひっついてくる。本来なら蹴っ飛ばしたくなるが、こいつは違った。

僕は一瞬“とに角連れて帰ろう”と思った。着替えてから新たに飼い主を捜しに出よう、と思ったからだ。しかし途中で糞でもされたら困るな、と思い、交番へ連れて行くことにした。

チワワは従順についてくる。僕の方をチラチラと見ながら。止まると一緒に止まってじっと次の動きを見ている。こりゃ困ったものだ。だんだん可愛くなってきた。

交番を見つけ、お巡りさんに相談してみた。そのお巡りさん「監察はついているだろうか」と手を伸ばしたら、こともあろうに噛みつかれた。そして、僕の後ろで小さくなっている。もともと小さいが…。いや、お巡りさんでなくチワワのことだ。

取りあえず、手続きを済ませて交番を後にしたが、その時もずっと視線を感じた。後になって聞いたが、ほどなくして飼い主が現れて一件落着したらしい。良かった良かった。

これが最近猫派になった僕が久々に面倒をみた犬の話。

そんなこんなもあり、小さい犬でも中にはかわいいやつがいるが、なぜか圧倒的に猫のほうが好きになってきた。

猫を好きになれない人は大体「犬の方が従順でいい」というし、猫を好きな人は「なかなか思い通りにならないところがいい」という。

僕は特にそうは思わない。やっぱり少しは人懐こい猫がいい。だからと言って猫カフェには行ってみようとも思わない。

道を横切ってチラッとこちらを見て、一瞬立ち止まり、なにもくれないと思うや否やサッと逃げていくのがやっぱりいちばん猫らしい。カニカマでも持っていたら食べるかもしれないが、それでもかなり用心深いか、匂いだけかいで逃げるやつもなかなかに猫らしい。

日向で細い目をして丸くなっているときにちょっかいを出すと、迷惑そうに「ニャー」というやつもなかなかに好感が持てる。

そんな感じで、最近はどうやら猫派になってきたようだ。

ま、どちらにしても「The 猫」「The 犬」というやつが好きだ。

友あり、遠方より来る

  高松から木内君がやってきた。京都産業大ブルーリッジの後輩である。上京の目的は初孫との御対面ということ。

写真を見て「目がそっくり」というと「いや、これ眠ってます」…だそうだ。

「孫は可愛い。何と言っても責任がない。泣いてもほっとけばいいから」と、寝ている孫と同じくらいの目をして嬉しそうに話す。

可愛いだろうが、多分木内君の目の中には入らないだろう。

 冗談はさておき、孫から離れたら早速バンジョー談義に花が咲いた。

僕がバンジョーに興味を持ち始めたのは1963年ころ。面白い音の楽器だな、と思いながら、それがなんという楽器なのかまだ分からなかったような時代だ。

 ほどなくしてアール・スクラッグスを聴いて虜になり、その音にのめりこんでいった。当時から、バンジョーといえばギブソン、それもRB-250が自分の中では最もバンジョーらしいバンジョーだった。つい先日も40年近く会っていなかった友人たちとバンジョー談義に花が咲いたばかりだったが。

 古い良質の4弦バンジョーのボディに5弦のネックを付ける、というのは良くあることで、世間一般では良い物として評価されることが多いが、元々5弦用に作られたボディに4弦のネックを付けても4弦バンジョーらしい音にならないのは何故だろう…なんていう話も出た。もっとも、これは僕の意見だが。

 今度、京都のバンジョー博士である小野田君にでも訊いてみよう。

木内君は、オズボーン・チーフとオームを持っているが、「これでギブソンがあれば完璧」と、またまた目を細める。

 バンジョーやギターは金さえあればいくらでも欲しいものだが、バイオリンはそうでもないらしい。

 多分、どれ買っても大体同じ格好しているから、かな?勿論ギターやバンジョーとの値段の違いは歴然としているが、小さいころからバイオリンをやっている人は、ひとえに真面目だから、かもしれない。

 バンジョー好きとしては、宝クジ当たったら取りあえずオール・アメリカンとフローレンタインを買って眺めるか。いや、コレクターになってはいけない。

 いろんな話が飛び出す。

木内君は、その体格からかソニー・オズボーンが好きなようだ。僕はエディ・アドコックか、対局だが、ビル・キース。

 勿論、ふたりともアール・スクラッグスをはじめとして、他にも好きなバンジョー弾きは数々いるのだが。

 なかなか話は尽きないものだ。すっかり孫のこともそっちのけでバンジョー談義に花を咲かせて東京を後にした。

 また、いろんな話に花を咲かせたいが、結局同じようなことを話すんだろうな。ふたりとも歳もいってるし、何を話したか忘れているだろうし。

春。町のあちこちに花が咲き始めた。

木内君、初孫誕生おめでとう。

Irish Music その85

Ballinasloe Fair (Reel

  • Ballinasloe Fair

Michael Colemanの古い録音をはじめ、“その65”に登場したLord McDonaldとカップルでたびたび演奏される。1928年3月のTom Morrisonの録音では何故か「Roscommon Reel」とクレジットされている。John Masterson(1840-1925)というCo.Longfordのフィドラーの曲ではないか、と言われているが、定かではない。また、Leitrim Thrushとも呼ばれている曲とほとんど同じらしい。だが、セッションなどでこの曲が出ると間違いなくみんなBallinasloe Fairだと言うだろう。アイルランドで何度も何度もこの地を通り過ぎるが、そのたびにこのメロディーが浮かんでくる”

 

Miss Thornton’s    (Reel)

  • Miss Thornton’s

“上記のTom Morrisonの録音がこの曲に行っていたのでここに載せてしまった。これもスタンダードな曲だ。Roscommonのフルート奏者、Packie DuignanHouse on the Hillというタイトルで録音している”

 

The Ashplant   Reel

  • The Ashplant

“しりとりみたいになってきたが、上記のフルート演奏はこの曲に行っている。これはNoel Hill Tony McMahonの録音でよく知っていたし、アンドリューともよく演奏したものだ。大好きな曲のひとつ”

 

Black Haired Lass    Reel

  • Black Haired Lass

“ものはついでだが、上記の録音ではこの曲に行っている。僕も特に好きなセットのひとつなのでこのセットでやることもあるが、僕らがよくやっているのは「その32」に出てくるHand me down the Tuckleのセットの頭に持ってくるやり方だ。これもなかなかいいと思う”

 

Jenny Picking Cockles   Reel

  • Jenny Picking Cockles

“もうひとつ、ついでだがNoel Tonyは3曲目にこれをやっている。出だしはほとんどJenny’s Welcome to Charlieと関連性のある曲だと思わせるが、2パートだけだし、その2パート目はD majorなので明らかに違う曲だ”

Irish Music その84

A Fig For A Kiss   Slip Jig

  • A Fig For A Kiss

“とても美しいメロディーのスリップ・ジグ。Kid on the Mountainをつなげる人も多くいるようだ”

A Feg For A Kiss   Slip Jig

  • A Feg For A Kiss

“ここまで来ると、なんだかよく分からない。非常に似ているが違う曲であることも確かだ。ずっと前にBrendan Begleyが演奏していたが、それはそれで聞いたこともないタイトルで、また、聴いたことのない間合いでやっていた。ほとんどジョークの世界だった。しかし、これも美しいメロディーを持っている”

 

Esther’s          Reel

  • Esther’s

Aコードから入りDに行って、BパートはEmという変わった曲。エンディングはDだ。非常にユニークなメロディーだと言える”

 

Kid on the Mountain   Slip Jig

  • Kid on the Mountain

“非常に魅力的なメロディーを持った5パートのスリップ・ジグ。一般的に5パートとして演奏されるが、オニールのコレクションでは最後にもうひとつパートが付いている。そして、それはAndy McGannの古い録音で聴ける。デイル・ラスは6番目のこのパートを3パート目に持ってきている。僕はこのやり方が好きだ。何故かというと、4パート目のメロディーに対して非常に効果があるからだ。ただし、セッションでは5パートで演奏されることが通常である。僕らはアルバムKeep Her Litでデイルのアイデアによる6パートで録音している”

 

Irish Music その83

Pockets of Gold     Air

  • Pockets of Gold

“最近、ひょんなことからこの曲を録音した日本の演奏家のCDを見つけた。そこにはReeltimeというグループの録音から覚えたTradとしてクレジットされていた。僕自身、随分前にこれを録音したことがある。元々、Liz Carrollの1993年のアルバムで、ギタリストのDaithi Sproule(ダヒ・スプロール)が書いたTune For Mairead & Anna Ni Mhaonaigjhという長い、しかも読むのにも難しいタイトルだ。どういういきさつでReeltimePockets of Goldとしたのかはわからない。確かライナーにも書いていなかったと記憶している。1995年のリリースである。僕は当時カセット・テープで持っていた。因みにLiz Carrollの、このアルバムもカセットで購入したものだった。僕はReeltimeの付けたこのタイトルをあまり好まなかったが、なにせ元のままじゃぁ長ったらしくて言えないので、必ず本来は違うタイトルを持った曲ですよ、ということと、作者の名前を言うようにしている。この音楽ではとても大切なことだと思う。でないと、聴いた人は間違った情報を得てしまうからだ。Daithiは最も好きなギタリストの一人だし、彼に対する敬意としてもTrad、とクレジットして欲しくなかったのだが…”

 

Whelan’s Old Sow/Katie’s Fancy    Jig

  • Whelan’s Old Sow

“1930年代、Tommy Whelanによって書かれた曲。とても変わった曲だが、なかなかいい。Rolling Waves 別名 Lonesome Jigともいう曲と、出だしは酷似しているが、なんとも変わったBパートをもっている。因みにSowというのは雌ブタのことである。しかし、何故かCat’s Rambleという別名もある”

 

  • Katie’s Fancy

“この2曲をつなげるやり方は随分前に考案したものだが、だれかがやっていて耳にのこっていたのかもしれない。前の曲の最後の小節を強引に次の曲に挿入していく面白いアレンジでやっている。去年、ショーン・ギャビン(フランキーの兄)に誘われてセッションに行ったとき、彼がいちばん最初にこの曲を弾いていたことを想い出した。3パートの名曲中の名曲だと思う”

久しぶりの出会い

つい先日、とある人から連絡をいただいた。かなり個人的なことなので「とある人」とさせていただくが、僕がサイモン・ラトルと親交が深いということを知ったという連絡だった。

彼は、指揮者の佐渡裕の同級生であり、ベルリンにも出向いたことがある、という話。

ベルリンのサイモン・ラトルと僕が、そして同じくベルリンで指揮をした佐渡裕が頭の中で交錯して僕に連絡をくれたのだ。

事実、彼は佐渡裕のベルリンデビューの時に招待されて行っているらしい。

僕もサイモンから招待された。と、まぁ普通に聞けば自慢話の応酬みたいに聞こえるが、彼から受ける印象は爽やかそのものだった。

といっても、彼と交流があったのは実に37年か38年ほど前。

話によると、12歳か13歳の頃、僕の家に友達と来てバンジョーを教わった、ということだ。そういうことも確かにいっぱいあったが、なんといってもかなり前のことだ。

因みにその時一緒に来ていた友人も近くに住んでいるし、一度会おうということになった。

彼曰く「おっさんになってしもたし、多分顔わかりませんよ。赤いバラでもくわえていきましょうか」

果たして結果は、ジャカジャン!

「あ、なんとなく覚えてる」これが僕の第一声だった。

それから先は音楽談義に華が咲きっぱなし。

彼等は高校時代共にブルーグラスを演奏していた。ナターシャーの昼下がりコンサートに出演したこともあり、当時の写真を持ってきてみせてくれた。

熱い熱い音楽談義。途中から希花さんも加わってB B KingからStephane Grappelli,

Tony Rice David Grisman果てはJohn McLaughlinに至るまで。

そういえば、彼は「佐渡裕を自分の車に乗せたとき、Alison Kraussをかけた途端、大きな反応があった」と言っていた。

すぐに食いついてきて「素晴らしい音楽だ」と絶賛したそうだ。佐渡裕はそれ以来、彼女の大ファンになっているそうだ。

サイモンもAly Bainの音楽について語っていたし、キャパシティの広い人はやっぱり素晴らしい。

話は尽きなかったが、終電もあるのでまた近いうちに会う約束をして別れた。

当時のブルーグラス少年たちは立派な大人となって、今また新たな眼の輝きを見せてくれた。

「何年振りだろう。ギブソンのRBなんていう言葉を発したのは」と言った彼らの笑顔が忘れられない。

フィドルミュージック

1971年アメリカ・ツァーを終えたブルーグラス45のバンジョー弾き、渡辺三郎が、いみじくもこう言った「この音楽、究極、フィドルミュージックやで」

全く同感だ。

あれから45年も経とうとしているが、いまだに心に残っている言葉だ。

今僕はアイリッシュ・ミュージックのギタリストとして、様々なフィドラー(ここではフィドラーに限定しておくが)と関わっている。いや、関わってきた。

マーティン・ヘイズは僕が最初にステージを共にした大物だ。全くセットも決めず、次から次へと繰り出されるチューンの連続。すでにデニス・カヒルとの形が出来上がり始めた時、彼の代役を務めることとなった僕は大好きだったファースト・アルバムから、ランダル・ベイズのスタイルを自分のスタイルに取り入れて挑んだ。

マーティンはのりに乗ってくれた。

フランキー・ギャビンとはグループの一員として何日も一緒に動いた。レコーディングでさえも、突然予定されていない曲に突入する彼のフィドリングは強烈だ。

ジェリー・フィドル・オコーナーもケビン・グラッケンも、デイル・ラスも、ジョニー・カニンガム、そしてトミー・ピープルスも、みんなフィドルの怪物だった。

様々なスタイルのフィドル・プレイを体験してきた。

今、日本でもフィドルミュージックを生活の糧にしている人たちが一杯いるようだが、その多くは、ほとんど本物のフィドルミュージックを体感していないように思える。

特にクラシックからジャズなどを経てこの世界に入った人たちのアイリッシュ・チューンは素晴らしいテクニックに裏付けされ、文句のつけようのないものだと言える。

が、それだけだ。

それでも、残念ながらこの国では耳障りの良いもの、ポップにアレンジされたもの、テレビで流れるものが価値のあるものとして扱われる。

売れれば勝ち、表に出れば勝ちなのだ。

本物のフィドルミュージックに触れてしまえば、そんな日本の現状が如何に価値のないものかが分かるはずだ。

60年代のジャン・リュック・ポンティ、スタッフ・スミスやパパ・ジョン。勿論ブルーグラスではケニー・ベイカーやポール・ウォーレン。彼らを聴きながらもマハビシュ・オーケストラでのジェリー・グッドマンなども聴いていた。

それでも自分でフィドルを真剣に弾こうと思わなかったのは何故だろう。当時はやっぱりバンジョーが全てだったのかな。勿論難しい楽器だった、ということもある。

それでも「フィドルミュージック」という言葉はとても言い当てた言葉であることは実感していた。

フィドルとギターという自分にとっての基本形の中で、どのようにギターを乗っけて行けば一番フィドルにとっていいのだろうかを常に考える。

それは「フィドルミュージック」に対するリスペクトであり、45年にも渡って思い続けていることの証かもしれない。

 

ロストシティ・キャッツと今富秀樹

 今富君との再会から、彼とのツァーを経て、あの伝説のバンド「ロストシティ・キャッツ」のことを想い出すこととなった。

今富君はキャッツ(以下、キャッツとさせていただく)のギター&ボーカル。

キャッツは、神戸の元町にあった、かの有名なるバンジョー弾き、野崎謙治さんのコーヒー・ハウス、ロストシティから生まれた精鋭バンドだ。

ブルーグラス45もここから生まれた、といっても過言ではないかな。僕が高校生で、まだ静岡にいたころからの話だし、その頃は距離的にも東京の方が馴染み深く、関西に関してはあまり情報が得られなかった。

なので、間違っていることもあるかもしれないが、68年、京都に出向いてからのブルーグラス関連のことでは思い出すことがいっぱいある。

当時、どこの大学にもブルーグラスのグループが存在し、京都の烏丸通にあった「アメリカ文化センター」というところで月1回、ブルーグラスのコンサートが開かれていた。

そのころはまだキャッツというバンドは存在していなかっただろうか。その辺は、また今富君にでも訊いてみないとわからないが。

ナターシャー時代、それもかなり初期に神戸のそごう百貨店(だったかな)の特設ステージで、キャッツと共演したことを覚えている。

その頃から今富君のボーカルが冴えていたこともよく覚えている。

彼等のレコードも、「キャッツだドカーン」ともうひとつ、どこかの牧場で撮ったジャケ写のものと、どちらが先だったかは覚えていないが購入した覚えがある。

当時は、ブルーグラス45、三ツ谷君がいたロッコー・マウンテンボーイズ、桃山学院のブルーグラス・ランブラーズ、そして、キャッツ、その他様々なバンドが鎬を削っていた。

もちろん関東方面でも素晴らしいバンドがたくさんいた。

日本のブルーグラスの黄金時代と言えただろう。72年頃からは、ナターシャー・セブンもそこに一役買い、さらに人々の間にブルーグラスが浸透していった。

さて、キャッツの後輩バンドに“ロストシティ・マッドドッグス”というグループもいたはずだ。

確か、僕が産業大学の2回生の頃にギターとボーカルで参加していた藤田君という人は、後にマッドドッグスのリード・ボーカルで活躍したんじゃないかな。この辺のこともかなり前のことなのであまり定かではないが。

長身のハンサムな彼がギターを少し斜めに構えているのを見て、この人はJim&Jessieが好きなんだろうなと思ったら大当たりだった。

あの頃、みんな生で見たことのないプレイヤーに憧れていた。僕はEddie Adcockだったし、今富君は誰だったろう。やっぱりLester Flattかな。

彼の店「オッピドム」に行くと、Bill Monroeとの2ショットでにっこり笑った今富君の写真を見ることができる。

Bill Monroeは勿論、誰もがこの音楽の父として尊敬していた。

今富君は現在、自身の書き下ろした楽曲なども歌い、演奏している。彼の1949年製のマーティンD 28と共に。

それは、ロストシティ・キャッツのリード・ボーカルとしてブルーグラスの神髄を歌い続けてきた彼の別な一面でもある。

今度はもっとキャッツのことや、当時のブルーグラス・シーンのことを彼にインタビューしてみよう。

Irish Music その82

The Bank of Ireland   Reel

  • The Bank of Ireland

“初心者にもよく知られる有名な曲。事実、僕もこの曲は最初の方に習った。でも名曲である。これはどこのBankのことを言うのか、はたまた銀行なんだろうか、と議論が飛び交っている。そういえば、随分まえにアメリカで、Bank of Ireland と名付けたパブが出来たが、アイルランド銀行から“待った”がかかり、結局Irish Bankに名前を変えた、なんていう話があったなぁ。Francis ReynoldsというLongford のフィドラーによって書かれた曲で、

元々はFollow me down to Carlowというタイトルだったようだ”

 

Blackbird/Spike Island Lasses    Set Dance/Reel

  • Blackbird

“何とも変わった曲だが大好きな曲だ。パディ・キーナンとは必ず演奏した。最初はエアーで入り、そのままセット・ダンスに持っていく。Jody’s Heavenでもギター・ソロからセット・ダンスに入る手法で録音したことがある。カナダでパディと演奏した時のこと。彼がエアーで思い切り感極まって演奏している最中に、パイプのチャンターが抜けてしまった会場は一瞬水を打ったように静まり返った。彼はまるで“鳩が豆鉄砲を食らったような顔”をして助けを求めた。僕はそのままメロディをギターで引き継いだ。彼は一生懸命チャンターを差し込んでいた。その後は爆発だ。いい思い出である”

  • Spike Island Lasses

“この曲のBパートは前の曲(The Bank of Ireland)のBパートにそっくりなのであえて同じ場所に載せてみた。しかし、3パート、4パートと進んでいくとそのパートごとのメロディの美しさがなんとも心地よくなって何度も繰り返したくなる。勿論、最初のパートも何だか途中から入るようなメロディでなんとも言えない。やっぱり名曲のひとつだ”

Irish Music その81

Lost and Found/Auld Lark In The Morning Jig

  • Lost and Found 

Paddy Keenanがよくコンサートの最初に演奏したジグ。出だしがいかにも“始まる”という感じのメロディだ。どうやら沢山のタイトルが存在するらしく、いろんなバージョンでいろんな人がやっている。例えばMichael Colemanでは“Coleman’s Maid on the GreenTerry Binghamでは“Tommy People’s”他にも少しずつバージョンの違うものが存在するが注意深く見ていくと、それぞれに違う曲ではないかと思われる。これだからこの音楽はとても面白く、やめられない”

  • Auld Lark In The Morning

Seamus Ennisの素晴らしいパイプ演奏が聴ける。Edel Foxもこのバージョンでやっていたし、結構好きなメロディだ。特にAパートが少しひねったメロディで気に入っている。こちらは2パート。Lark in the Morningをやろう、と言われたら、どのバージョン?と即座に尋ねることが出来るようにしたいものだ”

 

Lark In The Morning   Jig

 ▪ Lark In The Morning

“ほとんど前曲と同じタイトルだが、少し違うところが面白い。80年代、Moving Heartsの録音で聴いていた4パートの美しいジグ。Morning Larkという曲もあり、非常に似ているパートを持っている”

アイルランドから帰ってきました

 1月のアイルランド。ゴールウェイは、ほとんど毎日嵐のような天気でした。

フランキー・ギャビン、そして、パディ・キーナン。共に元気でした。こちらも嵐のようでした。

ボタンズ&ボウズのメンバーであるギャリー・オブリエンの所有する、素晴らしいロケーションにあるスタジオ。

池のほとりで緑に囲まれて、夜になると真っ暗闇になってしまい、車も通らなくなるようなところ。

音が本当に山の中、奥深くまで通り抜けていく。

そんな素晴らしい経験でした。

詳しくはまた後日。何かの機会を見つけて書きます。OLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

Irish Music その80

Seanamhac Tube Station   Jig

  • Seanamhac Tube Station

“僕らはあまりやらない曲。何故かというと、いかにも若者のグループが張り切ってやりそうなタイプのものなので、敢えてレパートリーとしてとりいれようとはしていない。だが、トラッド同様、新しい曲でも常にアンテナを張り巡らしておかないと、引き出しの少ない狭い観点のミュージシャンになってしまう。この曲のメロディ自体は好きなのでここに掲載してみた。この聞きなれないタイトルに使われているのはアイルランドの小さな村の名前だ。だが、そんな小さな村にTube Station(地下鉄の駅)などない。これは一種のジョークであるらしい。そして、作者はJohn Cartyというのが頷けるところだ。ところで、なんと読むのだろう。こんな発音らしい「SHANNAWOCK」”

 

 

The Wren/October Rain   Breton/Jig

  • The Wren

“ブリタニーのグループKornogのアルバムから随分前に覚えた奇妙な曲。またの名をAn-Droという。ティプシー・ハウスのフィドラー、ケビンの大好きな曲だった。大体この手の変わった曲を持ってくるのはケビンか、もう一人のフィドラー、クリスだったが、彼はエジプシャン・ミュージックなどもやっていた変わった奴だった”

  • October Rain

“90年代中期に書いたオリジナル曲。10月のある日、空を見上げていたら、しっとりと冷たい雨が降ってきた。間もなくすると太陽が出てきて辺り一面陽の光に照らされた。まるで山のような天気だったその日にできた曲。坂庭省悟と宮崎勝之もレパートリーの中に取り入れてくれたものだ”

Irish Music その79

Brian O’lynn/Old John  (Jig

  • Brian O’lynn

“これは、かなり初期に覚えたジグ。ハンマー・ダルシマーのロビン・ピトリーとフィドルのスコット・レンフォートと共に録音もしたし、よく演奏したものだ”

  • Old John

“さて、この曲。長いことBrian O’lynnの別バージョンと思っていたが、どうやら違う曲らしい。Old Johnというのはパイパーでフルート奏者のJohn Potts(Wexford)で、Tommy Pottsのお父さんであり、Sean Potts のおじいさんであるらしい。そしてこの曲にこの名前をつけたのはBrendan Breathnachだ、という情報がある。この2曲、出だしは場合によってはそっくりなので注意した方が良い”

Irish Music その78

The Bluemont Waltz   Waltz

  • The Bluemont Waltz

Rodney Miller作のこのワルツ。希花さんがBottons and Bowsのアルバムから見つけてきた。そこで出どころを調べてみたら、Rodney Millerの1987年のアルバムに入っていたものだった。希花さんの生まれた年だ。とてもきれいな親しみやすいメロディを持った名曲だ”

 

Eddy Kelly’s/Moon Coin   Jig

  • Eddy Kelly’s

“別名Meelick Teamという。Eddy Kellyという名前でリールあり、また別メロディのジグあり、なのでこちらの名前で呼んだほうがいいかもしれない。ともかくEddyCo.Galwayで1933年に生まれたフィドラー兼ボックス・プレイヤーだ。20曲のコンポジションがある、と言われているが、これはどうもNo1らしい”

  • Moon Coin

“前の曲とのつながりは結構好きだ。3パートの美しいジグで僕はかなり前からやっていた。20年以上も前かな”

 

Eddy Kelly’s   (Jig

  • Eddy Kelly’s

“もうこうなってくると訳が分からなくなってきてしまうが、これは彼のNo2と言われている。Drumshanboというタイトルでも知られている。Bパートがちょっとつまらないので(あくまでも個人的意見)あまりやらないが、かのジョン・ヒックスがよくやっていたので思い出した。さすがにBパートを少しアレンジしているやり方だったかもしれない。ちなみに、僕らが通常ジグの最中にEddy Kellyと叫んではじめるのはNo1のほうだが”

Irish Music その77

Ceilier/Carraroe Reel   Reel

  • Ceilier

“長いことCalicoでの演奏しか聴いたことがなかったので、彼らの作品かと思っていたが、どうやらEd Reavyらしい。が、それも定かではない。ずっと前によく聴いていたThe Green Fields of Americaのライブ盤にも入っていたようだが、記憶にない。きっとCalicoの演奏が素晴らし過ぎたせいかもしれない”

  • Carraroe Reel

“このタイトルではジグの方が有名だ。勿論その場合The Carraroeとだけ表示されるが。こちらはOisin MacDiarmadaの作品。始まった途端、いかにも彼らしい世界に引きずり込まれるような曲だが、これを2曲目に選んだのは、非常に前の曲とテイストが似ている、という理由からだ”

 

Lady’s Fancy  Reel

  • Lady’s Fancy

“これはSay Old Man, Can You Play Fiddle?という曲をDan Craryがブルーグラス・ギターチューンとしてアレンジしたものだ。もともとの出どころは定かではないが、どうもアイリッシュ・チューンではなさそう。やりかたも人によって全く違うが、最もよく聴いたのはまだ10代後半だったSam Bushがグループ“Poor Richard’s Almanac”で残したものだ。(1969年)それを僕らは更にアレンジしている。アレンジする時も、できる限り多くの録音を注意深く聴くことが大切だ。たったひとつの曲でも実に多くの物語が存在する。そうして考えてみるとこのような音楽を演奏するということは、長い歴史に培われた物語を演奏することにもなるのだ”

Irish Music その76

Da Slockit Light  Air

  • Da Slockit Light

SlocketともSlokitとも書く。この曲を初めて聴いたのは、定かではないが70年代後半に手に入れたThe Fiddle Music of Shetlandというアルバムからだったと思う。真っ白いひげのおじいさんがフィドルを作っている。背後の壁にはいっぱいフィドルが並んでいる。それも白黒写真で、という明らかに“ジャケ買い”といえるものだった。Tom Anderson/Aly Bainというデュオアルバムだった。Aly BainThe Boys Of The Loughでお馴染みだったがTom Andersonとは、まだ誰だか知らなかった頃だ。そのアルバムの中のこの1曲はすぐにお気に入りの曲となった。それこそがTom Andersonの名作だったのだ。後年、僕は故坂庭省悟と共にツイン・ギターにアレンジしてよく演奏していたものだ。最近、クラシック畑の人が“シェトランド・エアー”と名付けてこの曲を演奏していたりするが、どうやら出どころを知らないらしい。Tom は1970年のインタビューでこのように答えている。

「それは1969年の1月の終わりころ、生まれ故郷のEshanessという村で見た光景だった。子供の頃は多くの灯りが灯っていたこの村も、一つ、また一つと灯りが消えていった。そして、それはまるで最近あの世へ旅立った自分の女房の想いでと重なるようだった。その時、古い言葉Slockitという文字が頭に浮かんだのだ。そして、その意味は“消えていく灯り”」彼のこの言葉を知らずしてこの曲を弾くわけにはいかない”

2014年もお世話になりました

  2014年。この年は希花さんにとっては大変な年でした。もちろん、その数か月前から1日のほとんどの時間を教科書との睨めっこに使い、睡眠時間もいつもの半分ほどにして勉学にはげんでいたわけですが、最後の追い込みに入り始めたのはこのころ。さらに睡眠時間は短縮され、ノロウィルスの恐怖からそれまで行っていた図書館にも行かなくなり、一日20時間ほどの勉学に励んでいたようです。

 

そんな中、以前からお話があった、ウィンドⅡ主催によるコンサートの準備も進み、ようやく試験が終えた希花さんも晴れて(まだ結果待ちでしたが)アイルランドの話に華を咲かせることができました。

このコンサートはアイルランドで過去に僕らが撮ってきた写真を見ながら、その風景を楽しんでもらい、そして音楽も楽しんでいただく、という企画でした。

ウィンドⅡには本当にむかしからお世話になっています。これからもお付き合いのほどよろしくお願いします。

 

さて、いよいよ合格発表という頃、ニュージーランドに来ていたコーマック・ベグリーが「桜を見たい」と、のたまってあらわれたのです。

 そして間もなくして発表があり、史上最難関の国家試験に見事合格、という偉業を成し遂げた希花さんも「ようやく寝れる」と言い、今までの生活が逆転。20時間ほど寝たようです。

しかしそうも言っておられず、コーマックとのツアーが始まりました。

大泉、京都、大阪、岡崎、とまわったコーマック。あちこちで桜を見ることが出来て、いたく感動していました。

もちろん富士山もきれいに見えたし、いろいろ味にもうるさくなってきて生意気に「パックのお茶より、葉っぱを買っていきたい」などと言うようになりました。

「彼にはどっちでも一緒だよ」と少し高価なパックのお茶を持たせたのですが、今回アイルランドに行って、ブレンダン(父親)のキッチンを覗いてみると、ちゃっかりそこに置いてあるではないですか。しかも、ほとんど手つかずの状態で。

やっぱり本物の葉っぱでなきゃ、と思ったのでしょうか。彼、意外と分かっているのかな。

とに角、大泉では勿論のこと、京都でもいつもの仲間や都雅都雅、ぴんさん。大阪ではオッピドム、岡崎でもみんなにお世話になりました。

 

4月に入っていよいよ卒業式も終えた希花さん。まだまだよく眠れるようで「春眠暁を覚えず…」とはよく言ったものです。

まだ滞在していたコーマックと、お茶の水のギター・プラネットや、下北沢のラ・カーニャ、そして三島とまわってみなさんにお世話になりました。

コーマックが帰ってから僕らは豊川の里估で極上のホルモン焼き&コンサート。

 

5月には鶴ヶ峰の「陽の当たる道」で、美味しいコーヒーと音楽。そして、初めての試みで、アイルランド文学の栩木伸明先生との「アイルランド音楽とモノ語り」この会は、僕らも勉強になる素晴らしい企画になったと思います。

そして、5月の最後は生まれ故郷、静岡で、多くの旧友たちと音楽に、お話に興じることが出来ました。

 

6月には岡山から四国へ。アイルランド行きをひかえて沢山の場所に行かせていただきました。

京産大の後輩、多くのブルーグラス関係者のみなさん、お世話になりました。

その後、京都法然院での音楽会。大阪での“よいよいよい祭り”それらが終わって群馬県の妙安寺でのコンサート。これは、4月に他界した名マンドリン奏者である宮崎君がずっと大切に続けてきたものだったのです。そこに僕らも参加できたことを彼に感謝。

 

そして、2日後にはアイルランドに向けて旅立ちました。

アイルランドに関してはもうすでに沢山書いてきているので先に進みます。

 

帰ってきたのが9月18日。なんとその2日後には宮津の世屋高原に出掛けました。体内時計は完全にアイルランド仕様になっていたのですが、みなさんにあたたかく出迎えていただいて幸せこの上なかったです。

1週間あとには東京の根津教会で。ここでもセッティングから後片付けまで、たくさんのお客さん(あくまでコンサートを聴きに来てくれている人達)に手伝っていただいて本当に助かりました。

 

10月に入って大泉のスペース結で。そして三島で、久しぶりに金海君との懐かしい曲を演奏。後半には阿佐ヶ谷のバルトでフォークソング中心のコンサート。

 

11月は来日アーティストの世話で明け暮れたような気がします。先ずイデル・フォックス。コンサルティーナ奏者としての実力は言わずと知れたものですが、その止まらないおしゃべりもなかなか楽しいものがありました。

彼女との演奏は、僕らを完全にアイルランドの生活へと戻してくれたような気がします。クレアーのリズムに。

イデルと別れて、僕らは四国、徳島の北島町創生ホールへ。なかなか会うことのできない骨太の達人たちとお会いできたことは大きな収穫でした。

ほどなくしてデイル・ラスがやってきました。越谷のおーるどタイムさん、ありがとう。イデルとは対照的にもの静かなデイル。こうして文字で(カタカナで)書いてみると同じ字が並んでいることに改めてびっくり。なんの関係もありませんが、またデイルは彼らしい誠実なプレイで僕らを、そして皆さんを魅了してくれたと思います。

各地の皆さん、イデル、デイル共々僕らからも「ありがとう」を言わせていただきます。

 

12月に入ってからはまた、栩木先生とのアカデミックな会を開かせていただきました。アイリッシュ・ミュージックを演奏するうえで大切なお話を沢山聞くことができたと確信しています。

 

今現在は12月21日のクリスマス・コンサートと、30日の僕の誕生日、京都の都雅都雅でのコンサートを控えています。

クリスマス・コンサートでは友人がパンを焼いて持ってきてくれます。以前彼女の作ったパンを食べて「これは美味しい。どこで買ってきたの?」と僕もコーマックも驚いて、いくつも、いくつも食べてしまったことがあったので、今回も無理を言って、来ていただける人たちのためにお願いしました。

アイルランドの紅茶と、ちょっと珍しいコーヒー、それと音楽で楽しんでもらえたらなぁ、と思っています。

京都では40年ものあいだ家族のように過ごしてきた仲間のためにも、いいコンサートになればいいな、と思っております。

2014年、もうすぐ終わってしまいます。今年はやっぱり3か月のアイルランド生活で得たものが沢山ありました。この壮大なる伝承音楽を、心から大切に演奏している人たちとの出会いは今一度原点に帰る、いいきっかけになりました。

そして、日本でも多くの人にお世話になりました。4年前に希花が「もう一度音楽をやろうよ。あなたが持っている本物の音楽をみんなに聴いてもらわないともったいないから」と言ってくれた時、多少の迷いはありました。でも、そのおかげで昔の仲間との再会や、新たな素晴らしい人達との出会いを経験しました。

まだまだ僕らにはやらなければいけないことがあるかもしれません。いや、きっとあります。

2015年がいい年になりますように。もちろん皆さんにとっても。

Irish Music その75

The Sligo Maid/London Lasses  Reel

  • The Sligo Maid

“非常に有名な曲。そんな意味でも特に最初の頃に覚える曲のひとつかもしれない。特筆すべきこともないが、コードについては考えてみたいものだ。最もトラッドなやり方はAパートBパート、共にDはじまり(key of G)だろう。何故かというと、パイプのドローンがDの音で鳴り続けるケースが多いからだ。その次はBパートでAmを使うやり方。更にAパートはAmで始まるやり方。こちらは大体の人がBパートもAmでやる。僕のやり方はAパートをAmで入り、BパートにCを持ってくる。Cをもってくることで、メロディとC6の関係を持つことが出来るが、同じメロディが4回出てくるので、3回目をAmでやり、AパートのAmを予感させる。この予感ということを習ったのは、ビル・キースからだ。彼のバンジョーでのリックでは細かいところで7th9thを入れることで、次の音やコードの予感をさせる、という方法。彼がこの方法をたまたまビル・モンローのバンドにいたときに使ったら彼が振り向いた、という話がある。ビル・モンローも流石にハッとしたらしい。1963年頃の話だ。大したことではないかもしれないが、アイリッシュに於いてもギタリストはこれくらい細かいところまで気をくばりたいものだ。相手に合わせる、ということも忘れてはいけないし”

  • London Lasses (その49参照)

“これも非常にポピュラーな曲だが、BパートはほとんどDバージョンのFarewell to Irelandと同じ展開だ。キーが違うので、こんがらがってしまうことはなさそうだが、それにしてもよく似ている”

 

 

Fraher’s/Frieze Breeches  (jig)

▪ Fraher’s

“非常にシンプルな古いパイプ・チューン。僕はMick O’Connerのバンジョーから習った。Paddy Cartyのフルートアルバムにバンジョー・ソロとして入っていたものだ。先日Edel Foxと演奏した時、彼女が弾いて想い出した。シンプル・イズ・ザ・ベストを絵にかいたような曲だ”

  • Frieze Breeches

“一般的には5パートあるジグだが、いや、8パート、9パートある、という人もいるようだ。特に前の曲と繋げてやらなくても、これ自体で充分に美しく、かつ、長い曲だ”

Irish Music その74

The Sheep in the Boat/The Gallowglass    Jig

  • The Sheep in the Boat

“希花さん、渾身のコンサルティーナ・セット。Junior Crehanの作と言われているが定かではない。悲しくも美しいメロディーが印象的な名曲だ”

  • The Gallowglass

“意味は「外国に雇われた兵隊」ということらしい。スコットランドでの言い方のようだ。Nathaniel Gow’s Lament For The Death of His Brother というタイトルでもある。これも悲しげな美しいメロディーを持った曲だ”

 

Irish Washerwoman   Jig

  • Irish Washerwoman/Rosewood

“おそらく最も有名なメロディーを持った曲だろう。これを聴けば“なんだかアイリッシュみたい”と誰もが思うことだろう。例え一切アイリッシュ・ミュージックと無縁の人でも。それだけにセッションに登場することは皆無といってもいいくらいだ。ところが、去年のフィークルで突然アンドリューが弾き出した。それが、あまりに演奏されない曲なのでかえって新鮮に聞こえたのだ。そうしてみると結構いい曲だ。アンドリューも「みんな嫌うけど意外といい曲なんだな」と笑っていた。多分彼の持っている独特なリズム感が、そう聴こえさせるのかもしれない。ひょっとすると、クラシックの高名な演奏家がバイオリンで弾いたりすると、とんでもなく情けない曲として、僕らには聴こえてしまうだろう。アイリッシュ・チューンの中にはそんな曲がいっぱいあるが、これはその最たる例かもしれない”

 

  • Rosewood

James Scott Skinner作のご機嫌な曲。古くはThe Boys of the Loughのレコーディングで知られているが、4年ほど前のDe Dannanの演奏が素晴らしく、また再発見した曲だ”

 

Irish Music その73

Black Rogue/Wake Up Paddy  jig

  • Black Rogue

“セッションでは、古今東西を問わずよく登場する曲だ。これは先日、栩木伸明先生にお会いして様々な話をしていたところ、翻訳本であるJ.M.Synge Aran Islandsを始め、多くの書物を見せていただいた中に出てきたので思い出して掲載してみた。一般的に良く知られている曲というのはあまりやらなかったりするが、そのせいかタイトルがなかなか思い出せなかったりする。また、逆にメロディがなかなか出てこなかったりする。この曲もそんな一つだ。たまにはやらなくちゃ”

  • Wake Up Paddy

“これはまぎれもなくSyngeAran Islandsに出ていた曲。「起きろパディ」という曲を弾いた、という文章があり、栩木先生に「この曲は?」と訊かれたが馴染みがなかった。帰って調べてみると多分これだろう、と思えるものが見つかった。Paddy Get Upというもの。しかしこれは僕の知る限りJerry’s Beaver Hatという曲と同じようだ。前曲と同じくポピュラーな曲といえるので、これを弾いた、というのはうなずけるような気もする”

 

The Humours of Kilclogher   Jig

  • The Humours of Kilclogher

“ちょっと聴くとスリップ・ジグかな、と感じるメロディを持った不思議な曲だ。デイル・ラスの素晴らしい演奏で聴くことが出来る。Kilclogherという地名はClareLeitrimの両方にあるそうだが、これはClareのほうではないか、と言われている。また、Elizabeth Kellyというタイトルでも知られているようだが、この人はクレアー出身の著名なフィドラー兼コンサルティーナ奏者であるジョン・ケリーのお母さんだそうだ”

Irish Musicその72

Tom Ward’s Downfall/The Reel of Mullinavat   Reel

  • Tom Ward’s Downfall

“すでに、その24に登場している曲だが、最近希花さんが新たにコンサルティーナのレパートリーとして取り入れている。本当は2曲目を先に練習し始めたが、曲のつながりを考えたとき、ふとMichael Colemanの古い録音でのセットを想い出し、この曲を頭に持ってきた”

  • The Reel of Mullinavat

Connemara Stockings(その30に既に登場)によく似ている曲だが、これはこれでとても有名な曲。読み返してみるとその時も今回の逆でこの曲に似ている、と書いていた”

 

King of Fairies    Set Dance

  • King of Fairies

“先日、ある著名な歌手のアイルランド紀行のDVDを観ていたら、ダブリンの街角でストリート・ミュージシャンと出会い、その彼が「アイリッシュといえばこれだ」と言わんばかりに弾いた曲がこれだった。しかしその演奏は、とてもアイリッシュ・ミュージックとはほど遠い感覚で弾かれているものだった。しかしナレーションでは本物に触れた、というようなことを言っていた。確かにこういう著名人のものから興味を持つ人もいるかもしれないので、その存在は貴重であるが、その興味を持った人がこれからそれを、どう消化していけるか、そこが分かれ道でもあると思う。しかし惜しむらくは、もしプロデューサーなり、周りの人間が本質をもっと理解していたら、と思ってしまう。まぁ、僕も含めて誰だって最初は初心者なのだが。それはともかくとして、これはホーンパイプとして掲載されているものもあるが、小節数からみてもセット・ダンスと言えるだろう。とても美しいメロディを持った曲だ”

Irish Music その71

In A Continental Mood/Flatworld  (Waltz

  • In A Continental Mood

90年代初期によく聴いていたイギリスのバンドBlowzabellaのメロディオン奏者であるAndy Cuttingの作。そういえば、と思い立った時、こういったバンドの演奏を再度聴ける、という点に於いてはインターネットの有難さも捨てがたいものだ”

  • Flatworld

“同じく彼の作品。最初こちらを見つけて、とても美しい曲なのでいたく気に入っていたが、前の曲を聴いた時、この組み合わせがベストと感じた。彼の相方であるChris Woodとの録音でも聴くことができる。彼も素晴らしいシンガーであり、フィドラーだ。なお彼ら、ライブではThe Old Queenという曲を間に挟んでいるがとても変わった曲だ。またいつかそのスタイルでやってもいいかな”

 

Farewell to Whalley Range   Slip Jig

  • Farewell to Whalley Range

“いかにも若者好みのメロディだ。Michael McGoldrick作。彼が故郷マンチェスターのWhalley Rangeを去る時に書いた曲だそうだ”

 

Dick Sherlock’s  (Reel)

  • Dick Sherlock’s

“古いフィドル・チューンだが、とても美しい曲でこの後はなんにでも行ける。Jim Kellyというタイトルの他にも多くのタイトルを持った曲で、最初は何という曲だったか判断するのはもはや難しいことのようだが、僕は最初に覚えたときの名前Dick Sherlockで呼んでいる”

Irish Music その70

Across the Fence/The Messenger   Hornpipe

  • Across the Fence

“本当のタイトルはAcross the Fence to the Neighbor’s Wifeというらしい。作者は、かの有名なBrendan McGlincheyだ。3パートのとても魅力的なメロディーだと僕は思う”

  • The Messenger

“既に~その19~に出ている曲だが、前の曲とのタイトルの微妙な、というかバッチリな組み合わせを楽しんでみた”

 

New Century    Hornpipe

  • New Century

“長い間、頭から離れなかった曲。いつごろ誰の演奏で聴いたのが最初だったか覚えていないが、大好きなメロディーだった。もしかしたらDale RussRandal Baysで聴いていたものを、最近になってGerry Harringtonで聴いて、また思い出したのかもしれない”

 

High Level    Hornpipe

  • High Level

“これも長いこと頭から離れなかった3パートの美しいメロディーを持った曲。アコーディオン奏者に最適だと思っていたが、実際にはフィドラーのJames Hillが書いた、とされている。しかも最初はB♭で書かれ、そのうちFで書かれたものが出版された、と言われるが、ほとんどの人はGで演奏しているようだ。最近、アイルランドでJohnny Connolly親子と一緒に演奏した時に思い出した。希花さんはコンサルティーナでトライしている”

ノーベル平和賞

マララさんが17歳という若さでノーベル平和賞を受賞した。僕は彼女が言ったのと似たような言葉を聞いたことがある。それは、このコラムで以前書いた、ベトナム人のヴィンさんが言っていた言葉。

「教育というものが最も大切なものだ。教育さえ行き届いていれば戦争などという手段で自分たちの主張を押し通すことなどしないはずだ。戦争は時として民族の団結というものを絶対的なものにしてくれる。でも他民族に対しても寛容でなくてはならない。それが教育というものなんだ」

いつの世でも課題となることである。

Irish Music その69

Letterkenny Blacksmith/Gneevgullia  Reel

  • Letterkenny Blacksmith

“長年Fisherstreetというタイトルで知っていた曲。僕らはOisin MacDiarmadaのバージョンでやっている。僕はこのバージョンを聴いたことがなかったが、希花がこれを演奏した時どこかで聴いたことがあると思ったものだ。それはまぎれもなくFisherstreetだったがBパートが違っていた。それも少しだけ。しかしOisinはとてもいいアレンジをしていたので今はこちらを選んで演奏している。尚LetterkennyCo.Donegalにある都市の名前だ”

  • Gneevgullia

“これはすでにその32に登場している曲だが、前の曲からのつながりがとてもいいのでこれを選んだ。この曲をアイルランドで演奏した時、周りの人から「なんていう曲だった?」と訊かれたが発音が難しく、とても苦労したが何とか分かってもらえた…ようだった”

 

Derry Craig Woods/Cottage in the grove  (Reel

  • Derry Craig Woods

Father Kellyとしても知られているが、明らかに少しずつメロディーが違う。またこれはMulvihillというタイトルでもよく知られているようだ。このタイトルは元Dervishで活躍していたフィドラーShane McAleerから教えてもらった。尚Father Kelly となるとBパートのメロディーが少しだけ違い、更に3パート目は無くなる。ギタリストはどちらに展開していくのか知るためにどちらも知らなくてはいけなくなってくる”

  • Cottage in the Grove

Tommy Cohen’sとしてもよく知られている曲。その51で既に出てきている”

 

1964年

1964年、15歳、世の中が新幹線やオリンピックで盛り上がっている頃、その少し前にギターを弾き始めた。

家の近所の谷津山という小さな山に友人たちとギターを持って登ると、そのすぐ近くを、開通したばかりの新幹線が走っていくのが見えた。

時は少し進んで‘66年にはビートルズが来て、時事放談(じじい放談)で小汀利得が「世の中でもっともけがらわしいもの」くらいの勢いでけなしていた。

マイク真木が「バ~ラが咲いた♪」と唄ったのも‘66年だったかもしれない。

更に進んで‘69年にはアポロが月に行った。(らしい)西山千さんの同時通訳に聞き入って、こんな職業があるんだと感心したものだ。同じ頃、新宿の反戦フォーク集会に7000人も集まった。

その頃僕は、5弦バンジョーを弾くことに身も心も捧げていた。ピアレスからカスガのバンジョーへと飛躍していった頃だろうか。

とに角当時から他人のやらないようなことをやるのが好きだったのかもしれない。ピアノの楽譜を書きかえていたように、何かとビートルズの曲を弾いてみたり、大好きだった映画音楽を弾いてみたりしたものだ。

勿論、一方では必死になってFoggy Mt.BDDixie BDもコピーしたが、如何せん、映像も教則本もなかった時代では勘しか頼りになるものがなかった。

それでもありとあらゆる手段でコピー、コピーと歩き回った。大学時代には、レコード屋さんで試聴させてもらい、耳に叩き込んできたものを「こうだった…ようだ」と繰り返し弾き、そして次の日も、また次の日も頼み込んでは聴かせてもらったものだ。

今でもよく覚えている。スタンレー・ブラザースがA面、レノ&スマイリーがB面のアルバム。

お金もままならなかった貧乏学生に気持ちよく聴かせてくれたのは、京都の十字屋さんにいた宇野さんという人だった。

彼もまたブルーグラス大好き人間で、そんな必死になって食い下がる学生を大切に思ってくれた貴重な存在だ。

最近オリンピックつながりで1964年の話がいろいろ出る。新幹線のことも。そういえば貿易センターのビルが出来たのもこの年の終わりごろだったかもしれない。ビートルズがアメリカ進出を始めたのも‘64年だったかな。

僕らが、今やっているアイリッシュ・ミュージックの基ともなるフォーク・ミュージックに興味を示し出した頃。もしかしたら僕にとって‘64年というのは非常に意味深い年かもしれない。

同じころ日本全国にやはりそんな風に悪戦苦闘していた(もちろん楽しくて仕方なかったが)人たちは沢山いただろう。

とに角‘64年ころから‘70年に至るその時代のことを今思い出すのはとても面白いし、それなりに意味もあることだ。初心に帰る、ということに於いても。

歳取ると小言が多くなる、というがやはり音楽一つをとってみてもそれは仕方ないことだ。

アイルランドでさえも、彼らの伝統ある音楽を若者たちはいとも簡単に変えてしまう、と嘆くベテランのミュージシャンが多くいる。

やはり、何も情報がなかったところから必死になって見つけ出す苦労とは、何事にも代えがたいものかも知れない。

情報がいくらでも飛び込んでくるこの時代に、僕は相変わらず飛び込んでくる情報以外のところで音楽をやっている。そんな気がする。‘64年、あの頃の気持ちのままに。

もちろんこのご時世、有難く頂戴させていただく情報も沢山ある。

タラ カウンティ・クレア アイルランド フランのパブ

photo (1)今までにもこのコラムで何度も登場しているコアなパブ。タラの村の中にあって、一際ひっそりと佇むところ。

15年前から僕の最もお気に入りの場所。

そこは6~7人の常連が入るともう一杯の、少し傾いたところに建っている。

10時半ころに正装したフランが店を開ける。それを待って中に入るといつもの笑顔に出会うことができる。常連たちが集まって世間話を始める。

そんなフランのパブから写真が届いた。

撮影してくれたのは常連さんの一人、Christy Cleary氏。来年またここで会えるかな?

2014年 アイルランドの旅〜まとめ〜

60年前、ピアノを始めて音楽と親密な関係に陥った。

父は陸軍時代、消灯ラッパと起床ラッパの区別もつかないくらいの、いわゆる“音痴”を絵に描いたような人だったらしく、そのことで悩んでいた母親が、子供には“ああなってほしくない”と教室に通わせた、というのが真相のようだった。

母は草月流の生け花の先生の子供として生まれ、幼少の頃から芸事、特に音楽にどっぷり浸かっていたらしい。

もっとも、戦時中はそんなこともできなかったろうが。

僕がピアノを始めて間もなく、教師から「この子はもしかしたら天才かもしれない」と言われたそうだが、僕はもちろんそんなことは知らない。

ただ、なんとなく覚えていることは、先生が持ってくる楽譜を自分で書き換えては「このほうがいい」と言っていたこと。

小学校にあがる前からずっとピアノの前に座って(ライナスのように)何か弾いていた、ということ。

それと和音に著しく強く、ひとつひとつの音を聴き分け、どんな和音なのかをことごとく言い当てた、ということ。

その辺のことはなんとなく記憶にある。

そして、母親の死によっていったんは離れた音楽と再会したのが14歳くらいの時。

ギターと出会い、ほどなくしてバンジョーに遭遇した。

思えば音楽に関わって60年あまり。

フォークソングの素となるアイリッシュも含めて民族音楽(と呼んでもいいだろう)を始めてから50年あまりが経った。

今、こうしてアイルランドを旅して、ここの音楽を演奏しているが、真面目に考えれば考えるほど深みにはまり、僕らが生まれるよりはるか前に残された音源に胸の高鳴りを覚え、またその時代背景の物語に涙が溢れ、なんという壮大なテーマにぶつかってしまうのだろうと思うことがある。

もっとただ単に楽しめればいいのかも知れないが、されど音楽、である。

僕らが毎回の旅で出会うミュージシャン達は、それぞれが本当の意味で伝統を大切にしている。

僕自身、音楽は芸術だと思っているが、音楽家が全て芸術家だとは思っていない。僕の知る限り、彼ら自身もそうは思っていない。

この音楽は明らかに生活の一部であり、無くてはならないものであり、無くても生きて行けるものでもあるのだ。

No Music No Lifeなどという安っぽい言葉を彼らは持ち合わせていない。音楽というものが自分にとってどういうものか、なんて考えたこともない人達だ。

自分の奏でる音楽には物語があり、捧げるべく山々があり…と、文章で書けば書くほど理屈っぽく、うすっぺらになる。

ただ、日本から来る、或は日本に於けるアイリッシュ・ミュージック愛好家たちの一部はもっともっと彼らの音楽に尊敬の念を抱くべきだ、と思っている。

フェイス・ブックやツィッターなるものが世の中に出現して、ずいぶん素っ頓狂な意見を言う人が増えて来た。

いや、単に目立って来た、と言うべきだろうか。

たかだか10年、20年の経験でこの壮大な音楽を他人に教える人まで出てきた。いや、そういう人の中にも真面目に取り組んでいる人がいることはよく知っているし、彼らもなんとかこの音楽の良さを多くの人に分かって欲しい、という願いでいることだろう。

しかし、先に述べたように、深く掘り下げてみよう、などと思わずに素っ頓狂なことをネットで書きまくっている人が多いことも事実だ。

また、多くの人は当世よくあるバンドのサウンドにしか耳を傾けない。というか、それしか知らない。

本当に難しいのは最低限の楽器でどう表現するか、ということだが、イベントものくらいにしか興味を抱かない人も多い。そういう人達はこの音楽に関わるべきではない。本当に大切なことは何か、ということを知るべきだ。

僕らはアイルランドの旅を通じて沢山のことを学んで来たが、まだまだ奥深く、分からないことだらけだ。でも、それは生きている限り続くことなのだろう。

ただ、さまざまな出会いを大切にし、この伝統に育まれた音楽のひとつひとつの音を、物語を、そして生活をどのように奏でていくか、この国の風景を見ながらゆっくり考えてみたいものだ。

また来年もそんな旅になることだろう。

2014年 アイルランドの旅〜名残惜しい日々〜

9月8日(月)晴れ

ゴルウエイに戻る。早速フランキーと落合って少し仕事の話。

 

9月9日(火)晴れ

テリーが昼にゴルウエイまで出て来てくれた。彼はキンバラという所、ゴルウエイから30分くらいの風光明媚な村に住んでいる。高名なミュージシャンの多くが暮らしたことのある素晴らしいところだ。

むかし、金原二郎ショーという日本テレビの朝の番組にレギュラー出演していたことがあるが…関係ないか。

 

9月10日(水)晴れ

何故か昨日くらいからまるで避暑地のような穏やかな晴天だ。それにやけに暖かい。インディアン・サマーかな。

今日から荷物を少しまとめ始めなくてはならない。長い旅だったが、7月、8月とそれなりに結構忙しかったので、やることはやった、という気持ちだ。

これだけ長く滞在すると、ちょっぴり日本も懐かしくなってくる。

みんなどうしているかな、とも思うし、まだ暑いだろうな、とか、いろんなニュースをみて、大変なこともあったんだなぁ、とか、また政治家が…とか。

そういえば、昨夜ネットでチューリップの安倍君の訃報を知った。

彼とはお互いのバンドの初期の頃から仲が良かった。ただ、この35年くらいは特につながりもなく、インドに在住、ということも知らなかった。

同じ64歳。冥福をお祈りします。

夜8時半、ショーン・ギャビンからセッションのお誘い。10時からセッション。すばらしくトラッドな落ち着いたいつもの水曜日のセッション。

戻ったら2時を回っていたが、帰り道、友達の誕生パーティの帰りだというクリーナに会った。

ケリーの人間らしくいつでもパーティだ。

 

9月11日(木)晴れ

2001年のあの日、あの朝、何も知らずに銀行へ行ったら閉まっていた。普通の日に何故?と思っていたら、通りかかった人が「大変なことが起きているから帰ってテレビをつけろ」と言った。

あれからもう13年?時の経つのは早いものだ。

昨夜のギネスがまだ残っている。実はこちらに来てすぐ、近くのパブでひょんなことから知り合ったおじさんと道で遭遇し、一杯どうだ、と誘われたのが8時頃。それが2杯になったところにショーンから電話だったので、はしごをするはめになってしまったのだ。

あの人達、飲んでも全然変わらないように見えるのに、じゃぁなんであんなに飲むんだろう。

やっぱり少しは気持ちよくなるんだろうか。たまに飲まない日があったりしたら調子悪いんだろうか。謎多きアイルランド人。

 

9月12日(金)晴れ

郵便局から荷物を送る。以外とてきぱき、親切に対応してくれた。

 

9月13日(土)晴れ

6月にここに来てから、雨という字を書いたことが本当に少なかった。異例のことだ。

夜、珍しくTaaffaというところのセッションに顔を出してみた。ゴルウエイに来て最初にアコーディオンのアンダースがいたところだ。

昨日から現ロンドン在住のフルート吹き、織田君がゴルウエイを訪れているので、一緒に出かけてみた、というわけだ。

そこで、マイケル・チャンという中国系のフィドラーに会った。前々から噂を聞いていたし、向こうはずいぶん前から知っていたようだったが会ったことがなかった。ゴルウエイにいて今まで会わなかったのが不思議だったが、僕らがあまりセッションというものに出なくなったので、それは当たり前のことかもしれない。

いろんなレベルの人が交じっていて大勢で、店がうるさかったりすることが多いのでセッションというものからは自然と遠ざかってしまうが、この日はお客さんにもリスナーが多く、フィドル、バンジョー、バウロンと僕、織田君、そして希花というメンバーで質の高いセッションだった。

 

 

 

9月14日(日)曇りのち晴れ

今日はいよいよパッキング。後数日の間でいるもの、そしてもういらないものを分ければいいだけなので多分午前中で済むだろう。

今朝、久しぶりに足の悪い鳥とロビンが来た。しばらく見なかったのはなぜだろう。僕らがそろそろここを出ることを知っているのだろうか。だとしたらこれが本当の超(鳥)能力か。

午後からダブリンのあゆむ君がわざわざ僕らに会いにきてくれる。夜は和カフェの芳美さんと一緒にお疲れ様食事会をすることになった。

僕らのために忙しい中、地元の有名なステーキ・ハウスを予約してくれた。さすがに美味しいステーキだった。

食事の後で、みんなに挨拶するために“チ・コリ”に立ち寄った。本当は1杯くらい飲んで挨拶だけで帰るつもりだったが、リンゴ、ブライアン・マグラー、そして、ミック・ニーリーといった錚々たる面子が「楽器は?」と言うので、すぐ取りに行き、10時半まで演奏。また来年、ということで別れた。

 

9月15日(月)曇り

いよいよ今日、ゴルウエイを去って最終地、ダブリンに向かう。お世話になった和カフェともしばしお別れ。オーナーの芳美さん、本当にありがとうございました。様々な苦難を乗り越えてきたあなたの「ピンチはチャンス」という言葉に感動しました。どうか身体に気をつけて和カフェを盛り上げて行ってください。

あゆむ君がダブリンまで乗せてくれた。どうもありがとう。シェフとしていろんな所で頑張って来た人。いつか日本でお店を出したい、と願っているそうだ。芳美さん同様、この人のバイタリティにも感激。

 

9月16日(火) ダブリン 曇りのち晴れ

今日は空港近くの宿泊所に移動。明朝にはコペンハーゲンに飛ぶ。

 

9月17日(水) ダブリン〜コペンハーゲン 共に晴れ

とうとう最後まで晴れた日が多かった。

みんなに手当り次第“ありがとうメール”を送ったら、次々に“気をつけてメール”をもらった。

持つべきものは友、だ。みんなありがとう。

2014年 アイルランドの旅〜コーク、タラ 最終回〜

9月5日(金)晴れ

いざ、コークへ。鉄道のほうがバスより安いので鉄道を使うことにした。

コークの駅では、フィドラーのMatt Cranitchが出迎えてくれる。マットは名の通ったフィドラーだが、公式に会うのは今回が初めて。

お互いに知ってはいたが、いつも挨拶程度にしか会うことができなかった。

フィドラーを彼と合わせることは僕にとっては大切な使命の一つでもある。

思った通り、彼は、同じ曲でも1921年のマイケル・コールマンの録音と1935年のジェームス・モリソンの録音とを耳を澄ませて聴くべきだ、と力説する。そこにさらに1952年のパディ・クローニンも例に出し、全てのアイリッシュ・ミュージシャンはこれらの事柄に正面から真摯に向き合わなければいけないという姿勢を持っている。もちろん彼は演奏者であるが、博士号を持っている人でもある。

ただ、そうでなくてもアイリッシュ・ミュージックという分野に首を突っ込んだ以上、そこまで向き合う姿勢を持つのは当たり前のことだと僕は思う。

彼が、かなり上級のフィドルの生徒さんにいつもどんな演奏家の演奏を聴いているか尋ねたところ、やはりルナサやソーラスの名前が出てきたそうだ。そしてマイケル・コールマンやケヴィン・バークですら聞いたことがない、というそうだ。

日本にも同じ話しは存在する。

アイリッシュ・フィドラーと自身を詠って他人にまで教えている人達の中には、先に出たような先人達の演奏に耳を傾けたことが無い人もいる。

マットは早速希花の演奏に聴き入り「僕は君に教えてあげられるほどではないけど、いろんな話しを聞かせてあげよう」と言って、自身の勉強部屋で多くの資料を引っ張りだし、貴重な音源を聴かせてくれた。

そしてLord Gordonを一緒に弾こう、とフィドルを持ち出して来た。一通り終えると「誰の演奏から覚えた?」と聞く。「マイケル・コールマン」と言うと「うん、確かにその影響が出ている。素晴らしい」と言う。

こういった経験は今までにもしてきたが、実に大切なことだ。遠くまで来たかいがあった。

夜にはCornor Houseというコークで最も有名なパブでセッション。そこはアンドリューと15年ほど前に一緒に演奏したことがあるパブだ。オーナーも覚えてくれていてにこやかに出迎えてくれた。

そして、コークに住んでいるから来ることがあったら連絡してくれ、と言っていたジョン・ヒックスも会いにきてくれた。

セッションは比較的早い時間だったので、家に戻ってから奥さんの作った料理で話しが弾んだ。そしてまたマットと弾いてその日は過ぎて行った。

 

9月6日(土)晴れ

かわいい猫が2匹、食事を待っている。徐々にみんなが起きてくるまで猫にちょっかいを出して遊んでみた。

ヨーグルトや果物主体の朝食でまた話しが弾み、さぁ、またフィドル談義だ。マットが様々な実例を見せてくれる。それに即した資料も見せてくれる。僕らは3時過ぎの電車でカウンンティ・クレア、エニスに向かうが、それまでたっぷりの講義だった。希花にもとても良い勉強になったことだろう。

奥さんが、土曜日のお昼に必ず焼くというスコーンを紅茶と一緒にごちそうになり、マットが駅まで送ってくれた。

「次はもっと長く滞在するように」と念を押された。こちらとしても願ってもないことだ。ありがとう、マット、そしてリズ(奥さん)。

 

エニス。今晩はアンドリューとパブで待ち合わせ。そこで12時頃までやって、アンドリューの家に泊まる。

12時過ぎ、タラ。僕にとっての故郷だ。いつも行くフランのパブの中から話し声が聞こえる。この時間パブは鍵を閉めて新しいお客さんは入れないようになっている。そう法律で決まっているようだ。

何度かドアをノックしてみる。やっと中から人が出て来た。「毎年ここに寄ってフランの顔を見て安心してから日本に帰ることにしている」と話すとにっこりして中に入れてくれた。

そしてその奥の方、5〜6人の、僕らもほとんどみたことがある常連さんに囲まれて、きちっとスーツを着たフランが座っていた。

もう店は甥に任せて、週末には必ず常連さんのお相手をするために店にいる、というアンドリューの話しは本当だった。

少し話しをしてフランや常連さんたちと別れた。また星降るタラの夜だ。

 

9月7日(日)晴れ

早くに目が覚めたので近くを散歩した。6月下旬、アイルランドに来てから今日まで、ほとんどいい日和に恵まれている。確かに誰もが、今年は珍しいくらい良い天気が続く、と言っている。

思い出に残る雨はフィークルのフェスティバルの時くらいだが、あの時も決定的に困ったことにはならなかった。

アンドリューの家のまわりを歩きながら、様々な思い出に浸る。

初めて来たのは2000年だったと思っていたが、もしかすると1999年かもしれない。どちらにせよ、もう随分前だ。

あの時フランのパブを見つけ、隣にあるインド人夫婦経営のチキン・バーガー屋さんでよくテイクアウトをした。今は経営者がかわり、ケバブ屋さんになっている。

洗濯屋さんも変わらずある。パブも同じ数だけある。たった一軒のスーパー・マーケットも、あの年出来たレストランもまだある。

アンドリューがランチにつれて行ってくれた。2人でポーク・チョップを食べ「チップは?」と訊くと「そんなものアイルランドには無い」と言ったのをよく覚えている。今では場所により置いたり置かなかったり、とその判断も曖昧で、且難しい。

モハーの断崖にも連れて行ってくれた。あの時は広場になっている所に勝手に車を止め、そのまま柵も無い断崖をこわごわ見つめたものだった。

その数年後にユーロ圏になり、入場料も徴収されるようになり、落下防止の柵も出来た。今ではすっかり観光地然としている。

アンドリューとテリーとで作ったアルバムFrom There to Clareでカバーに使った写真の場所を歩く。

ここにも思い出がいっぱい詰まっている。初めて見た緑のトンネルに興奮したものだ。

アイリッシュ・ミュージックを演奏し始めて、アンドリューと出会い、様々な人とのステージを経験して来た。

僕にとっての本当の意味での故郷はやっぱりここかもしれない。

15年前とほとんど変わらない景色が嬉しい。

今回の旅でも多くの人との出会いがあり、また以前からの知り合いにもお世話になった。

僕らはまた来年、この地を踏むことになる。

2014年の旅も素晴らしかったが、来年はさらに素晴らしい旅になるように僕らも頑張って生きて行こう。

月並みだが、タラの景色を見ながらそんな思いでいっぱいになった。

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2014年 アイルランドの旅〜ゴルウエイでゆっくり〜

8月29日(金)雨のち晴れ、それでも時々雨

Wa-Caféで、オーナーの芳美さんが大々的にごちそうしてくれた。すっかりお世話になり、来年からのお互いの仕事の話しの中から共通するものをいくつか見つけ出して、大いに盛り上がった。

苦労してレストランを切盛りして、いろんなことをするためにいろんな分野の人との付き合いを大切にしているゴルウエイのママのような人だ。

彼女のこれまでの人生にはかなり興味深いものがあった。まるで小説の中の出来事のような、そんな経験をいっぱいしてきているようなので、本にしたらいいかもしれない。

すっかり時の経つのも忘れて聞き入ってしまった。

アイルランド、ゴルウエイに来たら是非このWa-Café(和カフェ)に立ち寄ってほしい。

 

8月30日(土)晴れ

特になにもなし。考えなくてはならないことも多いが、ゆっくりしよう。アイルランド人のように。

彼らが急ぐのはパブに入って行く時だけだ。

 

8月31日(日)曇り時々晴れのち雨

天気は書いたような感じだが、結構早くから雨が降って来たので、今日遅くまで寝ていた人にとっては一日中雨、ということになるのだろう。

ころころと天気の変わるアイルランド。早起きするとお天気表示の全てが経験できる。

 

9月1日(月)曇り

今日から9月。もうあと4ヶ月で今年も終わってしまう。そしてアイルランドの旅もそろそろ終わりに近づいている。これから特にどこかへでかける予定もなかったが、昨日急にコーク行きを決めた。そしてそのすぐ後、エニスに寄って2日間、僕のアイリッシュ・ミュージックのルーツである“タラ”で過ごすことにした。

 

9月2日(火)曇り

夜、コーマックが会いに来てくれた。彼は明日朝早くからヨーロッパ・ツァーに出かける。2週間帰ってこないので、もうアイルランドでは会えないかも、と言って来てくれたのだ。

和カフェの食事も目当てのひとつだったが、閉店間際だったのでテイクアウトにして、2階に上がってお茶をのみながら少し話しをすることが出来た。

来年また会おう、と言って別れた。もうこれからは沢山の人に別れの挨拶をしなければいけない。

 

9月3日(水)なんとなく晴れ

インディアン・サマーかな。少し暖かい。

テリーからも電話があった。忙しそうだが。時間ができたら月曜日くらいにゴルウエイに出てきてくれるそうだ。

ここでは教会のコンサートも今日がラストだ。そしてなぜか、僕らがその最後の演奏をすることになった。

なんか申し訳ないような感じだ。トラディショナル・アイリッシュ・ミュージックをアイルランド観光の思い出として持って帰ってもらうのに僕らでいいのかな、と…。

でもお客さんはとても喜んでくれた。

とりあえず、来年またここで演奏することになっている。それまでこの歴史ある美しい教会ともお別れだ。

Tune in the Churchというプロジェクトは、アイルランド音楽、特に伝統をきちっと守ってゆく人達に支えられた本当に価値ある催しだ。

そこにライン・アップされるミュージシャンは有名無名を問わず、まさにこの音楽の歴史のなかの1コマ、そのものだ。

時として、この人はまだ生きていたんだ、なんていうことにも遭遇する。ずっと続けていたら、僕もそう言われるかも知れない。

お昼に作ったフルーツ寒天を食べながらしばし感慨にふけった。

 

9月4日(木)今日もなんとなく晴れ

インディアン・サマーは大体数日続いたりするが、きょうは少し肌寒いような気がする。久しぶりにバード・ウォッチングでもしてみよう。

2014年 アイルランドの旅〜ゴルウエイ〜

8月23日(土)晴れ ひたすら寒い

もう、朝起きるとかなり寒いせいか、鳥も待っていることはなくなった。僕が起きるのが早すぎるのかもしれない。

今週は(来週か)木曜日にパディ・キーナンがやって来て、僕らと、ここゴルウエイでコンサートをやることになっている。

約1ヶ月前、彼にコンサートの話しを持ちかけたところ、ダブリンからアメリカに帰る直前、一日だけ時間を作ってくれた。

木曜までに仮のセット・リストを作っておこう。

たとえ仮のものでも作っておけば、そこから別なアイディアが生まれる可能性もある。

セット・リストというのはプロのミュージシャンにとっては非常に大事なものだ。

デビッド・グリスマンは自分の作ったセット・リストをまじまじと眺め「完璧だ」と自画自賛していた。

高石ともやも「セット・リストが出来たらコンサートもできたようなものだ」と言っていた。

料理に於ける仕込みと同じだ。仕込みさえ120パーセント完璧にしておけば少々のことがあってもこけないで済む。

コンサートの場合、その上で起きるかも知れないハプニングを楽しむ。

パディとのセット・リスト作りは、僕がやっていたことも多かったので、一応作っておこう。

後は、人の多いゴルウエイを少し楽しんでみよう。昨日まで羊しかいなかったから。

 

8月24日(日)曇り

後で晴れてくるだろうという希望的観測は持てないほどの、しっかりした曇り空だ。

今日は珍しく大きなマグパイが来た。思わずChattering Magpieが口をついて出てくる。The Gun In The Thatchというタイトルの方が有名かも知れないがNoel Hillのコンサルティナの音色が聴こえてきそうだ。

ロビンもやってくるが、なかなかに警戒心が強く、すぐに飛んで行ってしまう。

もう明らかに“冬”と言って良い寒さだ。鳥たちも寒いだろう。

因に今朝の気温は8℃だったらしい。そしてやっぱり雨が降って来た。

 

8月25日(月)曇りのち雨、のち晴れ

夜、バンジョーのポラック・マクドナーと近くのパブでセッション。

 

8月26日(火)曇り のち晴れ

パディ・キーナンとのコンサートのポスターを貼りに街中のパブや楽器屋さんに出向く。

 

8月27日(水)曇り

朝から木枯らしビュービューという感じだ。 今日はチャーリー・ピゴットとクレア・ケビルのコンサートを聴きに行った。

 

8月28日(木)快晴 のち嵐

今日、パディ・キーナンがやってくる。Co.Carlowから車を飛ばしてくる。約3時間半。僕らとのコンサートが終わると、ダブリンに行き、すぐにアメリカに戻り、またツァーに出ることになっている。相変わらずとても忙しそうだ。

10年以上も前、そろそろツァーも疲れて来たし、少し仕事を減らしてゆっくりすることを考えなくては…と言っていたが、なかなかそうはならないようだ。

僕らとの演奏が終えた後「ちょっと3人で話しがしたい」というので、何だろうな、と思うと来年のことだ。

今日の演奏で、僕らとのヨーロッパ・ツァーを思い立った“が吉日”という感じだ。

彼はかなり真剣に思ったようなので、来年、日本ツァーも含めて僕らも考えなくてはならない。

今日、彼が来る少し前から雨が振り出し、その後風も強くなって嵐のようになった。文字通り“嵐を呼ぶ男”だ。

「おいらはドラマー、やくざなドラマー♪〜」と希花さんが歌っていた。

2014年 アイルランドの旅〜ディングル〜

8月20日(水)晴れ

いざディングルへ。今日はブレンダンの元の奥さんの車で約3時間とちょっと。ゴルウエイ近辺では慎重に運転していたが、さすがにケリーに入ると自分の庭のような感覚になってか、すっ飛ばし始める。

今日は海辺の崖道を通りましょう、と、僕らにとんでもない景色を見せてくれる。

いたるところ、車がすれ違うことが出来ないほどの曲がりくねった細い道。右側は断崖絶壁。左側は今にも崩れ落ちそうな岩肌の飛び出した崖。そこを慣れた様子で進んで行く。

前から車が来るのが見えたら、ここで待機、と言って突き出た崖の下にもぐりこむ。「子供の頃、おばあちゃんとよくここを通ると、いつ岩がおちてくるか気が気じゃなかったのよ」と言って笑う。

僕らもいつ他の車と鉢合わせになって、いざバック、ということになるだろうか、と気が気じゃない。

実際、ツーリストが入り込んだらかなり怖い思いをする道だろう。しかし風景はこのうえなく美しい。

家に着いてブレンダンと再会。

今日はゴルウエイでも夏の期間に行われているTune in the Churchのディングル版に出演することになっている。

2階席を含めたら100人ほどのキャパシティの教会には、早くから人々が集まって、ほぼ満席になった。

サウンド係の人も、さすがにこの音楽のことをよく知っている人だ。1部にパイパーとギター、2部に僕ら3人だったが、サウンド・チェックの時からこういった音に慣れ親しんでいる感じだ。

多分自分でもこの手の音楽を演奏するのだろう。そういえば、デニス・カヒルもPAを担当していたことを思い出した。

素晴らしい音に包まれて、僕らの持ち時間は45分。ブレンダンの美しい歌声が響き、地元ケリーならではのポルカが鳴り響く。

ちょうど高橋竹山さんを地元、青森で聴いた時のようだ。

この日のために予定を変えた高橋夫妻にも楽しんでもらえたと思うが、遠いところを本当にありがとう。

星が降り注ぐディングルだった。

 

8月21日(木)曇り、時々雨

ゆっくり休んで、昼からブレンダンが使っているキャラバンで食事。彼のお兄さんにあたるシェーマス・ベグリーの家の庭に置いてあるキャラバンだ。

キッチンからトイレまで、それに広いベッド・ルームもある。

見渡す限り山、山、そして草原には羊が。遠くに海。

いつも思うがこういうところで生まれて、こういうところで聴いてきた音楽を子供の頃からやっているのだから、どういう感性で育って行くのだろうと思ってしまう。それはもう、想像の範囲でしか語れないものかもしれない。

ブレンダンが釣ってきたサーモンをまた、スシにする、といって聞かない。冷凍したから大丈夫だ、というが、その前の段階、どんなところでおろしたか、いまから使うまな板(と呼べる代物にはほど遠い)ナイフ、あくまで包丁ではなくナイフ。そしてどこから拾って来たのか、それを研ぐ石。

それらを見る限りこれを生で食べる気にはならない。

それでも彼はスシをつくる、というのでそれは“さしみ”と言うんだ、と言って僕らの分は塩ジャケとして食べた。

勇気を出して一切れだけさしみとして食べた希花が、確かに脂の乗ったおいしい鮭であることは認める、と言っていたが、あくまで一切れだ。

ま、今でもピンピンしているから大丈夫だったようだが、なにはともあれワイルドな食事を済ませてコンサート会場へ。

今日は2年前にも演奏した楽器屋さんでのコンサート。チャンピオン・ダンサーも出演しての素晴らしいコンサートになった。

画家がステージ袖で、演奏している僕らをその場で描く、というパフォーマンスもあり、40人ほどの会場は盛り上がった。IMG_20140821_212341

明日は朝早く僕らはゴルウエイに戻り、ブレンダンはレイトリムに6時間ほどかけて突っ走るので早い目に失礼して帰った。

ケリーの山々を見下ろす暮れかけた空が美しい。

そういえば、朝、散歩をしていると、柵に首を突っ込んだ角の生えた羊が、自分の角がひっかかって四苦八苦している光景に出会った。

助けてあげることも出来ず、頑張れ!頑張れ!と言いながら眺めていると15分ほどしてやっと抜けて去って行った。

羊は必死だったろうが、僕らは面白かった。

 

8月22日(金)晴れ

朝8時過ぎにブレンダンが、向かう方向とは逆に突っ走る。3分ほど走ると朝のお決まりコース、海にドボンだ。

ジャケットを着ていなければ寒いくらいの気候なのに、さっと着ている物を脱ぎ捨て、ドボン。

ブレンダンの今の彼女、オーラは素っ裸になってドボン。あきれて眺めている希花を尻目に二人でシャンプーを楽しんでいる。

大西洋が風呂の代わりだ。

10分ほどであがって来ていざ出発。

僕らはお昼過ぎにゴルウエイでブレンダンと別れた。

強烈に疲れるが、本当の本物のアイリッシュ・ミュージックとは、彼みたいな人が奏でるものなんだ、と思わざるを得ない。

勿論、そこまでワイルドでなくても、そういう本物のミュージシャンが僕らのまわりにいっぱいいて、彼らが僕たちを誘ってくれるのはとても嬉しいことだ。

2014年 アイルランドの旅〜ケリー行きを控えて大人しく潜航〜

8月17日(日)ほとんど快晴

今日はゆっくりしてスライゴー疲れを取る。

日本から来ているハンマー・ダルシマー奏者の高橋夫妻に会うことになっている。

3人とも時差ボケでぐったりしているようなので、食事をして、少しパブを覗いてビールを飲んで、それからお茶を飲んで早い目に別れた。

明日はドゥーラン。モハーに行くそうだ。無事にたどり着けるよう祈っています。

 

8月18日(月)朝のうち曇り、後、晴れ

最近、安いオートミールを見つけたので、それを撒いておくと、特にロビンは好むようで小さい身体であっちこっち向きながら一生懸命食べている。

パンにしか反応しない贅沢な鳥もいるが。

今日、明日とゆっくりして疲れを取ってからディングルに向かおう。

 

8月19日(火)晴れ

じっくりとケリー行きの準備。

2014年 アイルランドの旅〜ゴルウエイに戻る〜

8月11日(月)雨も晴れも曇りも全てが交互に

もう晩秋だ。寒くなって来た。昨夜はエニスでスーパー・ムーンを観測したが、今日も相当月が明るいので、ペルセウス座の流星群を見るのは難しいらしい。

街を歩くと、クリーナ(コーマックの妹)に出会ったり、フランキーに出会ったり、やっぱりゴルウエイだ。

白鳥もすぐ近くによってくる。道行く人が餌にするパンをくれた。多分希花を見て、子供が餌をやりたがっている、と思ったのだろう。10羽ほどの白鳥に混じってカモメが見事なフライング・キャッチを見せる。

こんな光景もやっぱりゴルウエイならでは、だ。

ゆっくり休んでフィークルの疲れを取ることにする。

 

8月12日(火)雨も晴れも全て

朝、起きたら晴れているのにどしゃ降りだ。天気雨、狐の嫁入りなんていうものではない。本降りなのに陽が射しているのだ。そして、あっという間に止んだ。もう青空が出ている。

結局、今日も夕方にはとてもいい天気になった。

鳥達も満足そうに餌に飛びついていた。

 

8月13日(水)晴れ

今日は珍しく朝からよく晴れ渡っている。日本の11月中旬のとてもいい天気の日、という感じだ。

ブレンダンと電話で話したが、今日は比較的電波がよく、また彼も家にいてリラックスしているせいか、分かりやすかった。

いつも忙しく、電波の悪いところから急いで電話してくることが多いので、ほとんど何を言っているのかわからないまま終えることもある。

時々あせってゲール語になったりもする。

今日はこちらもリラックス。晩秋の一日をゆっくり楽しもう。

と思いきや、9時に先日出会ったダーモットがセッションをやっている、というパブを覗いてみたら帰りが午前様になってしまった。

今日は休肝日、と決めていたのにギネスをごちそうになって、しんどい。

ゆっくり寝よう。

 

8月14日(木)曇り

早野先生、古矢先生(彼女達はどちらも教師だ)にいただいた鳥の図鑑で、ここに来ている鳥達の種類が判明。

最初によく来るのがどうやらSong Thrush(うたつぐみ)Starling(むくどり)そしてRobin(こまどり)この3種類のようだ。

教えていただいて感謝です。

今日は、昨夜会った、ミックというおじさんにギターを教えてあげる約束がある。

彼はDADGADも試したことがあるけども、昨夜僕の弾いているのを見て、やっぱり少しこのチューニングも真剣にやってみたい、と思ったらしい。

アイリッシュ・ミュージックにおいてギターはやはり教えるのは難しい。それでも一生懸命ノートに書いて、テープに録って、練習して2週間後にまた来る、といって喜んで帰って行った。

2週間後が楽しみだ。でも、それで全然進歩なかったら教え方が悪いのか、はたまた本人のせいなのか…まるでダイエットだ。

 

8月15日((金)晴れ 気温13℃

今日は69回目の終戦記念日。

僕の父は陸軍少佐として最初、サイパン島にいたそうだが、ほどなくしてトラック島に移った。もしそのままサイパンにいたら僕は生まれていなかった。それこそ南方諸島の状況はかなりひどかったようで、あまり話をしてもらった覚えがない。

終戦記念日になると黙っていそいそと日の丸を掲げる父の姿に、それが軍国主義に基づいたものだ、とか言えるものではなかった。

父が癌で亡くなってからもう30年。戦火のなかで生き延びてきた彼も癌には勝てなかったようだ。

全ての戦没者に黙祷。

さて、今日はアンドリューがオーラ・ハリントンと共に教会のコンサートにやってくる。

オーラもクレアー出身のダンサー兼フィドラーだ。

僕らも少し一緒に演奏した。パブとは違って、じっくりと目をつぶって弾く彼の姿が印象的だった。

オーラがホーンパイプで素晴らしいステップを見せてくれた。本日のハイライトだった。

終わってから少しの間アンドリューと希花と3人で飲んで話しをした。オーラはクレアーに戻り、アンドリューは明日スライゴーに行く。

僕らも先日会った“ピート・シーガー・モデルのダーモットとお昼頃出発してスライゴーに行くことになっている。

 

8月16日(土)曇り

午前11時15分、ダーモットとの待ち合わせ場所に行くと、時間通りみんなが現れた。ダーモットと他友人2人、それに僕らでいざ、スライゴーへ。

アイルランド音楽最大のイベント、フラー・キョール目指して。

10万人はきているらしい、なんていう情報もあるが、1週間以上続けてやるのでトータルで、だろう。

だが、小さな町、スライゴーの通りという通りは人でうめつくされていた。子供達がいたるところで演奏している。

このお祭りについてはネットでいくらも出てくるだろうし、他にもこのために日本から出向いて来ている人も沢山いるので、ここでは詳しく書かないことにする。

しかし、毎年行われるこの祭典のコンペティションで優勝したら、いちやくアイルランド中に有名になることまちがいなしだ。

勿論それでなくても名の出るミュージシャンは沢山いるが。

僕らもそれぞればらばらになって、人をかきわけかきわけいろんなパブをみてまわった。

ここでは、ジェリー・フィドル・オコーナーがフィドル・ショップを出している、というメールがきていたので、そこに行ってジェリーと会うのはひとつの目的でもあった。

小さな町なのでそれは簡単に見つかった。小さな町の小さな店にお客さんがいっぱい。アコーディオン部門はマーティン・クインが担当していた。

忙しそうだったので挨拶だけ済ませて、また通りに出た。

しばらく歩くとDunnesとPennysといういわゆるスーパーマーケットが一緒になっている大きなショッピング・モールがあった。

その中の1店舗であるコーヒー屋さんがMusicians Welcome Free Coffeeという看板を掲げているではないか。

行ってみよう、と希花と2人入って行くとショッピング・モールのいたるところで子供達が演奏している。

目的のコーヒー・ショップはちょうどスター・バックスのようなお店。希花が店員さんに訊きに行った。

「いつでもはじめていいよ。コーヒー持って行くからって言ってる」というが、それぞれに多くの人がくつろいでコーヒーを飲んでいるところで、突然楽器を出して弾く勇気はなかなか無い。

本当かな、と思いながら周りを見回しておそるおそる楽器を出した。少し弾き始めたら店員さんがにこにこしてコーヒー^を持って来てくれた。

どうやら本当だったらしい。そこで1時間くらい弾いているとおかわりも持って来てくれて、沢山の人が喜んでくれた。

このお祭りのために人が集まり、そしてこのお祭りのために街中がミュージシャンをサポートしていることがよくわかった。

ダーモットから連絡が入り、良い場所が見つかったからここで一緒にやろう、と言ってきた。

そろそろ1時間半にもなるので店員さんにお礼を言って店を出た。彼らは口々に「こちらこそ良い音楽をありがとう」と言ってくれた。

それからはダーモットと僕ら、フルート吹き、そして2人の少年バンジョー弾き。後からマンドリンやフィドルなども加わって大セッションに発展。

一人の少年バンジョー弾きの両親がずっと前、ロングフォードで僕を見たと言った。おそらく2002年頃だろう。パディ・キーナンとの演奏だった。そして帰り道、パーキングに向かって歩いていると、懐かしい顔が向かいから歩いて来た。バンジョーのブライアン・ケリーだ。

同じく2002年頃、家に遊びに来て、前の晩全く寝ずに飲み続けていてお腹が減ってしにそうだ、と言ったのでピザを食わしたら、馬のようにがっついて、と思ったらトイレに駆け込んで、吐いて、そしてケロっとしてまた食べたかと思ったらすぐバンジョーを弾き始めた奴だ。

あの時、まだ子供のような風貌で信じられないプレイを見せてくれたが、もうかなり大きくなっている。

YouTubeでみていたので分かったが、それでなければわからないかもしれない。しかし、バンジョープレイはかなりすごい、狂気に満ちたものがある。

少し話しをして別れたが、またいつか会えるだろう。

ゴルウエイに着いたのが9時45分くらい。ダーモットは「さぁ、無事にみんなを送り届けたから飲みに行くぞ」と一緒に行った2人とパブに入って行った。僕らはそこで失礼した。

彼に感謝だ。もし彼に会わなかったらスライゴーには行かなかった(行けなかった)だろう。

2014年 アイルランドの旅〜フィークル〜

8月7日(木)朝のうち雨、のち晴れ

今日からフィークル。久しぶりにアンドリューとの演奏だ。

今日、日本からの早野さんと古矢さん、というお二人がアイルランド音楽の旅の中間地点にフィークルを選んでいるので、レンタカーに便乗させていただくことにした。

さて、ここはフィークル。

すでによく知った顔ばかりで、次から次と挨拶しなければいけない人が現れて、八方美人になってしまう。

アンドリューに電話してみると、向こうの方から電話に答えながらやって来た。1年振りだ。

まだ時間があるのでブラブラしていると、パット・オコーナーがやっていたので30分だけ入らせていただいて、アンドリューとのセッションの場に戻った。

9時からの予定だったので、急いで戻ったが、例のごとく「10時くらいから始めるか」といいながらケタケタ笑っている。

お腹が空いた、と言ったらそこのテントの中になんでもあるから勝手に食べたらいい、と言う。

そこは特設ステージで、客席は100人ほどが収容できるようになっている。本当に食べ物、飲み物はフリーなのか知らないが、アンドリューもマーティン・ヘイズもデニス・カヒルも口を揃えて「タダだ」というので勝手に食べた。

こんなときでもお嬢さんは「虫なんかついてない?」と訊く。「文句言わずに食え」と腹ごしらえ。

確かにラフな食べ物ではあるが、これからに備えて腹ごしらえするには充分だ。ここで食べておかないと、他には何もない。

そこに、希花さんの長年のアイドル、マーク・ドネランを発見。僕は以前から顔見知りだったのだが、なかなか紹介する機会に恵まれなかった。

いつも人に囲まれて忙しそうな人なのだが、この際声を掛けてみよう、と思い切って声をかけてみたが、それもよかったのか後でアンドリューとのセッションに来る、と言ってくれた。

セッションの支度をしているとアンドリューが「希花が会いたがっていたからマークも呼んでおいたぞ」と言ってくれた。ダブルで声をかけたのだ。

果たしてセッションが始まってから30分ほどしてマークがやってきた。希花の横に座ってチューニングを始めた。

マークとアンドリューに挟まれ、おまけにマークのとなりには、アイリーン・オブライエンもいる。

しかも自身がセッション・ホストなのだ。このシチュエーションにはなかなかなれるもんではない。

それからのセッションはもう筆舌に尽くし難い。

とりあえず、今日はゴルウエイに戻るので1時過ぎに失礼させてもらった。

 

8月8日(金)雨のち快晴

今日は教会でブレンダンとのコンサート。パダー・オリアダと一緒だ。歌手のショーン・オ・シも一緒だった。

コンサートが終わるとブレンダンはCo.Mayo目がけて突っ走って行った。

 

8月9日(土)晴れのち、フィークルは大雨のち晴れ

今日からまたフィークル。今晩からはエニスに泊まる。

モロニーズというパブでジョセフィン・マーシュ&ミック・キンセラと待ち合わせ。

9時からということだが、今日は奥でシンギング・セッションが行われている。

予定では6時から9時まで。

シンギング・セッションというのは、自分の得意な歌や地元の歌を各人が数曲ずつ歌ってみんなで聴く、というものだ。

どんなに下手な人でも参加でき、また拍手をして「もう一曲どうぞ」というのが礼儀だ、とも聞く。

そして静かな雰囲気でなかなか終わらないのだ。

ジョセフィンもそんなことは承知なので、9時半頃現れて、まだやってるの?という感じだ。

9時45分頃。奥ではまだ誰かが歌っているが、さぁいきましょう、と突然アコーディオンを鳴らし始める。

彼女はとても人気があるので狭いパブの中は、今か今かと待ちこがれた聴き手と弾き手が素早く反応。全員ですっ飛ばす。もう完全にこっちのペースだ。

そして、3時間半ほどがあっと言う間に過ぎて行く。

戻ったら2時を回っていた。

 

 

8月10日(日)雨が降ったり晴れたり

朝、こちらに住む“フーさん”こと、赤嶺君と待ち合わせしてフィークルに向かう。

途中、日本からやってきた早野さんと古矢さんをアンドリューの住むタラに連れて行ってあげようという話になり、寄り道をする。

僕らにとっても今回初めてのタラ。

何も変わっていない。

アンドリューに電話をして「今、家の前にいる」と言うと、慌てた様子で「ま、待ってくれ。これからシャワーを浴びる」と言うので「心配ない。日本からの人を観光名所に連れてきただけだ」と言っておいた。

しばしブラブラしているとアンドリューが出てきた。訳がわからないままにカメラに収まってくれた。

それじゃまた後で、ということで僕らは一足先にフィークルに向かった。また雨だ。でもあっと言う間に晴れたかと思ったらまた降る。そんなことの繰り返しで、それでも結局あまり困るようなことはなかった。

今日は午後3時からなので早く帰れる。

セッションにはデニス・カヒルも現れ、初めてまともにツイン・ギターも楽しんだ。

アンドリューはやっぱり面白い。良いプレイヤーだし、何と言ってもクレアーの本物中の本物だ。

外にタバコを吸いに出たアンドリューがじいさんをひとり連れてきた。「歌ってくれ」というと、歳の頃は90も近いだろう彼が歌う。

もうこれにかなうものは世の中に存在しないだろう。日本でも地元のお年寄りが歌う民謡にかなうものはないだろう。同じだ。

そしてまたアンドリューが軽快に突っ走る。

早野、古矢組とエニスに戻ってしばし歓談。

彼女たちは明日ダブリンに戻って、その後日本に帰るそうだ。

全く余談だが、お二人のうちのお一人が、ぼくから見ると中井貴一によく似ているのだ。でも、少し前はアウン・サン・スーチーとも言われたそうだ。

そんなことを話しているうちに、スーチーさんはミャンマーの人だったね、ということになりミャンマーはビルマの竪琴だ、という話になり、素晴らしい法則が生まれたのでここで紹介しよう。

 

中井貴一=お二人のうちのおひとり=アウン・サン・スーチー=ミャンマー=ビルマの竪琴=中井貴一

出来過ぎじゃありませんか?

尚、お二人のうちのお一人、としたのは個人情報保護法からです。

 

2014年 アイルランドの旅〜フィークルに備えて、深く静かに潜航〜 

8月2日(土)晴れ のち時々雨

特になし。朝晴れていると後で雨が降る、というのはやはりこの国では常識のようだ。それにしても楽器の鳴りは至って良い。今日も寒かった。

 

8月3日(日)曇り

今日のビッグイベントとしては、夜8時からここ「和カフェ」でミニ・コンサートをやること。

その前に、アイルランド大使館の料理人、あゆむ君がダブリンから夏休みを利用してやってくる。和カフェのオーナー、芳美さんの古くからの友人だ。

あゆむ君の到着と共に、4人で近くのレストランでワインなどを飲みながら食事をして、昼からすっかり出来上がってしまったので、夜に備えて少し昼寝。

8時から、ということだが何せアイルランド。始めたのが8時半頃。それでもだれも文句を言うわけでもない。

和カフェ特製のトロのお寿司や、ゴルウエイの有名な牡蠣、ロブスター、おむすびなどが用意されていて、実に豪華な“ディナー・ショー”となった。

アイリッシュ・ミュージックを知っている人、知らない人、というシチュエーションはよくあることだが、日本人とこちらの人が半々、というのはとても難しい。話すことも、何を言っているのやら自分でも分からなくなってくる。

30分くらいやって、いったん切り上げて食事タイムにすると、それからやってくる人もいるので、また始める。

 

奥さんが日本人という、スペイン人のテナー・バンジョー弾き,Javierも来てくれたので、彼ともセッション。彼の友人の女性シンガーもスペイン語の歌で素晴らしい歌声を披露してくれた。

11時頃、みんなが帰ってから、残った日本人7人だけでまたお話会。あゆむ君も芳美さんも酒にはめっぽう強い。

本人達はそうでもない、というが、全く変わらず、持続性があるようだ。結局眠りに就いたのが2時半頃。

一番疲れたのは芳美さんだろう。おつかれさまでした。明日は従業員の給料計算をしなければいけないらしい。あ、もう今日か。

 

8月4日(月)快晴のち、にわか雨

本当にゴルウエイにいる、ということを忘れてしまうほどの青空。ただ、空気は至って冷たい。

昼頃、コーマックからメールがあって、5時からまたパブで演奏の依頼を受けた。

あゆむ君が帰る前にみんなでピクニック。河辺りに座って和カフェでテイクアウトしたお寿司や焼きそばを食べた。

真っ青な空の下、白鳥やかもめが憩う河を眺め、遥か彼方にひろがる山からそよいでくる冷たい空気を感じながら、時の経つのも忘れるほどだった。

ただひとつの心残りをのぞいては。

僕のお弁当はチキン照り焼きの乗った焼きそばだったが、親心で希花に少し食べさせてあげようと箱のまま渡したら、希花がみごとにひっくり返してチキン照り焼きだけ落としてしまった。

ならば、野菜だけの焼きそばにすればよかったのに…(涙)。

ところでこの日、7時に演奏が終わったのだが、その10分ほど前からとてつもない雨が降って来た。

これは帰れん、と思っていたら、7時5分過ぎくらいに青空が広がった。慌てて帰った。そして、アパートに着いて食事をしてリラックスをしていると8時過ぎ、また雨だ。

あのタイミングで帰ってこれた、ということは…やはり晴れ男…かな。

 

 

8月5日(火)晴れ

今日も鳥が待っていた。どうやら、マグパイとロビンといったところが主体のようだ。

昼からテリー・ビンガムと会って、別れた後雨が降った。幸い洗濯物は取り込んだし、晩ご飯の買い物も済ませたので、雨にも濡れず、無事一日が終わりそうだ。

夜はエマ(ダンサー)にもらった白ワインを1本飲んだ。酔っぱらったので寝ることにした。

 

8月6日(水)晴れたり曇ったり

多分、またどこかのタイミングで雨は降るだろう。

さて、この近くにセント・ニコラス・チャーチ(僕らが出るコーマック主催のコンサートをやるところ)があって、その道脇にマーケットが週末に、あるいは、何かのフェスティバルの期間に出るのだが、ひとつ紹介したい出店がある。

ダニエルという、歳の頃は40前後の見かけの、なかなかかっこいいおじさんがドーナツを揚げているのだが、それが何といっていいのか、美味しいのだ。

由緒ある高名なドーナツなんて目じゃない。どんな秘密が隠されているんだろう、と思うくらいに口の中で溶けてしまう。

カリッ、フワ、モチモチとはこのことだ。信じられないほど美味しいが危険だ。

1個0.8ユーロ、6個買うと4ユーロだが、健康のためには1個に押さえておかなければいけない。

ダニエルに「日本の原宿で冬限定でいいからやってみたらすごいことになる」と誘ってみたが、ここでもかなりの人気なので、あまりすごいことになったら身体がもたないかもしれない。

さて、鳥たちがまた待っているが、そろそろパンの種類を変えてあげようか。だが、ダニエルのドーナツはあげるわけにはいかない。

これからフランキーと会うが、12時15分と言っていた。おそらく1時半は裕に過ぎるだろう。

珍しくほとんど時間通りやって来たフランキーとちょっとお話しして、それから買い物に出た。

今日は、これも珍しく全く雨が降らない。現在夜の7時過ぎだが、素晴らしい快晴だ。

 

2014年 アイルランドの旅〜季節はもう秋〜

7月29日(火)曇り

寒い。12〜3℃だろうか。

裏庭の鳥たちの中にもかなり慣れてきて、すぐそこまで来て餌を待っている奴もいる。

僕らがいない間、あるいは帰った後大丈夫か心配だ。

町を歩いていてショーン・ギャビンと出会った。一人でべらべらと嬉しそうにお話して行った。フランキーが帰ってきたら一緒にやろう、ということだった。

夜、パディ・キーナンとスカイプで話したが、いつもよりとても元気そうだった。8月28日にここ、ゴルウエイで僕と希花とパディの3人でコンサートをやることを決めた。マーチン・オコーナーも空いていればくるかもしれないし、フランキーにも声をかけてみよう。

 

7月30日(水)曇りのち晴れ、のち小雨、のち晴れ

朝起きたら、今日も鳥が待っていた。

あと1日で7月が終わる。正月のことは昨日のように覚えているのに、もう8月だ。えらいことです。

7時過ぎショーン・ギャビンから電話があった。9時50分に待ち合わせしてセッションをすることになった。

また、目一杯のギネスとお話とで、戻ったら多分2時くらいだろう。

えらいことです。

いい勘だった。2時15分。ギネスは想像通り目一杯出てきた。えらいことでした。

 

7月31日(木)曇りのち雨、後晴れ、のち曇り

やっぱりしんどい。今度はギネスを1杯で断ろう。

お昼からコーマックと会って、また仕事の話をした。

それ以外の用事は特にないので、ゆっくり休むことにする。いつ雨が降ってくるかわからない天気だし。

 

8月1日(金)晴れのち雨

今日はお昼にコーマックとダンサーのエマと4人、町で演奏と踊りの、いわゆるバスキングをすることにした。

彼らは教会でのコンサートの宣伝を兼ねて、道行く観光客を相手によくやっているのだが、今日は僕らもそれに一役買おう、ということだ。

エマ・サリバンは、日本公演の経験もあり、DVDも出している可憐なダンサーだ。

街角に力強い靴音が響く。

1時間ほどやって帰ってくると少し雨が落ちて来た。やっぱり晴れ男だ。

そうこうしていると、今お世話になっているこちらのレストラン「和カフェ」のオーナーから「誕生日のパーティーをやっているのでもしよかったらハッピー・バースデーを」という要望があった。

勿論オーケーだ。

なんでも16歳になる女の子の誕生日のお祝いらしい。

ドアーを開けて突然乱入。こういう時の白人の若い子たちの反応は実に素直だ。

ざっと見て10人ほどの着飾った女の子たちも、驚いた直後、一緒になって大きな声で歌いだす。

そして1曲“Lover’s Waltz”をやって、さっと引き上げた。これはこれで面白い経験だった。

さて、ちょっと前から気になっていたお向かいのパブに行ってみることにした。どうやら金曜日にセッションをやっているらしい。

入ってみるとベガのロング・ネック・バンジョーを抱えた人がいる。僕が「お、ピート・シーガーだ」と声をかけると、もうそれだけで仲間入りだ。

ここのセッションは歌も沢山歌う。それもいわゆるパブ・ソングではなく、比較的年齢層も高いので、フォーク・ソングや、カントリーが主体だ。

それでもバンジョーを抱えたおじさんの他に、テナー・バンジョーの10歳くらいの男の子と、アコーディオンを抱えた、その妹らしき子供たちが両親と一緒に来ている。

バンジョーのおじさんがアコーディオンに持ち替えてインスト・ナンバーを弾く。テナー・バンジョーの男の子はとても上手い。まだ始めてそんなに経っていないようだったが実にいいタイミングでいい音を出す。

一緒にデユーリング・バンジョーを弾くと、恥ずかしそうに喜んでいた。なんかいい感じだ。将来、良いバンジョー弾きになるだろう。

他にもギター抱えて歌を歌うおじさんが2人ほどいて、サイモンとガーファンクルの曲を歌ったり、それこそピート・シーガーを歌ったり、なかなかこれも良いセッション経験だった。

後で知ったが、彼らはみんな去年から僕らを見ていたらしい。他所のパブで、いつもあまりに人が多かったので声をかけられなかったけど、やっと会えた、と喜んでくれた。

ロング・ネック・バンジョーとアコーディオンのおじさんは、「アンドリューと一緒にやっていたか?君のことはよく知っている。彼は僕の先生だ」と言った。

ゴルウエイでも段々顔が売れて来た…ようだ。

季節はもう秋だ。

 

2014年 アイルランドの旅〜ゴルウエイに戻ってから〜

7月21日(月)晴れ

ひたすら爆睡。今週からアート・フェスティバル週間らしいが、それにはあまり興味がないのでゆっくりすることにしている。

 

7月22日(火)曇り 3時頃激しい雨、後清々しい晴れ

まだ疲れが残っている。昼前からショッピング・ストリートに出てみるが、今日はえらく暑い。といえども、これは何度くらいだろうか。多分25℃くらい?でも、めずらしくすごく湿気を感じる。

しかし、6時を回った頃から涼しい風が吹いてきて気持ちよくなってきた。

 

7月23日(水)曇り

今日も珍しい暑さになりそうだ。

このところ、アパートの裏庭にパンをまいておくと、鳥達がやってくるようになった。

詳しい人だったらわかるのだろうけど、いろんな鳥がいる。

なにを考えているのかわからないが、それぞれの動作が面白い。

来る鳥、来る鳥を追い払っている奴がいた。そいつひとりだけ種類が違う。意地悪な奴だと思っていたが、数日前から足の折れ曲がった彼とは違う種類の鳥がやってくると追い払わず、食べているのをじっとみている。

良い奴なのかもしれない。

3種類か4種類の鳥がやってきて、なかなかに飽きない。

今日はひとつセッションを済ませれば休める。それも早い時間なので、週末に備えて身体を休めておこう。

 

7月24日(木)晴れ

気持ちのいい涼しい朝。こういう日に限って後から雨が降ったりするから、洗濯のことを考えるのはむずかしい選択だ。なかなかきれいなしゃれだ。(自己陶酔型)

天気はまぁまぁの一日であった。

明日からの用意をしなくては。

 

7月25日(金)晴れ

ブレンダンと11時半に待ち合わせ。これからWexfordに出かける。

彼はアイルランド人には珍しく時間に正確だ。なので、Wexfordには大体思っていた時間に着いた。

ここでは第23回のPhil MurphyWeekというフェスティバルに出る。

Co.WexfordのCarrig On Bannowという小さな村だ。パブは3つしかない。食事をできるところはMr.Spudsというファスト・フード店だけ。人の行き来するところは200メーターくらいしかない。

フェスティバルの規模は至って小さいがDonal LunnyやMartin O’Connorなどもやってくる。

僕らは明日のコンサートがメインだ。僕らの前にバンジョーのAngelina Carberryも出るようだ。

こんな見渡す限り緑の場所なので、B&Bも広くて気持ちがいい。海も近いのでブレンダンは早速泳ぎに行った。

夜、11時頃から少しだけパブで演奏したが、一体どこから人が湧いてくるのだろう。身動きが取れないほどの人で結構広いパブが埋め尽くされている。

結局戻ったら2時半を過ぎていた。一日が異様に長い。

 

7月26日(土)晴れ

昨日は極端に暑かった。といえども27〜8℃くらいだったろう。今日は昨日ほどでもないが、またしても絶好の天気だ。

晴れ男いまだに全開だ。夜までゆっくりできる。どうせブレンダンはどこかに泳ぎにでも行っているだろう。

朝は思いっきりヘビー級、アイリッシュ・ブレックファーストでお腹を満たした。そうでもしないと他に食べるところがあの、いも男(Mr.Spuds)しかない。

なかなか美味しいが所詮、いもの揚げたものだ。バーガーを食べても同じような味がするから不思議だ。

何はともあれ、コンサート会場に5時頃行ってみたら、サウンド係がいた。どこかでみたことがある男だ、と思ったら、Danuのアコーディオン奏者だ。こんなすごい奴が音響を担当するとは驚きだ。

それに8時からというのにその時点でまだ人もまばら、ミュージシャンも来ていない、ブレンダンはファースト・セットがアンジェリーナ・カーベリーだと知ると、9時頃戻ってくる、と言ってどこかへ行ってしまうし、それも驚きだ。

しかし何事もなかったかのようにコンサートは始まるし、遅れたからといって文句を言う人もいない。

この気の長さはきっと長生きにつながるのだろう。実際、大丈夫かな、と思わせる人が目一杯パブで、しかも夜中まで飲んだり踊ったりしているんだから。

そんなこんなでその日も過ぎて行った。

明日は朝7時に出発なので、終わってすぐ帰ろうと思ったら、ブレンダンが少し飲んで行こうというので1時まではつきあったが、それ以上はやめておいて先においとまさせていただいた。

案の定、2時半まで飲んでいたらしい。

 

7月27日(日)晴れ

ダブリンに向かう。またしても最高の天気。

10時半ころ目的地Howthという町に着いた。ダブリン滞在の折、一度行ったら良いと言われていた風光明媚な町に労せずして来れた。

1914年の7月26日の日曜日に、到着したAsgardという船の記念式典。この船でドイツまで武器の買い付けに行った、ということだが、ぼくらの知らなかった歴史のお話がいっぱいあるようなので、帰ったら栩木先生に訊いてみようと思っている。

僕らの演奏のあと、大統領まで来て、軍関係者から警察まで物々しい警戒の中、見渡す限り日本人は僕と希花だけで、しかもなぜここにいるんだろう、という感じで小さくなっていた。

風光明媚な港町も、あまりに多くのひとでにぎわっているので、僕らも早々に引き上げた。

ブレンダンとはしばしお別れ。僕らは一路ゴルウエイに戻った。

 

7月28日(月)晴れ

ゴルウエイ・アート・フェスティバルも最大の盛り上がりは、多分僕らが外出していた週末だったのだろう。

町も静けさを取り戻したようだ。今日からは特別なイベントはないが、きっと誰かから連絡が入るだろう。

そうでなければ、少しゆっくりしよう。正直、歳も歳だし、ちょっと疲れがたまっているかも。

2014年 アイルランドの旅〜Castlewellan〜

7月18日(金)小雨のち曇りのち晴れ

朝8時、ブレンダンと共に一路、北アイルランドを目指す。今年2回目という新しいフェスティバル、SOMA Festivalに出演依頼が舞い込んだのが約2ヶ月前。

ブレンダンと共にステージ、後は並みいるミュージシャンと共にセッション・ホストの依頼だ。

比較的スムーズに12時半頃、町に着いた。

あたり一面緑に囲まれた小さな町だ。ここにくるまでにユニオン・ジャックをいたるところで見ている。

photo1 (2)

そうだ、ここはユナイテッド・キングダムなんだ。

ハイウエーをおりてすぐに両替もしたし…でも変な感じだ。よその国なのだ。

使い慣れないお金で少しだけ腹ごしらえをしてみるが、よくこんなものをレストランと名のつくところで出すなぁ、と感心してしまう。それどころか、老若男女、結構入っているから驚きだ。

きっと、すしやすき焼きはこの人達にとって美味しくないものになるのだろう。

主催者のひとり、Tionaとすこしだけ打ち合わせをするが、そのラフさ加減にも驚き。

スケジュールもその場で「えーっと」なんて言いながら手書きで書いてくれる。

今日はどうやら8時半まで、宿泊先でゆっくりしていればいいらしい。さっきの口直しにどこかチャイニーズでも食べられるところはないだろうか、と少しの期待をよせて町のガイド・ブックを読んでいると、ありました。ここにも。こんなところにも、というと失礼かもしれないが、チャイニーズ・レストランが2軒も。

そのうちの1軒Ocean Palace Chineseというところで、先ず、こわいのでメニューを見る。

選んだのはチャーハン・シンガポール・スタイル。5ポンドちょっとくらい。どの辺がシンガポールなのか分からないが、カレー味のチャーハンだった。そしてまぁまぁだったので、ほぼ満足。

毎日毎日遅く、今朝も早かったし、今夜も11時半までは決められているし、それで終わりそうにもないので少し昼寝しておく。

途中Dundalkという町を通り過ぎた時Gerry “Fiddle”O’Connorにメール。彼は確かこの町の出身だったような記憶がある。その返事が寝ている間に来ていた。今回は会えないかもしれないが、またどこかで会えるだろう。

9時半、セッションが始まった。ブレンダン、希花、僕を中心に集まったメンバーはフルートが3人ほどいた。中でも「てーさん」に似た顔のおじさんは上手かった。フィドラーも上手いな、と思うひとがいたが、しばらくして、驚くことに彼はDervishのメンバーだったShaneだ、ということが発覚。もう18年くらい前に何度か会っているのだ。

時間が進むにつれて、多くのミュージシャンが現れた。僕らは疲れていたので一応11時半まで役目を果たし、それでも12時半ころに宿泊先に戻った。

結局3時頃までセッションの音が聞こえていた。

 

7月19日(土)一面霧、霧、霧

南ではあまり見かけなかった霧が町をすっぽり覆っている。

目一杯いろいろな種類のシリアルやフルーツが用意された朝食は、どこか他のフェスティバルとは違う。どうやらこのイベントの音楽担当の人達は健康志向らしい。

それはとても助かることだ。朝からソーセージや分厚いベーコンはきつい。

僕らはBBC北アイルランド支局のラジオ出演のため、公園に出かけた。photo6

目の前に広がるとてつもなくでかい自然公園(Castlewellan Forest Park)。そのゲートをくぐると、大広場にいるわいるわ羊の大群。

それぞれ身をよせあってケージの中でメーメー言っている。ここは羊の品評会場も兼ねているらしい。

様々な種類の羊達がそれぞれ沢山のケージに入れられている。数えはしなかったが、300匹はいるだろう。photo1 (1)

足を数えて4で割る、というのが早い数え方だ、という小話があったが、これ全部数えていたら眠れないまま次の日までかかりそう。

 

 

 

僕らが特設会場に着いたら、John McSherryが演奏していた。それぞれに1曲ずつ。間にいろいろな出演者がいてインタビューがあって。さすがにラジオ局ともなるとアイルランド人でも時間は気にする。大きな時計を持ったスタッフが忙しくしている。photo5

しばし羊を見学して宿に戻り、今度はランチだ。僕らはKevin Keegan / Ukepick Waltzを演奏した。

またまた素晴らしい料理に驚き。ベジタリアンのディッシュまで用意されている。

これは主催者の一人、Tionaの計らいだろう。彼女のご主人が何人かのスタッフと共に料理を作っている。

料理は決して本職ではないそうだが、アイルランドで入ったどのレストランよりも美味しい。

食事の楽しみなフェスティバルなんて、今まで経験したことはない。

それと、驚いたことにJohn McSherryはTionaのブラザーなのだ。

ニーブ・パーソンズやシボーン・ピープルスなどと共に食事を済ませ、この日の一大イベント、教会でのコンサートに出かけた。

3人で1時間20分ほど。素晴らしく大きな教会で、素晴らしいサウンド・スタッフ。弾いているこっちまでうっとり。

ブレンダンの素晴らしい歌声が人々を魅了する。この人は絶対に日本に連れて行きたい人だ。力強いアコーディオン・プレイと繊細な歌。そして歴史を語る。真のアイリッシュ・ミュージックとはこういうものなのだ。

そして、夜のセッションでは、本当にトラッドをきっちり勉強してきた若者2人(パイプとフィドル)と僕と希花でホストを務めた。

テクニックも知識も素晴らしい若者達だった。

 

7月20日(日)くもり

来る前に北アイルランドの天気を調べたら3日間雨、と出た。しかし一度も降られなかった。

今こそ声を大にして…いや止めておこう。ここはアイルランドだ。いつ何時その神話は崩れるかわからない。

今日、昼、夜のセッション・ホストを務めれば無事終われる。

バウロン奏者John Joeの、シスターが勢い良く…喋りまくる。ティン・ホイスルもかなりの腕前だが、話も止まらない。

かくして、3日間、絶景に囲まれ、親切な人達と、良いミュージシャンと、素晴らしい料理とに明け暮れた。

僕らをミュージック・パートナーとして選んでくれたブレンダン・ベグリーに感謝だ。

今週末にはまた一緒にWexfordとDublinに向かう。

それまでしばらくお休みすることにしよう。

photo2

2014年 アイルランドの旅〜ブレンダン・ベグリーとの再会〜

7月9日(水)晴

今日は暑くなるようなことを言っていたが、少し暖かいかな、と思う程度だ。昼頃、ブレンダンから電話が入った。

今日はセント・ニコラス・チャーチで彼とのコンサートがある。そしてその前にパブでの演奏もある。

それはセットを決めたり、練習するにはちょうどいいことだ。

1年ぶりに会う彼は、真っ白いヒゲをたくわえ、髪の毛も真っ白いのが少し生えていて、まるで散髪したサンタクロースみたいだった。

力強いアコーディオン・プレイと、ますます円熟味を帯びた歌声はいつ聴いても素晴らしいものだ。

僕と希花が40分のファースト・セットを受け持ち、ブレンダンが30分一人でセコンド・セットを。おわりにUkepick Waltzと、彼の素晴らしい歌声に乗ってのFoggy Dew。最後にPaddy Ryan’s Dream /Moving Cloudのセットで、日本公演の経験もあるダンサーのエマ・サリバン(彼女はこのコンサートの受付も兼ねている)が軽やかにステップを踏む。

そして、今日一日が無事終えた。ブレンダンとは金曜日にまた一緒に演奏することになっている。

 

7月10日(木) 朝のうち小雨、 後晴れ

今日はフランキー・ギャビンと会う約束をしているので、待ち合わせの場所に行く。

パブのなかで音楽を始めるとやはりただ者でない雰囲気が人々に伝わる。2時間ほど3人で弾きまくって、また会う約束をして別れた。

 

7月11日(金)曇り

今日もブレンダンとの演奏がある。

まず街のパブで。そして教会だ。

来週には僕らと北アイルランドに行くので、とりあえずケリーに戻って行った。いつでもパワー全開の人だ。少なくともアイリッシュ・ミュージックを自分の音楽として位置付けている日本の若者には、是非目の当たりにして欲しいミュージシャンの一人だ。

 

7月12日(土)雨

いよいよ晴れ男としての出番がなくなるアイルランドらしい気候になってきたようだ。

今日も一日ゆっくりできる。

夕方、とはいっても9時半頃だが。天気が良くなったので散歩に出た。川のほとりや公演には多くのひとが、それぞれに美しい夕焼けと心地よい風を楽しんでいた。

極端に広いこの風景の中ではその存在は本当に小さいものだ。

ふと通りに目をやると、見たような男が車の列の先頭を歩いている。コーマックだ。

なんと、ワイングラス片手に千鳥足で車道をあっち行き、こっち行きしている。そのせいで大渋滞になっている。

クラクションが鳴り響いているがお構いなしにフラフラと歩いている。ドライバーも慣れたものだ。結構いるんだろう。そんな奴が。やがて歩行者だけの道の雑踏の中へフラフラと消えて行った。やっと交通渋滞は解消された。彼にとっては始まったばかりかもしれないが。

明日電話してみよう。覚えていないかも。

 

7月13日(日)曇り

今日は、夕方からフランキーの家にお泊まりだ。門から家まで100メートルあろうか。大きな家のバックヤードは充分野球が出来るほどの庭と、大きな湖があり、と一体どこまでが彼の土地なんだろう。

彼が一生懸命ディナーを作ってくれる。

ろうそくの灯りを囲んでワインと彼の作ったパスタで緑に包まれての食事は、いかにもヨーロッパ人の夕食のひと時だ。

そしてもちろん音楽。

毎日が忙しい彼だがいろいろな曲を一緒にやってくれる。

彼のフィドル・スタイルは、あらゆる地方のアイリッシュ・ミュージックを聴きまくり、そして手当たり次第様々な音楽を聴いてミックスしたものだ。

彼のように弾く人はゴルウエイには多いが、この人はやっぱりそういう人達にとっての神様だ。

彼が大きな2匹の犬の世話に手を焼いている、というのはどこか微笑ましい。

 

7月14日(月)雨のち晴れ

フランキーの家から戻り、夕方コーマックに会ったが、やっぱりこの間のことは覚えていないようだった。

 

7月15日(火)晴

午前11時。少し曇ってきたが、今日も雨が降るだろうか。だれかが「もう夏も終わった」と言っていた。「ここでの雨期は1月から12月までだ」と言った人もいた。でも相変わらず楽器の鳴りは良い。

 

7月16日(水)晴れたり雨が降ったり曇ったり

典型的アイルランドの天気。少し暖かいが、海辺を走る風は冷たい。今日も白鳥がいっぱいだ。

それぞれに首を水の中に突っ込んで、藻らしきものを食べているが、首の見えない白鳥は単なる白いかたまりだ。

今夜は10時にショーン・ギャビンと待ち合わせている。ソルト・ヒルというところにあるパブでのセッションだ。

フルートのGary Hastingsがいる。間違いなく良いセッションだ。少し後からWe Banjo 3のDavid Howleyが現れた。まだ23歳の、マルチ・プレイヤーでシンガーの彼も真剣な眼差しでみんなの音を聴く。

それぞれが相手の音を聴き、ゆったりしたペースあり、そこそこに早いものあり、いいチューンあり、沢山のギネスあり、そして、何と言っても静かなパブで本当にいいセッションだった。

帰ってきたら2時をまわっていた。ショーンは車を置いて自転車で帰って行った。

 

7月17日(木)曇り

明日からブレンダンと北アイルランドのCo.Downに出かける。朝早くの出発なので、今日は一日ゆっくりしておこう。

昼からジョニーがTommy McCarthy(フィドル)と演奏するので、近くのパブに聴きに行く。

100人ほどのお客さんの中に、Mairtin O’Connorを発見。この人とは一緒に演奏したことはないものの、いつでも「おー、ジュンジじゃないか」とハグしてくれる。相当前から僕のことをいろんな人を通して知っているらしい。

初めて、ダブリンで会ったときも、随分前から知っている、という感じで気さくに話をしてくれた。

この人はきっとみんなに親切なんだろう。この上ない超絶テクニックを持ったアコーディオン奏者で、この上なくいい人だ。

2014年 アイルランドの旅〜7月4日から〜

7月4日(金)朝から雨が降っている。いよいよアイルランドらしくなってきた。そんなに強い雨ではないが、これでは走りに行けない。

お茶を飲みながら、何か曲でも覚えるか…。知っている曲でも最後の1小節が定かでなかったりする場合、なんとか見つけ出してクリアーにする。いろんなバージョンがあるので、それに全て目を通した上で、これが一番好きだ、と思うものを覚えることにする。

伴奏者にとってはとても大切なことだ。自分の選ばなかったバージョンで弾く人もいるので、即座に対応できなければいけない。適当に感覚で済ますわけにはいかないのだ。

メロディを常に覚えておかなければいけないリード楽器奏者に対するリスペクトを、きちんと果たさなくては伴奏者として成り立たない、と考えている。

こうして朝、昼、晩を問わず練習するのには雨の日がもってこいだ。といえども、今日はまたセッション・ホストの仕事が入った。6時頃なので充分時間はある。もう少しRainy Dayを楽しもう。

そういえばRainy DayとDown The Broomはよく似ている。Follow Me Down The Galwayというオールド・セッティングもある。

あまり考えすぎると頭が混乱する。

さて、少し晴れて来た。セッションまで海辺を散歩でもしてみよう。

セッションはいつもの通り、ミックがすっ飛ばす。彼も素晴らしいフィドラーだ。

セッションを終えてからスピダルまで行くことになった。この週末はそこで大きなフェスティバルがあるのだ。

まず、アコーディオン奏者のDermot Byrneに出会う。そしてその次にウロウロしていたのはMichael McGoldrickだ。日本のフルート奏者のだれもが憧れる大物だ。気軽に僕らの会話にも加わってくる。Charlie Lennonもいる。もうすでに「ハイ、チャーリー」と声をかける。そして、12年ぶりにHarry Bradleyとも出会った。あの時(アメリカでツアーした)はまだ25歳の若者だった。

沢山の人と挨拶を交わし、街を離れたのが11時過ぎ。西の方の空はまだすこし明るかった。

 

7月5日(土)快晴。

今日の予定は、昼頃からジョニーとスピダルに行って、6時までに戻って、昨日と同じメンバーでセッション・ホストをやる。昨夜は12時頃戻ってからあまり寝れなかったので、今日はセッションが終わったら早い目に引き上げてきたいが、どうなることだろうか。

午前9時半、青空のあいだから突然雨が落ちて来た。しばらく降るだろうか。実にアイルランドらしい。

11時。まためちゃくちゃにいい天気になった。

スピダルに着いた。美しい海で水遊びを楽しんでいる人達もいるが、多分水は冷たいだろう。

チャーリー・レノンがいた。彼が自身のスタジオを見せてくれる、と言う。ぼくらが付いて行くとそれはそれは素晴らしい木造りの広いスタジオに案内された。

オーケストラも小規模だったら入るだろう。

そこでチャーリーがちょっと試しに一緒に弾こうか、と言ってくれた。

これはまたとない機会だ。特にフィドラーにとっては。希花に至っては、まだ生きていたとは知らなんだ(おとみさん、か!)というくらいの人物だが、今、まさに目の前1メートルくらいのところでフィドルを弾いている。しかも二人だけ、という恵まれた条件だ。

しばしスタジオで時を過ごしてから、ゴルウエイに戻り、またセッション・ホストだ。今日1日も矢のように過ぎて行く。因にチャーリーはiPhoneを使っていたがよく見えない、と言って希花に文字の入力を頼んでいた。

 

7月6日(日)快晴。

朝のうち海辺を走る。風が冷たくて気持ちがいい。

今日はジョニーとミルタウン・マルベイに行く。アイリッシュ音楽に関わっている誰もがステイタスのように思っている“ウイリー・クランシー・ウイーク”だ。

今は亡きパイパー、ウイリー・クランシーに因んだこのフェスでは様々なワーク・ショップも開かれ、サマー・スクールという名目でも知られている。

1昨年はブレンダン・ベグリーの家に泊まって、恐るべきケリー集団の洗礼に遭った。

今日は日帰りなので気が楽だ。いろんな人に挨拶だけして帰ってこようと思っている。

夜、ゴルウエイに戻ってからのセッションでショーン・スミスと久しぶりに出会った。

 

7月7日(月)曇り(小雨がぱらついている)

今日は七夕。日本はどんな天気だろう。少し晴れて来たけど今夜、星は見えるだろうか。アイルランドは関係ないか。

5時から7時まで観光客相手のパブで演奏。今日は早く寝れそうだ。

 

7月8日(火)晴

昼からミルタウン・マルベイ。セッションをしたり、こちらに住む赤嶺“フー”さんとお茶を飲んだり。

彼の勧めで、メインストリートでバンジョーを弾いたところ、おおいに受けた。彼はなかなかバイタリティーがあり、思ったことはなんでも実行すべきだし、興味のあることにはとことん食らい付いていく、ということをモットーとしているひとなので、この国で会うべき人としては欠かせない。

希花はそのあと、モーリス・レノンと共にセッションに参加。1曲ごとに希花のロージンを弓に塗りたくる彼にハラハラしていたらしい。

クラシックの人の1ヶ月分くらいを1曲で使うらしく、だいぶ減った、とぼやいていた。

外に出ると、よそ見しながらテレビでも見るような感覚でパイプを奏でる10歳くらいの超絶テクニックの男の子や、それを取り巻く子供達の大集団が次から次へとトラッドを演奏する姿に出会い、あらためて感心。

帰ってきたらもう1時をまわっていた。

2014年 アイルランドの旅〜再びゴルウエイ市内〜

7月1日(火)快晴。気温20度。あまりにいい天気なのでジョニーがコネマラに行こうという。彼はその前に、娘さんがくるのでピック・アップに出かけ、僕らは引っ越しの準備。

荷物を積んでジョニーの17歳の娘さん、ケイティと4人でいざコネマラ・ツアーに出る。

大自然のパノラマ。なかなかアイルランドではお目にかかれないほどの天気(去年もそうだった)で、ここでも晴れ男全開だ。

とは言っても、明日からは少しくずれそうだ。気温も17度くらいらしい。今日はチャンスだった。

久しぶりに早く寝ることにする。ゴルウエイに着いてからきのうまで、ほとんど3時過ぎまで起きている。

今も10時を回ったが外が明るいのでちっとも遅い感じはしない。

でも、眠たくなって来た。

 

7月2日(水)曇り。気温17℃

久しぶりに爆睡。今日は教会でNoel Hillのコンサートがある。それまではゆっくりしよう。

Noelの音は、どこまでも力強い響きであった。やはりコンサルティナのまた別な神様だ。ちょうど元ストックトンズ・ウィングのモーリス・レノンも来ていたので、彼とも再会を果たすことが出来た。

これから先は忙しかったり、何もなかったりするのでしばらく何か特別なことがあったら書くことにしよう。とりあえず…。

 

7月3日(木)曇り。久しぶりに走った。フットボール・グラウンドが4面あるどでかい公園から、海辺を1時間くらい。

気温は15度か16度くらいだろうか。

風が強かった。

2014年 アイルランドの旅〜ジョニーの家〜

6月28日(土)晴れ  今日も涼しい風がふいている。昨夜のうちにそこそこ雨が降ったようだ。

今日からしばらくジョニー“リンゴ”マクドナーの家に泊めてもらう。ゴルウエイから車で20分くらい。オランモアーの一角、静かな住宅街に彼の家はある。

今晩はゴルウエイのパブでフィドラーのローナンとバンジョーのブライアン、そしてジョニーと僕らでのセッションをやる。

ローナンも若手の良いフィドラーだし、ブライアンもディ・ダナンのキーボード兼バンジョー奏者として活躍した人だ。

セッションの途中でジョニーに電話が入る。

このセッションの後、10時からスピダルというところでジョニー・コノリーのセッションに来てくれ、という話だ。

ゴルウエイの中心部から西に40分ほどだろうか。ジョニー(リンゴ)は僕らにも誘いの言葉をかけてくれた。

ジョニー・コノリーは有名なアコーディオン奏者で、父親の同じジョニー・コノリーというメロディオン奏者と共に有名な音楽家だ。

少し早い目に9時40分くらいにパブに入る。

小さな街並みの中に4軒ほどのパブがみえる。外はまだ明るい。しばらくするとふたりがやってきた。

ジョニーが僕らを紹介してくれた。今日はジョニーが3人もいてややこしい。もう一人スティーブというアコーディオン弾きも現れた。50代はじめくらいのこの人も普通にアコーディオンを操る。かなり上手い人だ。

そして、ジョニー(息子)の方はかなりのテクニック。目を閉じてひたすら弾きまくる。父親のジョニーはテクニックもさることながら、にっこりしてかなり渋い味を持っている。

超一流のセッションという雰囲気だ。そこに一人ビールを持った老人が来てセッションを聴いている。みんなの知り合いのようだ。

どこかで見たことがあるかもしれない。う〜ん誰だったかな、と思いながら彼らの会話に耳を傾けていると、盛んにチャーリーと呼んでいる。

もしかしたらあの人かもしれない。一度サンフランシスコで顔を見たくらいの感じで会っているあの人かもしれない。

希花に「多分彼はあの人だよ。試しにあれ、やってみてくれ。12PinsとKilty Townのセット」といってみる。何故ならば有名な、あのチャーリー・レノンのセットだからだ。

始めようとして、息子のジョニーに曲を告げると、老人の方を向いて「チャーリー・レノンセットだ」という。すると彼は嬉しそうにうなずいた。

チャーリー・レノンだ。間違いなく彼だ。フィドラーとして、ピアニストとして、また作曲家としてアイリッシュ・ミュージックの世界に現存する伝説の一人だ。

希花にとってみても、会うことは叶わなかったかもしれない人物が目の前にいて彼女のプレイをじっと聴いているのだ。しかもかなり最初のほうから。

チャーリーはとても喜んでくれた。やっぱりスタンダードといわれるものをきっちり覚えておくことは大切なことだ。

チャーリーに訊いてみた。「サンフランシスコにはいつ頃行きましたか?」すると彼は「そうだな。随分前だったなぁ。90年代の半ばだったかな」「そのときあなたはプラウ・アンド・スターズに寄りませんでしたか?」「うん、行ったよ。そういえばセッションをやってたなぁ。君か?」

あの時、ジャックがチャーリー・レノンだ!と言った記憶はかなり鮮明にのこっていたのだ。

その時もカウンターでビールを飲みながらにこにこして聴いていた…ような気がする。

今度はどこで、いつ会えるだろう。

家に戻った時には、もう2時を回っていた。しばしジョニーと紅茶を飲みながら歓談し、4時近くになってベッドに入った。

チャーリー・レノンは超大物だった。でも気がつかなければ、少し上品な単なる飲み客にしか見えなかっただろう。

くわばら、くわばら…。

 

6月29日(日)薄曇りながら大体晴れ。 後快晴。

日曜日。8時半までセッションもないので、キンバラという風光明媚な街に行ってみる。

パブの前にジョニー・モイナハンが座っていた。アイリッシュ・ミュージックにブズーキを初めて持ち込んだ人だ。

この街にも有名なミュージシャンが沢山住んでいる。セッションも行われているが、今日はとことんゆっくりすることに決めているので、3人でお茶をのみながら美しい景色を楽しんだ。

10時になっても日本の夏の午後6時くらいかな、まだ明るい。時間の感覚が次第になくなってきている。

 

 

6月30日(月)快晴。気温は20度くらい、とラジオで言っていた。

絶好の洗濯日和だ。

今日は夕方からクレアに行って地元のクレアFMに出演する。ジョニーと、もうひとりConor Keaneというアコーディオン奏者が一緒だ。

彼らは最近新しいアルバムを出した。その宣伝も兼ねてのラジオ出演にぼくらもゲストとして出させてもらう。

Conorとは去年どこかのパブで一緒に演奏しているし、ラジオのパーソナリティとは随分前に会ったことがあるらしい。

クレアにはアンドリューを筆頭に知り合いが多くいて、どこにいっても「よ、久しぶり」と言うような人がいっぱいいる。

お顔は覚えていますが、お名前だけが♪とはよく言ったものだ。

ぼくらが出番を待っていると、ご機嫌なコンサルティナが聴こえて来た。マリー・マクナマラの新しいアルバムがかかっている。

クレアの、タラの景色が浮かんでくる。

僕らの出番がやってきた。まず、彼らのニュー・アルバム“Rough &Ready”の紹介から彼らの生演奏。

Conorは実に良い演奏家だ。ジョニーとはArcadyのころからの付き合いらしい。

素晴らしいリズムがスタジオに充満する。

おしゃべりがあって、ジョニーが僕らをしょうかいしてくれる。ラジオで、あるいは公共の場でしゃべるのは難しいことだ。3〜4分の質疑応答のあとぼくらも1セット演奏した。

そして最後に4人でジグを演奏して無事終えた。

スタジオの外に出るともう夜の9時半過ぎているのに、まだ全然明るい。一路ゴルウエイに向かうが、フリー・ウエイに全く車がいない。

対向車線は時々走って行くが、ゴルウエイ方面には最初の30分位、前を行く車も追い越して行く車もいない。

空がオレンジ色に染まっている広大なクレアの夕暮れを独り占めしているようだった。

明日から友人のアパートに引っ越しだ。ゴルウエイの中心にある便利な場所で、しばらくはそこを拠点にして動く。

2014年 アイルランドの旅〜一路ゴルウエイへ〜

6月23日(月) またまた快晴。ゴルウエイに向かうバスの中でテリーから電話がかかる。もうここまで来るとお構いなしに話してしまう。

アイルランドではどこでも携帯の着信音が聞こえてきて、結構な大声で話している人が多い。それにくらべれば僕の声なんて小さい方だろう。一応は気を使っているし。

来月少し時間が出来たらゴルウエイに出てくるということで話を終えた。僕らは彼を日本に呼びたいのだ。コンサルティナの神様のひとりである彼はとても素朴な人で本当の本物のトラッドミュージシャンだ。

日本のアイリッシュ・ミュージック愛好家たちがどれだけ興味を示すか分からないが、彼らが最も聴かなければいけない人のひとりであることは確かだ。

3時頃ゴルウエイに着いた。少し風邪気味なので今日はゆっくり休むことにする。このところ寒すぎる。

30度にもなるところから、夜になると15度を大幅に下回っているだろう場所に突然身を置いているので体が付いて行けないのだろう。やっぱり歳かな、と思いつつも希花さんも風邪っぽいようだ。

無理も無いかもしれない。まぁ、希花さんに診察してもらうよりは、葛根湯でも飲んで早く寝た方がいいだろう。

来月に入ったらいろいろと忙しくなるので今のうちに体力温存で行こう。

 

6月24日(火)快晴。 朝5時をちょっとまわったところ。夕べ10時少し前には深い眠りに就いたので4時頃にはもう目が覚めた。外はもう明るい。そういえば、昨晩眠りに就いた時も明るかった。

少し曇っているようだが、今日の文章の頭の部分にも、快晴、と書けるようになるのか、それとも今日くらいは雨に降られるか…どうだろう。

果たして…快晴。

昼前に楽器屋へ行って5弦バンジョーをゲット。これからの仕事で使えるようにすこし良いものを手に入れたが比較的、いや、かなり安かったので大満足。

それからコーマックと落合って仕事の話をして、なんやかやくだらない話もして、ショッピングストリートを歩いていると、どこかからオールド・タイムが聴こえてくる。

見てみるとフィドル、ベース、ギターのトリオだ。5弦バンジョーもある。ギブソンのスクラッグス・モデルだ。

Nobody’s Businessを一曲聴いたところで尋ねてみた。「バンジョーを弾かせてくれ」快く受け入れてくれたのがいかにもアメリカ人らしい対応だった。バージニアから来ているらしい。

すでに沢山の人が聴いていたが、予想のできない展開で、あっという間に黒山の人だかりができた。

やっぱりブルーグラスはなんとなく陽気で人々の興味を引くらしい。彼らもなかなかに良いグループだった。

さて、この国で晩御飯になにを食べるかということを考えるのは、なかなか難しいことだ。

「美味しかったね」「また来ようね」というような日本のコマーシャルにあるような言葉を交わすことは先ず無いとみていい。

こういう物が美味い、という味覚はいったいどこからくるのだろう、と思わせる料理がほとんどだ。

結局、フィッシュ・アンド・チップスで済ませるのが一番安くてお腹に溜まる。そしてほとんどどこも同じ味だ。

そういえば東京のどこかで「東京一美味しい本場の味」と詠ったフィッシュ。アンド・チップスを出している店があったなぁ。

本場の味ってどんなもんか知らないのかな。

日本の食文化は偉大だ。

 

6月25日(水)曇り。また早く目が覚めたので6時から散歩に出た。少し歩くとGalway Bayに出る。

初めてBreda Smythに連れて来てもらった時も今日のようにどんよりした天気だった。

これから7月に入ると少し雨も多くなるのかもしれない。そして8月半ばにはもう夏が終わる。その頃になると、上着なしでは歩けないこともある。

やはりそういう気候だから、がっつりとしたものを食べなければいけないのだろう。

「旨味」などという概念がないのもうなずける。

午後1時半、アイルランドらしい雨が降って来た。ある意味これでなくちゃ、という感じだ。

びしょびしょに濡れたソフトケースのギターをかついで、走るでもなく行き交う若者、雨にうたれたテイクアウトのピザを食べながら歩いている女の子。どこまでもワイルドだ。

これから先はこんな天気が続くだろう。それでも降ったり止んだりすることがほとんどだ。

通りをぶらり歩いているとアコーディオンが聴こえてきた。覗いてみるとアンダースともう一人、バンジョーの二人だけでやっている。

アンダースは奥さんが「まよさん」という日本人のフィドラーで、今日はいらっしゃらなかったが、奥さんの里帰りも兼ねて日本で演奏したりしている、日本でもよく知られているカップルだ。

アンダースはゴルウエイのセッション・ホストの一角を背負っている。ミュージシャンの数が少ないセッションは、全ての音が聞こえてとてもいい。まだまだ早い時間だったので、それが良かったのだ。

6時〜8時くらいのセッションではそういうことが結構ある。特にギタリストやブズーキ奏者がもうひとりいて、たいして理由の無いコードを感覚で入れられたりするとお手上げだ。

また、そういう人に限ってなかなかやめてくれないのだ。

8時にセッションが終わった。みんなに挨拶をして出てくると、そうだ、思い出した。

すぐ裏手の教会、セント・ニコラス・チャーチでコーマック達がコンサートをやっているのだ。今日は彼を含めた5人のミュージシャンによるライブ・レコーディングが行われているはずだ。

少し覗いてみることにした。

50人ほどのお客さんに囲まれてシリアスに録音している。セント・ニコラス・チャーチは素晴らしく美しい音をプロデュースしてくれる。

ピアノ、コンサルティナ、フィドル、パイプ、そしてブズーキの音が、自然のリバーブでお客さんを包んで、なんとも荘厳な雰囲気だ。

この教会では去年に続き、ぼくらも何度か演奏する予定になっている。

久しぶりに12時をまわるまで徘徊した。

 

 

6月26日(木)朝のうち雨。現在10時。もう晴れて来ているが安心はできないだろう。

外からはかもめの鳴き声がひっきりなしに聞こえる。ゴルウエイもダブリンも同じだ。

街のいたるところをカモメが飛び交い、そして歩道を歩いている。車の行き交う通りを早足で渡るかもめ。変な奴だなぁ。飛んだ方が早いんじゃないかな、と思ったりして。

午後6時。またアンダースの軽快なアコーディオンが聴こえて来た。今日は8時からバージニアの連中の演奏を聴きにいくのでそれまでセッションに加わらせてもらおう。時間的にはちょうどいい。

セッションを終えてコーマックのアパートの隣にあるモンローズというパブに行く。

彼らともうひとつのバンドとのコンサートがここであるのだ。

彼らの演奏はいかにもアメリカらしい、様々な音楽をミックスしたものだった。ブルーグラスあり、スウィングあり、ヨーデルあり、30年代のデイブ・アポロンのロシアン・ラグはなかなかきまっていた。

かなり楽しいバンドだった。

そして、次に登場したグループは5人編成の、これもなんと説明していいだろうか。スライゴーのフィドラーを中心にして、フラメンコ・ギターのスナフキンみたいな奴から、マンドリンを巧に操り、チェロやキーボードを弾く女の子、一見今にも死にそうなギタリスト、それとベース。中近東ものあり、アイリッシュあり、スパニッシュあり、ボーカルもそれぞれ味があって実に上手い。ゴルウエイもさすがに音楽が盛んな都会だ。さしずめボストンのような、と言えるだろうか。

戻って来たのが12時少し過ぎた頃。眠っていたら3時半にジョニー“リンゴ”からメッセージが入った。

明日、いや、もう今日だ。6時からセッション・ホストをやってくれ、という内容だ。去年一緒にやった、Mick Connollyとの4人。もちろんオーケーしたがさすがに眠たかった。

これからはこんなシチュエーションも増えてくるだろう。しっかり健康管理しておかないと身体が持たない。

 

 

6月27日(金)晴れ

6時。セッションがスタートしたが、間もなくしてクリーナ(コーマックの妹)から電話があった。

コーマックが飲み過ぎて演奏ができないから教会でのコンサートを急遽手伝ってくれ、という。

セッションは8時まで。コンサートは8時から。ファースト・ハーフを別なミュージシャンでやってもらって、2部を僕らということにしておけば余裕がある。

1部はコンサルティナの名手、カトリーンだ。ダンスもこの上なく上手い。因に希花がコンサルティナで弾いている「Sunday’s Well」という曲は彼女の演奏から覚えたもので、彼女のオリジナル曲だ。

因に、今回これを希花がフィドルで演奏したことをいたく気に入ってくれたカトリーンが演奏のもようを彼女のフェイス・ブックにのせてくれた。

僕らは2部を30分ほどやって、最後にお決まりのマイケル・コールマンセットで終えた。

50人ほどのお客さんも結構楽しんでくれたようだ。

そのあと、また近くのパブでショーン・トリルのコンサートをやっている。僕は15年くらい前に彼と、パディ・キーナンとで廻っていたことがあるので、挨拶に出かけた。

彼の歌は超一流だ。高田渡か、ギターがもう少し上手い高石ともやというところだ。

一緒にやっていたころ、僕は彼のギタリストでもあった。歌に沿ってギターを弾くのはとても気持ちのいいことではあるが、難しいことでもある。彼は僕のギター・プレイをとても気に入ってくれていた。

クレアに住んでいるとのこと。またフィークルで会う約束をして別れた。帰りしな、コーマックが現れて盛んに「ごめんなさい」といいながら、僕らにビールをおごってくれながら、また飲んでいた。

懲りない若者だ。でもこれくらいの方が面白い。

2014年 アイルランドの旅〜ダブリン〜

6月20日(金)ダブリン到着 午後7時。こんなに都会の飛行場なのに、滑走路をうさぎが走っている。

気温17度。まだお昼のように明るいが、さすがに疲れた。

早いとこB&Bに入って寝るか、と思った通り爆睡。

 

6月21日(土)快晴 同じく17度くらい。

8時からゆっくり朝食を取る。今回はアイリッシュ・ブレックファーストではない。それでもハムやチーズ、それにパン、トマトなど、あとはシリアルや定番のミルクティーでお腹いっぱい。

できるだけ沢山朝のうちに食べておけば節約できるだろう。

今回のダブリン滞在は、今まで何故か素通りしたトリニティ・カレッジの見学を主な目的としている。

やはりアイルランド文学の重鎮、栩木伸明氏の影響であることは確かだ。素晴らしいオールド・ライブラリーとケルズの書、そして最古のアイリッシュ・ハープとされるブライアン・ボルーのハープにため息がこぼれる。このあたりは筆舌に尽くしがたいので、やっぱり一度みておくといい、なんて「今まで素通りしていたのによく言うよ」って言われそう。

楽器屋さんも一応一巡りしてから、ダブリンに住む石川ようへい君と落ち合い、マーケット・バーという素晴らしく広く美しく、それでいてとてもカジュアルなレストランで美味しい食事と楽しい会話に時の経つのも忘れた。

今、そしてこれから自分のやりたいことに真剣に向き合うことを常日頃忘れずに、そして、そのために最大限の努力を惜しまず突き進む立派な若者だ。

彼と別れたのが10時頃。今日は夏至。まだまだ明るい。

 

6月22日(日)快晴

陽に当たると暑く、日陰に入るとかなり寒い、という困った気候。今日はセント・パトリック教会とクライストチャーチの見学。苦労した結果、希花さんの押しの一手でクライストチャーチのミサは見学できた。

そして、もともと西洋人はこういう和声で育って来ている、ということを再認識させられる素晴らしい音楽を聴くことができた。

ダブリンも他にいろいろ観るところがあるんだ、とB&Bの若い兄ちゃんが地図を見ながら事細かに教えてくれたが、何せあとがいろいろあるし、やっぱり観光をする気は起こらない。

それでもいつかはダブリン周辺も見てみたらいいかもしれない。僕らの知らないアイルランドがまだまだあるだろう。

夜、すぐ近くのパブでフィドルとギター・ボーカルのデュオを聴いた。いかにも都会の人達を楽しませる力強い演奏だった。

丸太ん棒のような腕と、ビヤ樽のような体でひたすら弾きまくるフィドラーも実につぼを心得ている良い演奏だ。

弓はプラスティックを使っていると言っていた。彼くらいガンガンに弾くと、いくら毛があっても足りないらしい。

ギターの方は、少し前に見たバンジョーとギターのデュオとあまり変わりはない。上手いが全て同じ感じで弾く。パブというところで飲み客相手にパブソングを歌い、リールやジグを伴奏すると結局そのようになるのだろう。僕の感覚では、それは誰にでもできて、誰とも変わらないサウンドになってしまう。

難しいところだ。しかしなかなか良いデュオだった。自分たちとは違う方法を取るいい演奏家達からも何かしら吸収できるものがあることは確かだ。

明日からゴルウエイ。

まだ雨には降られていないが、西の方はどうだろう。

アイリッシュ・ミュージックのレパートリーについて

しばらくIrish Musicと題して自分たちのレパートリーを、主にセットを中心に書いてきたが、そろそろ何を書いたか記憶が無くなってきた。勿論、調べてみればいいのだが…。それに、単独ではまだまだ多くの曲を演奏している。

が、この音楽でおもしろいところは曲の組み合わせだろう。ティプシー・ハウスで一緒にやっていたジャック・ギルダーはとてもセンスが良かったと思う。よく、ドキッとするような曲の組み合わせを考えてきた。

サンフランシスコの人気バンドであったティプシー・ハウスはダンスの伴奏バンドとしてもよくいろいろな場所によばれて行った。

そんなときも150人を超えるダンサーズから雄叫びが起こったものだ。曲が変わった瞬間に「ワーッ!」という声が起こる。

それは、やっぱりいいセットのなせるところだ。

だが、曲によってはいつ変わったか分からないくらいによく似た曲をセットとして作ることもある。

これはこれで、演奏する側にとっては結構いい感じに乗ってくることがあるものだ。メロディの関連性などを重視することもよくある。

中には昔からこれの次はこれでしょ!みたいに決まっているものもあるので、そのあたりは常に古い録音に耳を傾けている必要がある。

それを知らずに、やれケルティックだ、アイリッシュだ、とやっていると完全に底の浅さが見えてしまう。

先日、高橋創君のお父さんと久しぶりにお会いした。創君の近況も含め、彼のリムリックでの苦労話もいっぱい聞かせてもらった。

特に印象に残っているのは、世界中からアイリッシュ・ミュージックを学ぶために来ている同年代の若者たちが、時間の許す限り古い録音に耳を傾け、彼ら自身の考え方と、先人たちが残してくれたものについて、また、外国人である彼らがなぜここまで来てこの音楽を学ぶのだろう、という悩みも含めて、一日中討論をしている、ということ。

とても興味深く、確かに僕がアメリカで持っていた悩みにも共通するところだったかもしれないからだ。

アンドリューのバンドの一員としてツアーに出ていたときも、また、ケビン・グラッキンに「アイルランド人にアイリッシュのギターを教えてやってくれ」と言われた時も、自分はアイルランド人ではないのに何故ここまで来てしまったのだろう、とよく悩んだものだ。

そんな時やっぱりパディー・キーナンとの出会いがなにかひとつヒントを与えてくれたのかも知れない。

古い古い録音で誰がどんなふうに演奏していたかをしっかりつかんでいたら、後は自分にしか出せない音を出したらいい。

ギタリストというのは、特にこの音楽では新しいものだし、一見トラッドという線からは少し離れているようだが、それだからこそ、いい加減ではいけないのだ。創君もそういう現場で切磋琢磨してこのたび立派に卒業することとなった。

今、かれは自分の音を創り出している。パディーにも「自分にしか出せない音を出すんだ」という助言をもらっていた。あれはもう、4年以上前のことになる。

トラッドを勉強し続けてきた彼も、自分の音を出すミュージシャンになってきたのだ。

まずは卒業おめでとう。先にこれを言わなくちゃいけなかったのに。

アイリッシュ・ミュージックは非常に可能性のある音楽かもしれない。かっこよくすればいくらでもかっこよくなる。取りあえず「恰好」だけは。

僕がかたくなにレパートリーにこだわるのは「恰好だけ」になりたくないからだ。

しばらくアイルランドに行くのでこのコラムはお休みになってしまうかもしれないし、向うで書く時間を見つけることができれば書くかもしれない。

ひょっとしたら明日またとつぜん何か閃いて書くかもしれない。暑さのせいでもないだろうけど、何がなんだかよく分からなくなってきたのでこの辺で終わりにしよう、と思いつつ

とに角、Irish Musicその…は行き詰ったわけではない、ということを言っておこう。

Irish Music その68

 

The Acrobat   Hornpipe

  • The Acrobat

B♭で弾く珍しい曲だ。これもかなり昔から知っていた。たしかナタリー・マックマスターあたりがよくやっていたかも、ということを頼りにした。フルートでの演奏も聴いたことがあるかもしれない。マット・モロイかな。これも希花さんによく合いそうな曲という観点から選んだ”

La Coccinelle   Bourree

  • La Coccinelle

Jean Blanchard作。西海岸では人気の高い曲で、かなり前からダンスの伴奏曲として演奏していたが、こんなタイトルとは知らなかった。とても親しみやすい曲だ”

Crested Hens  (Waltz)

  • Crested Hens

“多くの人はSolasのスロー・バージョンで聴いているかもしれない。いい曲だが同じようにはやりたくなかった。スローだとちょっと演歌みたいに聴こえてしまうからだ。

Gillies Chabenatという人物の作で詳しく言うとワルツではなく8分の3拍子のこれもBourreeということだ。僕はあるていど早いテンポで演奏した方が好きだ。フレンチ・フォークダンスと解釈したらいい”

Mareka&Junjiと栩木伸明さん

読売文学賞の栩木伸明先生とのコンサートが5月23日にある。僕らにとっても新しい試みだ。

栩木さん、と僕らは呼んでいるが、それほどに親しみやすい人で「教授」「先生」「学者」というところとは別に僕らと関わってくれる。

それは勿論、彼がアイルランド文学に精通していながらも、音楽にとても精通しているからだろう。それも僕がよく言う「とことんトラッド」に。

伝承音楽を身体の中に入れてしまった文学者として面白い話、興味深い話がいろいろ聞けるだろう。

でも、あれもこれも話してもらう時間もないだろうし、まず第1回目ということで、次の課題も残しておこう、と考えている。

僕のアイリッシュミュージシャンとしてのキャリアは、あのTullaから始まった。アンドリュー・マクナマラのリズム、彼の家の窓から眺めた緑の大地にシトシトと落ちる雨、小高い丘には沢山の十字架が並び、行きかう人はみな顔見知り。

そんな小さな町から習った音楽の魅力を栩木さんは痛いほど良く知っている。毎年アイルランドに同行する内藤希花も何故かこの音楽に魅せられてしまった一人だ。

Tulla Ceili Band直属のアンドリューと共に過ごし、Mr.Fiddleのフランキー・ギャビン、Mr. Bodhranのジョニー・リンゴと過ごし、Mr.Uilleann Pipesのパディー・キーナンとの演奏を経験してしまったらもう後には引けない。また、Begley一家はこの音楽をどこに向けて演奏するのかを教えてくれた大切なファミリーだ。

僕らはそんな音楽を演奏する。栩木さんはどんなお話をしてくれるか、今から楽しみだ。

ヴァイオリンそしてフィドル

僕らの世界ではその違いと、全く同じものである、という認識はもう当たり前のことである。

が、相変わらずクラシックの世界では全くの勘違い、というか相手にもしていないのか、画一的な認識しか持たれていない。

ずっと前の話になるが、確かナターシャー・セブンのある曲の録音の時に弦楽四重奏の人達を呼んだ。

そのうちの一人が「あー、カントリーね。こういう風に弾くんでしょ」と言って、ヴァイオリンを胸に当ててズーチャカズーチャカと弾いて見せた。

彼にとってのフィドルとはそういうものである。が、あれからすでに40年も経っている。それなのに、なんとか太郎という人が、あるクラシックの専門誌で、アイルランドに行った時の話をしておられて、彼らは顎あてを使わない、てなことを言っていた。

確かに僕もそういう人たちを見ている。テネシーやヴァージニアで90歳を超えたくらいのじいさんが、歌を歌いながら、ステップを踏みながら胸に当てたフィドルをズーチャカズーチャカと弾いていた。

しかしそれだけではない。おそらく日本のクラシックの人達のほとんどは他の音楽分野に極端に疎いのだろう。

マーク・オコーナーやマーティン・ヘイズは人類史上稀にみるフィドラーといえるだろう。また、フランキー・ギャビンの、あの独特な、多分クラシックからは考えられない音色から生み出される、とてつもなく細かい音の嵐はどうだろう。彼自身「楽譜は読めないから歌って覚えた」と言っている。

眼のみえないマイケル・クリーブランドの、握りしめた弓からとんでもなく早いフレーズが限りなく送り出される様はあっけにとられてしまう。

もう、フィドルってこんな感じだよね、なんていってられない。フィドルはブルーグラスにおいてもアイリッシュにおいてもその音楽の核だ。

しかし、僕の使っているピックは100円(108円か)だが、弓は、僕のギターが軽く5本は買えるほどのものから、50本ほど買えるものがあるというから呆れてしまう。

宮崎勝之

宮崎勝之が逝った。僕自身そんなに永く、また深い付き合いではなかったが、二人のあいだに歴史は奇妙な展開を見せてくれている。

僕がバードランドというグループを組んでいた頃(発起人は末松君)80年代中ごろにさかのぼる。

ちょうど僕が抜けた直後、末松君が見つけてきたメンバーが、誰あろう宮崎君だったのだ。なので当時の僕には面識がなかった。

時は経って、90年代も半ば、僕はアイリッシュのギタリストとして、サンフランシスコを拠点に活動していた。

当時、よく通ったレコーディング・スタジオのことは前にも書いたかもしれないが、オーナー兼エンジニアーのデイブ・ウェルハウゼンは元フルタイムで活動していたブルース・ハープの名手。

それがある時、ビル・モンローの歌とマンドリン・プレイを聴いて「これこそブルースだ」と、心にとてつもない衝撃が走ったそうだ。

彼は早速マンドリンを手に入れた。アメリカ人のやる気になった奴はおそろしい。そのブルース・フィーリング溢れるプレイは決してテクニカルではなかったが、とても40過ぎから始めたとは思えないものだった。

僕が坂庭君を紹介した時も、セッションに行こう、と彼を連れ出して夜遅くまでコイン・ランドリーでセッションをやってきた。

僕は行けなかったので「どうだった?」と訊くと坂庭君は言った「デイブってやつは本当にブルーグラスが好きなんだなぁ。歌にもマンドリンにも味があって。よくわからなかったけど、帰り道、盛んにブルーグラスの中のブルースを熱く語っていた」

そんな彼がある日こう言ったのをよく覚えている「ジュンジ、ミヤザキってやつ知ってるか?あいつは相当なもんだな。実にうまい。このアメリカのどのトップ・プレイヤーとも肩をならべてるじゃないか。俺は彼のプレイが大好きだ」

その頃、長年の友である坂庭君からすでに紹介されていた僕にとっても、宮崎君はアメリカでもトップ・マンドリン弾きのひとりである、という認識はあった。

デイブという男はフィーリングをとても大切にする。一番大事なのは心だ。心がどう弾くかで決まるんだ、といつも言っていた男だ。そんな奴が宮崎君のマンドリン・プレイにとことん惚れてしまったのだ。

マンドリン1本というのは移動には便利だろうが、実際にはなかなか難しいものがあっただろう。

そんな中でも日々音楽会のやって行き方を模索していたに違いない。55歳というのは若すぎる。

まだまだ普通に生きることもできただろうし、更に円熟したプレイを聴かせてくれることもできただろう。

彼、ピックくらいは持って行っただろうか。

ザ・ナターシャー・セブン 2014年4月26日

 去年の9月から7か月ぶりのナターシャー・セブン。今回はあの頃のフォークを歌う、という名目だったが、やはり彼はOne and Onlyだ。僕も随分楽しませていただいた…だけではなく、勉強にもなった。

1964年からフォークソングを、バンジョーを始め、71年に彼と出会って、それまでのアメリカン・フォークや大学時代のブルーグラスとは一味違うものを求めていた。

考えれば出会うべくして出会ったのかもしれない。

驚いたことに、初めて買ったレコードが同じ、ピート・シーガーのカーネギー・ホールでのライブ盤だったということもステージ上で判明。

いや、なかなかいないはずだ。

高石さんはますます元気。他人の歌を歌ってもやはり高石さんで、しかもその解釈の多様さ、深さに脱帽だ。

僕も久しぶりに「3つの箱」と「This Island」を歌った。久しぶりに「Dixie Break Down」も弾いた。

最後に本当に久しぶりに「ヘイ・ヘイ・ヘイ」も僕のバンジョー1本で高石さんに歌ってもらった。

基本的に僕は、歌う人やリード楽器の人のために最善の音を出すのが一番好きだ。彼が気持ちよく歌え、お客さんとのコミュニケーションが計れるようにステージを支えていく、それが自分の持ち味だとも思っている。

来年、一応最後と考えている5回目があるはずだ。その時までお互い元気でいよう、ということで別れたが、いつかまたひょっこり一緒にやることがあるかもしれない。

彼のエネルギーは止まるところを知らない。僕も今やっているMareka&Junjiを相方が医者として独立するまではやり続ける。日本やアイルランドで。

それからのことはその時考えたらいいのだ。高石さんはそんなエネルギーを僕にも、そして皆さんにも与えてくれる「最後のフォーク・シンガー」だ。

シェーマス・ベグリー、テレビに出る

“ユーは何しに日本へ”にシェーマス・ベグリーが引っかかった。コーマック出るかな、出るかな、と思って観ていたら、少し前の収録で、こりゃ次回だな、と思っていたらなんと、シェーマスが出た。“しぇー”だ。どこまでも人騒がせな一族だ。

Irish Music その67

The Jig of Slurs     Jig

  • The Jig of Slurs

“古いスコットランドのジグ。キーはDだが、BパートでGに転調する。そしてエンディングはEmだ。相当前から演奏していたが、最近になってまた思い出した”

 

Humours of Kinvara   Reel

  • Humours of Kinvara

“古いスコットランドの曲をPaddy Kellyがとても乗りのよい曲に書きかえたと言われている。Man from Bandoranというタイトルでも知られているが僕らは“その34”にあるWithin A Mile ..の代わりにこの曲からセットに持っていくことの方が最近は多い。基本的にはキーオブDといえるかもしれないがEからスタートする変わった曲だ”

 

Brendan McMahon’s/John McFadden’s Favourite   Reel

  • Brendan McMahon’s/John McFadden’s Favourite

“この曲は様々な伴奏者がどんなコードを弾くか聴いてみたいものである。AパートのスタートはEmしかり、Gしかり、相手の好みに合わせる。しかしながらBパートにいくとどうだろうか。もしAパートをEm中心でいったら、もし、G中心でいったら、どういくのが妥当だろうか。僕はCmaj7/Bm7/Am7/Bm-Emといくが、これは非常に目新しいコードだけに(特にこういった曲には)できるだけ自己主張は避ける。メロディーを引き立たせる、ということだけを考える。勿論、常にそこは最も大切なところだが”

  • John McFadden’s Favourite

“出だしはなんと“その8”のMaudabawn Chapelに似ていることか。多くの人が録音しているが、あまりセッションでは登場しない”

 

The Nine Points of Roguery    Reel

  • The Nine Points of Roguery

“7つの大罪プラス2、という変わったタイトル。曲も変わっている。この後は何を持ってきてもいい。だが、どちらかというとマイナーの曲より明るいもののほうが合っているかもしれない。基本的に3パートだが、いろんなやり方があって、それはそれで面白い。多分に北の方の曲だと思える”

Irish Music その66

 

The Flying Pig/Tell Her I Am  (Jig

  • The Flying Pig

“フィドラーのGerry O’ConnorThe Kingというタイトルで演奏していたが、僕はこのタイトルが好きだ。Slideというグループはこちらのタイトルを使っているようだが。ともかくこのタイトルを見たとき、ピンク・フロイドのコンサートを思い出した。何万人もの観客の上をピンクの巨大な豚のアドバルーンが飛ぶのだ。その昔、彼らのジャケット写真で使用するつもりだったが、風に飛ばされて空港が閉鎖されるという事態に発展してしまった。それでも翌日の新聞記事のトップを飾るなどの一大宣伝効果はあったようだが、結局ジャケットは合成、ということになってしまったそうだ。その豚を会場で使うことを考えたのは素晴らしいことだ。そういえばむかし、宇宙戦艦ヤマトを飛ばしたグループもあったなぁ”

  • Tell Her I Am

“僕らは2人ともあまり好きではない曲だったが、前とのつながりがすごくいいので選んでみた。古い曲で好きな人は多いようなので、知っておく必要は充分あるし、何度も演奏していると、なかなか味のある曲だと思えるようになってくる”

 

O’Carolan’s Ramble to Cashel    O’Carolan

  • O’Carolan’s Ramble to Cashel

“数あるキャロランのレパートリーの中でもかなり好きな曲だ。僕はJody’s Heavenでも録音し、アイルランド移民たちが集まるコンサートでもよく演奏したものだ。勿論、もとはハープの曲だが、これはギターにアレンジするのが良いと考えた。いつごろ、どこで聴いたか全く覚えていない。今ではよくフィドルとの演奏もするが、それでも限りなく美しいメロディだ。希花はハープでも演奏している。Cashelはいろんなところにあるが、これはCo.TipperaryCashelだろうか”

 

Margaret’s/My Bonnie Lies Over the Ocean    Waltz

  • Margaret’s

Pat Shuldham作の美しいワルツ。多くの人はAly Bainの演奏で聴いているだろう。

キーはAがノーマルだがDGで演奏されることもある”

  • My Bonnie Lies Over the Ocean

“世界的に有名なスコティッシュ・フォークソング。ビートルズではじめて聴いたかもしれない”

St Patrick’s Day

  セント・パトリックス・デイでした。絶対にパレードに参加したり、緑の服を着たり、自称アイリッシュ・バーに行ってギネスを飲んだりはしません。アメリカでは毎年、アンドリュー・マクナマラがふてくされて演奏していました。アイリッシュはこの日一段とバカ騒ぎをするもんだ、という勘違いの下に緑のコスチュームで現れるアメリカ人に4文字言葉でつぶやきながら。

あるいはお金持ち相手の大パーティで、ダンサーズやシンガーを交えた演奏。正直、お金にはなったし、1週間でレストランワークの2か月分は稼がせてもらったのでそう悪くはない。

トラッドのミュージシャン達にとってはいつもと変わりない演奏をして、いつもと変わりなく飲んで過ごせればそれでいい。

でなければ、家でゆっくりしているほうが良い。

そんなセント・パトリックス・デイでした。   

Irish Music その65

Colonel Fraser’s    Reel

  • Colonel Fraser’s

“魅力的な曲だが、パイプかフルートに適した曲だ。パディ・キーナンとはよく一緒に演奏したが、これも基本的には5パートからなる曲だ。全ての曲に於いて同じことが言えるが、ギタリストも正確にメロディを把握する必要がある。この曲は極端な話、GDだけでもいける曲なので全ての音使いを明確に区別しておかなければならない。理由のない和音は使いたくない。シンプルなだけにその辺のことをきちんと考えなければいけない曲は他にも無数存在する。Colonel FraserLeinsterにいたイギリス人の地主、ということだ。そして、当時の旅人パイパー(Travelling Piper)にとても親切にしてくれて、あるパイパーに新しいパイプをプレゼントしてあげた。すると彼が感謝の気持ちでこの曲を作った、というストーリーがあるそうだ。Colonel Fraserが馬に乗っている姿を見て書いたと言われている”

 

The College Groves     Reel

  • The College Gloves

“これも上記の曲と同様、魅力的な曲だ。8パートある、と言っていいのだろうか。最初Aパートを繰り返す以外はBCDもすべてのパート、おしりの2小節が違うので、4パートとは言えなかったのだ。ちなみにそのおしりの2小節はB,C.D共に同じメロディだ。これはフィドルにいい曲だと思う。1700年代後期から1800年頃のスコットランド音楽のコレクションに既に登場しているという古い曲だ”

 

Lord McDonald’s      Reel

  • Lord McDonald’s

“有名なMichael Colemanの作といわれる。これは4パートと言えるだろう。そのむかし、ピート・シーガーのバンジョー演奏で覚えた曲とほとんど一緒だ。その曲はLeather Britchesという。既に「その27」で書かれているが、その時はほとんどLeather Britches(Breeches)として扱っていたのでここでも取り上げてみた。尚、コールマン作と言われているが、起源はこれもスコティッシュから来ているらしい。それで、ブルーグラスなどでもLeather Britchesとして演奏されていることに納得がいく。ナイス・フィドル・チューンだ”

 

Stoney Steps          Reel

  • Stoney Steps

“初めて聴いたのはFrankie Gavinの素晴らしくスピード感あふれる演奏だった。キーはDだが、上記の3曲同様、コードは極端にシンプルだ。こういう曲では最も基本的な和音を使いながら、ビートで構築していくべきだろう。合いもしないコードをいろいろ使ってみるべきではない。ベースランは有効に使える”