東北大学ブルーグラス同好会

先日、ちょっとした用事でクロサワ楽器の小林君を訪ねるため、お茶の水に出掛けて行った。

もう少ししたらお昼にもなろうというのに、町は閑散としている。しかも日曜日だ。

中国からの人が減っているだけでこれほども違うものだろうか。

いくつかの薬局を通り過ぎると、マスク売り切れの表示や、アルコール除菌の棚が空っぽになっているのが目に入る。

やっぱりなぁ、と思いながらもお店を目がけて人通りのいつもより少ない道を歩き、お店に入った途端、異様な光景が目に入った。

何と若い男女が5~6人でバンジョーを弾いているではないか。

見たところ10代か20代前半。

「何事?」と小林君に訊ねたら「東北大学の人達です。僕もびっくり」と云う。

みんな真剣だ。

難しいブルーグラスに真剣に取り組んでいる感じ。実に微笑ましい。

しまいには僕と小林君も交じってのセッション。

ひょっとすると、彼らのお父さんが小林君のお父さん世代、そして彼らのおじいちゃんが昔ブルーグラスをやっていた…なんていう構図かな?

ナターシャーセブンが東北へ行った時に来ていたお客さんの中にそんな人が居たのかも…。そして、孫にもブルーグラスを…かな?

とに角、彼らの眼は輝いていて、とても明るくて、やっぱりブルーグラスは良いなぁ、と、つくづく感じてしまった。

東北大学ブルーグラス同好会の皆さん、良い時間を有難う。

これからも素晴らしい演奏を繰り広げてください。あ、それから勉学にも励んでください。

70歳バースデイコンサート

2020年2月8日(土) 快晴。

約1年前にこのお話をいただいた時、一番気にしていたのが天候のことかな。

2014年、希花さんが史上最難関と云われた医師国家試験を受けたのが2月8日だった。そしてその日、東京は大雪に見舞われた。

そうでなくても可能性は充分ある時期。

みんなでいろいろ考えた結果、この日に決めて、後は僕の晴れ男伝説を信じるしかない、と強行におよんだ。それらの決断をくだしてくれたのが、約40年にも渡って僕のことを支えてくれたWINDⅡのお二人、古川、村松コンビ。

それにいつもレコーディングでお世話になっているタムちゃんこと、田村さん。そして、いつもぼくらのことを世話してくれる高見大明神。

かなり試行錯誤をされたかもしれないが、僕の為に奮闘してくれたこの1年だったろうと思う。

おかげさまでコンサートは大盛況。

バンジョーで始まり、懐かしいギターチューンから歌まで。そして京都から駆けつけてくれた進藤君とともにダブルバンジョー。懐かしい歌も少しアレンジを加えての約50分。

休憩の前に久しぶりのバンジョー世界巡り。

進ちゃんの笑顔が光る1部になった。

2部は今の僕をたっぷり聴いていただくために希花さんに登場してもらい、アイリッシュチューンからスタート。

次に、1962年フォギーマウンテンボーイズ・カーネギーホール録音からフィドル&バンジョー、 (因みに彼らは62年と64年の2度に渡ってカーネギーホールでコンサートを行っているが、この録音が発売されたのは63年) そして、オールドタイムの名曲に絡ませて日本のメロディも演奏。

希花さんの超絶テクニックによるチューンや、しっとりしたエアーを演奏して別れの唄を歌い、更に、今日の最後にということで、この日もう一人のゲスト、金海君の登場をお願いした。

そしてみんなで谷間の虹を歌った。集まっていただいたみんなも一緒に歌ってくれた。

アンコールはお決まりのバンジョーチューンと、青春を想い出させるしっとりとした曲。

最後に一人でチャップリン。

皆さんのおかげで本当に良いコンサートが出来たように感じる。

最初にお名前を挙げた彼等と彼らの友人達 川端、高橋、岩井、上條(敬称略)そして他にもいっぱいお手伝いしてくれた人が居たと思う。

皆さんの存在が僕にとってどんなに大切なものかを再認識させられてしまう一日になった。

そしてもちろん、この日の為に遠いところでは鳥取や京都、新潟、更に遠いところでは北海道からも九州からも駆けつけてくれた皆さん、本当にありがとうございました。

この幸せな気持ちは決して忘れません。

70歳 記念CD in NEW SHOES

コンサートで全くこのCDについて発言しなかったので、少しここで書いておこうかと思っています。

最初から、カバーデザインは昔のSoft Shoesをなぞる、という考えを持っていました。

なのでバンジョーのケースを頭に乗っける、という同じポーズを試みたのですが、ひょっとしてあの時、中身は入っていたんだろうか?という素朴な疑問が湧いてきました。

今回、もう歳だし空のケースでいいんじゃない?という話になり…というか、僕からの要望で「えいやっ」と持ち上げたのですが、ケースだけでも結構重たい。

思うにあの時はやっぱり中身は入っていたように思います。

でも今回、空のケースにも関わらず情けない顔になっています。「おーい、早く撮ってくれ」という声が聞こえてくるようです。

ま、それはそれでいいか…。

裏のデザインも当時のものに近く、今回は同じグレイトレイクスのヴァンガードというオープンバックのものを使用してみました。

この楽器はSoft ShoesのGreyhoundという曲で使用していたものです。

中身のデザインも全て希花さんが制作したものに、いつもお願いしている福嶋さんが手を加えてくれました。

タイトルのin New Shoesは僕のアイディアで、これはChaplinに続いてもいいしJunjiに続いてもいいし…といった含みを持たせてあります。

さて、問題の中身ですが、Chaplin in New Shoesは今回のアルバムには必要不可欠であったので2パターンの録音をしてみました。

最初に入っているほうはベースに河合徹三さんが参加してくれました。(他にもいくつかの曲に参加してくれています)

その他の細かい説明はライナーを読んでいただければ大体分かると思います。

「なんとかルーペ」が無くても充分読める大きさの文字です。そこはこだわりました。

多くのCDのライナーは「字が小さくて読めな~い」と放り出したくなるので。

最後に全くのソロでもう一度Chaplin in New Shoesを聴いていただきますが、その前に懐かしい練習風景が流れます。

進ちゃん、省ちゃんの登場です。みんな若かった…。

全体的には、今の僕を感じてもらうものと懐かしさを感じてもらうものが半々くらいかな。

このCDを作るに当たっても、コンサートを開催するに当たっても、沢山の人が支えてくれていることを痛感いたしました。本当に感謝です。

彼等は多くのことを僕に教えてくれています。今までも、そしてこれからもそうだと思います。

そして、今回のこのCDを手にとっていただける皆さんにも本当に感謝いたします。

CDのお申し込みはこちらのサイトからお願いいたします。
in New Shoes 特設サイト

なお、今回のこのCDは数に限りがあります。なくなり次第受付を終了させていただきますので、誠に勝手ではありますがその点をご了承ください。

Irish Musicその153

Muireann’s (Jig)

Niall Vallely作の美しいジグ。何と発音するのかみんなの意見を訊いてみると、どうやらMur ― eenではないかということだ。どうも女性の名前らしい。

4パートでとてもシンプルな、それでいていかにも彼らしい曲だ。初めて彼のプレイに触れたのはNomosに於けるスーパープレイだった。おおきな手の長い指がめちゃくちゃ早く動いていたのを良く覚えている。

なので2019年にコークのセッションに彼が現れた時には「似てるけど、えらい静かに弾いているなぁ」と思ったものだ。やっぱり他人のセッションなので、その辺は心得ているんだろうな。

難しそうな人かと思っていたが、話してみると弟のキリアンと同じように人懐っこいところもあるのかもしれない。どちらにせよ兄弟そろってもの静かであることは確かなようだ。

曲に関する情報はあまりないので申し訳ないが。

ポリッジ #2

最近はまっているのが、普通に作ったポリッジに黒コショウを入れる、というもの。

これには2通りあって、全く甘くしないで少々の塩とそれよりも多い黒コショウを入れて食するもの。

もうひとつの作り方は普通に砂糖も塩も入れて、更に黒コショウを効かせる、というもの。

これがなかなかに美味しい。

これだと食事という感じが増す。

そして更に最近アイルランドの若者から聞いた話。

冷たいミルクに、作ったポリッジを浸して、好きなドライフルーツを入れて一晩冷蔵庫で寝かせておく。次の朝、冷えて更にふやけたポリッジがフルーツと絡んで絶妙に美味しいそうだ。

しかし、日本だとドライフルーツは高い。

せっかく安くポリッジを買ってきても、フルーツにお金がかかってしまう。

そんな感じで、まだ試してはないが、もしかしたらミルクに一晩浸しておく、というのだけでもやってみたらいいかも。

それとバナナと食べたりしたら…。

たかがポリッジ…されどポリッジだ。意外と奥が深そう。

音楽と商店街

最近、商店街を歩いていたら聴き慣れた音楽が流れていた。いや、聴き慣れないと言った方がいいのだろうか。

とても日本のいわゆる「商店街」という処に不似合だったからだ。

その曲は「O’Carolan’s Ramble to Cashel」だ。

明らかにNorthern Lights の演奏によるものだったが、恐らくこの曲を知っていたのは僕だけだったろう。

そうこうしているうちに今日は何と「Bonny Bunch of Roses -O」が流れていたではないか。

これにはぶったまげた。

誰の演奏によるものかは分からなかったが、不思議なことがあるものだ。

また、近くの「ライフ」というスーパーではしょっちゅうアイリッシュ“ぽい”ものが流れているが、時々「Jackson’s」が流れる。

僕等がフランキーの演奏から学んだものだが、何故か3パート目がない。

詳しくはLa Cosa Mulliganという名前もあるが「Jackson’s #2」としてもクレジットされることが多い。そしてほとんどの場合3パートだ。

そうなると買い物どころではなく気になって仕方がないのだが、その辺のレジの人に訊いても分かるはずもないだろう。

街で流れているバックグラウンド(通称エレベーターミュージックともいう)は何か自分で考えている時、非常に邪魔になることもあるが、たまには予期せぬところで(不似合にせよ)知っているものが流れるとフッと足を止めて聴いてしまう。

そしてそのアレンジに耳をすましたり、誰が演奏しているものだろうか、などの思いをはりめぐらせてしまう。

それは誰でもが知っているようなポピュラーなものしか聴かない人には分かり得ない世界かもしれない。

懐かしいレコードの数々4 ブルーグラス

今回は特にブルーグラスについて書いてみよう。

初めてのブルーグラスアルバムは「Bluegrass is oldies but goodies」という、見本盤としていただいた物。

何故そんなものが入っていたのかさっぱりわからないが、最初のフォギーマウンテンBDに度胆を抜かれたものだ。

(いろいろ調べてみると1963年と65年の2回、別レコード会社からリリースされているようだし、フォギーはB面の1曲目だったらしい。もしかしたらあまりの衝撃にB面ばかり聴いていたのかもしれない)

京都に出て初めて買ったレコードはスタンレー・ブラザースとレノ&スマイリーがカップリングになっていた物。たしかB面の最初がシャーロット・ブレイクダウン(レノ&スマイリー)だったような気がする。7フレット目にカポしてめちゃくちゃ高い音で派手に弾くものだった。

スタンレーではマスタートーン・マーチやクリンチ・マウンテン・BSが入っていたかな。

(これも調べてみたら1967年の発売らしい)

順番はまちまちだが、お気に入りとしてはカントリー・ジェントルメンのイン・コンサート。

ブルーベルなんか擦り切れるほど聴いた覚えがある。

記録では67年発売、とあるので、ひょっとすると高校の終わりごろに聴いていたのかもしれない。

大学1年の頃(関西では1回生という)友人と銭湯帰りにGoin’ to the Racesをハモったりしていた。

そう言えばビートルカントリーというアルバムもあった。

チャールズ・リバー・バレイ・ボーイズの演奏で確かエリック・トンプソンがギターで入っていた物。66年の作品だったらしい。

実に素晴らしいアレンジでブルーグラスの良さを最大に生かしつつ、とてもソフィティスケイトされたものだった。

元々ほぼ全員がハーバード大学やMITに通っていただけあって、その卓越したセンスが伺える。

フォギーマウンテンボーイズのカーネギーホールコンサートも聴かなくてはならないもののひとつだろう。

勿論、スタンレー、ジム&ジェシー、ジミー・マーチン辺りは軒並み聴いた覚えがあるので、どのアルバムが…ということはなかなか言えないが、それらはいまだに僕にとってのバイブルだ、と言えよう。

しかし、何枚かの見本盤(タンゴ、ジャズ等)の中でもし、僕がタンゴに興味を持っていたらどうなっただろうか?などと考えると、この出会いも不思議なものだ。

夢みるぱさり

物事には始まりがあり、終わりもあるけれど、ぱさりは終わりではない。

場所を変えて、またみんなに新たな夢を見せてくれるスタート点に立つようだ。

本当に夢のような景色だった。

作りだしたのは「泉さん」

しかし、この人のパワーには感心させられる。

人間ってどんな状況にたたされてもいつでもパワフルでいなければいけないものなんだな、ということを教えてくれる人だ。

いつも彼女が言っていた「分かち合う喜び」

自分自身が光を放てば周りが明るくなる。その光を彼女は人々に分けてくれている。

そんなことをこの人からは感じてしまう。

それは決して宗教的なものではなく、神がかり的なものでもなく、紛れもなく彼女の人間としての生き様なのだろう。

2016年の6月13日に初めて訪れたこの場所。

この次は別な場所でまた泉さん、大二郎さん、彩さん、戸矢さん、そして彼らを支えている人達、みんなの素晴らしい笑顔に会うことができるだろう。

ブルーグラスに関連する思い

1960年中頃にブルーグラスと出会い、同年後半からブルーグラスを始め、90年代からはほとんどといっていいほど遠ざかっていた。

最初にフォギーマウンテン・ブレイクダウンにノックアウトされたが、そういう人は多いだろう。

バンジョーの音はすでに「ワシントン広場の夜は更けて」や「ほほにかかる涙」などでお馴染みだったし、他にも聴いたことがあったかもしれないが、それが何故バンジョーという楽器だと認識していたかは謎だ。

フォークソングを高校生で始めた頃も何故バンジョーを担当したいと思ったかは覚えていないが、その音色が好きだったのだろう。

初めて手に入れたピアレスで500マイル、MTAなどを弾いていたが、ブラザース・フォアの「ダーリン・コリー」は良く分からなかった。何となくそれらしくコピーして弾いていたが、今聴いても非常に面白い弾き方をしている。

フォークともブルーグラスともとれる不思議な感じだ。

大学に入って更にひたすらコピーに明け暮れ、やがてニューグラスなるものが登場した。日本では時に1971~2年くらいだろうか。

バンジョーからもマンドリンからも聴き慣れないリックが飛び出して来ていた。フィドルはその当時そんなでもなかったような記憶がある。

それは多分にそれまで聴いてきたジャン・リュック・ポンティやホット・クラブ・オブ・フランスなどに代表される音づかいに聴き慣れていたからだろうか。

とに角80年代にかけてブルーグラスは飛躍的な進展を見せていた。

84年にナッシュビルでまだ20代前半のマーク・オコーナーを見てぶっ飛んだ。そしてそこにいたベラ・フレックやジム・ルーニー等と立ち話をした。

ジェームス・マッキニ―とつるんでよくバンジョーを弾いていたのもその頃だったが、それ以後、特に80年代後半からアイリッシュの方に趣が変わってきたのは、やはりブルーグラスがかなり先に進んできたおかげで、自分が目指してきたのとは少しかけ離れてきたからだろう。

別な言い方をすれば付いていけなくなった、とも云えるかな。一方でテクニックばかりが強調されると2曲ほど聴けば充分。曲が終わると「へぇ、それで?」というものも増えてきた。が、しかしこれはあくまでも僕にとって、だ。

そんなころ、昔買ったボシー・バンドやディ・ダナンを聴くと妙に心の中に入って来る。

やがてアイリッシュを始めるようになったら全くブルーグラスに興味がなくなってきた。

初期に感激した曲ではアルタンの演奏した「The Curlews」だ。このメロディラインとコード進行には心が躍った。

ひょっとすると、ある意味最初に聴いた時のフォギーマウンテン・ブレイクダウンに匹敵するものだったかも。

僕はブルーグラスでも、アイリッシュでも美しい展開をする音楽が好きだ。と同時にブルーグラスではスタンレー・ブラザースのようにとことん景色をみせてくれるもの。強いて言うと力強い生活感を漂わせているもの。アイリッシュで言うとそれプラス、メロディの美しいもの、和声の美しいものに魅かれる。

オールドタイムはメロディラインや和声というところではなく、多分、その人生の喜怒哀楽というのだろうか…リズムのうねりに魅かれてしまう。

これはおそらくこの手の音楽に向き合って55年という歳月に来ておもうところなんだろう。

最近、全然関係ないが「中川家」のふたりが面白いことを言っていた。

長いことやっていると“どうにでもなる”気がする。どうにもならんことは“どうにもならん”。でも他の方法を取ってでもどうにかする面白さがそこにある。

多分もうちょっと違う表現だったと思うけど、そんな感じだった。

特に最近の彼等に技術以上、或いは技術以外のものを感じるのはその辺の“何かを越えてしまった”ところなのかもしれない。

僕にとってのブルーグラスもアイリッシュもまたそんなところに来ているのかもしれないし、そうだといいなと思う。

但し、日々、上を目指さなくてはならないことも忘れずに。

Irish Musicその154

Mr. O’Connor     (O’Carolan)

彼の作品集では113番目に位置する曲だが、果たして113番目の作曲かどうかは定かでない…と思う。

非常に難解(ホークス)な曲だ。

常識的に考えると理解に苦しむ譜割りだ。もしかしたら、間違えて弾いてしまった音がそのまま伝承されているのではないかと思うほどのいわゆる“字余り”的な…。

しかし、こういうものは古くからのチューンにはよくあることだ。

セットダンスなどはステップから来る余分な小節、というのがあるが。これはダンス曲ではないので、何かの間違いではないか、と思ってしまうのだ。

実に不思議な曲だが、こういうものが意外と癖になったりするから面白いものだ。

ジャッキー・デイリーとアレック・フィンのディ・ダナン時代の録音がとても美しいが、デイル・ラスのフィドルと、自身が弾くギターとの組み合わせもこれまた素晴らしいものがある。

気を抜くと混乱を招くようなこの曲。確かにジャッキー・デイリーの映像をみると余計なことは考えずに一点を見つめて弾いているように見えるが…?

ザ・ナターシャー・セブン

最近1972年の京都でのライブテープと云うのが発掘されて、それがCD化されたが、ライナーに高石さんのインタビューが掲載されている。

勿論、彼は当時から先見の眼があったし、いまだに素晴らしい感性を持ち合わせたシンガーだと言える。

その彼がナターシャー・セブンに関してインタビューに答える形式で様々な話が聞けるが、僕は僕なりにここにバンドのことなどを書いてみようかな、と思い立った。

既にザ・ナターシャー・セブンとその時代背景というコラムは書いているので重複する部分はあるかもしれないが。

僕は京都産業大学に入ってしばらくして高石氏と出会った。ソングブックによると1971年の1月ということだ。

意気投合したかどうかは定かではないが取りあえず付いていくことにした。彼もバンドを結成するために人材を探していたことは確かだ。

その時の彼の眼に僕がどう映ったかは知らないが、アンドリューが初めて僕に声をかけたのは日本人で珍しかったから、という単純な理由のように、そんなことはどうでもいいことで、わかりはしないことだろう。

しかしながら、彼(高石氏)の感性には合っていたのかもしれない。

ほどなくして「高石ともやとその仲間たち」として、今では考えられないような名前でデビュー(?)して、すぐに今度は「バックステップ・カントリー・バンド」という名前でやっていた…と記憶している。

そのままのバンド名だったらどうだったかはわからないが、バックステップ…後ろに下がる?あんまり良くないな、とだれかが云っていたような気もする。

フィドラーの井芹君、ベースの箕岡さん、すぐに北村謙がベースに入り、初期の頃は目まぐるしくメンバーが変わっていた。

その中でいろいろ模索してフラットマンドリンを弾く僕の静岡時代からのフォーク仲間であった金海君を起用した。

高石さんは技術的に云々ということをインタビューで答えていたが、そんなことではなく、彼の音楽に対するアプローチは僕らが思っているものとは違ってもう少しポピュラーな路線だったのだろう。あくまで僕の見解だが。

そんな時、クライマックスを脱退して「さぁ大学に戻るか!」と強い意志を持っていた坂庭省悟を僕が連れてきた。

確か京都会館で光市のフォークグループや我夢土下座などと一緒のコンサートだったかな。

二人でブラックマウンテンラグを弾いた。

以後、彼にフラットマンドリンを弾くように勧めて「こんな女々しい楽器…」と嫌がっていた彼もその独特なスウイング感をその「女々しい楽器」に注ぎ込んでいった。

ここに不動のナターシャー・セブンサウンドが出来つつあった。

僕と坂庭君との間には本当に不思議なほどの意思疎通があった。

ステージ上で特に言葉を交わさずに、その日のその曲の楽器編成を変えてみたり、次ソロやってくれるか?なども「目くばせ」だけで成り立っていた。

思えば今やっているアイリッシュも「目くばせ」の世界だ。

僕がアイリッシュの伴奏者として認められてきたのも、多分、この「目くばせ」の力によるものかもしれない。

「初めまして!」でそのままステージを2時間もこなすのにはよーく聴くことと、この「目くばせ」がどれほど大切なことか、僕は嫌というほど良く知っている。

更に、彼とはハーモニーも特に相談しなくても当然のごとく決まっていく。

ひとつには彼のとんでもなく高い声域というのがそうさせるのかもしれないが、あまり苦労した記憶もない。

そして、木田高介の加入となり、また飛躍的なバンドサウンドが出来上がっていった。それは明らかに他ではあり得ない(特に日本では、という意味)ものであった。

そこに高石氏の独特な詩の世界。これは当時のフォークシンガーとは比較にならないほどの揺るぎない表現力を持ち、またそれを人々に伝えていく、という点でも卓越した才能の持ち主だった彼が成し得たものだろう。

思えば1971年から僕が抜けた1984年まで(正確には1983年かな)日本中にそのサウンドを提供してきたが、今でも多くの人がナターシャーソングを歌ってくれている。

そしてそれはブルーグラスとはまた違う方向性で進んでいる。

ナターシャー・セブンは明らかにブルーグラス・スタイルを基盤にしたフォークグループであった。

英語でしか表現できないような語意が、高石氏という存在を通して見事に日本の唄となり、そしてそれが実に巧みに、ある時はブルーグラス・サウンドと絡み合い、そしてある時は独特な世界観をもったフォークソングとなり、また木田高介の加入によってポップス、それも彼の才覚により、行き過ぎないポップス感も加味された。

これは日本では2度と現れない存在だろう。

CDのライナーに登場する平井一成氏。僕を京都の学生仲間から抜粋してくれた人物だ。彼にしてもしかり。2人といない人物であり、また2度と現れない存在だったろう。

ナターシャー・セブンが見ていた世界はそういうものだったのかな。

Irish Musicその155

Laura Lynn Cunningham    (Reel)

Phil Cunningham自身のコメントによると彼のシスターの為に書いた曲、ということだ。

とてもキャッチ―なメロディライン。多分Lunasaの演奏で知っている人も多いのではないかと思う。僕自身もよく彼等とは一緒に行動していたので、確かこの曲の前にケビン・クロフォードがJanuary Snowsを演奏していて、それが凄く好きだった。ある時、サンタクルーズのKuumbwa Jazz Centerという処で、彼らが演奏した時、「January Snow絶品だなぁ。それから次の曲に入るところがまたすごくいいなぁ」とケビンに言ったことがあったのを想い出した。

余談だがMy SisterとかMy Brotherとか云われた場合、妹?姉?弟?兄?とどうしても気になってしまうのは日本人だからみたいだ。彼らにしてみれば家族の一員であるため、上だろうが下だろうが関係ないようだ。文化の違いだろうな。

たまには思い出話

2020年、開けたばかりの時は、多くの人が「今年はどんな年になるだろうか」と期待したり、前年と同じでもいいから「まぁいい年になれば…」くらいのことは思っていただろう。

しかし、こういうことになろうとは。

そこでしばらくはじっとしていることになり、久しぶりに思い出したことでもまた書いてみようかな、なんていう気持ちになっている。

僕らの世代は生まれてこの方、大きな戦争には出会わなかった。

あんなにひどかったベトナム戦争ですら恩恵を授かった世代だったし、朝鮮戦争は生まれていたけれど知る由もない。

1989年10月17日のロマ・プリータ地震の時は驚いたが、その比ではなく驚いたのが、あの3月11日。

東京に居た僕でさえも、もしかしたら…と思ったくらいに全てのものが落下し、食器棚の扉が開いてあらゆるお皿は空飛ぶ円盤となり、本棚の奥から埃が舞って部屋の中が一瞬白く見えた。勿論立ち上がることは不可能で、揺れが収まってから、全てが床にたたきつけられた部屋をどのようにして出たのかもいまだに想い出せない。思い出話にもならない。

9月11日はさすがに広い国、アメリカでサン・フランシスコにいた僕にとって東海岸は遠かった。

それでも、一気に戦争モードになった感のあるアメリカではしばらくいろんなことがあったことも事実だ。

しかし。今回は別かも。

ある意味、これは見えない敵との戦争がどこかで見える敵を作りだしていくことに繋がっていくかもしれない。

ま、しばし忘れて。

最近ふと坂庭君のことを想い出すことがあった。と云いながらしょっちゅう想い出すことがあるのだが。それもほとんど面白かったことばかり。

僕等はツァーに出ても、まずお酒を呑みに出たことが無かった。二人ともほとんどといっていいほどお酒には興味が無かった。コップ1杯のビールで充分赤くなっていた。

そんな僕らがある日、赤坂でおしゃれな紅茶を飲んだ。まだオープンして間もない感じの、京都の田舎から出てきた僕らには、本当に目を見張るくらいのお店だった。

「レ・レモンティー」と注文してしばらくすると、これ見よがしに豪華なティー・ポットがおしゃれな服を着せられてやってきた。そしてこれまたおしゃれなカップ。そしてその横に砂時計。

「なんやろ、これ?」という顔をしていたのがばれたのだろうか。

ウエイターのお兄さんが「この砂が落ちるまでお待ちください」と云い残して去っていった。

「これ、ひっくり返したらおこられるやろうなぁ」「ウン、余計なことスナってな」

そんなこんなで、結論は「東京ってめんどくさいところやなぁ」だった。

ある日チョコレートパフェかなにか甘いものを求めて夜11時頃ホテルを出た。これも赤坂だった。

二人で歩いていると、遥か後方からアメリカ人の若者が酔っぱらって歌を唄いながら歩いてくる。

振り向いてみるとまだまだ遠い。3~4人は居るようだ。

でも遠いと言えどもあんまりいい感じはしなかったので、少し足早に歩き始めた。すると、敵も少し足早になったようだ。

その歌「カントリーロード」が段々近づいてくるのだ。

「やばい、省ちゃん。もう少し早く歩こう」徐々に近づいてくる「カントリーロ―ド」

結局すぐ後ろで曲がっていったが、それから「やばい!」と思うことは二人で「カントリーロ~♪」と唄うこととなった。

北海道に行くとローカル電車に乗ることが多く、二人でよく窓から外の景色を見ていた。

「なぁ、じゅんじ。こんなとこで殺されて埋められてもわからんなぁ」省悟は必ずそう云っていた。僕は「そうやなぁ…」としみじみ答えていた。

次に北海道を訪れた時は僕が「なぁ、しょうご。こんなとこで殺されて埋められてもわからんなぁ」彼は「そうやなぁ…」としみじみ答えた。

その次からは「なぁ、じゅんじ…」「そうやなぁ…」「なぁ、しょうご…」「そうやなぁ」それだけの会話に省略されていた。

思えば18歳の多感な頃から結構一緒に時を過ごしたせいもあってか、後年は、ほとんどの会話が省略されていても分かるものだった。

あれだけ趣味趣向が違ったのに、何故か「ゼリー、寒天、ババロア、白玉」ここに関しては全く同じで、夜中に突然二人で白玉を作って食べたこともあるくらいだ。

ゼリーや寒天をプールいっぱいに作ってそこで泳いでみたい、と二人で良く云っていた。ぜんざいのプールを白玉の浮き輪でプ~カプカとか。

「よかったなぁ、俺達の大好物が納豆でなくて」なんて云いながら。

お好み焼きの作り方は流石に関西人。それはそれは見事なものだった。

彼に関する想い出は限りなくあるが、まとまりのないものになってしまう。結局それくらい多くの時間を、そして空間を一緒に過ごした、ということなのだろうか。

いつかちゃんとまとめてみようかな。

今、彼がまだこの世に居たら、今回のこの世界が終わるかもしれない状況をどう見るだろうか。

ふたりで赤坂を歩きながら「なぁ、こんなんじゃぁ誰がかかっているかわからんなぁ」って言っているかな?

R L Givensマンドリン

‘91年か‘92年頃だろうか。丁度、省ちゃんがカリフォルニアに居た時、友人から面白いニュースが入った。

サンタ・クルーズ近辺で活躍しているバンド、サイド・サドルスの人が現在使っているマンドリンを売ろうかと思っている、という話だ。

サイド・サドルスと云うバンドは女性5人くらいの編成でカリフォルニアではかなり名の通ったバンドだ。

そのメンバーのKim Elkingという女性。

彼女は週に一度、サンタ・クルーズでDJをやっているという。DJと云ってもお皿を回すやつじゃない。ブルーグラスを聴かせてくれる番組だ。

それじゃぁ、せっかくだから見に行きたいけど、物は何だろうと思い、取りあえず電話をしてみた。

するとR L GivensのFだという返事が返ってきた。提示された値段は敢えて書かないが、とてもリーズナブルなものだった。

Givensと云えば、当時知っている限りでは相当若い時のサム・ブッシュがAタイプのものを弾いている写真を見たことがあるだけで、現物にお目にかかったことは無かった。

取りあえず見に行くか、と省ちゃんを連れてサンフランシスコから1時間半ほどのラジオ局へ出かけて行った。

Kimが「よく来たわね。これよ。」と、とてもフレンドリーに手渡してくれたものは、渋い色の紛れもなく本物のGivens Mandolinだった。

省ちゃんは目をまん丸くして「わー!初めて見るGivens!」と感激してしばらく弾いた。

番組が終わるまで考えていた省ちゃんは「ウ~ン、もうちょっと考えるわ」

彼の買い物は決して衝動買いではない。何に関してもじっくり考える。

Kimに「もう少し考えるらしい」と伝え、ラジオ局を後にした。

帰り道、ずーっと「ウ~ン」と唸っているのはいかにも彼らしかった。

そしてサンフランシスコに着いた途端「やっぱ買うわ!」と叫んだのも彼らしい。

急いで彼女に電話して明日また会えるかどうか、と訊いたら「いいよ、ラジオ局で会おうか?」と云ってくれた。

「省ちゃん、今晩寝たら気が変わらないように」と云っておいた。

そして次の日、再びサンタ・クルーズに出掛けて行ってめでたく珍しいGivensを手に入れたのだった。

彼はその楽器を様々なレコーディングで使っている。勿論Gibsonもよく使用していたが、確かにまた一味違う鳴り方をしている楽器だった。

そしてその製作者、R L Givensはそれから間もなくして亡くなった(‘93年の初めころ)と聞いた。

素晴らしい楽器を提供してくれた彼に感謝。そして彼の楽器を使用して素晴らしい音楽を提供してくれた省ちゃんにも感謝。

更にこの楽器を省ちゃんの手に渡してくれたKimにも感謝。

やっと

思わせぶりなタイトルだが、云いたいことは「やっと屋内禁煙」という決まりが始まった、ということ。

2020年4月1日だが、人類の歴史上2020年という年は消えてしまいそうだ。

とに角、なんにせよこれがなかなか決まらなかったのは、煙草を吸う悪い政治家のせいだったのだ。

僕は大学に入って少しの間、煙草を吸ってみた。恰好を付けたかっただけだ。それで大人の仲間入りができたような気になっていたのだろう。

しかし、ある朝「不味い」と感じてやめた。結局のところ好きではなかったのだと思う。

わずか数ヶ月だったかもしれない。

以後、全く手にしていないので50年以上は経つだろう。

おかげで、今は数十メートル先でだれか吸っているだけでも分かる。電車に煙草の匂いのする人が乗ってくると車両を変える。

正面から吸いながら歩いてくる奴がいると道を変える。

何が嫌かと云うと「なんで貴方の体内に一度入って吐き出された煙を僕が吸わなくてはならないのか」というところだ。

まだ、カリフォルニアが室内全面禁煙になる前、パブで演奏した後、家に帰ってギターケースを開けると煙がフワーッと出てきた。

髪の毛から、着ているものから、マイクケーブルまで全て凄い匂いだった。

やがて、従業員を守るため、ということが主な理由でそうなったのだが、シアトルへ行った時、ワシントン州はまだ法令としては施行されていなかったので、パブに入るや否やなんか違うけど何だろう、と思ったが、中に煙が充満していたのだ。

因みにサンフランシスコでは公共の建物内で規則を破ったら確か、¥1000ドルの罰金じゃなかったかな。場所によるのかもしれないけど。

ま、中にはヘビースモーカーなのに全く肺が綺麗、という人もいるらしい。

省ちゃんは不思議なくらい煙草の匂いがしない奴だった。

そんな風に色々なケースがあるようだが、この日本と云う国は湿気も多いし、人間も密集しているし、匂いが溜まってしまうように感じる。

食事の席では特に嫌だったのだが、今月から一安心。

2020年

大変な年になってしまったものだ。多分今年1年では収束しないだろう。もちろんそうであってほしくはないのだが。

政府のうろたえぶりを見る限り…といえども大変なのはわかる。誰も想像できなかったことのひとつかもしれないのだから。

この上、地震なんかが起きたら、なんて良くないことばかり考えてしまう。

良くないことだが、いろいろ言いたくなってしまう。

もともと中国で始まったものだし、WHOの中国寄り、といったトランプの意見は正しい、と思う。決して好きな人物ではないが、非常に分かり易いことを言う人だ。大統領という職にふさわしい人物かどうかは良く分からないが。

自民党の幹事長が8割減なんて出来るわけがない、と云ったのは僕も同感。でもこの人、以前に国民が何と云おうと突っ走るだけだ、と云ったので、全く信用はしていない。

そのうちマスク2枚が来そうだけど、座布団2枚!という感じのシャレみたいだ。

待ち焦がれている人って居るのだろうか。

話変わって、ヨーロッパやアメリカのことを考えると、やっぱり日本では靴を脱いで家に入る、とか、衛生観念に関してはちょっと彼等とは違うところにあると感じる。

日本人はトイレに入っている最中に握手を求めたりしないし。

別な考えでは、あまりにも清潔になり過ぎ、という感もあるが。

例えば僕らが子供の頃は犬の糞なんか公園に行けばどこにでもあったし、中学校のマラソン大会ではあぜ道沿いの××溜めに落ちた奴がいたり、僕らもよく遠くから石を投げて遊んだものだ。誰か逃げ遅れるやつがいないか、それが楽しみで。

そんなことは今の子なんかには考えられないことだろう。

先ほどの靴の話だが、アイルランドでもアメリカでも、パブのトイレなんかは、想像を絶する見かけの時がある。

そんな処から家に帰ってきてもそのままカウチに座り、ともすればベッドにそのまま横たわって本なんか読んだりする。

アイルランドでは、普通の家庭で子どもたちが皿も用意せず、テーブルの上にポテトチップスをザーッと出してあんたも食べたら?なんて勧めてくれる。

そのテーブル、多分、昨夜、君の親父がパブから帰ってきて酔っぱらってその上でダンスしてたと思うよ、と云いたいが言わない。でも、よく考えたら、彼らもそんなこと分かっているんだろうなぁ。

それはヨーロッパの他の国でもそんなに違いはないかもしれないし、アジア諸国に於いてもそんなところはあるかもしれない。

アメリカに住む息子に「トイレットペーパー買っておいたほうがいい」とメールしたら「何故?」と返ってきた。これこれこういうわけで、と云ったら「世界の貧しい国々に行ったから知っているけど、トイレットペーパーなんて無くても平気だ。そんなことはさんざん経験している」…そうだ。

僕等もそんな風に強くならなくてはいけない。

今や、全てのものに触れないわけにもいかないし、手洗いをどれだけ念入りにしても髪の毛の1本にウイルスは付いているかもしれないし、まつげにも付いているかもしれない。

それも考えすぎかもしれないが、とにかく気がついたときには体温を計り、水を飲み、手を洗い、顔を洗い、頭を洗い、全身を洗い、洗濯をして、掃除をして、片づけをして、少しの運動を欠かさず、良く寝ること。

元々風邪のウイルスが強力に変化したものだと思って、風邪ひきにつながるようなことは避ける。

僕はこのことが起こり出した当初から、男の方が悪くなりやすいような気がしていたが、最近の調査で同じことが云われている。

僕自身の偏った考えでは、喫煙による肺疾患は圧倒的に男の方が多いのではないかと思うし、やっぱり男の方が体は(時として心も)弱いような気がする。

なので、いや、これは男も女もないが、できる限りじっとして、健康のことや、いろんなことを見つめなおすいい機会にしたいと思う。

優秀な医者や研修医も守ってあげたいし、皆それぞれに守ってあげなくてはいけない人がいるだろうし、2020年で世界を終わりにしてはいけない。

失ったものの大きさは失った後で気がつくことが多いが、ちょっとした発想の転換で失う前に気づくこともある。

なので、本当にこれをいい方向に持って行けるようにいろいろ考えましょう。2020年はそんな年になるのかな。

John PrineとSeldom Scene

John Prineの訃報はアイルランドの人達の間でもかなり取り上げられたが、それはこのコロナによるものだったこともあるのかもしれない。
やはり健康面では以前からいろいろあったようだ。絶対に感染してはいけない人だったのだろう。

いや、想い出したが、キンバラのパブに行った時に彼の写真だったかポスターだったかを見つけたことがあった。へ~意外な処で繋がりがあるんだなぁ、とその時は思ったが、どうやらキンバラの近くに家があったようだ。なんでもド二ゴールの女性と結婚してキンバラ近辺に住んでいた、という話だった。

なぜタイトルにSeldom Sceneがあるのかというと、彼らが取り上げていたParadiseという曲がとても印象深かったことにある。

もちろんNanci Griffithが歌っていたSpeed of the Sound of Lonelinessもいい曲だったが、Seldom Sceneとはアレキサンドリアのバーチメアで演奏したことがあったので何となくJohn Prine繋がりで僕の中では近い存在だ。

当時、大塚章さんのバンドGrazz Matazzで一緒に演奏させてもらい、バーチメアにはよく出演していた。

そんな一環として大塚さんが彼等と一緒に演奏する機会を与えてくれたのだ。

ベン・エルドリッジのバンジョーを借りると、ストラップが長すぎて、僕が「パンクグラス」と云うとジョン・ダッフィーがそれをすぐに真似していた。

John Prineについてはあまり深く知らないがSteve Goodmanも結構好きだったので彼とのつながりで知るようになったくらいだ。

シカゴの寒い日に郵便局勤めだった彼と郵便ポストを雪よけにしてギターを弾いて歌った、なんて都市伝説のような話もあるようだ。

John Prine からの脱線ついでに言うと、今回のウイルスは日本でも志村けんという、僕が思うに時が時ならば国葬級のことをしなければならない人まで奪ってしまった。

僕が大学時代のこと。友人の一人が専門学校を中退してコメディアンになりたい、と相談を持ち掛けてきたが、僕は考え直した方がいい、と伝えた。

結局、彼はその日の面接をドタキャンしてその道に進まなかったのだが、その少し後に志村けんが現れた。友人と云うのはちょっと志村けんに似ていたのだ。僕は一瞬、あれっと思ったことがある。なので、それだけの事だがとても他人とは思えないのだ。

志村けんにしてもJohn Prineにしても個人的に繋がりは無いし、特別フォローしてきた存在でもないが、有り余る才能の持ち主であったことは間違いない。

まとまりのない文章でSeldom Sceneがどこかへ行ってしまったり、志村けんが突然出てきたりで、自分でもよく分からないが、それと同様、世の中が混乱していることは確かだ。

この際、時間もあることだし、今一度彼の歌を聴きなおしてみよう。

オリジナルコンディションが良いか、それとも…。

楽器を手に入れる時、まず一番に気にするのが、僕の場合ならそのイントネーションだ。

出来得る限り正確なのがいい。勿論、フレット楽器の場合、ピッタリという具合にはなかなかいかないが。取りあえずネックのそり状態を確認する。

お店で売っているものではよほど安価なものでもない限りはその部分はそんなに気にしなくても良いかもしれない。

あとは持った感覚、ネックを握った感覚などからみていく。

比較的新しい楽器だったらそんなに気にするところはないが、古い楽器などはその上、指板の減り具合、フレットの減り具合などを確かめるが、ここで結構気にする人が多いのが、オリジナルコンディションかどうかだ。

忘れていたが僕はあくまでギターやバンジョー、マンドリンと云った楽器について書いている。

僕の場合、オリジナルかどうかはあまり気にしない。ただ、やっぱりマッチしているほうがいいことは確かだ。

あまり気にしないといえども厄介なのが糸巻きだろう。流石に100年も経った楽器でオリジナルのものが付いていると、その作動については気にする。できれば取り替えたくない。

特に1900年代初期のギブソンマンドリンA4などは美しい模様の入ったペッグが付いている。これは多少新しいものより硬くなっていたりするが、潤滑油などで少しずつ調子を整えていけばそんなに問題なく使えるものもある。

マンドリンに於いてはピックガードなども取り外されてどこかへいってしまったものもある。ブリッジも変えられたものもある。

それらはあまり気にならない。

バンジョーだが、僕はほとんどオリジナルかどうか気にしない。何故って、オリジナルコンディションだったらべらぼーな値段になってしまう可能性があるからだ。

それよりもできるだけマッチしたペッグと好みのテイルピースが付いていれば、コンバートされていようが、ポットなどを多少改造していようが、自分の好きなタイプのインレイであったり、指板がエボニーであったり…と云ったところに注目する。

その上、値段が許容範囲かどうか、それは大切な決め手となる。

ギターに於いてはピックガードが変えられていたり、ペッグや、ブリッジまでもが別のものに変えられている場合もあるし、表板そのものが修理されて変わっているものがある。裏板でも同じことが言える。

しかし、それでも自分に合っていて満足できるコンディションで値段も許容範囲だったら良いと、僕は思う。

究極、オリジナルコンディションであるかどうかはあまり気にしない。今、自分にとって最良のものを良しとする。そんな感じかな。-

2月8日から今日まで…

何とも訳の分からないタイトルだが、つくづく自分の事を考えてみると、70歳記念コンサートは2月8日に決めて良かったな、と思う。

日にちを考えていた頃(2019年の春~夏頃)に、2月のはじめは雪が降る、という見通しもあった。

事実、2014年の希花さんの国家試験は同時期で大雪が降った。しかも2週連続だったと記憶している。

しかし、諸々の事情でその日になったのだが、既にクルーズ船の話は出ていたと思う。

僕はいち早くアルコール消毒を楽屋に持ち込んでみんなに使ってもらっていた。

厚生労働省はそれ以後も公共交通機関での帰宅を促していた。

コンサートは皆さんのおかげでとても良いものが出来たと思う。進ちゃんも京都から、金海君も静岡から駆けつけてくれて昔と今を演じることが出来た。

あと2週間遅かったら開催自体どうなっていたか分からなかったが、そんな時点でも政府はのんびりと、財務局員の自殺の真実を隠すことに明け暮れていたようだ。

3月に入ると僕らはバードランドと陽の当たる道の2軒のお店での演奏をお願いしていた。

悩みに悩んだ末、開催していただいたが、やはり来ることができなかった方もいた。

僕等も手洗いにはかなり気を使い、マスクを付けて行った。ただただ、お客さんの無事を祈るばかりだった。それはお互いの為に。

政府は考えているふりをしてまだのんびりと国民の税金で美味しいものを食べていた。

3月の半ばに沖縄に行く予定があった。勿論、音楽会もあったが、メインとしてはアイルランドで知り合った友人に会うためでもあった。

彼はアイルランドの日本大使館でコック長を務めたあと、沖縄にお店を構えて頑張っている人だ。

会いたかったが、今回は取りあえず動くのを止めておいたし、彼の方も厳しい状況になりつつあったし。

首相夫人は桜を見に行ったり旅行をしたりで楽しく国民の税金を使っていた。ま、多少語弊はあるかもしれないが、この際お許しください。

4月半ばには京都や大阪、そして鳥取の友人も訪ねる予定でいたが、さすがにここまでくると僕らにも想像はついていた。

僕等の想像とは裏腹に、政府は「まだぎりぎり持ちこたえている」などとうつつを抜かして、国民の税金でヘラヘラ日々を過ごしていた。

医療関係者に襲い掛かる恐怖、などというものには眼も向かなかったようだった。おろかにもほどがある、というところだろうか。

さて、今現在4月も後半。ここまでくると先が全く見えないことが分かる。

アメリカで暮らしていた時、真夜中に黒人街を通り抜けて仕事から帰ってくる毎日だった。

人種によるどうのこうのではないが、やはりいつ襲われるか、という気持ちは普段の生活の中でも緊張感としてぬぐわれないものがあった。

それは昼間の街歩きでも同じだった。

日々、ベトナムからの難民と共に、或いは命がけで不法入国してくるメキシコ人たちと仕事をし、日本はとても平和に見えていた。

何故、日本の総理大臣ってあんなにころころ変わるんだ?と問われて、えーっと今誰だっけ?としか答えようがなかった。

今、数日に一度近所に買い物に出ると、なんと緊張感の無い国民だろうか、と感じてしまう。

政府に緊張感がないからだろう。一体、政治家と云うのはどれだけ私腹を肥やしたら満足するのだろう。

毎日、テレビで今日は何人が感染した、と云っているが、一体、何人調べてそのうちの何人が感染したのかが知りたい。

1000人中の100人と100人中の100人では状況が違うはずだ。

疑問は絶えることなく続くが、この状況も絶えることがないかもしれないのだ。少なくとも今しばらくは。

5月には宮津の世屋高原と鳥取に行く予定だったが、効力の少ない緊急事態宣言というもので、こちらも先に延ばした。

そして様々な土地で皆さんとお会いして直接お渡ししたかった「in New Shoes」

おかげさまで順調に皆さんのお手元に届いていることは皆さんにも、そして郵便局の人達にも大感謝です。ありがとうございます。

未だに政治家の毅然とした誠意ある顔と云うのが全く見えてこない。どこに隠れているんだろう。

そんなことでいつまで続くか分かりませんがどうか皆さん、お身体に気を付けてお過ごし下さい。

衛生観念

昔から日本では「ハンカチ、ハナガミ持った?」と、特に子供たちはよく言われていたものだ。ハンケチという人もいたと思うが。

ハナガミって何?と云ったのは希花さん。そういえば今はほとんど死語かな。

以前、戦後に米兵と結婚してアメリカに渡った人が機械のことを全て「ミシン」と云っていた。米兵というのも今の人だったら「コメヒョウ」と読むかもしれない。

その人はカメラのことも「写真機」と云って若者に笑われていた。

いや、本題は「ハンカチ、ハナガミ」に象徴される衛生観念についてだ。

勿論「手洗い、うがい」もセットだった。

僕も戦後間もなくの生まれ。生まれた当初のことは覚えていないが、まだまだ不衛生な時代だったのだろう。ダニとかノミとかシラミなんて普通だった。

虫下しというのも何故か飲んだ覚えがあるが、チョコレートみたいな板状のものだった記憶がある。先日口にしたカカオ90%のチョコレートによく似た味だった。

ひまし油(Castor Oil)と云うのを知っている人は居るだろうか。よくアメリカの昔のホームドラマで子供が飲まされるやつ。万能薬として、現代でも存在するというから驚きだ。

隠語で「Castor Oil Artist」という云い方があるが「医者」のことだ。第一次大戦の頃から使われているらしい。

またまた話はそれたが、僕はつくづく「ハンカチ、ハナガミ、手洗い、うがい」に象徴されるように日本人の衛生観念はしっかりしていると思う。

おむすびを素手で握る、というのはいただけないが…そんなこと言えば寿司はどうなるんだ!と言われそうだが、寿司にはれっきとした寿司職人と云う職種がある。

勿論、おにぎり専門店というものもあろうが、おにぎりは普通の家庭で普通に作られるものだが、寿司はそんなに一般的に家庭で作ってお弁当に…なんて言うことも少ないだろう。

僕は、おにぎりには絶対にラップを使う。自分で食べる時も、ましてや他人に食べさせるものだったらなおさらだ。

ハンバーグですら、最終的に形を作る時以外は手で練ったりしない。餃子もそうだ。

アイルランドの知り合いが「まな板は洗わないほうがいろんなエキスがしみ込んでいい」なんて言っていた。

キアラン君みたいな清潔な人でも、さっきまで床を拭いていたタオルで、食器を拭いたりしている。

その床は靴のまま歩き回る床だ。

そう、究極そこに考えが及んでしまうのだが、日本人の清潔さはやはり靴を脱ぐ、というところに始まるのかもしれない。

あまり気にしすぎるのも良くないかもしれないし、適度に不衛生な事柄にも慣れておいた方が体は強くなるのかもしれないが、ここしばらくは一日何十回も手を洗った方が良いだろう。考え得る全てに神経を使った方がいいことは確かだ。

Irish Musicその156

The Cat That Ate The Candle  (Jig and Reel)

このタイトルでリールとジグの両方があるのでこのような表記にした。メロディは全然違うのでその関連性については分からない。ジグの方はまたの名をThe Cow That Ate The Blanketとも言う。また、同じCow…のタイトルで別なリールもある。どちらにせよ、変なタイトルだ。ジグはジョン・カーティとブライアン・マグラ―のアルバムで覚えた。とても単純なメロディだ。リールの方はなかなかに美しいメロディを持っている。フランキー・ケネディの演奏で覚えたものだが、彼自身のノートによると、スライゴーのフルート奏者、Larry McDonoughの演奏から覚えたということだ。

Irish Musicその157

Up Sligo      (Jig)

この曲はおそらく80年代のストックトンズ・ウィングのライブアルバムから覚えたものだと思う。今になっていろいろ見てみると、マイケル・コールマン1891~1945のアルバムでUp Sligoとして2曲がメドレーで演奏されている。だがそれはBasket of Turf / Geese in the bogとしてクレジットされている。確かに2曲目は少しGeese…に似ているがパートが少ない。Old Geese in the Bogと云う人もいる。また、この曲をUp Sligoとする人もいるようだし、UpSigo#2とする人もいる。僕がUp Sligoだと思っていた曲をBasket…だという人もいる。ここまでくるとえーっと何が何だっけ?となってしまう。自分でもなにを書いているのか良く分からなくなってくる。結局僕はこのEmの曲をUp Sligoと呼ぶことにしている。取りあえず「いや、それは違う」と言われた時に「あぁ、そのストーリーも知っているし、コールマンの演奏も聴いている」と答えられるかどうかがこの音楽の演奏者には大切なことだ。

懐かしのリオ・ブラボー

先日、懐かしい映画、リオ・ブラボーをテレビで観てしまった。1959年の映画と言うことなので、10歳の時に観たものだ。遥かなるアラモは1960年。12歳の時に汽車に乗って東京まで単身、観に行ったことを覚えているが、やっぱりジョン・ウェインは当時の僕にとってのヒーローだった。

それにディミトリ・ティオムキンの音楽というのも魅力のひとつだったかもしれない。

事実リオ・ブラボーの方にはディーン・マーティンと、リッキー・ネルソンが出ていて歌を唄うシーンがある。

有名な「ライフルと愛馬」だ。これは1948年の映画「赤い河」で使われた音楽だが、因みにこれもジョン・ウェイン。

そう言えば、アラモでもフランキー・アバロンが出演していたし、音楽もディミトリ・ティオムキンだった。

そんな風にやっぱり映画を観るにしても、音楽とは切り離せないものがあった。

その上にもちろん俳優。ジョン・ウェインが出ていれば必ずと云っていいほど観に行ったものだ。

そのジョン・ウェインが死んだのは1979年の6月。僕はよく覚えている。

その時、省ちゃんと韓国に居たのだ。

街角で買った新聞にこう書いてあった。「西部の皇帝、癌で死去」勿論韓国語は読めるわけないのだが、西部と皇帝と癌と死去が漢字で、それが読めたのと、彼の写真が載っていたから理解できたのだ。他は全部ハングルだった。「ジョン・ウェイン」でさえも。

とに角、西部劇大好き少年にとって、ジョン・ウェインの立ち振る舞いはたまらないものがあった。

リオ・ブラボーを久々に観て、また「駅馬車」「リバティ・バランスを撃った男」「騎兵隊」なんかを観たくなってきた。

そして、アイルランドとの関係が深い「静かなる男」も。

猫とネズミの攻防

近所の人気三毛猫でミーちゃんというありふれた名前の猫がいる。

焼肉屋さんの店先で、いつもいつも道行く人を眺めている。そのたたずまいの落ち着いた様子から親しみを覚える人が多いせいか、本人(本猫)もとても人懐っこくなっている。

どうやら飼い主はその焼肉屋のようだが、時々とんでもない光景を目にする。

開店前、まだドアーが閉まっている店先にミーちゃんが「どや顔」をして座っているが、ふとみるとその先に立派なネズミが横たわっている。

既に絶命しているそのネズミは勿論ミーちゃんが捕まえてきたものだと言うことは、そのどや顔をみれば一目瞭然。

これ、店の人困るだろうな。看板猫であることは間違いないのだが、この光景はよく見かけるのだ。

アイルランドで飼っているコムギと云うメスの白猫は、広い裏庭でモグラや燕を追いかけ、とうとう信じられないくらいに大きなウサギを銜えて戻ってきた。

もちろんネズミなんかもお手のものだ。

昔、アメリカのレストランで猫を飼っていた。それは隣にあったバーが店じまいをして少しの間空き家になっていた時の事。

夜な夜なネズミが出るので「そうだ。夜は猫をおいておこう」という話になったのだ。

ある朝、僕が誰よりも早く出勤した時の事。電話が鳴った。

まさかこんな早くにテイクアウトの予約?と思いキッチンから出て電話を取った。

女の人が「猫、猫」と言っている。あ、コリャやばい!レストランの中に猫が居るなんてあんまり知られたくない。

僕はとっさに「え、何のこと?猫なんていないよ」と云ったらその人が「ダイニングを見て

ちょうだい」と云うので、ふと、まだセットしていない客席を見ると…。

ここで飼っている猫がじーっと天井を見つめている。

ちょうど窓際に2メートル弱のスタンドがあって、よく見るとその上に小さなネズミがいるではないか。

いったい、いつからそのままの態勢でにらめっこしていたんだろう。入った時にはいなかったと思うが。

僕はすぐに電話に戻って彼女に「知らせてくれてありがとう」と言ってスタンドを揺らしてネズミを落とすとネズミは走り出し、その後を一目散に猫が追いかけてキッチンに消えていった。

聞いた話によると、猫は特にネズミ、と言うことではなく、動く小さなものには敏感に反応するらしいが、トムとジェリーに代表されるように猫とネズミの攻防はごく自然なことなんだろうなぁ。それともやっぱり昔ばなしから?

またすぐにミーちゃんが「どや顔」で座っている姿が見られるだろう。

Joe Cooleyを聴く

久々にJoe Cooleyの録音を聴いた。それは1970年代に入ったばかりの頃のもの。

彼がこの世を去ったのは1973年の12月20日。生まれた場所は比較的クレアーに近いゴールウエイのPeterswellという町。10歳でアコーディオンを始め、ダブリンに移った時期もあったが、タラ・ケイリ・バンドとして演奏していたのが1946年から1948年。そして1954年にはアメリカに渡っている。最初はニューヨーク、更にシカゴへ、最終的にはサンフランシスコで暮らしていた。その時にパトリシア・ケネリーにアコーディオンを教えていた、と言うことだ。パトリシアとは何度も一緒に演奏したし、彼女のダンスの伴奏もアンドリューと数多くやったことがある。

アンドリューもトニー・マクマホンも、サンフランシスコに来た時には彼女の家に泊まっていた。彼女のアコーディオンプレイは本当にJoe Cooley譲りだった。

更に言うならば、勿論タラ・ケイリ・バンドから出たアンドリュー・マクナマラのスタイルも、今Joe Cooleyを聴くといい意味で生き写しのような感がある。

曲のスタートからそのリズムから全てがイーストクレアー、そのものだ。

僕のアイリッシュミュージックのキャリアがそこから始まったことは正に幸運だったと云えるだろう。

さて、本題のJoe Cooleyのことだが、これはいつでも機会があるごとに聴いておきたいものだ。

ブルーグラスを演奏していた頃に聴いた、カントリー・クッキングのCooley’s Reelは彼の代名詞となっている曲だが、元はTulla Reelという名前がついているようだ。作者についてはあまりに多くの説があるのでここには書かないが、これが出たら次の曲はWise Maidと云うのが少なくともクレアーのお決まりだ。

彼の演奏からはあのアンドリューの家の周りの景色や、突然降る雨。そしてサッと止んで眼の前いっぱいに広がる緑と青空。そんな景色が見えてくる。

更に部屋の暖炉の前で聴いていると、すぐそこに彼の足を踏む音が聴こえてくるようだ。

アンドリューお手製のハムサンドウィッチをほおばりながらコーヒーを、またはやっぱりギネスかな。

今度はミネアポリス

別に今に始まったことではない。

同じように信号機のないところで道を渡って、前にいた白人はそのまま行ってしまったのになんで俺だけ「罰金だ!」なんて言われるんだろう、と言っていたメキシコ人の友人がいた。もちろん理由は彼にも分かっている。

こんな、まぁ言えば小さいことはアメリカに居たら日常茶飯事。

去年の12月にふとしたことからロスアンゼルスの暴動のことをこのコラムで書いた。

当時(92年4月)あのロドニー・キングの事件が発端となった暴動だ。

あの時の彼による演説が素晴らしかったので良く覚えている。

彼はボロボロにされながらも生きていたので、彼自身が演説したが、今回は殺されてしまった人の弟による演説だった。

報道で見た人も多いだろうがまたまた感動してしまった。

我が国の首相の演説なんて「どうせまた嘘を平気で言うし、大したことも言えずに原稿を読むだけ」と思うと別に観なくてもいい、と思ってしまう。

夜のニュースでもう一回やるんだし「今度は本心から喋れよ」なんて、相撲の「今の勝負をもう一度」といったときに、ある爺さんが「今度は勝てよ」なんて言った話みたいなもので、結局はなにを言おうが気にも留めなくなってしまう。

それに引き換え、的確なことを、しかも自分の言葉で言うことが出来る、というのはやはり子供の頃からSpeak upという教育を受けているからだろう。

その分いらん主張も多いけど。

ここらで日本の政治家も嘘や逃避という呪縛から抜け出さないと…彼等には無理か。

ミネアポリスから始まった暴動は、今の時期いろんなことが重なっているので、収束させるのが難しそうだが、他の事と同様、早く収まってほしい。

ウイルスとの戦いも人類にはいろんな形で付いてまわるものなのかなと思うが、
人種的な問題にも終りとかいうものは無いのかもしれない、

と思うと 今だからこそ、ロドニー・キングのように、また、テレンス・フロイドのように人々の協調を訴える人たちが大切に思えてくる。

ボイジャー・ギター 櫻井航 製作のブズーキ

アイリッシュミュージックに関わって30年。アメリカで、アイルランドで演奏してきたが、どこでも素晴らしい出来栄えのブズーキを見てきた。

最初はやはり、本場のグリークブズーキをアレック・フィンに見せてもらった。

また、様々な人にそれとは違う、いわゆるアイリッシュ・ブズーキも見せてもらったが、その多くはステファン・ソーベルかジョー・フォーリーかパディ・クリアーのものだった。

そしてそのどれもが素晴らしく、余裕があればひとつ欲しいな、と思っていたものだ。

しかし、この音楽を始めた頃、様々な演奏を参考にして自分のギタースタイルに、ブズーキの感触のする音を組み立ててみようと考えた。

それによってブズーキのバックアップからギターのバックアップに移行していくようなスタイルを作り上げてきた。

それでもやはりブズーキの音色は魅力的なものだった。

そしていくつかの、例えばトリニティ・カレッジのブズーキなども持っていたが、そう満足のいくものではなかった。

そんなある時、カリフォルニア州のアルケイタという町に良い楽器を作っている奴がいて、彼と相談してオクターブマンドリンを作ってもらった。

ブズーキにする?オクターブマンドリンにする?と訊かれたのでその時はオクターブマンドリンにしたが、今となってはブズーキにすれば良かった、と思っている。

しかし、その出来は素晴らしいものだ。因みにフィル・クランプという人物。

さて、本題に入るが、つい最近、櫻井航くんが素晴らしいブズーキ第1号を製作した。

これは間違いなく日本に於ける初めての本格的ブズーキだろう。

彼自身、試行錯誤して造り慣れているギターの製作方法を取り入れているが、そこから出て来る音は低音、高音共に紛れもなく超1級のブズーキだ。

若かりしときイギリスに住んで楽器作りを学んでいた彼は、長年ブズーキを作ることを考えていたようだ。

そして出来たのが今回の第1号。

興味のある人は南阿佐ヶ谷のLast Guitarにあるので、そこに行って小山さんと云う人を訪ねてみて欲しい。

きっとそのサウンドにノックアウトされること間違いなしだ。

普通こういうものは少なからず誇張して書くものだが、この楽器に関しては決して大げさではない。いち弾は百聞に如かず、だ。

ここに彼の送ってきたディテールを載せておきます。

     ★ 以下、櫻井航君からの伝言。

材料は表板がシトカスプルース、サイドバックはインディアンローズウッドです。

構造はギターと同じで予想がしやすいのでピンブリッジ、Xブレーシング仕様にしました。

G弦を響かせるためにボディは厚めにしてあります。

デザインはいつもの僕のギターと共通しているコンパスをモチーフにしたロゼッタ、

それにケルティック・ノットのインレイ、サイドのパーフリング(縁飾り)はアイルランドの国旗の色になっています。

アメリカ南部

ここしばらくコロナもさることながら、人種差別に関する記事を多く見かける。

もちろんきっかけとなる事件があったからだが、僕自身アメリカ南部には何度も行っているし、バージニアではカーター・ファミリーとの普通の生活も経験しているし、今回の事件があったミネアポリスにも行っているし、いろんなところで黒人だけではなく、いわゆる「Colored」と云うのだろうか有色人種としての様々な場面を見てきているし経験もしている。

尚、この言葉「Colored」は現在では余りに差別的だという事で使われなくなってきているらしいが、その代わり「Non -White」と置き換えられているという。だから何だ!という感じだが。

幸いにも僕はブルーグラスを演奏していたのでそんな南部の深いところまですんなり入っていくことが出来た。

しかし、それでも珍しい東洋人は一種異様な眼で見られることは多々ある。

パディとフランキーと僕とでどこかの田舎町のダイナーに立ち寄った時の目付きは、映画イージーライダーを彷彿とさせるものがあった。

不思議なもので同じ白人でも「アイリッシュ」ってわかるんだなぁ。パディが「いやな目付きだなぁ」と言っていたのをよく覚えている。

僕なんか絶対中国人だと思われただろう。かくなる僕も中国人には間違われたくない、と思ってしまうのだから人種問題というのには根深~いものがある、と思うのだ。

ニューヨークではハーレムのど真ん中に住む、ホテルの黒人掃除婦のおばちゃんと友達になった。家に行ってその部屋の乱雑さに驚いた。

今思えば、あの状態の生活だったらウイルスはどこをとってもひっついているだろう。

そんなおばちゃんにGreat Dream From Heavenなんかを弾いてあげると、ゴスペルだ!と言って大層喜んでくれたものだ。

ニューヨークはみんなが知っての通り人種の坩堝なので、黒い帽子の巻き毛のユダヤ人も居れば、道端でアラーの神に祈りを捧げている奴も居る。まったく聞き慣れない言葉で話しながらすれ違う人達も居る。

Englishman in New Yorkの世界だ。

しかし、南部の田舎は違う。3か月ほどカーター・ファミリーと暮らしたが、あの村では黒人は一人も見なかった。少し街に出れば少なからずいたと思うが、ましてや東洋人には出くわさなかった。

でもチャイニーズレストランは1軒だけあるって言っていたなぁ。無理もない。地球上の4分の1は中国人なんだから。

そんなアメリカでは黒人の差別なんて当たり前のことだ。やっぱり黒人街を歩けば身構えてしまう。

それは圧倒的に犯罪に出くわす率が高いからと云えるだろう。自分の行き先に数人の黒人がたむろしていたら道を変える。そうして自分の身を守ることは大事なことだ。

でも、それは相手がメキシコ人でも同じかな。

そんな場合のコツはやっぱりひたすらオーラを出して「金あげてもいいけど大して持ってないし、俺も同じ有色人種だし、仲良くしようぜ」という雰囲気を醸し出すこと。こっちから先に「よー!」と挨拶してしまう事だ。

結構怖いのは、命知らずのベトナム難民の子供たちかもしれない。彼ら、一度は死んだようなところがあるし、運よく生まれてきただけなんていう子も居るから他人のことなどなんとも思っていないこともありうる。

一緒に働いていたベトナム人なんかしょっちゅうギャンブルの掛け金が払えなくて命を狙われていた。

アメリカの都会ではよくあることだ。

さて、南部ではやはり黒人と白人かな。

テレビのトークショーではKKKの幹部と黒人たちがののしり合う番組を観たことがある。

「白こそ神が創ったものだ。それ以外のものはクズだ」と叫ぶKKKの奴の顔が興奮して赤くなっていた。

やがて取っ組み合いになるので、どこまでも「やらせ」という感は否めないが。

取りあえずそんなものをしょっちゅう見せられ、夜の街では黒人の少年たちが壁に手をついて並ばされ、ピストルを抜いた警官たちが取り囲んでいた。

南部の町ではよくあることだ。

そうして考えると、考えても無駄なのが良く分かる、というのが正直なところ。

ただ良く知ること。書物でもいいし、出来れば自身の眼で見て、実際にそういう目で見られる経験をすることだろう。

それでもなお分からないことは分からない。それが人間なのだろうか…?

卵が先か、ニワトリが先か…に匹敵する難しさだ。

Irish Musicその158

If Ever You Were Mine     (Waltz)

モーリス・レノン作の美しいワルツ。彼とはロングフォードのフェスティバルで初めて会って以来、何度かアイルランドで出会っている。彼の在籍したバンドStockton’s Wingは最もよく聴いたバンドのひとつだった。ムービングハーツ同様、シンセやドラムを起用した斬新な音づくりには興奮したものだ。しかし、ムービングハーツよりはトラッドに近いスタイルを持っていたと感じる。Paul Rocheのフルートとレノンのフィドル、そしてKieran Hanrahanのバンジョーが核となっているので、それなりにトラディショナル・フィーリング抜群の演奏が楽しめるバンドだった。バンド自体は1977年に結成されている、というので、まだナターシャーセブン全盛の頃だ。

Julee Glaub というノース・カロライナ出身のシンガーが歌っているものもいい。タイトルは逆の意味みたいになっているところが面白いが。You Will Always Be Mineというその歌、同じくStockton’s Wing のメンバーであるMike Hanrahanが歌詞を付けている。

ちょっと興味あるドキュメンタリー

ネパールの山岳地帯に住む子供たちを記録したもので、ほとんどの子の親が日本で働いている、というものだった。

最初から観ていなかったのでいい加減なことは言えないが、日本ではそのほとんどの親たちは出稼ぎ労働者として多くは料理店などで働いている。

元々は父親だけが行くパターンだったが、とても一人では暮らして行けず、奥さんも呼んで共働きということになる。

子どもは施設みたいなところ、或いは親戚などに預けて後で呼ぶ、という、確かにアメリカでも中国人やメキシコ人などの間では当たり前のことだった。

しかし、なかには行きたくない子もいるみたいだ。

面白かったのは、小学校4年生ぐらいの男の子と女の子が学校の帰り道に話をするシーン。

その道は山の中、川が流れていて、石ころだらけの通学路。40分ほどかけて学校へ行き、家に帰る。

男の子は母親と離れ離れになっているのが寂しいが、そうは言わない。女の子が正直に言え!と責め立てる。

僕も日本に行ってお金を稼ぐ、というと女の子は、あんたの母親でもここにいてなんでも、タクシーの運転手をしてでもお金は稼げる、と云うと男の子は日本の方が稼げる、と言う。

女の子は、お金なんてそんなに重要?と詰め寄る。

お金があれば何でもできるよ、という男の子にお金と心とどちらが大切?と問い詰める。

お金があれば大切な人も守ってあげることが出来る、という男の子。

やがて、その女の子も日本に行くことになる。東京のビル群に立ってネパールはどこから見えるの?と尋ねる。

そして、日本なんかに来たくなかった女の子は両親に別れを告げてひとりネパールに帰っていった。

ネパールに戻った女の子に1年後、またインタビューを試みたが、一言も喋ることなく、黙々と山道を学校から帰宅していた。

僕が住んでいる処にも近所には一杯ネパール料理の店、インディアン、チャイニーズ、中東、数限りなくある。

それぞれにドラマがあるんだろうなぁ。

移民という世界には沢山の問題がある、という事は僕も良く知っている。僕も移民だったからだ。

Irish Musicその159

The Gentle Light That Wakes Me    (Air)

Phil Cunningham作の美しいエアー。かなりゆっくり、ゆったりと演奏すると趣があるし、多分弦楽四重奏かなんかで聴いたらすごくいいと思う。

こんな曲をフィドルとギターだけでたっぷり演奏するのは難しい。決して難しい曲ではないが、それだけに難しい。しかし、彼は実に良いメロディを書く人で、僕らのレパートリーには比較的彼と彼の弟、ジョニーの曲が沢山ある。

新 衛生観念

2020年に入って、この衛生観念ということを毎日のように考えさせられることになった。もう5月の最初の頃、すでに思うことを書いてみたが、やっぱり日本人の衛生観念と云うのは素晴らしいものがあるような気がしてならない。

最近、パン屋さんなどは全ての物をプラスティックバッグで包んでいる。それはたいへんな作業だと思うが、限りなく安心だ。

しかし、日本人のプラスティック使用量は世界的にも問題になっている。確かにちょっとやり過ぎくらいにラップされたものもあるし、僕らは残り物にはラップをして冷蔵庫にしまう。

そういう行為が行き過ぎだ、という欧米人は一杯いる。それも分かる。環境汚染につながっていることも分かる、が一方でその衛生観念が比較的感染を押さえている気もする。

昔、チャイナタウンの魚市場に買い物に行った時の事。

水槽で泳ぐナマズかなんかをおばちゃんが指さしながら中の店員に大声で何か言っている。普通に「これちょうだい」だろうが、とてもそんな風には聞こえない。

怒鳴っているようだし、店員も怒鳴り返しているようだ。やがて、一匹の魚を網ですくい、大きなこん棒を振りかざして「あいやー」とは言わなかったが思い切りたたいた。その途端、こちらにまでなにか飛んできた。しかし、誰も気にも留めていない。

毎日がそんな感じ。

アイルランドでもパンなどはマーケットで山積みになっているが、今はどうだろうか。ひとつひとつ袋に包んであったりするんだろうか。

日本人のプラスティックごみをけしからん、と言っていた人達だしひとつひとつプラスティックバッグに包むとは思えないが。

でも確かにこのワクチンができて、ことが収まってきたらそこは考えなくてはならないことのひとつだろう。

街では99%くらいの確率でみんなマスクを付けている。小さな布マスクは3日に一人見るか見ないかだが…。

とにかくその公共でのマナーというのは、いや、多分にみんなと一緒が落ち着く日本人気質はこんな時にはいい方向に向かっているとしか思わざるを得ない。

政府の連中は国民の苦労なんて全く分ろうとしないし、国民はそれぞれ工夫して良くやっていると思うと、いろんな国が日本のやり方ではなく、日本国民の暮らし方から学ぶことは多いのではないかと思う。

そして日本人も贅沢過ぎた暮らしのことを考え直し、世界は環境汚染について真剣に考えなければならない時に来ていると感じる。

温暖化は益々、地中に潜むウイルスを放出する可能性を拡げつつあるからだ。

なにはともあれ、変わらぬ衛生観念は持ち続けよう。

駅前

選挙運動が始まった。僕は駅近くに住んでいるのでこの時期はどこかへ逃げ出したくなる。

駅は、当たり前のことながら人の出入りが多いのでここぞとばかり、大声で、このコロナウイルスが蔓延している中、唾を飛ばしている。

その声たるや、窓を閉め切っていても、部屋の中のテレビの音が聞きにくい。

中には窓が振動するくらいの大声で張り叫ぶ奴も居る。女の人の声はプラス甲高い、ときている。

こちらにも聞く気が無いので何を言っているのかさっぱり分からない。時々ハウリングを起こす奴とか、これは許可を得ているんだろうからこちらは文句を言えないが、駅付近は行きかう人だけだと思っているのだろうか。住んでいる人がいるかもしれない、という想像力があれば、そんなに大きな声を出すことはしないだろう。

300mほど離れた閉め切った部屋で聞こえるんだからそこそこ道行く人には聞こえているだろう。

ということは、恐らく誰も聞いていないだろう、ということを前提に喋っているんだろうか…いや、そんなことはないだろう。

随分前になるが、ある時、駅ビルから出たら頭が割れそうな大音量が大地を揺るがしていた。近くにいたはっぴを着た運動員に「ちょっとでかくない?」と云ったら「はい、わたしもそう思いますがもうすぐ終わりますんで…」という答えが返ってきた。

そういう問題ではないだろう、と思いながらそれ以上のトラブルは避けたが、本人は耳栓でもしていたんだろうか。

女性だったが、誰だったんだろう。音の壁みたいのが出来ていて名前すらわからなかった…って大げさかもしれないが、それほどの大音量だった。

早くその場を立ち去らないと身体に悪いと思ったのだ。

昔、シカゴというブラスロックの連中は耳栓をしてステージに立っている、という都市伝説まがいの話があったが…本当かもしれないし、良く分からない。

とに角、当選を見据えた都合のいいことは言っている。当選したら万歳をして、後はあまり目立たない程度に政策に関わっていれば安泰、というところだろう。

アイルランドの友人が、今回のコロナ騒ぎで日本政府のダメ振りが分かって国民、特に若い人達がもっと政治に関心を示すようになれば…と言っていたが、そのレベルをはるかに超えるような、嘘、隠ぺい、不正がまかり通っているので、そこのところもあまり期待は出来そうにない。

ま、しばらくは我慢するしかないのだが、それと今年はやっぱりこういう状況なのでいつもよりは静かなような気もする。

これを機に新たな選挙運動様式みたいな、Silent Speechなんていいんじゃない?小池さん好きそう。

食事…会食?

緊急事態宣言というものが解けて、街が賑やかになってきたようだ。と云いながら、夜などはほとんど出かけないので良く知らないし、昼は昼でまだ宣言が出ている真っ最中でも商店街では多くの人が行き来していた。

ただ、やはり職場に出掛ける人の少なさと、学生さんの姿が全く見えなかったので、それなりに静かだったことは確かだ。

僕は4ヶ月近く外食をしていなかった。普段からたまにしかしていなかったし、前にもなにかで書いたかもしれないが、食事というものにあまり興味が無い。

もし人間が食べなくても生きていけたら楽だろうなぁ、という考えを持っているくらいだ。

トイレもいらないし、紙もいらない。水も流さなくていいし、用意をしたり、食べたり、そのための時間も取られなくていいし…等々。

だが、もしそうだったら、親せきや友人が集まったら一体何をするんだろうか?

やはり人間にとって「食」というものは必要であり、楽しみなものだ。

なので、生命体として人間と云うものがそういう生き物だったら、ということで、しょうもない考えなのだ。

それでも食事は良く知った人と少人数なら、どこかで一緒に食べるのはいいが、あまり良く知らない人達と、例えばパーティとか誰かのコンサートの打ち上げとか、そういう場面にはあまり行きたいとは思わない。

そこでテーマとなっている「会食」ということだが、こんな言葉もあまりよく知らなかった言葉だ。もしかしたら今回のコロナウイルス関連でよく言われていて、知ったかもしれないくらいのものだ。

そこで、本題。

最近ニュースで、政治家が会食をした、といって高そうな(勿論庶民には程遠い感覚の処だろう)料亭に、続々と嬉しそうに入っていく映像が映されていた。いや、神妙なふりはしていたし、確かに政策に関しての話し合いもあっただろう。

しかし、なぜ料亭なんだろう。自分たちにはつり合いがとれている、という優越感だろうか。

下々の者と言ったくらいのアホも居るくらいなので…いや、僕の言いたいのはそこではなくて、ニュースで言われていた言葉「会食」というのは緊急事態宣言が解けた、と云えども、国民はまだまだ気を付けなくてはいけない状況に属する言葉であり、行為ではないかと思うのだ。

もし彼らが「今回は頑張っているお店のお弁当をテイクアウトしていただいて、官邸で政策について語ろう」と言ったら僕は、それでこそ国民の事を考えてくれる政治だ、と思うが。

多くの人達が店をたたみ、仕事を追われ、夢や希望を失い、それでも一生懸命に前を向いて頑張っている時に、昔から決まっているように料亭に出掛けて行って税金で美味いもの食べている。なんという矛盾だろうか。決してひがんでいるわけではない。何故なら食にはあまり興味が無いから。特に会食なるものには。

フォークソングの想い出

そろそろ音楽についても何か書いてみたほうがいいかな、と思うようになってきた。

そこで、ここしばらく久々に聴いて感動した作品や、懐かしかった作品のことでも書いておこうかな。もしかしたら共感を覚えていただける人もいるかもしれないし。

まず、フォークソング関連ではやっぱりブラザース・フォアのアルバムだろうか。

どれが…とはなかなか言いにくいが、ひょっとしたら曲で想い出していった方がいいかもしれない。

彼等の唄を初めて聴いたのはやっぱり「遥かなるアラモ」だろうなぁ。もしかすると、「グリーンフィールズ」かな。ま、共に1960年ということだ。

今調べてみると結構多くのアルバムを持っていたようだ。

「Song Book」「Roamin’」「BMOC」「In Person」「Song Book」「The Big Folk Hits」

「Sing Of Our Times」「More Big Folk Hits」その他シングル盤も、ひとつのアーティストとしては結構な数を持っていた。

毎日のようにジャケット写真を見て、これがマーティン・ギターか…とか、バンジョーは何故かヴェガらしきテナーバンジョーを持っているものがあって、ギブソンのいわゆるRB-250らしきものも写っていたりして、結構楽しんでいた。

当時はジャケットもLPだったので大きくてよく見えたので…というか眼も良かったのか。

次に沢山持っていたのがやっぱりキングストン・トリオ。

彼等の使っていたバンジョーはヴェガのロングネックだったので当時は僕もアリアのロングネックを買った。今見たらめちゃくちゃ長いネックだ。

ピアレスのものが比較的有名だったし、今でもなにかの間違いで見ることがあるが、アリアのものはあれからいちども見たことが無いし、調べても出てこない。

服装も一生懸命真似したもんだ。ラインが入っている白いソックスのゴムの部分がユルユルになっているのを発見して一生懸命ゴムを伸ばしてみたりした。それまではぴったりしていなければ気持ち悪かったのに…。

そういえば、ピーターポール&マリーのステージ写真でピーターの抱えているギターのブリッジピンが一つ、異常にとび出していたのを見てこりゃ大変、何とかしなけりゃ、と思ったり、ジャケット写真と云うのは僕等にとって凄く大事なものだった。

フォークソングで沢山のアルバムを集めて、毎日ジャケットとにらめっこしたのは、やっぱりブラザース・フォアとキングストン・トリオだっただろう。キングストンの創立メンバーだったボブ・シェインのコンサートをサンフランシスコで聴きに行った時、ニック・レイノルズがゲストで出てきた。それなりに感動したことを覚えている。

でも、もうみんなこの世に居ない。

また思い出したら他の分野のものも書いてみようかな。

そろそろ自分の記憶をキープする為にも。

ブルーグラスの想い出

フォークソングに続いて想い出すのはやはりブルーグラスのアルバムの事だろう。

バンジョーを弾く者にとっては欠かせないものは何といってもスクラッグスのもの、フォギーマウンテン・ボーイズのものだ。

初めてブルーグラスなる音楽に遭遇したのもフォギーマウンテン・ブレイクダウンだったのでそれはラッキーだったか、アンラッキーだったか…。

回転数を間違えたのではないか?というのは今では通じない話だ。そしてなぜ、みんな鼻をつまんだような、しかも甲高い声で唄うんだろう。それにテンポもやたらめったら早いし…等々、興味津々だった。

そして大学に入り、京都産業大学ブルーリッジ・マウンテンボーイズに加入してからは、様々なアルバムを聴きまくった。もうアルバムタイトルなど書き切れないくらいに聴き漁った。

スタンレー・ブラザース、ドン・レノ&レッド・スマイリーのテネシーカットアップス、オズボーン・ブラザース。

勿論、ビル・モンローとブルーグラス・ボーイズ、渋いところではジョー・バルとニュー・イングランド・ブルーグラス・ボーイズやらストーニー・マウンテン・ボーイズ。そして徐々に欲も出てきて、ビル・キースやボビー・トンプソン、エディ・アドコックのカントリージェントルメン。そして、時代はどんどん進んでゆき、ニューグラスの波が押し寄せてきたのが1971年頃かな。

日本にやってきたのはそれくらいだったと思う。

その辺りはまた別な機会に書くとして、やっぱりストレートな土の匂いがするようなブルーグラスはどこまでも力強く僕の胸に突き刺さる。

そんな意味では今でも無性に聴きたくなるものはやはりスタンレー・ブラザースかな。

あまりCDとか購入して聴かなくなった今でも、ボックスセットなるものを持っているのはスタンレー・ブラザースだけ、なんて自分でも不思議に思えてくる。

しかし、その演奏からブルースを感じ、その歌声からヴァージニアでの彼らの暮らしが見えてくる。これはもう究極だ。

ニューグラスの想い出

1971か72年の初めころだったか、東京駅でばったり出会った、アメリカからの里帰りの大塚あきらさんに紹介されたニューグラス・リバイバルが僕らにとってのニューグラスの入り口だったろう。

省ちゃんと二人で穴のあくほどにジャケット写真を見つめた。それほどに印象的だったと云える、見かけとしては完璧にロックのアルバムそのものだった。

そして「火の玉ロック」から始まるそれは強烈なインパクトを僕らに与えた。

それ以後、ブルーグラスは信じられないほどのスピードで変化を遂げていった。

もう多くの人が海外へ出かけていける時代だったので、そのへんを目の当りにした人も多いだろう。

僕等はニューグラス・リバイバル以降、順番としては逆になるのかもしれないが、ブルーグラス・アライアンスも良く聴いていた。

もっとブルーグラスに近いところではチャールズ・リバー・バレー・ボーイズのビートルカントリー。これはよく聴いたアルバムだ。

元々、ビートルズ世代の僕らには心地よいサウンドのブルーグラスと、いい感じにアレンジされた曲の数々がとても気に入っていた。

なんか、さすがにハーバードやMITの出身の人達で作られたセンスのいい計算された音創りという感じだった。

それから、カントリークッキングの…これはラス・バレンバーグのアルバムになるのかな、カウボーイ・カリプソとか。

今聴くとかなり荒々しいサウンドでミックスも「はいこれでよし、次。」みたいな作りだが、それがまたさりげなくてとてもいい。

他にもいろいろあっただろうが、このあたりになると時系列がさっぱりわからない。

ニューグラスというカテゴリーではないが、ビル・キース、カール・ジャクソンやブッチ・ロビンス、アラン・マンデ、ボビー・トンプソン等のバンジョーアルバム、グループとしては75年の来日で度胆を抜かれたデヴィッド・グリスマン・クインテット、その他ブーン・クリーク、セルダム・シーン…挙げてみればきりがない。

当時はLPレコードを沢山持っていることがステイタスになるようなところがあったので、日本盤、洋盤を問わず、手当たり次第に聴いたり買ったりしていた。

海外に出掛けてもあの大きなLPレコードを買って帰ってきた、なんて今だったら絶対にやりたくない。

70年代はブルーグラスの変革が大幅に進んでいたニューグラスの時代だったのだろう。

小エビの想い出

小指ではない。想い出が続いたのでちょっとしゃれで書いてみようかな、と思ったのだが、

そういえば「小指の想い出」に関する想い出がある。

愛知県の長久手町で僕と省ちゃんと、何故か佐川満男と一緒に演奏した時の事。

彼が「小指の想い出」を歌ったのだ。勿論受け狙いのシャレだったが、これは僕らの世代には大受けだった。

彼、なかなか凄いエンターテナーだった。

いや、今回の小エビだが…。因みに僕はカクテルシュリンプというものはあまり好きではない。

ま、それはさておいて、一言にエビといってもいろいろな種類があるが、勿論、ほとんどの人が知っている車エビやブラックタイガー、芝エビなどの他にスキャンピーという云い方がある。

これは一つの種類のようだが、イタリア語の「スカンポ」の複数形で元々はヨーロッパアカザエビ、というものを指すらしい。

そのスキャンピー、僕はこの呼び名を知らなかった。アメリカではあまり聞いたことがない呼び名だ。

5~6年前、アイルランドのミルタウン・マルベイのパブでキアラン君と希花さんと僕とで食事をした時の事。

僕は早々にチャウダーか何かに決め、キアラン君は…忘れたけど肉だったかな。そして希花さんがじーっとメニューを見つめ、キアラン君に訊いた。

「スキャンピーって何?」メニューには「ディープフライ・スキャンピー&チップス」とあった。

キアラン君、自信ありげに「あ、それは魚の一種だ」といい、それじゃぁ、いつものフィッシュ&チップスじゃつまらないから、ちょっと違う魚にしてみようかな、と希花さんはそれを注文した。

待つこと15分ほど。それぞれの料理がテーブルに並び、やがてスキャンピーがやってきた。

一番驚いたのは誰だったろう。他ならぬキアラン君?。

希花さん、「これエビ。わたしエビ頼んでないけど」するとウエイターがすかさず「スキャンピ―です。マダム」

そんな時のキアラン君はとても面白い。何事もなかったかのように「そうだったな。そういえばエビの事だった」っていう顔をしている。

キアラン君との旅の面白さはここから始まったといっても過言ではない。

以後、何度となくそういう事が起こり、逆に素っ頓狂な答えを期待してわざとキアラン君に訊いてみたりするが、けっこうな確率で期待を裏切らない男だ。

ところでチップスというと、日本ではポテトチップスだが、イギリスやアイルランドでは日本で言うフライドポテトのこと。アメリカで言うフレンチフライのことだ。

イギリスやアイルランドでポテトチップスと云うのはクリスプスと呼ばれている。

そう思っていたらヨーロッパの他の土地ではチップスといったらポテトチップスが出てきた。同じEUなのに。

ここでもキアラン君の面白い説明があったような気がするけどもう忘れた。

日本の夏がやってきた

日本の夏がやってきたので蚊取り線香を出した。その香りを楽しみながら夜風に当たる。

う~ん、ちょっと風が生ぬるい感じがする。

きっともう少しすると生ぬるいどころじゃなくなるのだろう。

僕が子供の頃はこんなに暑くなかったのになぁ。

さて、ここ10年ほどはまともに「日本の夏真っ盛り」というものを経験していない。

一番暑いのは…多分本当ならオリンピックを開催するはずの7月半ばごろじゃないかな。

よくもまぁぬけぬけと「スポーツに最適な温暖な気候」なんていう嘘が云えたもんだと感心してしまう。

世界に向けての嘘があんなに堂々と言えるのだから、国民なんてちょろいもんだろう。

ところで僕らは7月1日から1か月だけアイルランドに行く予定を立てていたが、もちろん今回のことで断念。

クレジットを使って別な機会に行くことにしている。

なにはともあれ、今年は1か月だけと最初から決めていて、それほどにここを重要なイベントとは考えていなかった。

何故か、元からそういう考えでいたので「あ、それじゃぁまた今度」みたいに気軽に考えることが出来た。

しかし、ここで問題なのがこの温暖と言われる気候からは暫らく遠ざかっている、ということだ。

下手するとアイルランドとの温度差は30℃くらいあるような時間帯もある。平均してみても15℃に比べて35℃なんて言うのが連日となれば厳しい。

おまけにマスク。それに今年、日本の電機は大丈夫かな?水道も。

あんなに水害があっても水が足りなくなるなんて、逮捕された議員にまで湯水のようなボーナスが入っているのに、本当に大切なお医者さん達は給料が減ったりしている…。

この例えはちょっと無理があるか。でも純粋に不思議だな。

夏の話に戻りますが、蚊取り線香とナイターと麦茶、というのが日本の夏の典型かな。

食べるものではソーメンとかき氷かな。

僕にとってはもうひとつ欠かせないものがあります。多分知っている人も多いと思うけど「麦こがし」或いは「はったいこ」僕らは「おこうせん」と呼んでいました。

「おこうせん」という呼び名はもしかしたら静岡のいい方かもしれない。ソースも静岡では「おソース」と云うし。

先日スーパーで女性の店員さんが「おソースはこちらにあります」とお客さんに説明していたので「あなた静岡の人?」って訊いたら「そうですけど、なぜ分かりました?」とびっくりされたのです。

飛躍するけど昔サンフランシスコの空港カウンターで日本人のスタッフが対応してくれて、僕が何気なしに「だもんで」と言ったのです。「…なので」という静岡弁。ついつい出てしまったのですが、すかさず「あ、静岡ですか?あたしも静岡です」って言われてしまった。

だもんで話が弾みました。

えーっとなんの話だっけ。これも「だっけか」と云ったら間違いなく静岡人。

とに角、夏の想い出フードは「おこうせん」氷水で溶いて砂糖を入れて食べる。これが美味しいのです。

あまりゆるゆるにせず、かなりどろどろ状態で食べて麦茶を飲む。

これぞ日本の夏。今年はそれを満喫してみようかな。

7月になりました

とうとう2020年も7月が来てしまった。

前年のアイルランドの旅では「体さえ丈夫ならば、また2020年アイルランドの旅というものを書いているだろう」と締めくくっているが、ところがどっこいだ。

もしかしたら冬にでも行くかもしれないが、それも分からない。

なんだかまた中国で新型豚インフルエンザというものが出たらしい。人から人への感染についてこれから調べる、と言っているがちっとも信用できない。

もう流石に日本の政府もピリッとくるだろう。う~ン、どうかな。

どうしてもテレビを観る時間が多くなって様々なニュースが目に付く。

巨人のコーチが人命救助、と云うニュースは正に2015年の僕らの経験したものとそっくりだった。

でもすぐにAEDが手に入り、救急車が来た、というのは大きく違う。

20分も待ってやってきたのが今までパブで飲んでいただろう、といいたくなるような救急隊員3人ほど。

コリャもうダメかも、と思ったのか手が震えてるし…いやぁ、ビデオ撮っておきたかったなぁ。今回のニュースではすぐに蘇生したらしいが僕らのケースでは90%諦めてくれ、と言われて、次の日に目を覚ました。

誰が最初に心臓マッサージをしたのか、と言われてこの人、と希花さんを指すと「子供じゃないか。良くやったなぁ。」と驚いていたっけ。

話変わって、どうも国会議員の給料とかボーナスとかが多すぎるような気がするが…。どう思います?

どうりでみんななかなかやめないわけだ。

またまた話変わって、6月の下旬ころから朝の番組に岡田晴恵教授が出なくなった。

段々派手になっていく姿が面白かったけど。なんて、話も一応ちゃんと聞いていました。

でもなんか「ごろにゃん」とした話し方だったなぁ。

一生分稼いだかな、なんて詮索したりして。

最近はナショナルジェオグラフィックのような自然界の動物のドキュメンタリー映画や、プラネット・アースのような宇宙の不思議みたいなものを見るのが好きになってきました。

前から好きだったのですが、それだけ今は時間がある、ということなのかな。

UFOものとか大好きでよく観ますが、一緒に心霊ものなんかやると夜怖くて寝れなくなるので、そういうものは、音楽が大きくなってくると目を背けてその部分は観ないことにしています。「その写真がこれだ!」と云ったらすぐ後ろを向く、という感じ。

7月、8月はそういう番組が多いから気を付けないと。

いやぁ、日本の夏だなぁ。四谷怪談、三ツ谷サイダー…。

Irish Musicその160

Hills of Kaitoke     (Slow Reel)

変なタイトルだが土地の名前や場所の名前はなかなか読めないものがある。これはニュー・ジーランドの地名らしい。Remutaka Range(これもなかなか読めない)という山々が連なるところ辺り。この土地を説明しているものを見る限りカタカナで書いたら「レムタカレンジのカイトーク(クとケの間)」のように聞こえるのであまり考えずにそのまま読んだら良さそうだ。先住民マオリ族の言葉だろうか。

この曲にはハカは合わないが、美しいエアーともいえる曲だ。書いたのはCatherine Fraiser スコティッシュ・フィドラーだ。

ただこの曲、あまりにも雰囲気がダンカン・チザムのFarley Bridgeに似ている。しかも同じEmajorというキーで書かれているので、アイディアとしては、キーを変えたほうが僕らにとっては良いかもしれない。

メロディはそこそこ違うが、これは普通の人が聴いたらどちらがどっち?と区別がつかないだろう、というくらいに雰囲気が似ている。ただ、いい曲だ。

料理

よく僕は食にあまり興味が無い、と言うが、食事を作るということにはとても興味がある。

そしてここ4ヶ月ほどは全て自分で作ってきたので、家庭の主婦って本当に大変だろうなと思う。

でも、今更そう思ったわけではない。以前から料理は好きだったし、その職種にも付いていたので僕自身はあまり苦にはならないが、その大変さは充分分かっていた。

レストランと云うのは、ほぼ毎日お客さんの為に同じレシピのものを提供するが、家庭では子供も居れば年寄りの居る場合もあるだろうし、好みが違ったり「またこれ?」なんて言われることもあるかもしれない。

基本的に僕の場合、アンドリューと似ていて、ハムサンドで充分。そしてキアラン君みたいになんかしながら立って食べるのもなんとも思わない。

コンサート当日も「お昼は何食べようか?時間は?」「本番前に何を食べるか?」なんて考えたこともない。

なければ食べなければいいんだし、それくらいで死にはしないだろう。

黒柳徹子さんのお父さんがそうだったらしい。「あなた、今晩のお米が無いんですけど…」と奥さんが云うと、バイオリンを弾く手を止めて「あ~、じゃぁ食べなければいいんじゃない?」と言ってまたバイオリンを弾き始めた、という話。すごく良く分かる。

さて、そんな僕でも崎陽軒の前を通りかかって「お、焼売買おうかな」と思うこともあるが、ほとんどの場合、そのままマーケットに寄って必要な物を買って自分で作る。

急に天ぷらそばが食べたくなったら、天ぷらも自分で作る。もちろんそばのつゆも。

僕にとってはカツも天ぷらも寿司も餃子も大した手間ではない。

料理で一番大事なのは衛生管理だろう。なので、餃子もハンバーグも決して手で練らない。

最終的に形を作る時はやむをえないが…。

今は異常と思えるくらいに手を洗っているが、それはレストランに居た時からの常識なので今ほどではないが衛生にはかなり気を配ってきた。

レストランの仕事で最もおおきなパーセンテージを占めるのは、仕込みと後片付けだ。

仕込みでいかに忙しさを緩和してお客さんに料理を楽しんでもらうか、そして後片付けでいかに衛生管理を徹底するか、この二つが最も重要な仕事だ。

作ることは全体の2割ほどの神経と仕事量だ、と、これはあくまで僕の感じるところ。

そう言えば、去年くらいまでは必ず冬とか夏も近くになると風邪をひいていたような記憶がある。今年は特に風邪のような症状を出してはやばい、と思い気を付けていたが、希花さんがポツンと言った。

「しょっちゅう手を洗ってるからじゃない?」ほほー!そういうもんか。勿論それだけではないが、確かに必要もない場面でも石鹸でごしごし手を洗っていることがある。

なので、やっぱり手は良く洗おう。料理には特に大切な事柄だ。

ちょっと話がそれましたね。

健康診断

この年になるとやっぱり健康診断は受けておいた方がいいと思うし、せっかく無料で受けられるものがあるのだったら利用しておいた方が良いかな。

でも、そんなもの受けるから病気が発覚して気持ちが暗くなるって考える人もいるみたいだ。しかし、知らずに進行していって…となるとそれによって長患いするよりもいいかもしれない。いや、いいだろう。

毎年、区から来る案内に従ってぎりぎりの3月くらいに行っていたが、今年は感染症のせいで2月、3月に病院を訪れることをためらってしまった。

なので、すっ飛ばしてしまったのだ。近々行こうと思っているが、万全の態勢で気を引き締めて行ってみよう。

さて、子供の頃学校で健康診断が定期的にあったと思うが、嫌だったのが検便。

今日は検便について書こうと思ったのだが、タイトルがそれじゃぁなぁ、という思いもあり、お茶を濁して書き始めてみた。

僕等の頃、トイレは水洗ではなかった。ここから先は希花さんとの会話方式。

「当時ほとんどの家庭はポッチャン式、和式トイレだった」

「え?じゃぁどうやって検便を取ったの?」

「マッチ箱を用意して」「え?何それ」「マッチ箱と新聞紙と割りばし。3種の神器だ」

「?」「まず新聞紙を敷いて、その上に落とし、それを割りばしでつまんでマッチ箱に入れる。その時横についたりしないように注意して、それをビニール袋かなんかに入れて学校にもっていく」

「名前はどこに書くの?」「よく覚えていないけどマッチ箱にあらかじめ書いたのかな」

「どこの家庭にもマッチ箱があること自体が不思議」

「しばらくして中学校に入ったら今度はプラスティック容器みたいのに変わったけど、蓋ができるようになっていて、でも、その蓋が時々塩梅の悪いやつがあっていくら閉めても、パカッ!と空いてしまうやつがある。そんな時はたぶんセロテープで止めたかも」

「考えられない!」

と、まぁ、時代の変化と云うものには、前にも書いたけど扁桃腺のことで希花さんに「そんなバカな!」といわれたように記憶違いというものも伴うのだろう。

が、しかし検便に関しては間違いなく3種の神器をよく覚えている。そして学校に持っていくのが恥ずかしかったのはよく覚えている。

僕は子供心に何故こんなことするんだろう、と毎回思っていたものだ。

女の子なんて嫌だっただろうな。でも意外とそういう時は女の子の方が度胸が据わっているのかもしれない。

Irish Musicその161

Eochaid     (Slow Reel)

なんとも読めないタイトルだ。調べたところ、日本語表記をするのは難しいようだ。

エチャイド、というものもあるし、エオヒド、というものもある、オーチやイオチェイドと聞こえるものもある。スコットランド人が言うとヨーヘッチとも聞こえる。

いずれにせよケルト神話に登場する人名と解釈してよさそうだ。

書いたのはBeogaという人気バンドのアコーディオン奏者Sean Og Graham

美しいメロディだが、早いテンポで演奏するとどことなくドーナル・ラニーの

Cavan Pothles に似てきてしまうので少しゆっくりめに演奏してみることにした。

彼等も情感の溢れた良いテンポで演奏している。

久々の友人との会話

久しぶりにアイルランドに住む日本人の友人と電話で話をした。つい1ヶ月ほど前にも別な日本人の友人と話をした時、彼が「日本の政治行政のダメっぷりを今回のコロナでたっぷり見せつけられた国民は、もう少し政治に興味を持って投票率が上がるきっかけになればいいね」と言っていたがすでに4~5年前から信用に値するようなことは何も残してこなかったのでもう遅すぎるような気もしていた。

彼は日本から離れているし、いろんなことが見えるのだろうが、あまりにもしょうもないちっぽけな嘘、国民に対する態度の悪さとかは上手く隠ぺいされているのかもしれない。

国民も60年代のようにはならないし。

何もしていないわけではないだろう。何かしているんだろうけど、あまりに国民の本当の気持ちが理解できないせいか、やること、言う事のほとんどがズレている、としか思いようがない。

ところで、今回の友人は「鎖国」ということを口にした。

それは、勿論コロナからの話だが、それだけではなく、日本人としてのアイデンティティ、そして日本固有の文化に対するリスペクト、そういったものを見直すいいチャンスになるんではないか、ということ。うん、これは大事なことだ。

言っておくが例えばの話だ。でも例えにしてもなかなか面白かった。

海外に暮らしていると、日本と云う国のいろんな面がみえてくることは確かだ。

こちらも暫くは外国との交流は避けるべきだ、と思っていたので、中国など「我が国の政策に干渉するな」と言っているくらいなので、いっそのこともう中国の事は忘れて、メイドイン・ジャパンに徹し、国交を閉じてしまえば…勿論イギリスもアメリカも全ての国が結託して、などと思っていたところだ。現実的ではないが。

様々なことがチグハグになっているような、いや、現実を見たくないのか、やはりあまりに国民感情とかけ離れた暮らしをしているせいか、どうも政府の言うことははっきりしない。

「もう打つ手はないし、そろそろみんな感染してもいいだろう。私たちは守られているし、給料もボーナスももらったし、じっとしていれば私たちは大丈夫。国民に盾になってもらって時間を稼ごう。その間にいい薬でも出来たら、或いはみんな抗体を持つようになれば、来年のオリンピックはできるようになるかもしれない」

そんな心のうちが読み取れるようだが、そうでもなければ何の根拠も示さないまま、大きなイベント、GoToキャンペーン、なんていう発想にはならないだろう。

そんなことより、何とか数百年も続いてきた老舗や伝統職人らが支えてきたお店などを政府が守ってあげることは出来ないのだろうか。

誰か「私のボーナスを水害対策に使ってください。医療機関のために使ってください。日本の伝統復興のために使ってください」などと云う政治家はいないかなぁ。

Irish Musicその162

Lusignac       (Bourree)

どうやらChris Woodの作品らしいがはっきりは分からない。Chris Wood&Andy Cuttingの素晴らしいデュオ演奏から学んだ曲だ。

タイトルはフランスの土地名、リュジニャックという日本語表記を見つけた。

観光ガイドもあるし、いかにもフランスの田舎街というか村と云うか、その昔連合軍やドイツ軍が歩き回ったような感じの処だ。

ブリタニ―では本当にヨーロッパ戦線を彷彿とさせられたが、もし行ったら同じような感覚になるかもしれない。緑がとても深そうでもある。

行ったことは無くても一応沢山のことを調べておけば、曲を演奏するときでも自分なりに景色が浮かんでくるものだ。

そしてもしいつか行くことがあったら「あーこれだ!」と思えるだろう。

アイデンティティ

前回の「鎖国」という話が僕なりに面白かったので今一度、日本人としてのアイデンティティというものを考えてしまった。

確かにアメリカにいた時、それはとても大切な事だと感じていた。

幸い幼いころから音楽に親しんでいたので自分自身を表現する手立ては持ち合わせていたと云えるだろう。

ただ、それが日本人としての、となると…。

1949年生まれ。日本が復興し始めようとしていた頃だろうか。戦争が終わったのは1945年。そうしてみるとたった4年で復興のきざしが見えていたのだろうか。

少なくとも希望の光は新たに見つけていたんだろう。生まれたばかりの事は当たり前だが覚えていない。

ラッキーにも朝鮮戦争も覚えていない。

記憶が生まれてくるのは多分1953年くらいからだろうか。ピアノを弾き始めた。その音楽との出会いが自分自身を表現するチャンスとなったのだろう。

しかし、文化はずっと西洋に近いまま生活していたと思う。

テレビもなく、ラジオを聴きながら家族そろって近くの市場で買ったコロッケを食べる。なんとも昭和の風景だが、西洋からのものは日に日に増えていったと感じる。

少し成長すると西部劇に没頭し、音楽も、勿論クラシックをやってきたので、どうしても西洋音楽に傾倒していった。

だが、僕だけではなく、ほとんどのこの年代の子供たちは日本人としてのアイデンティティを持つことなく育ってきたように感じる。

漠然と日本人としてのアイデンティティと言っているが、それが何なのかも良く分からない。ただ単に日本の歴史を良く知っているとか、それぞれの土地の伝統芸能や特産物などに明るいとか、そういう事だろうか。

アイルランドでよく質問される。「日本の人口は?」「東京の人口は?」彼らにとっては羊より人間の数の方が多いなんて信じられないのかな。

「東京のセンターはどこだ?」なんて訊いてくる奴もいる。非常に難しい。

「日本人が最も得意としていることはなんだ?」「アイルランドは酒と音楽と文学の国だ!」

さぁ、日本人のこれだ!というのはなんだろう。お、も、て、な、し、ではないだろう。

とんでもないうそつきの総理大臣がいる、ということも自慢にはならないし。

カップヌードルの値段も知らない奴が財務大臣なんて、猫に小判、馬の耳に念仏?

あ、またこんなことに話がそれてしまう。

まぁ、日本人の良さ、日本の良さを長きに渡って無視してきたのは政治のせいも多々あると思う。

諸外国を見てもやはり日本人のアイデンティティに関する意識の低さは際立っていると感じる。

ひとつにはほとんどのケースで、自分がどこから来たのかを考えず、また伝えずに済むからだろう。

海外では、特にアメリカやヨーロッパでは、あ、アイルランド系、あ、イタリア系、ロシア系かな、なんて思うことが良くある。

僕たちはせいぜい、お、なになに県に多い苗字、という感覚しか無い。それか、ひとくくりに日本人だ。

平和ボケ、という言葉が一時もてはやされたが、平和であることに越したことはない。

ただ、やはり多くのベトナム難民や、不法移民との付き合いから、平和ボケという言葉も分からないでもないな、と感じるようになったし、少なからずそのことを批判されることもあった。

政治家のアホさ加減も批判の対象になったし…問題はそれが日本国民の代表だという事、そして、僕らも含めて西洋の文化にしか目がいかなかったことも考えさせられる事柄であった。

時々聞かれる言葉に「ゆとり教育の弊害」というのがある。これによって考え方が受動的になった、ということが大きな問題になっているという。

「三つの箱」だ。また「This Island」でもある。

やはり敗戦国として見えないところでずっと支配されてきた国。いろんな恩恵で急激に発展してきた国。それらの弊害がこの国自体のアイデンティティを失わせているのかもしれない。

やっぱり鎖国かな。

Go To 何とか

とうとうまた国民が最前線に突撃していく構図になってきた。

Go To と云うとどことなくHellという言葉が続く方がしっくりくる。

事実Go To!というとアメリカンスラングではそれだけでもう後はHellなのだ。

なので、国民は地獄へ行け!と言われている気がしてならない。

私たちも安全対策に関して出来ることはなんでもします。なので、皆さんも気を付けながらでも旅行を楽しんで下さい、と云うのではない。

私たちは頂いた給料とボーナスでゆっくりしています。国会も閉めたし、もうやることはありません。皆さんどうかキャンペーンを使って出かけて下さい。もしかしたら地獄を見るかもしれませんがそれも運です。

Go Toとは考えたもんだ。いや、考えが浅いのか。

こんなことは本当は言いたくないのだが…いや言いたくもなる。どうかお許しください。中には楽しみにしている方もいるかもしれないので…。

Irish Musicその163

All Young     (American tune)

これは出処について確証はないが、アメリカン・オールドタイム・チューンだと云えるだろう。比較的覚えやすく綺麗にメロディック奏法を作れるので僕もクロウハンマーバンジョー教室で教材にさせてもらった曲だ。初めてこの曲を聴いたのは誰の演奏かもう覚えていないが、6分ほどの長さだった。AパートとBパートだが、Bパートの繰り返しは無く、非常にシンプルだ。しかしこれを6分もやっていられるのがさすが白人だ。日本人だったらしらけてきてしまう。なので、この後で何かくっつけたほうが良さそうだ。しかし、オールドタイムではその方式はなかなか取ることは少ない。また、キーはGmなのだが、伴奏はGmajを弾く。これがなんとも気持ちがいい。いわゆるモーダルサウンドの最たる感覚だ。

Irish Musicその164

Kitchen Girl        (New England / West Virginia)

元々はDavid Brombergのギター演奏で覚えた曲。1972年にリリースされたアルバムの中に入っていたもので、省ちゃんと二人でコピーしてよく遊んだものだ。

66年頃採譜されたという話だが、そんなに古い曲ではなさそうだ。

非常にシンプルで覚えやすい、なおかつノリのいい曲でもある。

出処がNew Englandと云う人もいればWest Virginiaと云う人もいる。もともとフィドルチューンなのでオールドタイム・フィドルチューンと言っても大丈夫なのかな。

バンジョーはマウンテンマイナーで忠実にメロディを作れる。このひとつ前に登場したAll Youngと組み合わせてもいいかな?どちらもAmで演奏する人が圧倒的に多いかもしれないが、Gmも捨てたものではない。

2020年、夏

音楽会というものは、今年は出来ないのかな、と思い始めてきました。

中国から始まったこのコロナウイルス。

もう40年も前から「この地球を滅ぼすことが出来るのは中国だ!」という話が盛り上がっていました。でも、その時の話はこうです。

中国人全員が手をつないで、えいっ!とジャンプしたら地球の軸が歪むだろう。そうなったらもう地球は終わりだ。これは一種の笑い話です。

なにせ地球上の4分の1から5分の1は中国人、ということだし。ま、インドも多いけど。どちらの国もどうやって数えているんだろう…?

さて、全く世界がどうなっているのかの見当も付かない人達が考え出したキャンペーンがとうとうそのままスタートしてしまった。

2020年のこの政党が犯した間違いは後世にまで語り継がれるだろう。いや、そうでなければいけないはずだ。

だいたいもう5年も6年も前から彼らの(とりまきの浅はかさもあるので敢えて彼の、とは言わないことにしておく)悪行にはうんざりしてきたが、今やコロナの陰に隠れて彼らにとっては好都合の事柄が山ほどありそうだ。

全く他人事としか思っていない財務大臣は、言動からみてもとても賢いとは言い難い。

本当の意味での人間としての頭の良さ、賢さとはどういうものなのかを誰かが教えてあげる必要があったのだろう。時すでに遅し!だが。

気の毒なのは医療に従事している人たちだ。

彼等の多くは文句など言っている暇もないくらいに毎日をギリギリのところで過ごしているのだろうが、一体誰が逼迫していない、などと寝言を言っているのだろうか。

もし、医療関系の人達が仕事を放棄したらどうなるのだろう。政治家はいとも簡単に、国会を閉鎖したり、はい、解散!などと仕事を放棄することができるかもしれないが。

医療に携わる人達からは使命感と志を感じることができるが、政治家からはそれが全く感じられないと思うのは僕だけだろうか?

給料とボーナスさえもらったら後は何も考えなくていいのだろうか。

さぁ、遊びに行きましょう。旅行しましょう。私たちが観光業界を助けます。その後はGo Toイートです。どうせ税金だろうが。

文章とは怖いものです。ずっと残るので…でもこれは誹謗でも中傷でもなく、この状況下にあって、もう何ヶ月も間違いばかり犯している政権に対する僕の考えです。

決して陰で言うつもりもないし、また音楽会という場を借りて言うつもりもありません。

勿論、ほとんどの人達にとって初めての事なのでバタバタしたり、後手後手になったりは仕方ないことですが、その中でも一生懸命「国民の命と財産を守っている姿」が見たいのです。

この期に及んで「まだ大丈夫」という嘘をつくのは、今までに多くの嘘をついてきた政権にとっては簡単なことだろうけど、もうそろそろ正直に生きてもいいのではないでしょうか。

ライブ盤のお知らせ

今年2月8日に東京で行われた、僕の70歳記念のライブ盤が出来上がります。

発売は9月1日。それまで日本は存在しているかな…?

とに角、今回は限定もので数はかなり少ないです。

楽しい会話も収録されているし、スタジオ録音並みのサウンドクオリティです。

僕は前回のin New Shoesでも収録した「青春の光と影」をこのアルバムの最後に持ってきましたが、少しだけライブとは違います。

それは、このライブを最後にこの世を去った旧友、金海たかひろに思いをよせて、あとからマンドリンを加えたことです。

彼の歌声も聴くことが出来ます。

そして、進ちゃんのドブロとボーカル、希花さんのフィドル、アイリッシュハープ、コンサーティナも生き生きとした音で楽しんでいただけると思います。

いつもは10stringsからの発売ですが、今回はTry Recordsからの発売になります。

詳しくはこちらをご覧ください。

http://soundtam.jp/junjishirotacd.html

2020年7月も終わります。

もうかれこれ半年、ほとんど全てが止まっているように感じる。それでも働きに出なくてはいけない人達がいっぱいいるはずだ。

考えたら止まっていられるのは自民党をはじめとした議員、政治家達だけだろう。

世の中の様子を見ようとしないのか、次から次へと編み出される愚策。

間違いを認めず、繰り返される愚行。

という事は一応止まってはいないのか…。ならばもう少しましなことが出来ないだろうか?

しかし、言うことはほとんどここ4ヶ月くらい同じ。

あちらこちらで災害が起きているのに、また利権がらみのマスク配布など、一体、頭の中身はどうなっているんだろうか。

各放送局では災害募金を呼び掛けているが、政治家が出し惜しみしている中で、僕等カツカツで生活している者にはなかなか厳しい。

募金と云えば、最近よく見かけるのが「ガーナの恵まれない子供たちに小学校を…」と呼び掛けている、見たところガーナの人達。

そのすぐ横でNPO法人犬猫プロジェクトとして「帰るところを失ったワンちゃん、ネコちゃんを…」と呼び掛けている日本の人達。

こんなところでも、日本の人達なら信用できるかもしれないけど、ガーナの方は本当にそのお金、募金にまわっているのかな?と疑ってしまう。

良くないことだし、どっちみちお金はこちらが欲しいくらいなので、入れることは無いので文句を言う立場ではない。

でも、国会議事堂の前でやってほしい、なんて申し訳ないことを思ってしまう。

少なくとも僕らはもうコロナで無理。災害で多くの人は無理。相変わらず潤っているのは政治家だけだろう。それと彼らにひっついている企業。

日々こんなことを思いながら今日も「ガーナの…」「ワンちゃん猫ちゃんを…」と聞こえてくる。

僕はその前を足早に通り過ぎてしまう。なんと無情な人間なんだろう…。

7月とは全然関係ない話題でしたが、これから夏本番。募金で街角に立つ人達も気を付けないと熱中症との戦いもある。もしかしたらガーナの人達は慣れているかもしれないけど、なんといってもコロナの問題もある。

そしてこれは今年1年収まることは無いだろう。いや、もっと先まで…かな。

お金は入れないけど、彼らの健康を願っている…なんて都合のいいことを思っている2020年7月でした。

2020年8月最初の日

先日、一体どうなっているんだろう、みたいなことを考えていたら、やはり東京医師会の方が会見を開いていて「コロナに夏休みはない。国会を開くべきだ」と言っていた。

かなり激怒していたように見えたが、彼らはもっともっと声をあげてもいいと僕は思う。

政治に口を出さないほうがいい、というようなことを言っていた医療関係者がいたが、東京都民であり、日本国民であり、人間であり、その上に医師である彼が政治の納得できないところに意見を言ってもおかしくはないはずだ。

もし、彼らがストライキを起こしたら「もう患者は診ません。陽性者は全員国会の敷地に集まってください」などという話になったら面白いな、と勝手な想像をしてしまう。

結局、政治家は他人事で「隠れていれば自分たちには感染しないし、文句を言われる場を失くしてしまえば、国民は感染が怖いし、忙しいし、それどころではなくて、そのうち選挙で政権が交代して、つぎの政権のせいにしておけばどうせみんな忘れるだろう」そう考えているとしか思えない。それか知らんふりしてそのまま続けたいのか。

今日こそはなにか明るい話題か、なにも考えなくていい話題にしようかと思いつつ、なにも音沙汰の無い政府の他人事に黙っていられなくなってしまう。

日本の政治家の程度もここまで落ちたのかと思うと情けないやらバカバカしいやら…。

なにが「国民の命と財産を守る」なんだろう。「政治家の命と財産を守るために国民には犠牲になってもらう」が本心だろう。

ところで、今朝「ぬれせんべい」が話題に登った。急に変わって申し訳ないが、僕はどうもあれに納得がいかない。せんべいは硬いものだろう。

と云うと、希花さんが「年寄りでせんべいが食べたいけど、硬過ぎる人にはいい。それによく味がしみ込んでいて悪くない」と言っていた。

なるほど。でもどうも日が経って湿気たせんべいのような感触だ。といえどもそれが要因で一度くらいしか食べたことが無いのか、まだ食べたことがないのか…すらも分からない。

むかし、歯の悪い省ちゃんがこんな風に嘆いていた「じゅんじ、聞いてくれるか。おやじ、俺の前で美味そうにせんべいをバリバリ喰うとんねん。俺がそんなもん食えないの知っているのに。あ~情けない。食べたいなぁ」

可愛そうなせんべいの想い出だ。

ところでせんべい汁というのも良く分からない。大体「南部せんべい」というものの美味しさが分からない。これは好みの問題なので、ただ僕が好きではないだけだ。

その美味しさが分かる人から見れば「可哀そうな奴」ということになる。

これもむかしの話だが、息子が言っていた「ベジタリアンの人は人生においてかなり損をしている。こんなにも美味しいものが世の中にあるのにそれを食べようとしない。もっと幅広く大きな目と心を持たなければ絶対損をする」

確かに一理あるかもしれない。

話は戻って、逆に硬くなったロールケーキやショートケーキなんて食べたくない。

それは古くなっただけのはなしか。

とに角、ぬれせんべいから、こうであってほしくない、或いは別にこうでなくてもいいんじゃないかという食べ物、というものを考えてみた。

別に生でなくてもいいキャラメル。やたらとファンシーなかりんとう。高すぎるハンバーガー。創作ラーメン。なんでも猫を題材にすれば少々高くても売れると思うケーキやクッキー。

多分、高級志向というものも好きでないのかな。

かくなる僕は一般的庶民である。

政府から見れば、税金を払わせてコロナ戦線に送り込む一兵卒である。

本格的に危険な暑い夏

梅雨も明けていよいよ暑くなってきた。天気はすこぶるいい。

近所に電光掲示板があって、気温が表示されるが、35℃を越えると赤いランプが点滅して表示が消えてしまう。そして数日、音沙汰なしになる。多分一時的に壊れるのだろう。

そんな日がやってくるのもすぐそこだ。今日は30.5℃という数字が見える。

そんな、普段だったらみんな喜んで海に行ったりプールに入ったりの世の中だが、そういうわけにもいかない。

ところが、少し近所に買い物に出ると商店街には人が溢れている。

そのアーケードのひとつ横の道にはいくつかの商店と食事処、そして居酒屋などが並んでいる。

そこでは、どこからか上の階でだれかがカラオケを歌っている声が響いてくる。いわゆる昼カラオケの店だ。

向かいの居酒屋では顔を真っ赤にしたおじさんやお姉さんが煙草を吸いながら大声で飲んだり食べたりしている。

僕は足早にできるだけ息を止めてそこを通り過ぎる。

別な道の選択肢もあるが、そこにはいつも昼寝している猫がいるのでそれを見るために足早にそこを歩く。

そうして見る光景はなんとも不思議で、こう言う人達は世の中に一杯いて、いくら私たちのお店は感染対策をきっちりやっています、といっても、そこに来るこういう人達の問題でもある、というのが良く分かる。

他のラフな店に行った後かもしれないし。

それに夜の営業時間を短縮しても9:55まで浴びるほど飲むのは構わないようだし。

こんな状況を政府の人(人というより動物?)は観たことが無いんだろうなぁ。

あの虹のマーク(ゲイの象徴ではなく)も誰でもダウンロードできそうだし、ひとつ手に入れてみるか、なんて思ってしまう。

それかGibsonのロゴよろしく自分で描いてみようかな。

お店の問題もさることながらGoToやお盆の里帰りのことなども今盛んに討論されているが、それも庶民の間で、とういことだけだ。

それぞれが常識を持って…などと常識もない大臣に言われても理解に苦しむ。

沖縄を見放している態度も気に喰わないし、彼らからは常識も良識も感じ取ることが出来ない。

今、国会を開いても議題がない、などと言った議員もいるくらいの政党ではこれはコロナよりも日本が先に終息してしまう。

また、この暑さの中、オリンピックが無くて良かったと思うが、まだ来年やるつもりでいることを忘れていた。

金が絡むと人の命なんて何とも思わない政府の姿勢が透けて見える。

今頃涼しいところで「あー政治家になっていて良かったなぁ。下々の者は気の毒になぁ。まぁ、せいぜいほざいていればいい」

くらいの事を言っているに違いない。

ま、今日もとてつもなく暑くていい天気だ。スポーツには持って来い…だそうだ。

だが、棄権しないと危険だ。

Irish Musicその165

Leaving of Liverpool     (England)

これはイギリスの古いバラッドだといわれている。ダンスチューンとして演奏されることはまずないが、最近九州の友人が自身のグループで演奏している映像を送ってきてくれたことで思い出した。

彼等のスタイルはブルーグラス。ご機嫌な演奏。そしてタイトルはFare Thee Wellだ。

僕等もフォークソングをやっていた60年代、これはボブ・ディランの作った曲、という認識で唄っていた。MFQが素晴らしいアレンジで唄っていてよくコピーしたものだ。

それが、元々はLeaving of Liverpoolという古いバラッドだと知ったのは後の事だ。

どうやらボブ・ディランは1963年の1月に2週間ほどロンドンに旅した時に仕入れたらしい。

とても美しいメロディだったのでそこに彼なりの詩を宛てたのだろう。元々の詩にも比較的近いものがあるが、リバプールを去ってアメリカ大陸に向かうストーリーに対してディランのものはいわゆるホーボーソング仕立てになっている。

バラッドでは「私はあなたの元を去るのではなく、必ず戻って来る。そしたら一緒になろう」と唄うが、ディランは「あなたのことはずっと想っているけど、いつ帰るかは分からない」と放浪者の心の内を唄っている。

広島、長崎からもう75年

毎年この時期になると、特に日本人としては今一度考えるべきことが大切になる。

先日、原爆の開発に携わり、実際に投下の映像を撮ったアメリカの科学者が、被爆者との対話で「パールハーバーが全ての始まりで、私も多くの友人を失った。謝罪をしなければいけないのはあなたたちの方だ」と言っていた。

被爆者の心は完全に踏みにじられたことだろう。

もし、彼が「私は謝らない。なのであなたたちもパールハーバーについて謝る必要はない。これは「軍」というものが犯した罪で、私たち科学者もあなたたちと同じでその犠牲者だ」くらいのことを言える人間だったら良かったと思うのだが、つくづく「Me First」の国だ、ということを再認識した。

ただ、国や文化が違うとそこには相いれない考え方の違いが生まれることはよく分かっている。

原爆投下はある意味「人体実験」としての目論見があっただろう。

8月6日まで、しばらくの間広島への空爆が無かったのは原爆によってどのくらい市街が破壊されるかを観測する為だった、という記述があるが、そこには人命、というものは無視された作戦があったのだろう。

考えていなかった、と云うよりは無視だ。まるで今の政権と一緒だ。

2016年の5月27日、オバマ氏が広島を訪れたことについて書いた覚えがあるが、単なる記憶の中の1ページに過ぎないような気がする。

なにも変わっていないどころか更にひどい世の中になっているが、それはもしかしたら、コロナと云うものが無かったとしても同じかもしれない。

危険な暑さだ

ここ10年、アイルランドに居た夏を今、日本で体験すると中東で溶けそうになったことを想い出す。

勿論、暑い夏の日というのも知らないわけではない。

アイルランドに旅立つ前、或いは帰ってきてからも暑い、と感じることはよくあったが、ここまで連日ということはなかった。

涼しいのは政治家だけだ。たまに顔を出すと涼しそうにしている。

身体的なことだけでなく、なにも考えていない、または考えが及ばなくても、ま、いいか、くらいにしか思っていない感が伝わってくる。あきらめかな、正直もうしんどそうに見えることも否めない。特に総理は。Sorryなんてしゃれにもならない。

とに角、飛行機の時間が…等と云いながら逃げるように去っていく。

涼しい会見場所から涼しいリムジンに乗って、涼しい飛行機に乗って、また涼しいリムジンに乗って、涼しい官邸に帰っていく。

そりゃ、涼しいだろう。

暑い公共交通機関を使って、暑い道を歩いてみろ。庶民の気持ちが初めて分かるだろう。

ま、あんな連中にいらいらしてもなにも変わらないので、これ位にしておこう。

今日はなにを書こうかな、と思っていたかも忘れさせるくらい危険な暑さだ。

どうせなら今聞いたニュース、大文字の点火のこと。

誰かがいたずらで早く点火(点灯?)した、とてもいたずらとは言い難いと思える行為があった、という。

ずっと昔に大の文字の、向かって右上でたき火をしたグループがあった、というが、どうも「八月の犬は二度吠える」からの都市伝説の噂があるようだ。「太」もあるようだし。

とに角、永きに渡って大切にされてきた伝統行事に泥を塗るというのは、もう世の中にいらない人間がおこした行為だと解釈していいのではないかと思う。

犬や太なら可愛い感じもするが今回のは厳重注意で済ませてはいけないと思うのは僕だけだろうか。

あとひとつあったなぁ。

マスクをつけるのをやめようという運動をしている連中。

機能していない政府に対しての抵抗だろうが、結局、政府と同じように脳のどこかが壊れているとしか思えない。

優しく言うと、正に自由と身勝手の区別がつかない集団ではないか、と感じてしまう。

ここを素っ裸で歩いてはいけないんだ、という人に対して、いや、私の自由です、と言って素っ裸で歩いているようなもんだ。

しかも今は感染症という人類共通の危機が存在しているにも関わらず、わが身の自由ということを大切に考える、というのはどれだけ他人の事を考えられないのか、と疑ってしまう。

いろんな人が居て世界は成り立っていると思うのだが、彼らのような人間による無駄な犠牲は困る。

8月15日 終戦記念日

毎年この日は僕にとってどこにいても感慨深いものがある。

記録に残っている処で、2014年はゴールウエイでアンドリューとオーラ・ハリントンとで演奏していた。

2017年にはブライアンとかなこちゃんの家にいた。

2018年はカーロウにいた。そして、沢山の若者が命をなげうって守ってきたこの国を政治家たちが滅茶苦茶にしている、と書いた。

今と同じだ。

因みに去年はティペラリーに居た。

僕は戦後まもなく(と云えるかどうか分からないけど)の生まれで、父は陸軍少佐として南方戦線に出征、なんとか生きて還ってこれた人なので、戦争と云うものはそこそこ身近だったような気がする。

この日になると必ず嬉々として日の丸を掲げる人であった。

もっと話を聞きたかったが、南の島はよほどひどかったのだろう。あまり話したがらなかったことも事実だ。

終戦の玉音放送はどこで聴いたのだろう。

僕は「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉しか知らない。

戦争からはなにも得られない。

そこでなにか得ることが出来るのは戦争をネタにして金を儲ける連中か、自分の命だけは守ろうとする政治家か…ありゃ、今と同じだ。

何も国民に伝えず、久々に顔を出したとおもったら同じことばかり言って、嘘はつき続ける。

キャンペーンで国民は感染して来い!とばかりに戦場へ送られる。

沖縄も相変わらず無視だ。

今、僕らは、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んでいる…ようだ。

Irish Musicその166

Horse Keane’s     (Hornpipe)

Jimmy Keaneが彼の父の為に書いた、というこの曲。実はもう25年以上前から知っていた曲で、あまり好きではなかったが、最近、ちょっと別な調べごとをしている時に再発見して聴いてみるとなかなか可愛らしい曲で、お、いいな!と思えるようになった。

食べ物の好みと同じで(因みに食べ物の好みは一般的に7年周期くらいで変わるらしい)そういうこともちょくちょくある。

このタイトルの謂れとしては、彼の父は鉄工所か、そういった関係の仕事をしていたらしく、そのあだ名がHorseだった、ということ。多分Iron Horse(1800年代から発達した蒸気機関車)に由来するものだろうと思う。

Mick Moloney、 Robbie O’Connell と共にリリースしたアルバム「Kilkelly」は僕のフェイバリッツアルバムのひとつだったが、この曲には注目していなかった。なので、最近は今一度注意深く聴いている。

ベランダにはサウナがある

こんなタイトルの小説がありそう。

クーラーの効いた部屋を一歩でると外はサウナだ。その昔70年代くらいかな、サウナには7人の会の面々とよく行ったものだ。

今はわざわざ行く必要もないくらいの気候だ。僕の部屋だけではなく、誰にとっても外は天然サウナだ。それも夜中になっても。これはきつい。

僕は暑がりだけど、割と平気なのは海に比較的近いところで育ったからかなぁ。

高校時代などは友人たちと夜中でさえも海に行って泳いだりしたものだ。

やっぱり若者は無茶をするなぁ。今ではとてもできない。

暑いより寒い方が好きだけど、夏は暑いものと思っているので、普通に汗をかいてもあまり苦に感じない。

そして驚くほどに体の表面が冷たくなる。これは汗をかく人全般かもしれないけど。

なので、かなり暑い日でもクーラーなしで、暑いなと感じたら頭から水をかぶる。

そうしたら体がすぐに冷える。

そこでベランダのサウナに入ると(出ると?)結構気持ちいい。

僕はここしばらく、お昼はクーラーをつけていない。やっぱり勿体ない前提の昭和の人間かな?

そうしてお年寄り(自分もか…)が熱中症になるのだろうけど、やはり暑いと思ったら、すぐ水をかぶったり、冷たい水を飲むなりするだけの体力を残しておかなければいけない。

それにしても暑い。

そんな中、消費税を上げる、なんていう話が出ていることを聞いてのけぞった。

それより、お前らの給料を減らせ!ボーナスなんかもらっている場合じゃないだろう!と、またテレビに向かって叫んでしまう。

少しは外を歩いて天然サウナの中で働いている人たちの身になって考えてみたらいい。

今年は五山の送り火を見るために早々アイルランドから戻って「そうだ!京都に行こう」と思っていた。が、このありさまだ。

かくしてテレビで観ることになった。それでも荘厳な雰囲気は伝わってきた。

京都に暮らしていた頃は毎年のように生で観ていたんだろうなぁ。

今回は、ご先祖様の中にも自粛を余儀なくされて帰ってこなかった人がいるかも…。その中でなんとか都合を付けて戻ってきた人が感染して帰ってあの世でコロナが流行らなければいいのに…なんて不埒ながらも馬鹿げた想像をしながらテレビの画面に見入ってしまった。

やはり伝統行事は素晴らしい。

日本も世界に進出していくためには、伝統をもっと大切にする考えを持たなければ、ただの浮ついた国になりそうだ。

政治家がお笑い芸人とコラボして喜んでいる場合ではない、と思うのは僕だけだろうか? さて、ちょっとサウナにでも入るかな

Irish Musicその167

An tOileain Aerach       (Waltz)

最近、動画配信したこの曲。昨年希花さんがアイルランドのラジオで聴いて気に入っていたものだが、例によってアクシデンタルに聴いたものなので誰が演奏しているか、またそのタイトルもずっと分からずにいた。

僕も事あるごとに調べていたがあまりにも手がかりが無さ過ぎた。

そんな中、動画を観たBrian McGrathから情報が入った。

Johnny Og Connollyの曲だと思うよ、と言ってきたのだ。

そうか!又か、というところだ。それというのも、以前録音したJoshua’s Dreamも全く同じストーリーだったのだ。CDに収録した後、これは偶然ネットで楽譜を見つけて発覚したが、時すでに遅し、で、すぐ彼に「ごめん、タイトル知らずで録音しちゃった」とメールしたら「とても嬉しい」と彼らしい温かい返事をいただいた。

かくして今回も事後報告になってしまったが「素晴らしい演奏をしてくれて有難う。世界が安全になったらまた日本に行きたいな」という彼らしい返事が戻ってきた。

随分前に「Lord of the Dance」で日本に来たけど忙しくて自分なりの旅を出来なかったので…という事だ。

彼とはスピダルのセッションで、今は亡き彼のお父さんと僕らで演奏したこともあり、とても好青年だったことはよく覚えているので、是非また一緒に演奏したいと思っている。

ところでこのタイトルはゲール語なので、訳すとHappy Isleとなるそうだ。それは彼の父が生まれた島Inis Bearachainの別名でもあるらしい。

もうひとつ付け加えておくと、Joshua…の時に彼が2枚のアルバムを送ってくれた。なんとそのJoshua…の方ではなく、もう一つのSiarというアルバムに収録されていたのだ。

すっかり忘れていた。不覚だった。という事もあり、是非彼との演奏を再び、というところだ。

Infomercial

いわゆる情報提供番組だ。自粛でテレビを点けることが多くなり、この手の番組をよく目にする。(テレビショッピングともいうのかな)

アメリカでも良く見ていたし、そんな中から購入したものもあった。

返したものもあった。でも、返す時が大変。電話は出ないし、やっと通じたと思えば他のものはしつこく勧められるし、まくしたてられるのでそういう時には丁重にお断りする。なかなか大変だが。

良くあるのが29ドル99という数字が大きく出て、その下に3 easy paymentと云うのが蚤くらいの大きさで書いてある。なので30ドルか!と思って購入するとその3倍になるのだ。ま、この手のものには一度引っかかったら2度目はありえないが。

最近、よく見かけるのは卵の上に座るやつ。ヨドバシなどにもあったので座ってみたけどあまりピンとこない。思わず今度たまごを持って来てみよう、と思うのだが多分お店で断られるだろう。

あと、僕らの間でひそかにブームになっているのが夢グループと云う会社の小型クーラーみたいなもの。

なにが話題かと云うと、そこに出ているちょっと見、綺麗な女性。「気持ちいい~」「安~い、嬉し~い」などの名セリフ。

それだけで何故話題になったかと云うと、このところ出番の多い岡田晴恵教授の、どこかクネクネしたところによく似ている。

やっぱり多少クネクネするのは?歳くらいまでかな、と思ってしまうが、結構言い難いことなのでだれもいわないんだろうなぁ。

普通に話してくれればいいのにな、と思ってしまう。商品よりもそちらに気を取られてしまうが、何度も見ているうちに商品を覚えてしまう、という戦略にまんまとはまっている。それに、その女性が歌手である、というところまで調べてしまう。

それと良くあるのが「でもちょっとお待ちください。今から30分以内にお電話いただければ半額で提供できます」みたいなもの。一日に何回もやっている。

そんな僕もフレイバーストーンというフライパンと鍋のセットは5年くらい前から愛用している。

包丁もよく見る。お前、靴を切る奴なんていないだろう!なんていいながら。

なお、最近手に入れたグローバルの包丁は普通に通販で購入した。

極めつけに耳につく通販は、もちろんジャパネットタカタもあるが、僕らにとってはシジミのものだ。「うりあげなんばーわ~ん」で始まる驚異的なメロディの音楽が流れるもの。

先ず、John Ryan’s から始まりLakes of Sligoに見事に似せた音楽。

アイリッシュに関わっている者なら一発で分かる「なんじゃこりゃ!!」というくらいの盗作もの。しかし実によくできている。

今日も最後の「おまちしてーます~」というフレーズまで見てしまった。

体調

最近、総理の体調というのが取りざたされている。なんにもしていないようだが、一応、右に行ったり左に行ったり、すずしいところでなにかしているんだろう。

その間にも無い知恵を絞って考えることもさぞ多かっただろう。

正直、気に喰わん奴でもこの100年に一度くらいの危機に対してどうすれば良いのかを考えるのは至難の業であるくらいのことは分かる。

ただ、国民の命と財産…という割にはあまりに寄り添っていない感があるので、その部分に於いては僕だけでなく「もっといい方法はないのかよ。高い給料もらっているんだし」と思っている人も多いだろう。これについては彼だけではなく、国会議員全員に言えることだ。

しかし、何よりも心配しているのは彼の体調もさることながら、もし倒れたらその間、誰が国のトップになるか、という事だ。

もう分かっているだけに怖い。ひたすら怖い。

お化けより、ドラキュラより、ジェイソンよりも怖い。

あんなに庶民を見下して、常に偉そうにしている奴ならまだ今の人に頑張って体調回復を目指して欲しいと思うのは国民の何パーセントに及ぶだろうか。

どうせ数ヶ月持つかどうかも分からないけど、やっぱり国の顔ではない。

他人の体調の事よりも自分はどうかと云うと、相変わらず問題は無い…と思う。

ただ、この騒ぎで健康診断を1回飛ばしたので、近々行っておこうかな、と思っている。

歯も相変わらず問題ないし、そのせいか食欲もあるし、部屋でのストレッチや少しの運動も心掛けているし、少しの外出もできるだけエスカレーターは使わないし、暑くても日光には当たるようにしている。

水もよく飲むし、夜も比較的良く眠ることができている…ようだ。

それに、体重計に乗る前に自分の体重はピタリと当てることが出来る。体重計には10日に一度くらいのペースでしか乗らないが。

朝、起きた直後はメールやラインの小さな文字は見えにくいが、ちゃんと香りのするコーヒーを飲めば普通に回復する。

耳はどうやら希花さんに聞こえる高い周波数は聴こえないようだ…。

多少の距離を歩くことも苦ではないが、ただ少し走りたいな、と思う。

この暑さ、そしてマスクをしなくても良くなったら走りたいと思うがいつになることやら。

マスクに関しては付けていることで他人が安心すると思うので、運動時も付けていた方が良いだろうな、と思うとなかなかそれを付けたまま走る、或いは運動する、というのもなぁ、と感じ、ジムも3月から休会したままになっている。

なので、尚更、体調管理はしておかなければ、と思うのだ。

金海君がまだ元気だった2月くらいにメールを送ってきました。「隊長、体調が悪いんです」「なに!俺が悪いというのか!」「いえ、そうではなく体調が悪いんです」「まだ言うか!」いつまでも続く隊長と部下のやり取り。

皆さん、しっかり体調管理をして少しだけ長生きをして(旅立った友人たちの分)いい日々を過ごしましょう。

僕たちは100年に一度というような特異な時代に生きています。

100円ショップ

最近、近所の100円ショップの向かいに100円ショップが出来ました。

因みにこの辺に僕の歩いて行ける範囲内の100円ショップは4つあります。それも全てが割と大きな店舗。

ともあれ、すぐ向かいにオープンするってすごいな、と思う。

そこは元薬局でした。その時もすでにあった向かいの100円ショップの下の階は…薬局でした。

それではなぁ…と思っていたらやはりすぐに無くなって、次は何になるのかな?と思っていたらこういうことになったのです。

しかし、今回の店はウォークイン。向かいにある以前からの店は2階。となるとこちらは結構有利かもしれない。

ただ、この店、あまりに商品が多すぎて棚と棚の間隔が狭すぎる。一人がデイパックでもかけて棚を見ていると、もう通ることが出来ない。

こう言う店は他にもあるし、大量販売店なんか、これ、火事になったら逃げだせないなぁ、消防法はどうなっているんだろう、と思わせる店も少なくない。地震も怖い。

やはり土地が狭い都内などではある程度しかたないとは思うが、思わず店員さんに聞いてしまいました。

「これ、レイアウトを見直した方が良いんじゃない?誰かが立っていたら向かいの棚を見ることができない」といったらにこやかな店員さんが「何といってもオープンしたてで、そのうちもう少し楽に見れるようになると思います」って。すかさず「それ、ダメじゃん」

と言って二人で大笑いになったけど、暗に商売が下火になることを示しているようで、なんだかなぁ…。

やっぱり都内にCOSTCOなんか作ることはできないだろうなぁ。

余談ですが、アメリカでは「コスコ」というが日本では「コストコ」なんですね。でも、もしかしたら聞こえない程度にTを発している人もいるのかも。

Oftenの発音しかり。イギリスでは強くtを発音する、と言われていますが、アメリカでもtを発音する人は多いです。僕らは英語の授業で「オッフン」と習ったと思いますが。

それで思い出したのが、ビートルの唄でShe don’t careなどという文法では間違いのような詩があります。

これをアメリカの若い人達に訊ねたら、多分に黒人英語でそれをまねることがおしゃれになっている、かっこいい、という面白い答えが返ってきました。

歌にするときには、方言や、文法上おかしくね?という言い回しは日本でも存在するし、それがまた効果を得られる結果にもなるのですね。

100円ショップから話が飛んでしまいましたが、飛びついでに、アメリカでも1ドルショップなるものはあります。しかし日本の物の豊富さとクオリティの高さは尋常じゃないですね。今は大手のショップも進出しているのでそれほどの差はないと思いますが。

いつだったかギグがあってNYを歩いていた時、あまりの寒さに思わず店に入り1ドルの帽子と手袋を買いました。我慢できない、このままでは死ぬ、と思うくらいの寒さに襲われたのは初めてだったかもしれません。

そんな時にはこういう店は便利ですね。

アイルランドでも2€ショップなるものがありますが、ほとんどの物のクオリティに関しては信頼できない感があります。

それに比べると日本の100円ショップはすごい。

それにコンビニもすごい。僕のいるところでは歩いて2分以内にコンビニも4軒あります。

すごくないですか?

とに角100円ショップはもはや100均、それは電子レンジが「チン」で通用するのと同じ?なのかな?

Irish Musicその168

Stephen’s         (Waltz)

ひょんなことから見つけた可愛いワルツ。ちょっと158にあるモーリス・レノンのワルツと似ているが、これはこれでなかなかいい。

作者はコンサーティナ兼ピアノ奏者のJack Taltyだ。

シンプルにギターとコンサーティナで演奏するととてもいい感じの曲。

コーマック・ベグリーとのCDやノエル・ヒルとの関係も深く、僕等にもとても近い存在の人でクレアの出身。

演奏家としてだけでなく、プロデューサーとしてもエンジニアとしても、この音楽に欠かせない人物の一人である。

ところでこのStephenが誰であるかの情報は無いので、僕は勝手に詩人のStephen James Smith だと解釈している。彼らが音楽とポエトリーのショーをやっているので。

でも、ちゃんとしたことは次に会う機会があったら訊いてみることにする。

マーチンギター

先日、友人の一人がマーチンギターを手に入れたく、いろいろ見ていたらネットでこんなのがありました!と連絡してきた。

元を正せば、僕が彼に「何かマーチンギターのいい物」と言って勧めていたのだが。

なので、僕も色々探していたけど、やはり「これ!」というものはかなり高額だ。

ギターにせよなんにせよ、いかに安くていいものを見つける、というのは大きなポイントだ。

特にこのご時世。

友人が見つけてきたのは000モデルだった。ここに詳しく書くことは避けておくが、僕もこのタイプは大好きだ。

大体、マーチンギターというのは、特にフォークやブルーグラスを演奏する者にはステイタスのひとつでもある…と勝手に思っている。

僕が初めて手に入れたマーチンギターは1970年製のD-28だった。72年頃の話だ。

それから1934年製の0-18を手に入れ、ずっとそれを使ってきた。

後年になって比較的新しい000-28確か73年製くらい、同じく70年代の000-18、それと年代は忘れたけど00-18、やはり年代は忘れたけど00-16のガット、そして55年製のD-18など、この50年近くの間にいろいろなマーチンギターを見たり購入したりしてきた。

カリフォルニアの小さな店で1947年製の000-28という出物があったが、ネックが厚すぎて気に入るものではなかった。

その辺りは僕にとって音よりも大切な部分でもある。

さて、今回はその友人が言っていたものを別件で楽器屋さんに行ったついでに少しだけ見てきた。

比較的新しいもので「可もなく不可もなく」という状態。もう少し音が出て来るには後10年くらいかかりそう。

友人もあるていど歳なのでギターが鳴り始めるよりも前にあの世へいくかもしれない。

などなど考えていたら、すぐ横に77年のDタイプがあった、

少し弾かせてもらったら、やはりその方が良い。音に艶がある感じがする。

友人は000を欲しかったのだが、本当に良く鳴る000は最低でも100万前後の値段がする。

勿論、他のタイプもそうだが、幸い今の僕にはあまり興味が無い。

今迄にみたマーチンギターで度胆を抜かれたのは、アラン・セノーキーが持っていた、年代は忘れたけどD-18だった。激鳴りというのはこれか!と自分の内蔵にズドーンと来る衝撃に驚いたものだ。40年代の物だったかなぁ。

それとジャネット・カーターが「APカーターが時々弾いていたギター」だと言ってクローゼットから出してきた…あれは000だったかOMだったか、少し弾いてみただけであまりの素晴らしさによく見ることも出来なかった、という物。

その二つは印象的だ。

楽器をあれやこれや見てみるのは面白い。

基本、自分が「これ欲しいな」と思うものでないと他人には勧められないのでネットだけで判断するわけにもいかず、足を運んで実物を見る。

そうすると意外と面白い出会いがあったりするものだ。楽器とも人とも。

2020年も9月になりました

9月1日、70歳バースデイコンサートのライブ盤が発売になりました。

さすがにしっかりした音響さんが録ってくれた音。臨場感に溢れる素晴らしいライブの雰囲気が伝わってきます。

全て、このコンサートを企画していただいたウインドⅡのお二人と、当日、何もお礼を出来なかったけど、それでも力いっぱい動いてくれたスタッフ、

そして参加してくれたミュージシャンと足を運んでいただいた皆さんのおかげです。

当初これは想い出だけでいいか、と思っていましたが、やっぱり当日様々な事情で来ることが出来なかったみなさんや、遠方からエールを送ってくれた方達にもこのコンサートを味わってもらえたら…という気持ちになり、作ったものです。

聞くところによると、スタッフの中には妹さんの分のチケットを「お客さんの分が足りなくなったからあんたまた今度にして」と奪った人もいるとか。

なので、少しでも当日の雰囲気を味わっていただけたら幸いです。

あの日にして本当に良かったと思っています。1週間後でも結構迷いが生じたかもしれません。

今年はほとんど、というか、なにもコンサートが出来ない、という状態が今も続いています。

そんな中で記念すべき一枚となることは確実だと思います。

金海君にも来て歌っていただいて本当に良かったし、できればナイトウォークなんか一緒に演奏したかったけど…それでも終了後の打ち上げ会場でもとても楽しそうにしてくれていたし、本当に良かった。

今回、多くは作っておりません。なのに、発売早々、多くのみなさんからご注文いただきました。感謝いたします。

今年もあと4ヶ月?

1年も、とうとう8ヶ月過ぎてしまいました。そのうちの6か月くらいは失われた月日だったような気がします。

若い人は大変だっただろう。いやまだまだ続きそうなので大変だろう、と云う方が正しいかな?

ふと思うと(これは自分に限ってかもしれないけど)ある程度歳をとると、そんなに外へは出なくなる。面倒なので家に居るのが一番、なんて考えてしまう。

かと言って、若い時から友人と遅くまで飲みに出かけるようなことも無かったけど、遅くまで集まっては音楽談義に花を咲かせたこともあった。そこには、ついでに少しのお酒がはいったこともあった。

そうして考えると実質的にそれぞれの生活環境も変わり、その頃の友人たちと会うことも少なくなり…と、やはり外出の機会はどうしても減るものだ。

だいぶ前に永さんの本で黒柳さんとの会話が面白かった。どこかに標語みたいのがあってそこに書かれていたのが「子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うなゆく道だもの」

それを見た黒柳さんが「あら、歳よりは笑わなくちゃ。大いに笑えばいつまでも若く居れるものよ」と言っていたとか。実に巧みな解釈だ。

そう。年寄りは他人と会って会話をして、笑って…そうでないとテレビに向かって文句を言うだけの毎日になってしまう。

幸いかどうか知らないけど、文句の付け所は沢山ある。

総理大臣が辞めて、次の人の最有力候補が今までの路線を継承してゆく、と言えば、嘘と公文書改ざんと、隠ぺいをそのまま継承していく、という事か、と突っ込みたくなる。

こんな国会議員居たっけ?なんかやっているの?ただへらへらしてすわっているだけ?

なんていうのがいっぱい居てそれがボーナスも給料ももらって、命をかけて働いている人たちがボーナスどころか給料もカットされているっておかしくね?とか。

特にこの半年くらいはテレビに向かって文句を言う老人が増えただろう。

ま、テレビに向かって、というだけならいいけど、その煮え切らない気持ちを外に向けて発散させるような頭の構造には陥らないほうが良い。

つまらない悪態をついていると自分では気がつかないうちに本来いろんな考え方を出来るはずの脳みそが腐って来るんだろうなぁ。

なんかこういう状況でそんな人も増えてきているみたいな気もする。

それが老人だけではなく、若い人にまで。

アイルランドの友人がこう言っていた「コロナは経済だけでなく、人の足と心をなかば強制的に止めて、一人一人に自分自身の生き方を問い直す機会をあたえているようだ」

僕も全くその通りだと思っている。

あと4ヶ月。もう少ししたら様子をみながらちょっとずつ動いてみてもいいかな?

人種問題

これは解決しない話だ。世界にはどれくらいの人種がいるのだろうか。もちろん学術的に区別されていて、こうだ!というのがあるんだろうけど。

夢グループの翻訳機で「世界106か国語」という謳い文句。

そんなに必要か?っておもわず突っ込んでしまう。

それにしても「社長、おいくらにしてくれますか?」「やす~い」と相変わらず気持ち悪さ満載だ。

いや、そんなことはどうでもいい。

言語ではなく人種の話だった。

アメリカの高校では大体のパーセンテージが決まっていたようだ。

そして、たいてい同じ人種がつるんでいることが多い。大きくわければ白人、黒人、アジア、場所によってはメキシコ人も、フィリピン人も多い。息子が「フィリピン人ってナイフが好きなんだよ」と言っていたが、一生懸命バタフライナイフのきれいな出し方を教わっていた。

高校の登下校時では必ず数台のパトカーが校門のところに止まっていた。銃撃というものもたまにはある。

思えば、そうして幼いころから多くの人種と関わっていると、考え方の違いも当然、文化の違いも当然、差別も当然、そういうことはもう分かりきっている事なんだろう。

彼等は友人同士で「ジャップ」「チンク(中国人)」「ベトコン(ベトナムコミュニスト)」「ニガー」などと平気で呼び合っている。

それはいじめとか差別ではなく、あたかも愛情表現であるかのような感じだ。

もちろん大人になってからそんな風に呼び合うことは無いが、高校生くらいまでは盛んにそうして仲良く遊んでいた。

そんな彼らを見てきたせいか、人種差別をする人間は狭い世界しかみた事が無いどうしようもない人達なんだろうな、と思わざるを得ない。

良くないからやめましょうと言って分かるような脳の構造は持ち合わせていないのだろう。

裏を返せば、幼いころから多くの人種と付き合ってきた人達にはそれが、良くないこと、という観念も持ち合わせていないのかもしれないし、別に差別しないことがいいこと、とも思っていない。差別ということの観念が違うんだろう。

「それぞれ違うんだからいいんじゃないの」くらいにしか思っていないだろうし、困っていたらどんな人種でも助けてあげるくらいの感覚でいるんだろう。

見るところ、なに人、なに人と云うよりも人間としてしか見ていない脳の構造ができあがっているように感じるのだ。

特にここ最近、人種差別の問題とか、いろんな差別の問題とかが多くて…困った世の中だ。

ほとんどの国のトップがそんな困った人間なのだから仕方ないのかなぁ。

バンジョーは重い方が良いか

多くのバンジョー弾きは歳と共に後悔しているんじゃないかな。マンドリンにしておけばよかった、とか。

ま、それは冗談だけど、よくオーケストラの人達が歩いているのをみて、チェロの人の方が給料高いかなぁ、なんてくだらないことを考えてしまう。

バイオリンとかピッコロとかいいなぁ。ウッドベースなんかだと、もうあきらめがつくのかなぁ。

若い時には思わなかったそんなことが、最近はしみじみとそう感じるようになった。

さて、バンジョーの話だが、いちばん最初に手に入れたバンジョーはピアレス。もうよく覚えていないけど軽かったんだろうなぁ。

1964年から1965年くらいで、確か当時12000円くらいだったかな。この辺りは全くおぼろげな記憶を頼りにしているので、間違いもあるかもしれないが。

やがて大学に入ってカスガを買った。それはピアレスとは比べ物にならないくらいによくできていて、バンジョーらしい重さがあったので音もしっかりしていた。

確か4万円か4万5千円か、そのくらいだったと記憶している。

その後、ヴェガのスクラッグスを買った。更に少し重かったがそんなにちがいはなかったかな。でもアメリカの音がしていた…みたいだ。

それからはいろんなバンジョーを見たけど、フェンダーのアーティストは重いバンジョーだった。コンサート・トーンというモデルはあまり日本には無かったので知らないが、多分フェンダーのいい物は重かっただろう。

因みに僕はフェンダーのアーティストのテナーを持っている。ネックはヴェガのNo9をコンバートしているが、これなんかもケースから出すだけで腰が痛くなる。

安価な物は確かに軽かったような気がする。勿論、材質が違うのだろうからそれは音に影響するのは当たり前田のクラッカー。ありゃ、結論が出てしまった。

取りあえず先に進んでみよう。

ステーリングのバンジョーもやたらと重かった。そしてやっぱりいい音がしていた。

進藤君が持っていたインペリアル、と云うのはいままで持ってみたバンジョーの中でも曙か小錦クラスだ。音も間違いない。

僕が使っていたグレートレイクスもそこそこ重たいバンジョーだった。

一時、ギブソンが少し軽いバンジョーを作っていた時代があったが、まだあれは作っているのだろうか。小野田博士にでも訊いたら教えてくれるかもしれない。80年代後半だったかな。少しだけ手が出そうになったがやはり軽い分、音も軽かった記憶がある。

そうしてみるとオープンバックでも少し重たい目のバンジョーの方が音に芯があると感じる。

しかし、今僕が家弾きとして愛用しているディーリングのアメリカーナと云うバンジョーはめっちゃ軽いのにいい音がしている。

これはポットが12インチということもあるかもしれないが、スタジオミュージシャンとして名の通った西海君が随分前に11インチを使っていた時も、いい音がするなぁ、と思ったものだ。

ま、彼なんかはいい音の出し方を良く知っているのだろうけど。

ここ最近ではこのディーリングという会社は結構いいバンジョーを作っていると思う。

但し、デザイン的にはもうひとひねり欲しいな、と思うが、値段が悪くない。

安いものは本当に安いけどいい音がする。普通に高価なものもあるが、どれをとってもいい音だ。安定している。

そしてリゾネーター付きバンジョーでも他社に比べると重さはそうでもない。

僕が今使っているギブソンTB-4のコンバージョンは、もしかしたら元々重かったかもしれないけど

1926年ということなので、木の部分が枯れてきて少し軽くなっているのかもしれない。

音の好みとかいうのはまた別として、やっぱり重たいバンジョーの方が音もずっしりとしていて芯がしっかりしているようだ。

でもマンドリンにしておけば気軽に持って歩けたなぁ。

テクノロジー

未だにスマホの使い方が良く分からない。あれ、電話しちゃったよ、とか、これどうしたら見れるの?とか。それでも最近はWiFiの無いところではラインをしない方が良い、くらいのことがやっと分かってきた。

でもバイトだかギガだかなんだかよく分からない。

何だったか、あのムニャムニャとしたやつ、QRコードか…あれも何だかよく分からない。

むかし、バーコードと云うものが出てきた頃、いろんな商品に張られているのを見て省ちゃんと「コリャなんじゃろカイ」と首をひねったものだ。最初に見つけたのは確かファミレスでのタバスコだった覚えがある。

思えば僕の場合、コンピューターですら10年くらい前に初めていじったものだ。

自分は理数系が苦手なので良く分からない、と最初から思っているので、細かい作業は希花さん任せだ。

アメリカでは1986年ころ、既に小学校にパソコンが置いてあって、生徒たちはそれを使っていた、と記憶している。

特にカリフォルニア州はシリコンバレーを擁しているだけに当たり前のことだったかもしれない。

そうして子供たちは高校生くらいになると、自分でタワーを分解して友人たちと集まってなんだか何かをインストールするとか言ってはバラバラにしていた。

車も、エンジンのないフォルクスワーゲンビートルかなんかを300ドルくらいで買ってきて、毎日のようにガレージにこもって走れるようにしていた。

その辺はDIYの国なのでほとんどの子供たちはそうして物事を覚えていくようだ。

コンピューターに関しては、物心つくかつかないかくらいから操作している、というのは今の時代の子供たちには当たり前のことだろう。

そこには多くの弊害もあると思うが。

また、今やスマホが無いと普通の社会生活も送れないくらいの勢いになっている。

今迄はポイントカードを出せばよかった店でもスマホにポイントが加算されていくようなシステムになると、もうインストールのやり方が分からなかったりするので、ま、いいか、ということになってしまう。それこそQRコードっていうやつで。

なのでいまだにキャッシュレス決済なることはやっていない。なんかよく知らないけど損しているんだろうなぁ。

そういえば、初めて飛行機にEチケットなるものが登場した時には戸惑ったものだ。やっぱり昔の感覚で、チケットは自分で持っていないと気が気ではない。

空港に行ってマシンのパネルをタッチして…なんて怖くてしかたなかったのを覚えている。

今や当たり前のことでも20年25年前はドキドキしたものだ。

ホテルの予約もネットだといざ行ったら予約が入っていなかったり、とか考えるのだが、これも希花さん曰く「電話だと聞いていない、ということがあり得るかもしれないけど、ネットだったら記録が残るからその方が安心」という事だ。

確かに一理あるが、どうも相手の声を聞かないと…と思うのはやはり時代的な感覚の違いかもしれない。

Suicaをチャージするときに新しいタイプのマシンがあって、ポンと上に置いてチャージするもの。あれが良く分からなくて希花さんに「あ、まだ動かしちゃダメ」と怒られた直後にとなりでチャージしていたおばあさんが同じことをしていた。ついでにそのおばあさんも希花さんに怒られていた。

人類滅亡…か?

また、とても現代を象徴するような出来事がテレビで紹介されていた。

飛行機の中でマスクを付けるのを拒否した…という話。

僕の見解だが、やっぱり現代に多いコミュニケーションをとれない人間の最たる例だ。

なんか一生懸命コメンテーターが健康上の理由でこの人はマスクが出来なかったらしい、とか言っていたが、それならば、そう説明すればいい。

「マスクをすることで呼吸困難になった経験があります(或いは何か他の理由でも)なのでお話しするときにはハンカチか何かで対処してもいいですか?」

こう言うのがコミュニケーションだ。

その能力が無い証拠に、この人物はツィッターなどで饒舌に今回の事に限らずいろんなことを言っているらしい。

大体、ネットを介してしか意見を言えない、きちんと相手の顔を見て話が出来ない、と云うのは他人の話も聞けない、というところに陥っている可能性が高い。

しっかりした意見を述べたいのなら顔も出して、相手の話も聞き、そしてどこが間違いだったのか、どこまでが自分が正しかったのかをきちんと自分自身で検証する必要がある。

30代という事だったがこうして大人になってきているのだからもう時すでに遅し、という感もあるが。

マスクを付けていない人が向うから歩いて来たら、少しよけて足早にすれちがったらいいが、飛行機という密室、しかもとんでもなく乾燥した機内ではよけるわけにいかない。

簡単な話だが、自分が気にも留めていないことが他人には気になる、ということはある。

ましてや、人類はまだ解決していない問題を抱えているのだから。

他のニュースで聞いたが、なんかトランプがノーベル平和賞候補?やっぱり人類滅亡も近いのだろうか…。

Irish Musicその169

Midnight on the Water   (Waltz)

この曲は特にレパートリーとして取り上げているものではないが、オールドタイムの演奏家たちには最も良く知られた曲のひとつなので、ここに取り上げてみた。

デヴィッド・ブロムバーグやケイト・ウルフなどでも知られている古いフィドルチューン。

テキサス・スタイルのフィドラーLucas(Red Luke) Thomassonの作だが、実際に出版したのは彼の息子Benny Thomassonとなっている。

ほとんどの場合、のんびりとした「たるい」ともいえるテンポでゆったりと演奏されることが多い。

僕は1975年のデヴィッド・ブロムバーグのアルバムから覚えた。

Eliza Cathy & Norma Watersonのアルバムでは歌が入っているが、Martin Cathyによるとこの歌詞を書いたのはRon Kavanaということだ。時々アイルランドのあちらこちらで出会って挨拶を交わす仲だが、いつ頃から知っていたのかよく覚えていない。

話はそれたが、ケイト・ウルフのものと同様良い歌詞が付いている。ただ、メロディは別なもののようだ。基本、フィドルチューンとして紹介されている。

70歳バースデイコンサート回想記

このコンサートについては既に翌日の2月9日に書いているし、今回のライブ盤でも少し書いているので、また別な見地から想い出してみようかと思います。

ライナーの中に収まりきらなかったことや、更に想い出したこともあるかもしれないので。

僕がピアノを弾き始めたのは4歳くらいの時。これは、6歳ではもう相当な和音オタクだったという記憶から逆算したものなので、正確ではないかもしれないけど。

その頃すでに先生の弾くオルガンのコードやリズムに耳を閉じていた記憶もある。

そんな自分が70歳になるなんて…。

60年代にフォークソングに、そしてブルーグラスに出会わなかったら、この70歳バースデイコンサートは無かったかもしれない。

静岡生まれの僕が当たり前に東京に出ていたら、なんて思うとやっぱり不思議。

当時、明治学院ということも考えていたけど、京都産業大学というところで推薦があるって聞いて、なんのためらいもなく「よろしくお願いしま~す」と言って入ったところで坂庭君と出会ってしまった。

当時まだ体育館の下にあった学食でのはなし。

それからは僕も忘れていることが多くあるのに、ファンの皆さんの方がよく覚えていることもあったりして、怒涛の70年代、ナターシャーセブンだったというわけだ。

坂庭君同様、高石さんとの出会いもよく覚えている。

なんか山男のような、雪男のような、或いは、なまはげのようないで立ちで、例のごとく恥ずかしそうに「高石です」と言って現れた彼は受験生ブルースで見た彼とは全線違っていたので僕はびっくり。

寒い寒い京都のマンションの一室でこたつに入り、なんとなく二人でギターを爪弾いているうちに今回もCDに、そしてライブ盤に収録されているDoc’s Guitarで話が決まった。

なので、これはナターシャーセブンの歴史を語るうえで欠かせない曲だろう。

しいては僕の70年、少なくとも50年ほどの歴史の中でも欠かせない曲のひとつであることは確かだ。

ライブ盤ではバンジョーでHome Sweet Homeをスタートにしている。コンサートでもこれでスタートしたが、僕にとってバンジョーと云うのはやはり自分の人生をより豊かにしてくれた楽器だ。

スヌーピーの漫画で、内容はよく覚えていないけど、誰かが何かで悩んでいたら、チャーリー・ブラウンか誰かが「そうだ、バンジョーを持たせたらいいよ!」って言っていたのをよく覚えている。よく覚えていないながらもその台詞は覚えている。

バンジョーを弾く者にとっては更に極めたくなるような台詞だ。

ライブ盤では進藤君の登場で「初めて来た街」にドブロを弾いてもらったが、彼はバンジョーに於いてもなかなかの腕前だ。

J・D・Crowe大好きな進ちゃんは中学生の頃からナターシャーセブンの周りを目立たない程度に慎ましやかにウロウロしていた。

やはりその辺はとても大事なところで、あまり度が過ぎると覇気がないように見えてしまうし、出しゃばり過ぎても(うざい奴)になってしまう。

また、そのどちらでもなく、常に視界の中に居ようとするやつもなかなかに困った存在だ。

彼の、その辺が実に見事だったのは、本当に良い家庭のなかで育ってきたからだろう。

そして今でも全然変わらない。

今回のコンサートでも実に巧みにヘルプしてくれて、面白いお話もしてくれた。古希にあわせて紫色のカポタストもプレゼントしてくれたし。

そんな進ちゃんとの楽しい時間もライブ盤としてよみがえっている。

さて、91年頃から怒涛の如く始まったアイルランド音楽の世界。

省ちゃんがPlough and StarsでTipsy Houseの演奏を聴いて「コリャ凄い!正に最高に自分を発揮した音楽、究極のものを見つけてしまったなぁ」と言っていたけど、確かにアメリカ中のアイリッシュ・ミュージシャンに知れ渡るくらいになった。

そんな音楽を内藤と始めたのが2010年の終わりころから。

「これは人々に聴いてもらわないと、この音楽の大きな損失になる」と背中を押してくれて始めてからもう10年近く。

近年、アイルランドでの演奏がメインになり、日本で演奏する機会も少なくなってきたが、

これからもどうなるか分からない。

今回は数曲、フィドル、ハープ、コンサーティナで活躍してもらい、評価の高いトークでも活躍してもらった。

行きあたりバッタリ的なところや、直感型のアドリブ、というところはなく、だれにでも分かり易く、且つ的確に要点を掴み、必ず時間内に納めるトークは業界でもなかなか評判がいい。NHKも顔負けだという業界人もいるくらいだ。

コンサートも終盤に差し掛かり、金海君を客席から呼び出した。

ライブ盤では彼の話も聞ける。そう、あのジャンボ・ギブソンの話。今見ても自分でもびっくり。

確か、まず黒く塗りつぶして、しばらくおいてゴールドのプラカラーでGibsonと書いたのだと思う。それもフリーハンドで。

僕は高校時代グラフィックデザイナーになりたかったのでそういうのはお手のものだった。

それにしても上手く書けている。

ジャケット写真で見ても(勿論、実物を見ても)正にGibsonだ。

よくずっと持ってくれていたもんだし、またよくこの日に持ってきてくれたものだ。

高校時代からのフォーク仲間、大学時代のMFQ仲間、そしてナターシャー、と考えたら55年くらい同じように音楽をやってきたんだな、と思うと、とても感慨深いものがある。

ライブ盤最後の「青春の光と影」にはそんな思いも込めて後からスタジオでマンドリンをかぶせてみた。できるだけ目立たないように。

それでも、彼みたいな音がちょっとだけでも聴こえたらいいかな、と思った。

そんな風にして出来たライブ盤はあの日の良い想い出となったことは確かだ。

アンドリューも呼びたかったけど、今年のこの状況を考えたら彼が来られなかったのには、それなりの大きな意味があったのだろう。

それと、省ちゃんも生きてくれていればなぁ、なんて思うけど、これからは旅立つ人も多くなるだろう。

このコンサートの後の金海君のように。

悲しいことは悲しい。でもこうして同じ時を過ごせて、それを形に出来たことはとても嬉しいことだ。

彼を静岡から連れて来てくれた奥さんと、僕も50年ぶりくらいにお会いした彼のお姉さんに感謝。

そして、このコンサートを企画、運営していただいた全ての方に感謝。

何度も言うように足を運んでいただいた方達にも大感謝。

更に、コンサートのライブ盤を手に取っていただいた方達にも感謝。

70年、長かったのかなぁ、短かったのかなぁ…。まだまだ、かな?

恐ろしいものを観た。

テレビを観ているとたまに世にも恐ろしいものを観てしまう事がある。

今日、あるクラシックのバイオリニストがアイルランド音楽で有名な曲を弾きます、と言ってRyan’s Polkaを弾き始めた。

あちゃー、と思って怖いもの見たさに観ていたら、寒気がしてきた。

普通、素晴らしくて寒気がする、という事はあるけど、あまりの勘違いに寒気がする、というのはいかがなもんだろうか。

本人はとても楽しそうに弾いていた。実際楽しいのだろう。

バックのギターやピアノも楽譜を見ながら一生懸命弾いていた。

そして観ていた多くの人は、なんて楽しい音楽、なんて素晴らしいバイオリニスト、と思って観ていたに違いない。

別にいいけど。そして僕なんかが文句を言わなくてもいいものかもしれないが、これが一般的な日本人の抱いているアイルランド音楽の姿なのか、と思うとなんか微妙だ。

こういう人はダニーボーイか庭の千草くらいに留めておいた方がいい。これらも奥の深いものではあるが…。

いや~恐ろしいものを観た。

信じるか信じないかはあなた次第、という番組の後だっただけに、素晴らしいと思うか思わないかはあなた次第。

アルバムを振り返ってみて(前編)

2011年 Keep Her Lit!

2012年  Music in the Air

2013年  The Rambler

2015年 Eire Japan

2015年  Through the Wood

時間があったので、今までにリリースしたアルバムを振り返ってみた。

基本的にはこのデュオによるものだ。

まず、手探りで始めた最初のアルバム「Keep Her Lit!」止まるな!とかそのまま行け!みたいな意味の、多くの場合イギリスやアイルランドで使われる言葉をタイトルにしてみた。

この頃僕は全編ガットギターを使用していた。Teetotaler’sのセットでは5弦バンジョーを弾いた。希花さんはこのアルバムでは全編フィドルだった。

夜汽車にOokpick Waltzをつなげたり(これは省ちゃんのアルバムで僕が使ったアイディア)旅立つ前にとCalliope House(これも以前、彼とのアルバムで僕が出したアイディア。というかこのCalliope Houseをやりたくてなにか合う歌が欲しいなと思って「旅立つ前に」を書いた、というものだ)

そんな風に歌とチューンを絡み合わせる、と云うのがこのデュオでやりたかったことのひとつだ。

アルバムジャケットを写真家の吉田恒星さんに撮っていただいて、サウンドタムで録音したこのアルバムはおかげさまで完売となった。なお、このアルバムではいくつかの曲でベースを河合徹三さんに弾いてもらった。

2枚目のアルバムはMusic in the Airというタイトルで、その多くをスローでとてもシンプルな楽曲を選んで録音した。

この時から自分達なりの時間の使い方なども考え合わせ、ホームレコーディングを始めた。ただ、仕上げはそれなりの技術を持った人にお願いするのが良いだろうと考え、同じ東京に住むプロフェッショナルの方にミックス&マスターをお任せした。

ジャケット写真はバードランドの藤森さんがどこか、横須賀の方の森の中で撮影してくれたものを使わせていただいた。

このアルバムから希花さんがアイリッシュハープを使用し始めた。

このアルバムはタイトル通り、全体を通してとても落ち着いた雰囲気の静かなアルバムで日本人好みというのだろうか、ファーストアルバム同様完売している。

2013年にはThe Ramblerというアルバムを作った。

ジャケット写真はアイルランドのコネマラ地方で撮影した羊を使わせていただいた。羊に許可は得ていないが。

最初からタイトルになっているアップテンポのジグで始まるこのアルバムでは、いよいよ希花さんのコンサーティナも登場するようになった。

また、トム・パクストンのLast Thing on my Mind(この想い)やナターシャー時代の民謡、おわいやれとBreton Gavotteをつなげてみたり、ワウワウを使用したバンジョーによるClinch Mountain Back Stepなども収録しているが、ある時アイルランドのラジオでそれが流れてきて驚いた。このアルバムの紹介をしてくれていたのだが、何故、よりによってこの曲だったのだろう。

この頃から希花さんは、アイルランド屈指のプレイヤー達とのワイルドな生活と、力強い音楽の真っただ中に存在するようになり、その本質をうかがい知るようになっていく。

それは僕が80年代に体験したカーターファミリーとの生活や、このアイルランド音楽を始めてからも体験し続けてきた世界だ。

理屈などでは到底語ることのできないものを得る良いきっかけになっているはずだ。

一年おいて、2015年にEire Japanをリリース。

これはデュオではなく、Frankie Gavin とPaddy Keenanの二人と共にリリースしたものだ。

1970年代から世界を股にかけてその名を響かせてきた大物二人との共作。一筋縄ではいかないこの二人とのことはもう散々書いているがアルバムは過去のNY録音の2曲を含めたアイルランド録音。

エンジニアをButtons & Bows やSkylarkなどで有名なGarry O’Briainが担当してくれた。寒い寒いアイルランドの冬だった。

同じ2015年Through the Woodをリリース。

このアルバムでは最初と最後にライ・クーダーで覚えたジョセフ・スペンスの曲を録音した。

これは紛れもなく僕の世界であるが、こんな一見遊びのような選曲もいい。

ただ、僕にしてみれば1970年の彼のソロアルバム、Ry Cooderの時から注目していた人なので極自然の成り行きという事だ。

もうこの頃になると、大学も卒業、そしてめでたく医師免許も取得した希花さんはコンサーティナも上達し、フィドルに於いてはアイリーン・オブライエン等と共にセッションホストもこなすようになってきている。

ここに収録されているTommy’s Tarbukasなどはなかなか弾く人は少ないだろうし、仮に超絶テクニックの人が弾いたとしてもこういう感じは出せないだろう、という演奏をしている。究極、そういうところがこの民族音楽の民族音楽たる由縁だ。

僕はまた、Lord Gordonをリクエストした。

このような曲をマイケル・コールマンから、またケビン・バークから学び、そして、マット・クラニッチと演奏し、曲について語る、こういう一連の流れをすでに経験しているのとしていないのとでは全く違うはずだ。

そして、コンサーティナ演奏にも磨きがかかってきたし、ケニー・ベイカーで有名なオールドタイムチューンも聴くことが出来る。

かなりたっぷり楽しめるアルバムだと確信している。

ジャケット写真もプロの方に撮ってもらったが、本当はこういうことに使用してはいけなかった場所らしい、という事は撮影が終わってから聞かされた。

なので、アイルランドの羊を付け加えておいた。誰か「あれ、The Rambler」のジャケットと同じ羊が居るけど…なんて気がついた人もいるかもしれない。

アルバムを振り返ってみて(後編)

2017年 Gentle Wave / 今 風の中

2019年 Listening to the Outside World / Just A Hunch

この年にリリースしたアルバムは基本2枚をセットとしての考えを持って録音した。Gentle Waveは現在進行形の音楽を、今 風の中は金海孝寛と進藤了彦を呼んで懐かしい歌を中心に、というコンセプト。

Gentle Waveではピアニストの宇戸俊英さんに色付けを手伝っていただき、希花さんのオリジナル曲Gentle Waveや、オールドタイム2曲を含む、ぼくらの世界を堪能していただいた。

ここでもハープ&コンサーティナが大活躍。希花さんはこのアルバムからマンドリンも弾き始めた。

また、アルバムジャケットを開くと、今はもうないが「夢みるぱさり」で撮影したフィドルとコンサーティナの素晴らしい写真を見ることが出来る。

9曲というとミニアルバム風な感じがするが、2枚セットとしてのコンセプトなら「あり」かな、と判断した。

今 風の中は金海君が大活躍してくれてエンジニアから演奏、そして省ちゃんや木田ちゃんの分のコーラスまで担当してくれた。進ちゃんは相変わらずいいフィーリングでドブロを泣かせてくれた。

そこに数曲希花さんも参加してもらうことで、ただ単に昔懐かしいだけではないものに仕上げたかった。

ジャケットのデザインなどは希花さんがやるが、アイディアとして僕はGentle Waveは真っ白の処に希花さん、今 風の中は風が吹いている感じの写真、と云いたいことだけを言った。

金海君にとっては事実上これが最後の録音になったのかもしれない。

Night Walkに於けるマンドリンプレイはどうしてどうして、長年ブルーグラスを演奏していない割にはなかなか鬼気迫るものがあった。往年のジョン・ダッフィーを彷彿とさせるものを感じたのは僕だけだろうか。

そして1年おいてこの年にリリースしたものも2枚をセットで、というコンセプトであった。

Listening…の方は少し落ち着いて静かな、ぼくらの2枚目のアルバムMusic in the Airを意識したものに仕上げている。

選曲も練りに練ってオールドタイム風の曲をハープとバンジョーで演奏してみたり、ビオラを多用したりと、サウンド面でもかなり工夫をこらしたものから、とてもシンプルなものまで時間を少し多めにかけた。

ボーナストラックも含めると12曲。ゆったり聴くのに持って来いのアルバムに仕上がったと思う。

ジャケット写真にはアイルランドで飼っている白猫を使ってみた。もちろん彼らに許可は得ていないが。

もう一つはチェロ奏者とのトリオ。

アレック・ブラウンはアメリカ、アーカンソー生まれでアイルランドに住むチェリスト。

希花さんがチェロなんていいんじゃない?と言い出したことがきっかけで、FBやネット検索などを通して「なんか面白そうなやつがいるからコンタクト取ってみようか」と言ってなんの前触れもなく連絡した。

彼は新手の詐欺かと疑ったらしい。最初は。でも、もはや僕らの演奏もYouTubeなどで見ることが出来るし、FBで共通の友達を見つけたり、と、そんなことをしている間にこれは信用できるかもしれない、と連絡をしてきた彼を、最初どんな奴かまだ分からなかったので、1週間だけ日本に呼んで一緒に演奏してみた。

2017年の12月に寒い中、サンダルを履いて現れた男はとても静かで、きれい好きだし、僕には慣れた感じのアメリカの田舎から出てきた青年、という感じであった。

何回かのギグで、多くの人からこの3人でCDを作ってほしい、との要望があり、僕らにとっても新しい挑戦であることなどから制作を決めた。

他なる彼の特徴としては、アメリカ南部の出身という事で、オールドタイムやブルースにも、僕との年齢の差はあれど、なかなかに共通するものがあった。

そんなこともあり、ボーナストラックではレッド・ベリーのIn the Pinesを一緒に歌い、僕がそのままPolice Dog Bluesを演奏し、Listening…とはまた全然違うものを作り上げた。

このように2011年から7作品、セットのものが2作品なので厳密に云うと9作品をこの9年間作ってきた。

僕も今年70歳になり、いつまで続けていられるか分からないので(多分に言っているだけと思ってください)次なる作品というものも今現在作っているが、もうほぼ出来上がっているので、その次のものにまで手をそめだしている。せっかちなので仕方ないか。

思えばとてもラッキーだった。

70年代に高石氏と出会い、シンガーと共に歌い演奏することを学んだことで、ショーン・テリルやスーザン・マッケオンなどというような筋金入りシンガーとの共演も果たし、楽曲の中にある魂を本当に良く聴き取ることで伴奏者として認められ、カーターファミリーとの生活や、アンドリューやベグリー達との生活を体験し、そこに希花さんも引き込むことによって彼女も真の意味でのミュージシャンに成長していった。

こういう事がこの音楽にどれだけ必要な事かを僕は身をもって体験している。

簡単に教えられるものではないが、少しだけ云えるとしたら、先ず聴くこと。それも先人たちの演奏、歌にとことん耳を傾けること。そうして悩み悩んで自分らしさを身に付けていくこと。できれば世界に出ていくこと。

今は難しいけど、多分このままでは世界が終わってしまうし、いつかはまたでかけていける社会になるだろう。

希花さんは命の危険にさらされてブレンダン・ベグリーの漕ぐボートで真っ暗な大西洋に出た時、感じたことのないアイリッシュミュージックを体感しただろう。

僕がジョー・カーターの庭先で辺り一面が明るくなるくらいの蛍の大群に囲まれた時、真のオールドタイムミュージックを感じたように。

そんな気持ちを持ち続けながら、これからもアルバム作りに励んでいきたいものだ。

香水

ヒット曲にあやかってこのタイトルを付けたわけではないけど…と言ってしまう時点で多少なりとも意識しているのかな?

いろいろ調べてみると、ひとくくりに香水といっても濃度の段階があるみたいですね。

僕が結構この手のものが好きなのは多分省ちゃんの影響。

彼は本当に好きだったなぁ。

もう既に何度か登場しているアラミスですが、ある人によると、その香りで僕のことを想い出す、と言っていました。もしかしたら省ちゃんと居ることが圧倒的に多かったので香りが移ったのかな。

ま、そうでもないけど確かに僕もアラミスは使っていました。

今でも冬になると使います。どう考えても夏の香りではない、と僕には思えてならないのです。何だろう?湿気のあるムシムシした感じに合わないのかな。

これはあくまで僕個人の意見です。こういう風に注釈をつけておかないといけないですね。

時々見るCMで猫が車のハンドルを握っているシーンがありますが「CM上の演出です」という注釈が出ます。あれがないと「猫に車なんか運転させてとんでもない」なんていうクレームが来るんでしょうか。

絶対にありえないものでも事前の対処法としてそういうことは必要事項なんでしょうね。面倒くさい世の中ですね。

さて、話をもどして、夏になると僕は4711porchugalというものを使っています。

こちらの方はさっぱりしていて本当に夏向きです。コロンと表示されています。

なお、このメーカーのものはアフターシェーブローションも大好き。すごくさっぱりしたいい香りで、ともすれば関係ないところにもふりかけてしまいます。

アラミスはトワレなのでやっぱりアラミスの方が香りや濃度は強いのですね。

香りと匂いの違いって歴然としていますが、結構英語では難しいです。

一般的に日本の英語教育で習う匂いと言うのはsmellなのでついついgood smellなんて云いがちですがscentsの方が良いみたいです。

今年の1月ごろ、ある楽屋で偶然通りかかったポカスカジャンのメンバーが「お、さすがにおしゃれですね。アラミスですか?」と言ったのでびっくりしました。

そんな彼もきっと使っているのでしょうね。

10月

驚いたことに、とうとう10月になってしまいました。

2020年の失われた6か月もこの先7か月、8ヶ月といつまで続くのでしょうか。

これを産みだして隠していた国は今、どうなっているんだろう。

また、アメリカの大統領選挙も気になるところではあります。

もしもトランプがまた大統領に居座ることになったらもう世界は漫画みたいなことになるでしょう。

それにしてもバイデンと菅はなんか似ている感じ。どちらも「暖簾に腕押し」的な。

ところで、トランプとバイデンのテレビ討論、観ましたか?

史上最悪のテレビ討論、と評した記者の気持ちが良く分かる。

日本でも、明らかにおかしな奴が議員なんかやっていて、失言や問題発言があっても何食わぬ顔をしてそのまま給料もらって知らんふりしている。

国民に対して「新しい生活様式」というのなら、今こそ自分たちの生活様式も見直した方が良い、と感じる。

性格は変わらないと思うので「おっ〇い」が好きな議員はまだ「おっぱ〇」が好きなんだろう。

「女性は嘘をつく」と言った〇〇も言語道断だ。大体、世間話ならともかく、公の場で自分の言ったことを覚えていない、という時点でもう、政治家なんていうのはやめてもらわないといけないが、考えてみればそんな奴、かなりの確率でいるところをみるとそれが彼らの、立場を利用して給料をふんだくる手段なのかもしれない。

大した考えもなく言いたいことを言って、覚えていない、一応謝って、そんな意図は無かった、と云っておいて、都合が悪くなったら体調不良などと偽って雲隠れして、そろそろみんな忘れただろうと、また現れて同じことを繰り返す。

こんな奴らがボーナスももらって給料ももらってふんぞり返っているのと、医療機関で働く人たちの命がけの仕事とどちらが尊いのかは考えなくてもわかることだ。

議員というのも1年に一度は適正かどうかを国民に問うた方がいい。国勢調査や内閣支持率の調査も大切かもしれないけど、あの連中の給料を他に回すことの方がはるかにみんなのためになることだと思う。

暇だとついついこんなことばかり目についてしまう。

ま、取りあえず今は新たな音作りに励んで次を目指さないといけないかな。

普通の国民はそうしてみんな毎年毎年一生懸命、あるいはそこそこ一生懸命生きています。

10月となり、秋の夜長に愚痴をこぼしてみました。

宗教と音楽

これはなかなか触れることのできない壮大なテーマだと思うが、時間が沢山あるのでついつい考えてしまう事柄のひとつだ。

僕は特定の宗教観を持っていない。だが、どれも否定しない。

それぞれが違う方法で結局同じところを目指しているような…大阪に行くのに新幹線で行くか、飛行機で行くか、バスか車か、というような…ちょっと違う?

先ず、宗教と言うものを意識したのは母親が亡くなった時だっただろう。10歳の時だ。

母親はクリスチャンとして生きたくて、実際にどこまで関わっていたのかは良く知らなかったが、仏教のこの上ない暗さが嫌いだ、と言っていた。

それ、なんとなくわかる。お寺と教会を比較してもそれは感じる。

家には普通に仏壇があったが、母は教会に普通に出入りしていて、クリスマスになると聖歌隊なるものが来ていた。

しかし、家は浄土真宗。なのでお葬式にはお坊さんが来ていた。それを観ていた僕は、何だかなぁ、と感じていた。

そんなこともあり、宗教って結局、死んだとき何で送られるかだけ決めておいたらいいんじゃないか、と子供心に思ったものだ。

そんな母親の勧めもあって僕はカトリック系の幼稚園に行っていた。勿論、自分でここに行きたい、と言った覚えはない。

父親は何を思っていただろうか。

でも彼は南方諸島で激戦地をくぐり抜けてきた人なので、誰でも死ぬときにゃ死ぬし、それでおしまい、と考えながら毎日塹壕の中で暮らしていたらしい。

そんな父親は消灯ラッパと起床ラッパの区別がつかないくらいの音痴で、ピアノを嗜んでいた母にとってはその部分はかなりの苦痛だったのかもしれない。

僕は4歳にもなるとピアノを習いはじめた。それが僕の音楽への入り口だった。

そうしてフォークソングと出会い、今に至っている。

ブルーグラスに目覚め、オールドタイムを演奏し、アメリカ南部を旅すると、それらの音楽と宗教と言うものは特に考えることもなく同じ場所に、同じ時間に存在するもので、なにも特別なことではなく、日々のお祈りと音楽は同次元のものだという事が良く分かる。

僕も母の影響か、旧約も新約もどこに何が書いてあるのか覚えるくらいに読んだ。因みにもう忘れたが…。

でも、未知との遭遇は大好きな映画で、正に新約の使徒行伝の中のストーリーそのままだ、という事は今も信じている。

それでも「初めに神は天と地とを創造された」と言われると、その神ってどういう格好をした人?なんていう質問をしたくなるが、そんなことを訊いてはいけないようだ。ま、云いかえれば無意味な質問のようだ。

スティービー・ワンダーは「神の成されることに対して、何故?と思ってはいけない」と言ったそうだ。

とに角信じることから始めていかないといけないらしいが、疑い深い普通の人間はそういうわけにはいかない。

眼に見えるものだけが全てではない、と言われてしまいそう。

アメリカのレストランで、ある時、勝手に中に入ってきて花を売り歩くやつがいるので「君、誰かの許可は得ているのか?」と訊くと「ここは神のプロパティだ」と言うではないか。

店のドアは中からでもロックできるので僕はすかさずロックしてしまった。すると彼は一生懸命ドアを開けようとしている。開く訳が無い。

僕は「今、君に必要なのは神ではなくカギだろ?」 と質問した。

(お、日本語だと上手いダジャレになるなぁ。でもこれは英語でのやり取り)

「君たちにとってはどこも神のプロパティかもしれないが、ここはここのオーナーが毎月5000ドルの家賃を払っている。次に来るときはその家賃を持って来たら中のお客さんに花を売っていい」というと何も返事をしない。

更に「神の事ばかり考えていないで、隣の人がなにを思うのかをもっと考えるべきだ」とたたみかけてカギを開けて外へ追い出した。

彼は、何言ってるんだろう、という顔をしてそのまま黙って出ていった。

日曜の朝、黒人街に行くと、いかにもミサの帰りのガキたちが、チェーンを振り回しながら集団で道の真ん中で車の往来の邪魔をしている。何を祈ってきたんだろう。

世界ではいろんなところで宗教色というものを感じることがある。

ドバイの砂漠に夕陽が落ちていくのを眺めていた時にも、ここには何らかの存在が必要なんだろうな、と改めて感じてしまった。

アイルランド人はなかなかに面白い。

教会でのコンサートに遅れてきたシンガーが、しきりに交通機関の遅れにFのつく言葉を連発しながら悪態をついていた。その上に、くわえたばこをその場で踏みつぶしていた。

そこは、司祭が説教をする壇上だ。因みに彼もカトリック。

ま、僕の付き合いはそのほとんどがミュージシャンなので一概には言えないが。

ブレンダン・ベグリーの、自然界と音楽と神の三位一体はなかなかに感動ものだった。

泳ぎから帰ってきてびしょびしょの体のままアコーディオンを抱え「さぁ、山の神様のために演奏するぞ。じゅんじ、ギターを持ってこい」と言って弾き始める。

この光景は以前、トニー・マクマホンが「私たちはアイルランドの自然の中に住む妖精たちに向けて音楽を演奏している」と言ったことの裏付けだ。

宗教は良く分からないけど、音楽は通称「神」とも言われる自然の摂理と共に存在する、ということはアメリカ南部でもアイルランドでも同じことのようだ。

ポジティブとネガティブ

今、この時期にこのタイトルを使うと陽性か陰性か、という感染症に関することのように思われるかもしれない。

確かに陽性反応がでたらポジティブだし、陰性ならネガティブです。

でも、日本ではこのふたつの言葉は性格上の、或いは思考形態を表す言葉としての方が一般的かな。

英語でもポジティブな人、ネガティブな人、といった表現はあるようだが、僕はあまり聞いたことがない…かもしれない。

イエス、その通り!等と答える代わりに使ったり、いや、違うな、という時に使ったりは時々聞いたことがある…かもしれないけど。

それに輸入品のリストで制限の掛かっているものをネガティブ・リスト、その他の物をポジティブ・リストとも言うらしい。

英語は本当に難しいし、この辺のことは僕にはよくわからないけど、最近面白いなと思っていることがあります。

感染症の観点からポジティブ、と出たら他人にうつしてしまうのに、思考的なことで言えばその反対のネガティブの方が他人にうつしてしまう可能性があり得る、ということ。

ここはすごく重要な現象として考えなければいけないことだ。

ポジティブなものには影響を受けるかもしれないし、それはともすれば喜ばしいことだ。たまには「うざい」と感じることもある、というのも事実かな?

しかし、ネガティブなものには影響という語句ではなく感染という表現の方が当てはまっているような気がする。

ネガティブを辞書で調べると「否定的または消極的」となっている。

それに対してポジティブは「積極的または肯定的」だ。

僕は自分がどちらかと言えばポジティブな性格だと思うけど、そんなに積極的な方ではない。そして、このポジティブというのも前向きな性格、といえば聞こえはいいけど、楽観的な性格というとちょっとアホみたいな感もあるだろう。

なのに、すごく心配性なのは何だろう。決して神経質ではなく、前にも言ったけどエレベーターのドアの隙間に鍵が落ちないだろうか、とか、待ち合わせに遅れると困るので30分で行けるところでも1時間前には出る、みたいな。

希花さんだったら丁度の時間か5分前に着く電車を調べるはずだ。

ボルトナット式と言う言葉があるけど、よく宇宙飛行士の例えとして使われるようだ。僅か1秒の何分の1の誤差で地球に戻れなかったりすることを考えると、希花さんは戻ってこられても、僕は戻ってこられないかもしれない。

余計な心配で大事をとって30分も前に宇宙を出発して、銀河系の遥か端っこまで行ってしまうかもしれない。

希花さんだったらきちんと調べて計算通りに地球に着くだろう。

結局、なにを言っているのか自分でも分からなくなってきたが、多くの人はある意味、事柄によってネガティブだったりポジティブだったりするのだろう。

なので、自分がちょっと落ち込んだ時は、誰だってそんなことあるよ、と、深く考えすぎずにそう思えたらいいのかな。

心配してもどうにもならないことを心配するなんていうのは労力の無駄だし、心配してどうにかなりそうなことなら、そのどうにかする方法を考えた方が良いのかもしれない。

考え付かなかったら、いつか考え付くだろう、くらいに思って、今心配していること以外のことを考えながら過ごす。

考えてみればそれがいわゆる「前向きな性格」というものかもしれない。

決して積極的に行動を起こせるわけではないけれど、自分が置かれている状況を少しだけでも楽観視できるかどうかも大切な事なんだろう。でも、本当はそこが最も難しいポイントなんだろうなぁ。

文明の利器

初めてステレオというものを家で購入したのはいつだっただろうか?1963年頃とか?

その前にテレビというものは1950年の半ば頃?

その前は…洗濯機や冷蔵庫?

もうさすがにしっかり覚えていないけど、テレビがまだ無かったころ、夕飯の時にはラジオを聴きながら一家団欒の時を過ごした、と云う光景は今でも鮮明に覚えている。

ちょうどサザエさんに出て来るような…。

ところで先日、2層式という洗濯機を久々に見た。まだあったのですね。

さすがにあの畳いわしのようになって出て来る絞り機は付いていなかったけど。

勿論、その2層式と言う言葉自体、希花さんは初めて聞いたと云い、そのものも初めて見たと言っていた。

冷蔵庫には昔は氷屋さんというのが来て、ガチャンと挟んで四角い氷を入れてくれた覚えがある。

時代はすすんで大学時代、確か1年の時初めてカセットを使い出した。

そのカセットだが、希花さんと演奏を始めた頃、カセットテープに曲を録音して渡したら「これ、どこから音が出るんですか?」と訊かれた。

ファックスを初めて使った僕の父が「駄目じゃないか。戻ってきちゃったよ」と激怒していたこともあった。

本当に文明の利器というか、そういうものは凄い。

僕は相変わらずスマホの取り扱い方が良く分からない。そういえば、そろそろ1年になるなぁ。

思えば今、こんな時代になってテレワークとかオンラインなんとか、って言っているけど、これ、もし1960年代や1970年代に起きていたらどうなっていただろう。

それはそれでいろいろ対処したんだろうけど、想像が付かない。

僕は49rs.ゴールドラッシュ最盛期の100年後の生まれだ。そして50年代、60年代、70年代、80年代、90年代。世界が変わると言われた2000年代と生きてきて、そのまま又20年が経った。

どの時代でもそれなりの進化はあったのだろうけど、ここ数年の変わりようは凄い…というか段々ついていけなくなっているんだろうなぁ。

何故?

この世の中では「何故?」と思うことがいっぱい起こる。

その中には本当に原因を究明したくなることや、しなくてはならないことが山ほどある。

でも、何故?という以前にそんなこと考える必要もないんじゃないか、と思う事柄も多い。

しかし、よくテレビなどで「一体、何故こんなことを?」という言葉を聞く。

最近では迷惑ユーチューバ―とか、あおり運転とかいうもの。

これなんかは「何故?」というカテゴリーの中に入る類のものではない、と感じるが…。

ただ単に〇みそが腐敗しているとしか思えない。

また、最近ではこんなことも「何故?」と思っていいのやら、なんだかよく分からない。

名実ともに有名な大学を出た政治家が、裁判を引き延ばして、その間給料も支払われて、あわよくば時間が経って風化することを狙っているとしか思えないような、一般人が考えても良く分かる非常に分かり易い手を使っている。

その間も命がけで働いている人は沢山いるのに。

テレビなどではあまり取り上げないのは圧力を懸念しての事だろうか。

僕等にとっては何故、給料は支払い続けられるのだろう、という疑問しかないが、これこそは原因を…と言ってもそれも分かっていることなんじゃないかな。

そこを改善しないのは政治家による「明日は我が身かもしれないので、黙っていた方が得」という考え方によるものだろう。

なのでこれも別な意味で彼らは〇みそが腐敗しているとしか思えない。

迷惑ユーチューバーやあおり運転とは違って、そこそこいい〇みそを持っているはずなんだけどなぁ。

ドクターハンニバルにでも調べてもらいたいなぁ。

何故?と思う事柄、大体見当は付くような事柄、見当は付くのに改善されない事柄、いろいろある。

環境問題などは、その、分かっているのに改善されない最たるもののひとつかもしれない。

ここでもいろんな利権がからまっているんだろうなぁ。

ムヒカ氏のようにはなれないけど、僕らにできることとしては、いつも質素に生きていきたいと思い、それを実行すること…かな。

そして常にこう問いかけていたいものだ。

何故?

マスク拒否??????

未だにマスクを拒否している人がいるらしい。しかも、結構、世の中に名前の出ている有名人のなかにも。

正論を展開しているつもりなんだろうが、問題を起こして話題にしているだけの迷惑男とほぼ変わりは無いように思う。

いまや、症状の無い人がどれだけ街に繰り出しているか分からない状況だ。その中で彼がまき散らしているかもしれないし、それは僕にも同じことが言える。

医療機関はたまったもんじゃない。

そんなことって考えられないのだろうか?

もしそうだとしたらどれだけ他人のことを考えられない人種なんだろう。

多分、レジなどでもピッタリ後ろにひっついて並ぶタイプの人なんだろうな。

だからやっぱり彼のような人達は、マスク拒否を貫かせたまま、医療機関で下働きさせてみるのがいいだろう。

ひょっとしたら怖がって「病院と街では状況が違う」とか云うんだろうけど、街にも気がついていない感染者がいるかもしれない今の状況が現実だ。

それも確かなことではないからこそ、マスクをした方がいい、という簡単な発想が分からない以上、社会の一員として生きていく資格はないだろう。

そんな奴は義務化になっても嘘の診断書を作らせて、適当な理論を打ち立ててくるだろう。

そんなことをしたら本当にマスクに関する何かの疾患を持っている人が迷惑するだけだ。

僕は幸い、あまり息苦しさは感じないし、皮膚も荒れたりしない。面の皮が厚いんだろうか?

マスクは付けても付けなくてもいい、と云うものではなく、特に今現在の公共の場では付けなくてはいけないものだ、という認識を僕は持っている。

10月もそろそろ終わり

10月のイベントのハロウィーン。日本で大騒ぎしているのをみるとどこかこっけいだ。

サンフランシスコではゲイの地区カストロストリートに仕事終わりに出掛けて行った。

ほとんど渋谷のスクランブル交差点みたいなものだが、もう少し整然としている。

やっぱり普段から何かあったら日本のようには済まないからかな。

人種によっては容赦なく撃たれる場合もあるし、警察だってすぐ銃を抜くし。

そういえば服部君の事件も1992年のハロウィーンに近い日だったかな。

ミー・アンド・ボビー・マギーが旅を始めた街、バトン・ルージュでの出来事だった。

多くの家では子供たちが来ることを嫌って灯りを消していることが多かった。特に都会ではそうだった。

多分小さな町ではETの映画にでてくるような感じはいまだにあるのかもしれないけど。

大きく変わったのが2001年の9・11の後だった。

もう誰も表に出なかった。

サンフランシスコ市内もいつもはそこそこ盛り上がっていたけど、やっぱりゴーストタウン化していた。

もともと静かに過ごす宗教行事なんだからそれでいいんじゃないかな、とも思ったりしたものだ。

一体日本ではいつ頃からバカげた大騒ぎが始まったんだろう。

今年は基本に戻って考え直す絶好の機会になればいいけど。

高橋竹山

ある方から、竹山さんについてなにかコラムで書いてください、という要望がありましたが、自分でさがしてみるとコラムの中には数回にわたって竹山さんのお名前が出てきていて、その中でも「ザ・ナターシャー・セブンとその時代背景4」という項目で彼の家を訪れた時のことを既に書いている。

僕は結構ものを書く、というのが好きなので、かなりの量の事柄を今までにも書いてきているし、その中から探し出すのは大変なんだろう。それに一般的な人々にとっては興味の無い事柄も書いているだろうし、なかなか難しいものである。

そこで、丁度いい機会だしここで少し補足をしてみよう。

竹山さんのお宅にお邪魔したのは74年か75年、と以前のコラムで書いたがどうやら75年だったらしい。

青森の小湊という小さな街(村?)だったが、ほとんど人がいなく寂しい景色が広がっていた。覚えていないが僕らは青森から向かったのかな?

107ソングブックを担いでの旅の途中だったのは覚えている。

無事、竹山さんの家に着いた僕等だったが、エビやカニが大の苦手だった省ちゃんは、出て来るもののほとんどに手が伸びなかった。

もっとも、僕も驚いた「ガサエビ」という、しゃこのようなエビのようなものが山盛りに蒸されて出てきたときには正直目を疑った。

味はなかなか美味しいがどうも見た目は…。そして「ほや」これは僕もダメだった。因みに今だに食べたことが無い。

竹山さんは「ほやが食えねば三味線はうまくなんねぇ」と云うので「僕、三味線は上手くならなくてもいいです」と言った。

竹山先生は何がダメですか?と訊いたら「わしゃぁかまぼこがダメだ。昔、門付で漁村を歩いている時におばあさんたちが魚を足で踏みつけて潰してかまぼこを作っている、という話を聞いたんだ。それ以後かまぼこなんか持ってきて弟子にしてくれ、なんていう奴は全部断っていた」なんて言っていた。

僕は「かまぼこが食べられなければバンジョーはうまくなんねぇ」と…言わなかったかな?

楽しく過ごした食事の後に竹山さんは、カセットを用意してフォギーマウンテンBDなんかを録音したりしていた。

僕は僕で津軽じょんがら節を録音させていただき、セッションへと進展していった。

因みに、バンジョーをgCGCCにチューニングしてみたのもその時が始まりだ。

奥さんや、当時、弟子として家事も手伝っていた竹与さん(現2代目高橋竹山)がお茶やお菓子を出してくれて、夜遅くまで音楽談義に花が咲いた。

といえども、僕と省ちゃんは彼が何を言っているのかほとんど分からなかった。

そんな一晩だったが(確か次の日には北海道に向かったと思う)それから竹山さんとの付き合いが始まったのだ。

86年にはアメリカ公演のひとつとして、サンフランシスコにもやってきた。

歩いて5分ほどの会場だったので僕も出かけていった。

じょんがらで盛り上がると大きな拍手が起きる。すかさず「サンキュー ベリマッチ」と津軽訛りの英語で更に盛り上がる。

今、改めて彼の演奏を聴くと胸に熱いものがこみ上げてくる。

僕等が訪れた時も快く受け止めてくれたのは、僕らがナターシャーで培ってきた、古きを知り、新しいものを作っていく姿勢を僕らに感じてくれたからだろう。

アイリッシュを演奏していても最も大事なところだ。先人の演奏にとことん耳を澄ませることの大切さは、正に竹山さんの津軽三味線を聴いていた時にすでに感じていたことだったはずだが、あの頃はそんなに気がつかなかったのかもしれない。

だからこそ、今更ながらもう一度耳を澄ませてみると涙がでてくるくらいの感動を覚えるんだろう。

クロウハンマー・バンジョーワークショップ#9

1月26日以来のワークショップも無事終了しました。と云えども、2週間くらい経ってみないと分からない、という今の世界。

今回は川崎から、群馬から、そして京都からのお三方。

やはり皆さん常識ある方で最初から最後まで、マスクを付けたままの教室でした。

川瀬さんも入り口のドアは開けておいたままにして、時々通り沿いの窓を開けてくれるなどの換気に精を出していただきました。感謝です。

今回はMississippi Sawyerを題材にしました。

AパートもBパートも終わりの部分がかなり難しいフレーズなので皆さんクロウ(苦労)していたようです。

もっと簡単なメロディーの作り方もあるのですが、最初に難しいものにチャレンジしておいた方が後々楽です。

フランキー・ギャビンは「後の航海が楽になる」と言っていましたが、なかなかそんなかっこいい云い方はできません。

このように少し難しく作っておいたフレーズはやはりみんなと一緒に弾いた方が上達が早いと思います。一人ではなかなか続かないし。

そんな意味でも集まって弾く、ということの大切さが分かりますが、次はいつになるかまだなんとも言えない状況です。

もうひとつ。Green Fields of Americaこちらはかなり高度なメロディラインを作ってあるので今回は演奏を撮影していただいて、次回までの宿題とさせていただきました。

やはり皆さん飢えている感はあるので、早く世の中が今までのように戻って、また気兼ねなく集まれるようになることを願うばかりです。

お辞儀

普段から気になっている事柄のひとつに、日本人のお辞儀という文化がある。

何が気になっているかと云うと、昔、といっても30年ほど前、友人に頼まれてデパートの特設会場になにかを買いに行くことになった時の話。

開店前から並ばなくてはいけなくて、開店と同時に中に入ると店員さんが全員深々と頭を下げてお辞儀をしているではないか。

それを見て見ぬふりをして通り過ぎることは出来ない。「あ、どうも…」と云いながら、早く行かないと物が無くなる、と友人に言われていたので、勢いよくエスカレーターを駆け上がるとそこには2階の店員さんが全員そろって頭を下げているではないか。

僕はまたゆっくり歩いて「あ、どうも…」と云いながら平静を装った。

彼等にひととおり挨拶をしてまたエスカレーターを駆け上がると、今度は3階で同じ光景が繰り広げられる。

会場は8階だ。

結局僕は全ての階で平静を装って頭を下げ、何食わぬ顔をしてエスカレーターを駆け上がる、という変なおじさんを演じていた。

開店前から一緒にたむろしていたばあさんたちと、同じエレベーターに乗るべきだっただろうか。

とに角、今でも開店直後のデパートなどでは店員さんは皆、お辞儀をしている。あれって1分位?

駅直結のデパートなんかだと通り抜ける人もいるだろうし、せっかくお辞儀をしている人を無視して通るのもなぁ…と思ってしまう。

新幹線もそうだ。売り子さんや車掌さんも車両に入る時、そして出る時には必ずお辞儀をしている。

あれを見ると申し訳なくて、こちらも座ったまま頭を下げてしまう。

出来そこないの人間ばかりの政治家のようにふんぞり返っていることは到底できない。

それに街の眼鏡屋さん。

買い物を済ませ、店を出ていくお客さんが見えなくなるまで深々とお辞儀をしている。その前を沢山の人が通り過ぎていく。

あれって必要なんだろうか?

ずっと前に中国人のおばちゃんに言われた「日本人はみっともない。しょっちゅうペコペコして頭を下げている」

だが、最近、フランスに住む日本人の友人が言っていた。

「フランスじゃ日本人がお辞儀をするのと同じ感覚で誰もかれもがキスしている。あれじゃぁ感染は避けられないわ!」

なるほど。お辞儀も捨てたもんじゃない。

Irish Musicその170

Maurice Lennon’s Tribute to Larry Reynols  (Reel)

モーリス・レノン作の、速く演奏しても少しスピードを落としてもいいメロディラインを持った曲だ。何からでもいける可能性はあるが、なんにせよセットの最後が良さそうだ。

この手の曲はどうしても知らなければいけないものでもないので、少し手掛けてすぐにあまりやらなくなるので忘れる可能性が高い。

1000曲もの曲をやっているとそれは仕方のないことだろう。

ところでLarry Reynoldsは、ゴールウエイ育ち、ボストンベースのフィドラーで、80歳で亡くなったとても高名な人物だ。

何が正しいのか分からなくなってきた

アメリカではいまだにマスクの必要性を感じていない人がいっぱいいるようだ。

州によっても違うのかもしれないけど、マスクを付けていない人は多く見かけるらしい。

日本ではほぼ99%は付けているだろう。取りあえず、という人もいるし、めっちゃ気にしている人もいるし。

それにアメリカ人、俗にいう西洋人は声がでかい。

パブでもガンガンに鳴っているジュークボックスの前でビールを飲みながら普通に話していたりする。

その声はまるでジュークボックスと勝負しているような勢いだ。

でも、声の大きさについては中国人も負けていない。

一人のおばちゃんがバスの中で携帯電話を使い出すと、横を救急車が通り過ぎても、まだおばちゃんの方が音の大きさでは勝っている。そう、もはや声ではなく音なのだ。

中国語を称して爆発音、という人がいる。特に広東語。

中国人はある意味大陸的だ。そりゃ大陸だから仕方ないが。

日本人は発音に気を付けたり、先ず頭の中で文章を組み立てて、おまけに文法まで気にしてそれから喋るが、そこは中国4000年のパワーで(?)取りあえず喋る。

この辺はアメリカ人の勢いと変わらない。ミー・ファースト!だ。

清潔さに於いては日本人の右に出る民族はいないかもしれない。奥ゆかしさも、かな。

良いとも悪いとも言えないが、少なくとも今の状況ではこれに越したことは無い。

状況は一向に良くならないが、どこまで悪くなるかも今のところわからない。

日本人に関しては、家では靴を脱ぐ、政府がおどおどしてこうしてください、といえばそこそこいう事を聞く、言語が比較的おとなしい、ハグやキスが文化として存在しない…他にもあるかな?糖や脂肪といった食事もあるのかな?蒙古班も?体毛も関係するなんて言う人も居たなぁ。

今のところ何もわからないままにここまで来てしまったし、相当な憶測やデマが語られていることだろう。

それでも正しいこととしては、マスクを付ける、手をしょっちゅう洗う、換気をして部屋を乾燥させない、口中を清潔に保つ、早く帰って良く寝る、食事の時はあまりべらべら喋らない…えーっと、他にもあったかな。ま、それでも運が左右しそうだ。

庶民は働かなくては生きていけないので、働きに出る。

「5つの小」とか「三密」とかの言葉遊びに惑わされている暇はこちらにはない。そんなキャッチ―な言葉を考える暇があったら何かもうちょっとましなことをしてもらえないだろうか。

もし、医療関係者がストライキを起こしたらどうなるだろう。

彼等、真面目な人が多いだろうからそんなことしないだろうなぁ。

ならば尚更、大した仕事もしていない議員の給料やボーナスを医療関係者に回すべきだ。

Cat nap ~うたたね

このたび発売になりましたCat napは、アイルランドで暮らす猫たちの日常を撮影したものをメインに、少しだけアイルランドの大自然の風景を加えてフォトブックとして編集したものを、音楽のお供に楽しんでいただくという、今までとは違うコンセプトで作られたものです。

当初は音楽も猫に関するもの、あるいは動物に関するものでまとめ上げようと思っていましたが、やっぱり始めてみるといろいろと考えが変わってきます。

そして今、演奏したいもの、皆さんに聴いてほしいものを選んだらこのようになりました。

10曲と、すこし少なめのラインアップですが、かなり内容の濃い演奏になっていると思います。

その音楽のお供に、僕らが撮影した数々の写真をご覧いただけたら十分に楽しめる作品と感じていただけるでしょう。

また、写真集をお供に音楽を楽しんでいただいても充分に聴きごたえのある一枚となるでしょう。

デュオで活動し始めてから10年になろうとしています。

事実上10作目のこのアルバム。各曲に関しての説明は城田純二のHP上で掲載いたします。

世の中が大きく変わってしまった2020年の作品と云うことで、この先もどれだけライブ活動が出来るか分かりません。

ネットでのご注文が主な方法になってしまうかと思うので、今回は送料をいただかないことに致しました。それでも皆様には振込手数料を負担していただかなければならないので、せめて送料込みで¥3000とさせていただきます。

よろしくお願い致します。

Cat nap ~うたたね~ (CD付きフォトブック/72ページ)

¥3000(送料込み)

お申し込みはこちらから。https://tenstrings.easy-myshop.jp/

因みに今回からCDのオーダーフォームを一新しましたので、過去の作品も合わせてご確認ください。

Cat nap ~うたたね~ 楽曲紹介

1 Keeping The Cats Happy 

キーピング・ザ・キャッツ・ハッピー

作者のマーク・サイモスはこの世界に入った頃から注目していたギタリストの一人だった。

彼はピア二ストとしてもフィドラーとしても、それに編曲家やプロデューサーとしても活躍するアメリカ東海岸の人。

どういういきさつで出来た曲かは分からないが、非常に難解なリズムを持った軽快な曲だ。

突然の入りに驚く人もいるかもしれない。驚く猫もいるだろう。

( Mareka : Fiddle  Junji : Guitar)

2 Darling’s    

ダーリンズ・ワルツ

ジョニー・カニンガム作のこの曲は、ずっと前に彼とのコンサートで演奏した覚えがあったが、絶対に希花さんが好きな曲という確信があったので、記憶を基に探しに探していたもの。ピーター&ウエンディという人形劇に出てきた曲だ。可愛らしいメロディ、特にBパートの印象が強かったのでそれを頼りにし、見つけ、録音にこぎつけた。

ハープでの演奏にもよく合う、リラックス効果抜群の曲。

( Mareka : Irish Harp & Fiddle  Junji : Guitar)

3 Mrs.Judge   

ミセズ・ジャッジ

オキャロランの曲。実際にはこの後セコンド・セッティングとしてジグが続くのだが、それはほとんどO’Carolan’s Welcomeに酷似しているせいか、省く人も多い。僕もその方がすっきりしていて好きなのでこのような録音にしてみた。ハイストリングギターのイントロをフェイド・インさせてみた。

                                       (Mareka : Fiddle  Junj : Guitar & Mandolin)

4  Presbyterian Guitar 

プレスビテリアン・ギター

70年代から良く弾いていたジョン・ハートフォードの曲を久しぶりに。

ステージ上で演奏した記憶はないが、誰でもが好きになりそうな美しい子守歌のようなメロディだ。

プレスビテリアンと云うのは「長老派教会」と云う意味。カントリーミュージックの世界では、ゴスペルトラディションの名曲だと云われている。

(Junji : Guitar)

5  The Galway / Beare Island / The Malbay Shuffle

ザ・ゴールウエイ、ベアー・アイランド、マルベイ・シャッフル

1曲目は一般的にラリー・レディカンの作と言われているが定かではない。ちょっと変わったカウントの曲だ。2曲目はケビン・バークの演奏で覚えた。彼は自身のアルバムにデイル・ラスから習ったと書いてあったので僕は長年デイルの曲だと思っていたが、デイル曰くリチャード・ドワイヤーの曲、という事だ。3曲目はキャリコ(グループ名。因みにcalico catと云うと三毛猫のこと)の録音から覚えた、僕らがとても好きな曲のひとつ。シンプルだがとてもいいメロディだと思う。

( Mareka : Fiddle  Junji : Guitar)

6  Up Sligo / The Cat That Ate the Candle  

アップ・スライゴー、ザ・キャット・ザット・エイト・ザ・キャンドル

1曲目は80年代前半にストックトンズ・ウイングの演奏から覚えたもので、別名Creel

Of Turfとも言われるようだ。2曲目は同じタイトルのジグが比較的良く知られているが、このリールはフランキー・ケネディの演奏が有名だ。なので、彼のペンになる曲のような気がしていたが、彼自身のライナーによるとラリー・マクドナーというスライゴーのフルート奏者から学んだ、と言っている。しかし、作者が彼なのか、他に居るのかははっきり分からないようだ。

( Mareka : Mandolin & Fiddle  Junji : Guitar & Octave Mandolin )

7  All Young / Kitchen Girl 

オール・ヤング、キッチン・ガール

2曲のオールドタイムチューン。この手の曲を延々と10分も15分も演奏して乗りに乗ってくる世界はアイリッシュと共通するものがある。

1曲目の、このメジャーかマイナーかはっきり分からない独特なモーダルサウンドと云うのはこの手の音楽の魅力のひとつだ。

(Mareka : Fiddle  Junji : Guitar & 5st.Banjo)

8  Cumberland Gap  

カンバーランド・ギャップ

ブルーグラスチューンとしてよく演奏してきた曲だが、最近、ジェイソン・ロメロの演奏を聴いて、こんなメロディラインもあるのか、と思ってからはこちらが気に入っている。

恐らく、ブルーグラスプレイヤーはこれがカンバーランド・ギャップとは気がつかないかもしれない。

バンジョーはカンバーランド・ギャップ・チューニングと呼ばれる調弦。

マウンテンマイナーで5弦だけFに合わせるというものを使用している。

(Junji : 5st.Banjo & Guitar)

9  The Sunny Hills of Beara / The Fox in the Thatch 

ザ・サニー・ヒルズ・オブ・ベラ、ザ・フォックス・イン・ザ・サッチ

ジョン・ドワイヤーの2曲。ほとんどの場合この2曲はセットで演奏される。僕らはトニー・オコンネルのプレイから習った。

彼のアルバムではフィドルをBrid Harperが弾いているが、ここでは希花さんが一人二役を演じている。

Bearaをここではベラと日本語表記にしたが、実際にはバとベの中間のような感じ。

トニー・オコンネルが彼の愛犬と共に朝、僕らを連れて行ってくれた、ケリーとコークのボーダーを一望できる丘から360度見渡せるあたりの景色のことだ。

(Mareka : Anglo Concertina & Fiddle  Junji : Guitar)

10 Gentle Light That Wakes Me  

ジェントル・ライト・ザット・ウエイクス・ミー

フィル・カニンガム作の美しい曲。この曲を覚えた途端にこれは次のアルバムの最後に持ってこよう、と思っていた。タイトルとは真逆で、就寝時にも気持ちの落ち着くいい曲だ。

シンプルな録音で一発入魂という雰囲気を味わっていただけると思う。

 (Mareka : Fiddle  Junji : Guitar)

使用楽器

Junji

  Guitars : Lowden LSEⅡ Lowden O-32C  Taylor NS24ce

  5st.Banjo :  Deering Goodtime Americana 12

  Mandolins :  Gibson A-4 1911 P W Crump Octave Mandolin omⅡ

Mareka 

  Fiddle : Made in Italy 1890

  Irish Harp : Stoney End Brittany 22 

  Concertina : J Suttner 30keys Anglo

  Mandolin : Gibson A-4 1911

とうとう12月

あれよあれよと言う間に師走。今年は長かったような、いつものようにあっと云う間だったのか、よくわからない年でした。

今年一番いい思いをしたのは政治家のみなさんでしょう。

暮らしは守られているし、いつものように大したこともせずに適当な事を言っていればいいし、金だけもらってじっとしていればいいし。

今迄は「どうせまた嘘なんだろう」くらいの事だったのが、あまりの能力の無さが浮き彫りになった感がありますね。

嘘をつく能力はあっても、本当のことを伝える能力に欠けているのかな?

そんなことが7年以上も続いた…というか、今でも続いているのかと思うと、情けない。

一年をこんな思いで見送るのは非常に残念なことだ。

いいこともあった。

70歳バースデイコンサートはぎりぎりセーフの会だった。

進ちゃんも力を貸してくれたし、希花さんもいつも通りの演奏をしてくれたし、沢山の人が集まってくれて、その中で金海君も一緒に歌ってくれたし。

今は天国でマンドリン弾いているかな?

夏の恒例のアイルランドツアーには行けなかったけど、オン・ラインで連絡を取ったりしながらお互いの情報交換は出来たし。

普段からあまり飲みにいったりしないし、外食も少ないので、この際、食事は全て手作り。

料理することは全然苦ではないし、元々それでメシを食っていたので、なんとも思わない。

でも、何か月ぶりかに出掛けて、行きつけだった中華を食べた時、思わず「お、やっぱり美味しいな!」と感激した覚えがある。

ところで2021年は丑年。年男ではないか。

昔から「こって牛」とか言って、特に京都辺りでは、なかなかお尻をあげない、とか動きが鈍いとか言っているようですが、僕の知る限りの丑年の人達は全く逆です。

自分のせっかちな性格はなかなか治らないし、常に1時間先の事、明日のことばかり考えるのでどうも人生を損しているような気がするし、食事もゆっくり座って…なんてどうでもいいし、布団にくるまったまましばらく過ごすなど絶対無理だし…。

あー、もう少しゆっくりしよう。…と、毎年言っているような気もする。

先ほど、ようやく政府の方向性が決まった、などとテレビで言っていたので、何事かな?少しは自分たちの無能ぶりを反省しているのかな?と思いきや、高齢者はGoToを自粛するように…だって。どこまでアホなんだろう。

今年の「ゆく年くる年」はいつもより心にしみるだろう、と予想している。

もうこんな年はこりごり。もう嘘つきにはうんざり。柳の下の幽霊みたいな覇気のない総理大臣にもうんざり。危機感の無い政府にもうんざり。

それでも奴ら、来年も美味しい汁を吸うために居座るのかと思うとうんざり。

先日、アイルランドの友人の話を聞きました。

政府は毎日のようにメディアを通じて国民に対して何かしら発信しているらしい。

保障もちゃんと国民のことを考えているので、逆に大丈夫かな、国は破綻するんじゃないかな、と心配しているそうです。

それでも毎日毎日顔を見せる政治家と、日本のようにどこに隠れているのか、さっぱり顔をださないのとどちらがいいのか…。

あ、出てきた。長々と訳の分からない事をむにょむにょ言っているのでチャンネルを変えた。

僕にとってはおでんの仕込みの方が大事だ。

こうして出来得る限り外食しないように、先ずお米のとぎ汁で大根を煮て、コンニャクのあく抜きをして、卵を茹でて…その卵の皮をむいて総理大臣の頭を想い出して当たってみたりして…。

僕はおでんの中では練り製品が好きだ。

静岡はおでんが有名で、「黒はんぺん」はその中でも絶品。あれ、前にも書いたかな?

12月、一年の終わりの月ということで、なにかいいことを書こうかなと思ったが、書き始めるとどうも政治に対する不信感ばかり思いつくので、そんな事読んでもらっても面白くもないだろうな、と反省しきり。

なにか目新しいこと…あ、あった。

先日テレビを観ていたら、吉野家の歴史をやっていて、ナレーションが121年の歴史を持つ、と言ったので思わずのけぞってしまった。

僕が現在所持しているマーティン0-21について言っているのかな、と思った。 どちらも1899年だ

Irish Musicその171

Temple Hill   (Reel)

別名Sweetheart Reel とも呼ばれるその名の通りスイートなメロディの曲だ。

いかにもクレアあたりの曲のような気がするが、本当のところは分からない。

1855年の文献には既に存在しているというから、古い曲であることは確かなようだ。

普通3パートのバージョンで演奏されるがLunasaは2パートだ。でも、僕は3パート目が好きなので、僕らは3パートで演奏している。

Percy GraingerがMolly on the Shoreとしてピアノ曲にしているのが非常に興味深い。

Irish Musicその172

Desaunays   (Hornpipe)

アコーディオン奏者のJohn Whelanによって書かれた可愛らしい曲だ。

彼自身のノートによるとフランスのメロディオン奏者Serge Desauneyの為に書いた、ということだ。

非常に面白いことに途中で1小節だけ2分の3拍子なんていうのが入るが、彼曰く、Desaunayがこんな風に弾いたので、同じように録音した、という話。

1987年にリリースされたアルバムFresh Takesに収録されている。

フィドラーはEileen Iversだった。なお、このアルバムから僕はギタリストのMark Simosに注目するようになった。僕にとってはアイリッシュミュージックの世界に入り始めた頃によく聴いたアルバムのひとつだろう。

今年の漢字

毎年、今年の漢字が発表されるけど、ひょっとして今日かな?

因みに今これを書いている時点ではまだ4時間くらいあるが。

何になるだろう。といえども、全然興味を持ったことはないのだが、ちょっと今年は興味がある。

僕が今年に一番向いているのは「心」だと感じる。

これだけ他人とも友人とも、また状況によっては家族とも離れていなければならない中で唯一、分かち合えるのは「心」かもしれない。

それに、国のトップがずっとつき続けてきた「嘘」というのも少しだけでいいから「心」というものが存在していたらあんなに平然としていられないだろう。

未だに政府の人間からは「心」というものが感じられない。

心の健康は本当に大事だ。

心が健康でなければ身体にまで影響を及ぼす。

あれだけ心が通っていない政治家たちが今でも健康でいられるのは、国民の税金から自分たちにだけがっぽり入ってくる金のおかげかもしれない。

勿論、いろんな支援をしたかも知れないが、当たり前のことだし、彼らのポケットから出たわけでもないし、自分たちは平気でボーナスをもらっておいて、医療従事者には負担ばかり与えている。

そこに「心」といものは存在するのだろうか?

あまりネガティブに考えてはいけないし、せっかくの「心」が台無しになる。

心身ともに、というのが人間にとって一番大切なことなので、この今の状況では、極端に言えば「一人ぼっちにならなければいけないのに、本当は一人ぼっちではない」というところを確実に「心」の中に持ち続けることが必要だろうと思い、僕はこの漢字にした。

続・今年の漢字

知らなかった。あいみょんが、今年の漢字を選ぶとしたら「心」と云っていたらしい。

彼女の場合は「裸の心」がヒットしたので、ということだったらしいが、そうだったのか。

先を越されていたなぁ。

結局「密」になったけど「密は人の心の繋がりをあらわす」ということを言っていたので、あながち「心」も悪くはないかな。

でも、少しだけ流行語大賞っぽくて嫌かな?ひねくれているかなぁ。

鬼滅の刃から「鬼」「滅」なども登場した、というから、やっぱりみんな流行りものが好きなんだなぁ。軽いなぁ、という印象。

なので「密」でもいいか、と云う気にもなってきた。

決してぴったり引っ付く意味の密だけではなく、逢えなくても親密に心を通わせる、という意味ととらえれば…ってやっぱり「心」だ。

12月15日

よく分からないことがある。沢山ある。

テレビを観ていたら、GoToトラベルのことをニュースとして取り上げていた。

ちょうど政府が遅すぎた中止を決めたことがかなりの時間を割いて報じられていた。

その直後、一旦コマーシャルに入った。

エクスペディアのCMで「さぁ、GoToトラベルならお得に予約できる」とアナウンスが流れる。

なんという違和感だろうか。

局の人間、ついさっきまでニュースを読み上げていたアナウンサー、何ともないのだろうか。

僕だったら穴があったら入りたい。

そして、あまり言われないのが政治家のボーナスのこと。

それなりに働いている人も中にはいるかもしれないが、ほとんどの政治家は身を隠して美味しいものを食べながら他人事として、人々の苦労を眺めているだけのように感じる。

聞いた話によると、元法務大臣の夫婦にもボーナスが出ているとか。本当?

これは?だ。

でもあんまり言われないのは、僕が間違っているからなのかな。もし、そうならごめんなさい。

12月15日、今日は坂庭君の命日だ。あれから17年。

今、この時代に彼がまだ生きていたらなんと言っただろうか。

あんな面白いことがあった、こんな面白いこともあった、って18歳の時から本当にいっぱいあった。

彼の口癖は…勿論40過ぎてからだが「自分たちの演奏はできる限りビデオに撮っておくんや。そうして、それをあてにして酒を呑むんや。80歳くらいかな?そして、最後には人生楽しかった。ばんじゃ~いって言って死ぬんや」

ここまで書いていたらありさんから電話があった「省ちゃんの命日やなぁ。さっきから想い出していたんや」って。

元気そうな声が聞けて良かった。

こんな大事な日によく分からないことを書いている自分がよく分からなくなってきた。

政治家には「ありがとう」という言葉は出ないが、省ちゃん、そして今お話したありさん、

そして医療関係者、頑張ってお店を開けてくれている人達、レジの人達、皆に心から「ありがとう」と云いたい12月15日だ。 

またか!

こんなところに喜んで書くほどのことでもないかもしれないが、あまり面白いのでついついなんか云いたくなってしまった。

面倒くさい方はスルーしてください。単なる年寄りのボヤキとして。

常日頃、会食っておかしいだろう、と思っていたし、すでに政治家の会食と云うものについては6月におかしいだろ!と書いたことがあった。

そして今回だ。

もうみんな知っていることだが、総理大臣なる人物がこの時期に8人で会食した、というニュース。

この際、同行していた芸能人や元スポーツ選手は放っておいて、正直「アホか!」しか浮かばない。多分小池さんの反応もそれに近かったのかも。

今回のこの無能な行為は、

  1. 一生懸命働いて我慢している国民を屁とも思っていない。
  2. 身を粉にして命がけで働いている医療関係者の気持ちを踏みにじっている。
  3. この感染症で亡くなった人たちを冒涜している。

あ~、もう十分だ。

あんな連中に文句を言っている自分も嫌になってくるのでこの辺でやめておくが、少なくとも口先だけではなく「国民の命と財産を守る」と原稿を棒読みするのではなく、自身の言葉として言って欲しいものだ。

あの人には無理か…。

Irish Musicその173

Beautiful Lake Ainslie  (Air)

とても美しいカナディアンチューンだ。

元々、ティム・エディの何とも言えない美しいギタープレイで覚えたものだがCape Breton Fiddler のElmer Briand(1922-1992)が書いた曲で、

Jerry HollandやAshley MacIsaacなどでも知られているようだ。

Cape Breton島にある美しい湖の名前、ということ。

2020年の終わりに

大変な年だった。というか、まだまだ続くだろうが。

今年はとに角いろんなことが目に付いたし、聞こえてきたし、いろいろ考えさせられることも、考える時間もあった。

やっぱり一番目に付いたのは政治家の私利私欲と、いかに国民の感覚からずれているか、というところだろう。

全く隠れて姿を見せない議員、政治家たち。たまに姿を現したかと思うと、用意された原稿を棒読みするような態度でサッと逃げていく。

言っていることには全く心というものが欠如しているし、ほぼ同じことばかり。

高いものを食わなきゃ他人の話を聞くこともできない総理大臣。

政治家の胸の内というものはコロナウイルスと同等にたちが悪い。

それに引き換え、どれだけ庶民が頑張って来たことだろうか。もちろんそうでない輩も沢山いただろうが。

手洗いの効果も見直したかも。

ここ数年、毎年1月には風邪をひいていたが、今年は2月8日に大事なコンサートを控えていたためにかなり気を付けていた。

そこにコロナウイルスというものが取りざたされて、とに角手洗いに没頭した。それと、体温測定もだ。意外と自分の体温が低いことも認識した。34.5℃なんていうのが時々出る。

それはともかく、インフルエンザが全く流行っていないというニュースで「今までどんだけみんな手をあらっていなかったんだ」と言った希花さんは流石かもしれない。

トイレットペーパー事件もあったなぁ。普段からよく買っていたので慌てもしなかったが、

オイルショックの経験が無い希花さんが「なんでそうしょっちゅう買うの?」というのを無視していつも予備を置いていたので、僕はどや顔になった。

食料品も、冷凍できるものは小分けにして、生鮮食品は近くのスーパーに30分以内ほどの外出をし、全く外食をしない日が4~5ヶ月くらい続いたかも。

今でも出来得る限り自分で作ることにしている。高級ステーキなんてもってのほかだ。

そんな中で音楽会は全くない日が続いたので録音をしてみた。

いろいろ進めていって、ふと考えたのが、今回のフォトブック形式だった。

少しは皆さんの癒しの手助けになるかな、という思いを込めて、いままでアイルランドで撮りだめてきた写真をメインにして10曲ほどのセレクションでCDにしてみた。

音楽的にはオールドタイム風の演奏を3曲ほど含み、僕としては今までの中でもかなり満足のいくものに仕上がったと思っている。

因みに録音とミックスを希花さん、マスターをタムちゃんにお願いし、僕は全体を通して大枠のアレンジを担当。

写真集に関しては二人で撮った写真を見なおしてレイアウトやコメントは基本1系統で希花さんが担当。

僕等も一緒にやり始めて10年になるが、これはいい10年目の記念アルバムになったと思う。

最初の頃はアイリッシュミュージックというものを前面(全面)に出していたが、最近になって、もうアイリッシュミュージックという観念から少し外れてもいいのではないかな、と思ってきた。ここ3~4年くらいはそう思っている。

と云うのも、僕等のサウンド、グルーブというものが確立してきていると感じるし、その上、

もう希花さんはアイリッシュフィドラーとして充分アイルランドでも通用する存在になってきたし、僕の考えていたことは当たっていたと思うが、この日本と云う国に居る以上希花さんのアイリッシュフィドラーとしての評価は低いままだと感じる。それは余りにもこの国の音楽に関する意識のレベルの低さ、というものに由来する事でもあると思うが、それは50年前と少しも変わっていない、と感じる。

いや、もしかするとその頃はまだ良かったのかもしれない。30年くらい前から思考がストップしている、と考えたほうが妥当かな?

カーターファミリーミュージックやブルーグラスに親しんできた僕が1984年にカーターファミリーとの生活を経験したように、この音楽が生まれ、そして引き継がれていく背景を肌で感じるように、と思っていたのだ。

だが、そういう事はあまり日本では評価の対象にはならないようだ。

また、希花さんはそろそろ医者の世界に戻ったほうがいいとも思うし、でも、その前にフィドルアルバムを作るべきだと思うし…その前にもう一つくらい、実は今回のアルバムには起用しなかったが既に録音済みのものも数曲あるし…などなどいろいろ考えている。

あとどれくらい続けていくか考えなければいけないが、これもコロナと云うものが世界を大きく変えてしまったから、という事も関係しているだろう。

僕は元々、中国政府が隠ぺいしたこと~テドロスがいい加減だったこと~日本政府の危機感の無さ…等が事の発端だったと考えている。

あんなに大変な最中でも嘘をつき続けてきた総理大臣を抱え、更にそれをそのまま引き継いでいる総理大臣を抱えている国民は不幸だ。

だが、僕らは明日を見据えながら、その日その日を出来得る限り明るく過ごしていくしかない。会食などしている暇も余裕も気持ちもない。

2020年は国民にとって、もちろん全世界的にだが、不幸な年だったといえるだろう。

幸せだったのは大した仕事もせずに、なかには全く仕事もせずにボーナスも給料もたんまり貰った政治家だけだったろう。

それを考えると真から使命感を持って人を助けようとしている人達があまりにも気の毒になってくる。

そんな時に医者に戻らせようとするのも酷な話だが、やっぱりその辺は当人自体がなんとも思っていないようだ。

もしかしたら、周りで使命感とか命がけとか云うが、彼等自体はそんなもんではなく目の前の命を助ける、ということにしか気持ちは向いていないのかもしれない。

政治家が目の前の金と権力にしか目が向いていないように。どちらが人として正しい?

彼等は何としてでもオリンピックがやりたくて、全てそこにしか目は向いていないのだろう。そうして、めでたく開催できたら、国民や選手の努力を無視して政府がオリンピックを成功させた、と…まさか言いはしないだろうけど、考えるだろう。

多分口先だけでは「皆さんのご協力のおかげで…」とか云うんだろうけど。

こうして2020年を振り返ってみるとどうしてもネガティブな発言ばかりになってしまうが、先にも言ったように自分を強く持って、健康に気を付けて普通に生きてゆきたい。 

良い2021年にしたいものだ。

ところで、正月は残念だが「餅禁止令」を出した方がいいのではないだろうか。

毎年、餅を詰まらせて病院に担ぎ込まれる人の多さには、今年のこの状況ではちょっと対応できないだろう。

この際「のびない餅」開発に乗り出す、とか。

味気ないなぁ。お餅屋さん、ごめんなさい、無責任なこと言って。

もう面白すぎて…!

またまたやってくれました。五輪担当大臣。

国民が苦しんでいる最中に美味しい寿司と酒で税金を使って遊んでいたんですね。

その後がまた面白すぎます。

全く他人事。感染対策をしていたからいいだろう、という理論。国民はみんなしとるわい!

この時期に政治資金集めのパーティをする奴もいた。

そういえば先日のコンパニオンも面白かったけど。

希花さんが「コンパニオンって何?」と言っていましたが確かにほぼ「死語」であると云えるかもしれないなぁ。

もう面白すぎて、なんでこんな言い訳しかできない連中が政治なんかに関わっているのか不思議でなりません。

この状況でこの有様って、普段どんな生き方をしているんだろう。

要請に応じない店には強い罰則を、って、自分たちにはそれは無いのか?

これは是非、脳みそを提供していただいて、どこの回路が切れているのか、どこが腐っているのか、これからの医療の為になんとか役立っていただきたい。

そして治るもんだったら治していただいて、それから仕事に復帰するなりなんなりしてほしい。本心としてはもういらんけど。

また、そんな中でも、この期に及んでまだ保身に走るのか、と思わせる嘘つきがのうのうとして言い訳をしている。まだ云うか!

もうこの政府は国民に守られている、としか言いようがない。

どこが「国民の命と暮らしを守る」なんだろう。

「国民は政治家の命と暮らしを守るために日夜努力をしています」、という標語が正しいんじゃないかな。

僕、間違っているでしょうか?

因みにこれ、よく希花さんが僕に向かって言う(歌う)のですが、

♪教えて~おじいさん♪だ。

2021年

とうとうやってきました2021年。

2020年ってあったかな?と思うくらいに長かったんだか短かったんだかよく分からない1年が過ぎて、そして、あっという間に一日が過ぎた。

テレビは昔のドラマを延々流しているか、お笑い芸人とかいう連中がバカ騒ぎをしているか、タレントが飯を食っているか、くらいしか放映していない。

政治家の顔なんか一切出ない。

いや、出てきてほしくもない顔だが、こんな時こそきちんと自分の言葉でこれからの展望を話さなければいけないのに…といいながら、出てきてもどうせまた用意された原稿を棒読みするだけだし、決して観やしない。

大晦日に京都の友人が「除夜の鐘をつきに行ってきました」と、動画を送ってくれた。

そこで僕はこんな文章を作った。

「庶民は願いを込めて鐘をつき、〇倍は悪意を込めて嘘をつき、麻〇と二〇は何も考えずに悪態をつき、〇は金の力にまかせて会食の席につく。庶民の金はつきた」

それにしてもいい天気だ。

ところで雪はどうなったのだろう。

前回の大雪で学んだこともいっぱいあったし、今回はそれほど大きな問題は起きていないのだろうか。

とに角東京はいい天気だ。日向に出るとすごく暖かい。

どうか一生懸命生きている方達にとって幸せな良い年になりますように。

またどこかで会いましょう。

それまで、健康で明るく楽しく生きましょう。

10年目

今のデュオを始めてちょうど10年。

最初の演奏が阿佐ヶ谷のバルトで2011年の1月8日。

昼と夜の2回に分けてやらせていただきました。

そして、更に遡ること1971年。どうやら2月7日にザ・ナターシャーセブンの第一回目の顔見世があったようです。

確かまだ「高石ともやとその仲間たち」という触れ込みで。

そんな風に歴史を辿ってみると、もう少しきちんと整理して記録を残しておくべきだったと思うが、なかなかそういうことも出来ないでいる。

2011年最初のものはセットリストもきっちり残してある。

それから2016年くらいまではほとんどのギグのセットリストも残してある。

その頃からちょくちょく何も決めないでやったりすることもあった。

入り口と出口だけ決めておけばあとは何とかなる、という感じで。

実際、レパートリーもずいぶん増えてきたが、やはり聴いていて面白い曲と演っていて面白い曲とは違うので、そのへんを吟味していくのもプロとしては当然のことかも知れない。

2011年からは夏になると必ずアイルランドへ出かけていって、本場のシーンにぐいぐい入っていった。

僕の方は99年くらいからクレアーをはじめ、あちらこちらで演奏してきたので、ここはひとつ、紹介を兼ねて旧友たちのところを二人で渡り歩いた。

考えてみれば怒涛の如く過ぎ去った10年だったかもしれない。

そして9年目はこのような状況になり、世界がガラッと変わってしまった。

中国はここぞとばかり自国産のワクチンを売り始めているが、こちらにしてみれば、元々あんたたちがばらまいたんだろうが…。と云いたくなる。

今日、日本でも緊急事態宣言について総理大臣が言及していたけれども、相も変わらず用意された原稿を棒読みするだけで、なにも心がない、けっして自分の口から言葉を発しない、いつもと全く変わらない危機感のないものになっていた。

今年もこんなことを考えなければならないのか、と思うとつくづく嫌になってくる。

でも、僕らは10年の節目を迎えた。取りあえず今まで通り、強く生きていかなければならない。

みなさんにとっても、これから先、今まで苦労して積み上げてきたものを無駄にするわけにはいかないだろう。

僕等にとっての10年を書いてみるつもりがこんな文章になってしまった。

2度目の緊急事態宣言

国民がコロナ慣れ、自粛疲れに陥っている、とか云う人もおりますが、確かにそうかもしれない。しかし、その前に、国民の中には明日生きていくことができるかどうか分からない人もいる。命がけで他人の命を守ろうと、寝る暇もなく働いている、そんな人が大勢いる中で、高いステーキで会食をして、与えられた原稿を棒読みするような奴に緊急事態と云われてもそりゃぁ無理だろう。

1回目の時は初めての経験だったのでちょっとくらいピリッとした。

例え前代未聞の嘘つきが発令した宣言にしても。

しかし、今度のは生気の無い眠そうな目をして原稿をなぞっているだけ。

何度も言うけど、そりゃぁ無理だ。

正直、これは他の政党でも無理な事態だし、誰にも止めることの出来ない問題かもしれない。

ワクチンと治療薬を待つしかないのかもしれないし、それでも毎年その季節がやって来るのかも知れない。

しかしそう思いながらもはっきり言えることとして、この政党は、誠意の無さ、思いやりの無さ、スピード感の無さにおいては天下一品だ。想像をはるかに超えている。

それが緊急事態宣言の素直な感想。

すみません、一方的に勝手な意見で。

ここまで書いていたら、今ニュースで医師会の方が議員たちに「どうか模範を示していただいてしばらくは会食をやめていただきたい」と言ったことに対して自民党の議員が「なんでそんなこと言われなきゃならないんだ、人と会って話を聞くのも議員の仕事だ」と偉そうに言っていたらしい。

やっぱりこりゃぁ駄目だ。救いようのない低次元の動物たちだ。

昭和の文具店

ふと見つけた、何だか分からない…店だか、住居だか分からない佇まい。

恐々外から覗いてみると、奥の四畳半くらいの部屋で、昭和風情の親父がネコを抱いて炬燵に入っている。

しばし、外から昭和初期の電話機やふえき糊の入れ物や、なんか懐かしいけど何だったかな?と思うようなものが山積みになっている棚を見る。

一旦そこで数歩足を進めてみたが、やっぱり気になって戻った。

そして、意を決して中に入ってみたら、さっきの親父「あー、今電気つけますから」と云いながら出てきた。

「あ、いやいいですよ」というと「いや、忘れてたんで」と言って、やにわになんか戦時中の写真の一覧みたいなものを出してきた。

「いやー、今の人は戦争のことなんてもう忘れてしまったけど…」などといいながら、一生懸命語り始めた。

「ところで何年うまれですか?」と訊いたら「わたし昭和25年5月です」と云うではないか。

「あ、じゃぁ、僕の方が年上だ」というと親父は少し驚いた様子。完全にもっと若いと思って、こりゃあ、平和ボケの若い奴に戦争のことを伝えなくては、と思ったに違いない。

確かに親父、頭の毛がほとんど無かったし、しわくちゃ(失礼)だったし、そう思っても無理はない。

そこから更に戦争の話になって、止まらなくなった親父をなんとかかわして、それでも話を合わせて約20分。

なかなか濃い店だった。

数々の自慢のものがあっただろうが、その中でも最も自慢の物は、東京オリンピックの年に作られた自転車。それも親父、今でも乗っているらしい。

そして多くの人から売ってくれ、と云われるらしいけど絶対に手放さないとニコニコしながら嬉しそうに言っていた。

また行くかどうかは分からないけど……多分行かないだろうなぁ。

でも近所だし、きっといつかあの自転車に乗っている親父をどこかでみかけるだろうな。

その時に声をかけるかどうかが悩みどころである。

2011年1月8日 阿佐ヶ谷 バルト

森谷君のお店「バルト」

普段から料理を作っていると森谷君のことはよく想い出す。

あんなに料理を作るのが好きな人も…って…だからお店をやってみんなに喜んでもらおうとするんだろうな。

料理もエンタテイメントだし、支持してくれる人を大切に思い、その一人一人の顔を思い浮かべると嬉しくて手が止まらないんだろうなぁ。

彼からは本当にそんなことを感じる。

もう長い付き合いだ。

といえども、あまりお酒が飲めない僕にとっては少し遠いこともあり、めったに行くことが無い。

料理もさることながら、お酒に合うちょっとしたものも絶品なのにあまりお酒は飲めない僕はなんだか悪くなってしまうし。

そんな森谷君のお店が僕らの最初の演奏場所となった。

14時30分からスタートしたセットリストはこうだった。

Shetland Air 朝の雨 Pockets of Gold Paisten Fionn/McGivney’s Fancy

Jerusalem Ridge 夜汽車 Broken Pledge/Tommy’s Tabulka/Reel Beatrice/Eileen Curran/P Joe’s Pachelbel Special

休憩

今風の中 Bretton Gavotte Pigtown Fling 谷間の虹 Fusco/Leaving Britany/George People’s 花嫁 Lover’s Waltz 川のほとり/Farewell to Erin

アンコール Ramble to Cashel gypsy/Cavan Pothles

19時から第2部の始まり

Banks of Suir 朝の雨 Letter to Peter Pan Jenny’s Wecome to Charlie Jerusalem Ridge 夜汽車 The Maid I Ne’er Forget/J B’s/Lad O’Beirne’s

休憩

心の旅 Bretton Gavotte Pigtown Fling Lagan Love 川のほとり

Tom Billy/Sean Ryan/Knocknagaw 花嫁 Inis Sui/Morning Dew/Jenny’s Chicken

アンコール Swan LK243 今風の中

この日初めて内藤希花なる人物を紹介した。

あれから早10年。

何よりも、今日もバルトがあり続けてくれている事、そして森谷君が頑張ってくれていることが嬉しい。こんなに厳しい状況のなかでも。

なので僕も、森谷君が料理を作っている時の楽しそうな顔をこれからも想い出して頑張っていきます。

責任転嫁

コロナ患者を受け入れない病院の名前を公表?

奴らの責任逃れもとうとうここまで来たか、という印象だ。

諸外国でもっと感染が広がっている国は、国民のせいが8割くらい(生活様式等も含めてと云う意味ですが、少し大げさですみません)だと感じるが、日本は政府のせいが8割だと感じる。

僕も8割おじさん、いや8割じいさんか。

医療機関は頑張っているし、飲食業も頑張っているし、もし、政府も頑張っているのなら、それらしい態度、姿勢を見せて欲しいと思うのは僕だけだろうか。

どう見ても思いやりも決断力も全く垣間見ることができない。

僕はそんなに先は長くないが(多分?)このままでいったら今の若い人達って大丈夫だろうか?

坂庭君秘話

あんまり文句ばかり言っていても仕方ないので、少し休憩して、良い話をしよう。

と、思い立ったのが坂庭君とのいろんな話。

もう出尽くしている感もあるけど、想い出せばまだまだある。

彼が生きていればもうじき72歳の誕生日を迎える。

高石さんが12月9日、僕が12月30日、坂庭君が1月20日。

そうしてみると、全員同じ曜日なのだ。ちょうど21日違い。

ラジオ番組とかやっている時はそれをつくづく感じていた。

それよりも前、大学時代に戻ってみよう。

もう書いたことがあるが、初めて彼と出会ったのが京都産業大学の体育館の下の食堂。

今はもう変わっていると思うが、そこでカレーうどんやオムライスを食べるのが日課だった。

オリエンテーリングの日に早くもブルーリッジ・マウンテンボーイズに入った僕はいつもバンジョーを持って通学していた。法学部の勉強…したかな?

そんな僕が新入生歓迎コンサートで先輩たちに交じってバンジョーを弾いた。

その時は、もしかしたら新入生という紹介がされず、新メンバーくらいのかたちで出ていたのかもしれない。

その場にいた坂庭君が数日後、食堂でオムライスを食べている僕を発見。

「あのー、すみません。ちょっと質問が…」「はい。あ、それはこうしたらいいんですよ」などと云うやり取りの後「ところで何回生?」どちらからともなく尋ねると、お互い1回生という事が判明。

あ、その前に僕がバスを降りる時に車掌さん(当時居たのです)にお辞儀をして降りたのを見たらしい坂庭君。ひょっとしてめちゃくちゃいい奴かも知れない、と思い、意を決して話しかけたらしい。

とに角それ以後はなにも言わなくてもお互いの思っている事が解ったりしたものだ。

大学時代は僕がブルーグラス、坂庭君がフォークということなので、あまり一緒に弾くことはなかったかもしれない。

しかし、元々僕もフォーク小僧。僕の憧れはキングストン・トリオ。坂庭君はハイウェイメン。どちらも男性コーラスでバンジョーが入っていて…という共通点があった。

なので、お互いの家(僕は下宿だったが)にはよく行き来していたのでやっぱり弾いていたんだろうな。

下宿生だった僕は坂庭君の家の冷蔵庫を「勝手知ったる他人の勝手」と云いながら開けて残り物を食べていた。

坂庭君のお母ちゃんがもう一品作ってくれたりした。

弟の泰三君、当時まだ小学生だっただろうか。「おい、コーラ買うてこい」なんて坂庭君が云うとピョンピョン走って僕らの為にお使いに行ってくれた。

チロという犬が良く吠えていたが、僕は噛まれたことが無いのに坂庭君はよく噛まれていたらしい。

下宿ではあまり派手に音が出せないので坂庭君の家は、僕らの楽器を弾く場所になっていたのかも。(あ、それと僕にとって家庭のご飯を食べる場所)

まだまだ二人で同じものを求めて、というよりもお互いの知っている事なんかをあーじゃない、こーじゃないと云いながら遊んでいた法学部と経営学部の学生だった。

ナターシャーを始めてからの二人での練習は、多分、他人が見たら「よく飽きもせずに」と云うくらいのものだったろう。

今では無理な新幹線の連結部、連絡船のデッキ、駅のプラットホーム、旅館の部屋、もちろん鴨川の河川敷、逢っている時はほとんど練習していたんだろうな。

ま、そんな意味では大学時代とあまり変わらなかったかな。

以前、坂庭君のことを沢山書いた時に、まだまだ面白い話があるだろうからいつかまとめてみようかな、などと書いたことがあるが、どうも無理なようだ。

18歳から彼が亡くなる53歳まで、最も多感な時期を、そして最も生きている実感のあった青春時代を、遊びも仕事も共に過ごした相手のことなどそう簡単にまとまる気がしなくなってきた。

もしかしたらこんな風に想い出して、彼の誕生日や命日が近くなったら、そして別にそんな日でなくてもまた書いてみたらいいのかもしれない。

26年目

今朝、阪神淡路大震災から26年になる、というニュースをやっていた。

もうそんなに経ったんだ、という感想。

あの日は確かアメリカでテレビを観ていて、あれ、これって神戸?と、眼を疑ってしまった。

大学時代、よく行っていたあの街が、まるで空襲にでもあったかのようになっていた。

そして何よりも外国にいたせいか、同じ日本人があんなに沢山死んでしまう事が驚きと悲しみでいっぱいになった。

3月11日の後、全く他人事のようにしている政府の対応に、今ほど政治家と云うものがいい加減な存在だと思ったことは無い、と書いていたが、今は更にひどくなっているようだ。

どこまで確かな情報かは分からないけど、26年前も真っ先に動いたのは一般の人達だったり、普段は少し怖い人達だったり…という話だ。

先日誰かが「人は長く生きていると1回くらい戦争を経験する可能性がある。今は戦争、有事なんだ」と言っていた。

国のトップは机の上で作られた文章からゆっくり時間をかけて判断するようだが、庶民はそんなわけにもいかない。

そこには現場を知る国民と、知らないし見ようともしない政治家たちの大きな違いが生じているとしか思えない。

26年前の人々の心の叫びを聴いていて、なんか、政治家って全く進歩しない人たちなんだなぁ、と感じてしまった。

政府のことばかりではなく、ずっと前からちょっと驚いていることがある。

ロマプリータ地震といういわゆるサンフランシスコのものは89年の10月17日だった。

ノースリッジ地震というロスアンゼルスでのものは94年の1月17日だった。

阪神淡路大震災は95年の1月17日だった。

体験としてはロマプリータだけだが、あれ、また17日?と思ったりしたものだ。

やっぱり地震は怖い。

絶対に今は起きて欲しくない…けどこればかりは何とも言えない。

でも、これ以上、鈍感でろくでもない政治家の姿をみるのはもううんざりだ。

今日は朝早く起きて、テレビに向かって思わず合掌してしまった。

坂庭君秘話 2

先日、テレビを観ていたら、お寺でテレワーク、その名も「テラワーク」というのを取材していた。

それでいろいろ思っているうちに想い出したことがある。

坂庭君の家におばあちゃんが居て、いくつくらいだったろうか。

僕等が大学生なので、ひょっとすると今の僕等とあまり変わらないくらい?

その時でほとんど寝たきりだったのかな。なので、もうちょっといっていたかも。

いつのことかは覚えていないが、そのおばあちゃんが亡くなって、坂庭家で法事があった時のこと。

彼曰く「なぁじゅんじ、聞いてくれっか。坊主が家に来たんやけど、なんやしらんテープレコーダー持って来とんねん。ほいで、おもむろに座ってやなぁ、カチッとスイッチ入れとんねん。お経や。お経が流れてきたんや。味も素っ気もあらへん。ありゃないわ」

テラワークを見ていてリモートお経とか考えていたらこんなことを想い出してしまった。

そのおばあちゃんで凄くよく覚えている話がひとつだけある。

これも彼曰く「なぁじゅんじ、聞いてくれっか。このあいだおばあちゃんの部屋に入ったら急に「省悟、あんたのうしろ、天井の上から舌のなが~い人がこっち見とるわ」わしゃぁおしっこ漏らしそうになったでぇ。ほんまやろうか」

彼の家系は結構ユーモアに優れているところがあったので、ちょっと孫を脅かしたろみたいなことだったのかもしれないが、その話を聞いてから僕もおばあちゃんの部屋をのぞくのをやめた。って、そんなにおばあちゃんとは顔を合わせなかったが。

僕等が「ちよちゃん」と呼んでいた彼のお母さんにも随分お世話になった。

以前書いたが、白玉が大好きな僕と坂庭君が夜中、僕のアパートで急に白玉が食べたくなって、ちょうど買い置きした白玉粉を見つけ…夜中と言っても12時近かったかな?家に電話して、ちよちゃんに「白玉ってどうやって作るの?」って訊いたら丁寧に教えてくれたなぁ。もう寝ていたんだろうに。

彼の家でジグソーパズルをしていた時の話。

かなりたくさんのピースがある結構大型のものだったが、そう、上級者向けだったんだろう。

二人で3時間くらい試行錯誤してやっと3分の1くらい出来ただろうか。

疲れたからお茶でも飲みに行こう(こういう時の合図は「あーちゃみーの行こか」だ。或いは「ちゃーしばきに行こけ」だ)ということになり、そのまま出かけて40分ほどで戻ってきたら、ちよちゃんが「省悟、部屋掃除しといたで。なんでもかんでも出しっぱなしにしといたらあかんで。せっかく純二さんも来てくれはってんねから」

二人で呆然としているのを見たちよちゃんが「あんたらどうしたん?」

なかなか良い想い出だ。

バイオリンの弓の話

2019年アイルランドの旅3で話題に登ったノエル・バークのことをNHKのBSが取り上げていた。

その番組はバイオリンの弓職人に関することだったが、とても興味深いものだった。

偶然テレビを点けたら、という状況で最初から観ていなかったが、弦楽四重奏が出ていて「今日の弓はノエル・バークのものだ」と言ったのでつい、驚いて喰いついてしまった。

ノエルの弓は今や世界トップレベルのものだ。

何といっても彼の住んでいるところがキアラン君の家からそう遠くない、という偶然は驚きだ。

なので、気楽に出かけて行くこともできた。

番組で印象深かったのは彼ノエルの師匠であるチャールズ・エスペイが「弓は楽器だ」と言っていたことだろう。

僕はノエルの弓を見た時、希花さんがその弓で弾いた時、それを感じていた。楽器の一部、或いは楽器そのもの、という感じがしたのだ。

やっぱりその通りだった。

最近、ピックもかなり高価なものが出ている。3000円とか6000円とか…。

でも3000円のピックは失くすわけにいかない。6000円のピックなんてもったいなくて使えない。

僕は100円程度のピックなのでいつも10枚くらいは持ち歩いている。

勿論、ピックに於いてもその形状、そして最も違いの出る厚さなどでひとそれぞれの好みも相まって多くが語られることがある。

しかし、もしかしたらバイオリンの弓ほど極端ではないだろう。

バイオリンの弓の場合、よく言われているのがその楽器との相性や値段のつり合いとか。

むかし聞いた話では大体バイオリンの3分の一くらい、或いは半値ほどのものが妥当とか。

もしそれがギターに当てはまったら僕のピックは一体いくらのものを使うべき?

冗談じゃないですね。

ところで、希花さんがノエル・バークに「あんた日本語喋ってたよ」(とは言わなかったが)番組の事をすぐメッセージしていた。

まだ見ていない(放映されていない)というメッセージが帰ってきたかな?でもとても喜んでいた。そしてまたアイルランドで会える日が来るのを待っているよ。みんな元気で、と。

今や、世界中のバイオリニストに名の通っている、ノエル・バークとのいい出会いだった、2019年。

僕等としても早くそういう人達と再会したいものだ。

報道番組

このような世の中になって、よく見る番組の中に報道番組が圧倒的に割合を占めるようになってきた。

元々、バラエティなどはほぼ観ないし、歌番組も観ないし、クイズ番組は時々観るかな、ニュースはもうちょっと観るかな。そんな感じだが、朝の情報番組はやっぱりコーヒーを飲みながらあっちこっちチャンネルサーフィンをして観ている。

沢山のお医者さんや、医学博士の名前も顔もこの期間覚えてしまった。

しかし、やっぱり一番面白いのはかなりマジな報道番組だろう。

最近、ある報道記者が言っていたことに非常に共感を覚えた。

「この感染症にかかった人、お店を開けなければ生きていけない人、その人達は言うなれば被害者なのに、そこに何故罰を与えようとするのか。勿論、知っていてわざわざウイルスをばらまいているような人については罰則を与える必要があります。しかし、病院に入りたくても入れなくて死の淵を彷徨っている人もいる、或いはその間に亡くなる人もいる。そんな人達にも罰則を科すつもりですか。一体自民党は何を見ているんですか?今までにこの1年何をしてきたんですか?ある外国の記者が、日本ではさほど感染が広がっていないのは何故ですか?と尋ねたら、昔ちょっとだけ首相をやった人が、そりゃぁ国民の意識が違うからだよ、と口をとんがらかせて(とは言わなかったが)言っていたそうですが、いざ感染が広がってくると急に国民のせいにする。罰則は、大したこともしてこなかった政府こそが受けるべきだ」

自民党のなんか偉そうな見た事もないおじいさんが出ていたが、関係ないみたいな顔をしていた。

腹が立ったが最後まで観て「その通り!その通り」の連発。出ていた医療関係者もかなり憤慨しているように見えたが、相当疲れているんだろうけどあんな議員のツラを見たら精神衛生上良くないし大丈夫かな?なんて心配してしまった。

しかし、自民党はトップが7年以上にもわたって嘘をつき続けてきたせいか、もうそれが当たり前のことになっていて、皆が躍起になってそれを隠し、黒幕みたいなのが国民に対して悪態をつくのも当たり前のことになっていて、もはや他人の痛みなんて言うものには何も感じなくなっているのだろう。

これは様々な報道番組を観ていて感じる僕の素直な感想。

ところでアメリカはこれからどうなっていくのかな。なんか普通に戻ったような気がするが、こちらもなんか大変そう。

大体国が広すぎるし、民族が多様過ぎる。バイデンのどんでん返しならぬ「倍デン返し」が見たいものだ。

さてと、今日も報道番組でイライラしてしまうかもしれないが、前出の記者のようにガツン!と言ってくれる人がいるとすっきりする。

その少しのすっきりの為にまた報道番組を注意深く観てしまう。

余談だが今日、菅総理の声が少し枯れていたように思ったけど(僕のテレビのせいかな?)あれはあれで疲れているのかな。

ま、コロナに関しては誰がトップでもどうしようもないことだということは分かっているし、気の毒だとは思いながらも、高い給料とボーナスを考えると倒れてでも、血を吐いてでも働け!と云いたくなってしまう。

そのための体力づくりのステーキだったら許してあげるけど、一人でひっそりと食べてね。

坂庭君秘話 3

花嫁がヒットしたのは1971年だったかな。調べてみると、発売が1月10日になっている。

ということはその2~3か月前くらいのことだっただろうか、彼が僕のアパート(当時、北白川に居たと記憶している)に来て「こんな曲なんやけど、のりちゃん(端田さん)がどっかからひっぱてきて、よう似た曲があるんやけど、少しアレンジしてこんな感じになったんや」と云いながらハミングしていた。

僕自身はそんなに似ているとは思わなかったが、因みにそれが何だったかは覚えていない。そうして聴かされたのが「花嫁」だ。

なお、その花嫁の発売日の8日後に僕が高石さんと初顔合わせをしていたらしい。

坂庭君はそれから約1年の間、破竹の勢いで日本中を駆け巡っていた。

クライマックス解散後、大学に戻った彼はそれなりにちゃんと卒業する気でいたんだろう。

僕の方はそれなりに、本当にそれなりに少し忙しく高石さんと動いていた。

そんな中でも時間を見つけてはしょっちゅう会っていたと思う。

ある日、電話がかかってきて「ちょっと来てくれるか?」と云うので彼の東寺の家へ出かけていった。

相変わらずチロがワンワン吠えていた。

2階に上がると彼がおもむろに「これなんやけど、見てくれるか?」と言って、どっちだったかなぁ…確かマーチンギターD-45を持って隣の部屋から現れた。

「実は内緒なんや。あいつ花嫁で儲けていい気になってあんなん買うたんや。アホかって言われるんやないかと思って」と云う。

僕はすかさず「お前、京都人やなぁ。そんなん気にすることないんじゃない?遠慮すること無いで。そうだ、このギターはマーチン遠慮モデルと呼ぼう」

「凄い凄い。やっぱりいいか?…お、いいじゃん」

と云いながら少し弾いていると「実はこれも見て欲しいんや」と云いながらギブソンバンジョーRB-800を出してきた。

あの時代である。

「わ―凄い。いいじゃん」と僕が云うと「いや、完全にアホにされると思った」という彼。

「それやったらこっちは成金バンジョーと呼ぼう」

実際、RB-800は見事なゴールド仕様だ。

それはインレイのパターンが「リース」と呼ばれるクリスマスの飾りのリースをモチーフにした物だった。

彼曰く「俺は花柄のもの(ハーツ&フラワー)が欲しかったんやけどRB-800が届いた、という知らせが楽器屋さんから来て(神田のカワセ楽器)意気揚々と出かけていってケースをあけたら、なんやこの「はてなマーク」みたいのって思ったんや」

事実、当時まだ情報があまり無くてギブソンの高級バンジョーと云ったら俗に言われる「ハーツ&フラワー」というインレイが最も良く知られていた物だった。

僕等にしてみればハーツ&フラワー、そしてフライングイーグルというインレイが2つの代表的なモデルでリースと云うものは眼中に無かった、そんな時代だった。

坂庭君は正直少しがっかりしたらしいが、大好きな金ぴかのバンジョーなので、購入したらしい。

取りあえず僕に告白したその日の彼は嬉しそうにしていた。

この辺は僕と違って非常に慎重な性格だ。僕なんか嬉しくてすぐみんなに言ってしまうのに。

かくして、マーチン遠慮モデルとギブソン成金バンジョーはめでたくデビューしたのである。

あれから50年。もういいかな、と思ってこんなことを書いてみたが、細かい会話の事は正直覚えていない。

でも、後年になって彼が「あの時思い切って見せて良かった。本当は何て言われるか怖かったんやけど、あんまり普通の反応やったんでホッとした。京都人やったらああはいかんで」と言ったのは覚えている。

確かに僕は「全く京都人はこれだから…」と言ったような気がする。

恵方巻

いつだったか、誰からだったか、もちろん大阪の人であったことは確かですが、随分昔に「私たちの地方では節分の日に太巻きを家族そろって無言で食べる風習があるんです。その年の良い方向と云われている辺りを一点に見つめて、せいの!でまるかぶりするんです。子供の頃からそれがおかしくておかしくて」

そんな話を聞いたことがありました。

静岡生まれの僕にとっては全く知らない世界でした。

それが今やブームになってやたらと宣伝されるようになったんですね。

ま、クリスマスやハロウィーンと同じかな。

大体、この国はそういうものに踊らされて、商売にもなるし…と云いながら一昨年だったか近所で恵方巻を買って食べました。(因みに去年は忘れていた)

とに角これ見よがしに色々入っていたが、時間的に遅く、半額だったので。もちろんねらい目でもあったけど。

こんなもんに踊らされてたまるか!と云いながらも「お、半額」と、やっぱり手が出てしまいました。

決して素晴らしくもなかったので今年は買わないぞ。

ならば、自分で作るか…って、やっぱり踊らされているか。

またやらかした元総理大臣

あんまりつまらないどうしようもないことだけど、一応自分の見解として記録しておこうかなと思い、文章にしてみました。

オリンピック関連です。ということは決してつまらない問題ではなく、世界の恥さらしになった大きな、日本人としての問題でしょう。

あれは謝罪会見というものだったんだろうか。

誰かに書いてもらった原稿を読んだ後は自分の立場を利用してのとんでもない「切れる老人」を自ら演じて墓穴を掘っていた。

本人は平然と去っていったが、やっぱり頭の中が空っぽだったことを暴露する結果になってしまった。

今は政治家ではないのかもしれないが、やっぱり政治家と云うものを経験すると、他人がどう感じるか、どう思うか、という事は見えてこなくなるんだろうな。

ずっとそうしてやってきているんだから、ましてやあれくらいの歳になると自分だけは正しい、という観念から抜け出すことは不可能なんだろう。

くわばらくわばら。

ぼくら年寄りは気を付けなくちゃ。

僕も昭和の頑固爺の領域に入っているので。

幸い政治家になる頭も性格の悪さも持ち合わせていなかったが、こうして変な奴がへんな行動を起こすとやっぱり文句を言いたくなる。

そんな時に気を付けなくてはならないのは、広い眼を持つことだろう。

誰しも他人になんか言われることは嫌だ。当たっているとなおさら嫌だ。

でも、当たっていなくても上手く聞き流せればそれで正解だろう。

当たっていることに関しては、後ででもいいのでじっくり考え直すことだ。

それとできる限りシャットアウトしないことだ。

あの会見で言っていた「そんなことは聞きたくない」なんていう発言は、これ以上脳みそが働かないという証拠だろう。

謝る気もない、問題点を改善する気もない、やめる気もない。

それに、何故こういうことになったのか当の本人は分かっていないのだろう。そこが大きな問題だ。

いや、さっさと消えるよりも、いままでさんざん国民を愚弄して稼いできた金を全て返却して医療機関などに寄付するべきだ。 彼の場合はただ無知なだけなのかもしれないが、多くの政治家はそうするべきだ。

元法務大臣の夫婦も資産凍結、全て返済、くらいのことは必要なことだろう。

とにもかくにも、あの問題はもう終わったらしい。

先日、国民が苦しんでいる最中、寿司屋で思い切り飲み食いしていた大臣と話し合ったことで。

あれから…

あれからもう1年経った。

70歳バースデイコンサートライブからだ。

そしてもう一つ。もうこんなに時が経ったんだ、と思えること。

あのニュージャパンだ。

奇しくも意識せず、同じ2月8日だった。

僕等がマネージャーである榊原さんを失い、それから僕がナターシャーを去るきっかけとなったあの出来事。

あの日、七人の会(事務所)にみんなで集まって、何を話していたのか、気分的にはほぼ無言であったのかもしれない。

ハワイに行っていた高石さんを僕とスタッフの一人とで迎えに行った。

伊丹空港から京都までの帰り道、こちらも無言だったと記憶している。

あまり詳しくは書けないし、よく覚えていない部分もあるが、とに角ナターシャーセブンの歴史がこの日を持って一旦閉じたことは確かだ。

僕が抜けてアメリカに旅立ったのはその後、2年弱経ってからだ。

榊原さんという人は間違いなく日本でトップクラスのマネージャーであった。

多くの人が同じことを言っていたので、僕一人の感覚ではないはずだ。

とりわけ、僕にはとても良くしてくれたと感じる。

よく「あんさん、酸っぱいもの食べなさい」と言っていたので、未だに酸っぱいものを食べると彼のことが頭に浮かぶ。

確かに僕はあまり酸っぱいもの、酢の効いた物とか夏みかんとか…お~書いているだけで酸っぱくなってきた…余り好んで食べない。

彼はいつも都こんぶを持ち歩いていた。そして「あんさん、ひとつどうですか」と言っては僕に食べさせたがった。

そんな都こんぶのパッケージは僕にとっては彼そのものかも。

ステージで着る衣装もよく買いに連れて行ってくれたが、自分もあれやこれや買っていたのでもしかしたら口実だったのかもしれない。

事務所の近くにピグモンみたいなおばちゃんが(まさかこれ読んでいないだろうな)やっていたちょっとおしゃれな洋服屋さんによく二人で出掛けて行ったなぁ。

出会った時の彼は80キロを優に超える体格だったが、折からのジョギングブームをいち早く取り入れた結果20キロくらいの減量に成功していた…が、お腹だけはなかなか引っ込まなかったなぁ。

それでもちゃんとフルマラソンも走っていたし、何事にも全力で取り組む人だった。

僕にとっての榊原氏というのは良い想い出、しかない。ということは何故かすごく気が合ったんだろうな。

ひとつ想い出した面白い話があった。

ある日、確か大阪のサンケイホールの楽屋で僕と省ちゃんがマンドリンを弾いていた時の事。

いつも使っていたギブソンのF-5のピックガードを、その日はたまたま外していたのだが、そこに榊原氏が入ってきて「お、お二人さん、今日は違うマンドリンですか」っていうじゃないですか。

しかもそれだけ言って出ていったので、僕と省ちゃんとはしばし、あっけにとられて顔を見合わせて「あれ、意外とよく分かっているのかもしれない」と感心してしまった。そんなことがあった。

他にも想い出せばいろいろなエピソードがあるけど、こんなところにしておこう。

2月8日、なんだか僕にとっても大切な日なんだなぁ。

初めての外タレ

なんとなく、僕が初めて見た外タレって誰だったんだろう、と考えていたらこんなタイトルになってしまった。

多分1965年(か、その少し前か)のアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズだったろう。

友人と二人で行った覚えがある。

確か静岡の駿府会館という所。

まだまだ、東京あたりへコンサートを見に(聴きに)出かけていくような年齢ではなかったのだろう。

LPレコードを持って行ってサインをもらったことも覚えている。

何故、アート・ブレイキーだったんだろう。

しかしながら、同じ駿府会館(だったと思う)に出掛けていったコンサートはもう一つあった。

ブラザース・フォーだ。

記録によると1962年には来日しているが静岡に来た、という事実はなさそうだ。なので、その後の64年だったのだろうか。

してみるとやっぱりブラザース・フォーが先かな?

その頃はギターを弾き始めた年齢だったので、こちらの方が聴いていて興奮したような覚えがある。

バンジョーの金属の部分、リゾネーターフランジが照明に照らされてこの上なくピカピカと光っていたことをよく覚えている。RB-250だったのかな?

よく考えてみると、ジャズ・メッセンジャーズとはきっと同じような頃だったのだろう。

そんな、まだ少年と呼べる時代から、最初のブルーグラス体験はフォギー・マウンテンボーイズだ。

丁度、大学に入る年だった。

それが以後の自分のブルーグラス人生を決めてしまったきっかけだった。

さて、ここからは話題を変えて、ちょっと変わった分野の音楽を聴きに行った話をしてみよう。

先ず、何故そこにいたのかよく覚えていない事柄から。

オーヤンフィフィ(歐陽菲菲) のディナーショー。これは高石さんと出会って間もなくの頃、マネージャーの榊原さんと共にでかけていったものだ。

同席していたのが音楽プロデューサーの高嶋弘之氏だった。もう50年前のことだが、ビートルズを日本に紹介した人という紹介をされたのでよく覚えている。

他にも、売れているものは観に行かなくちゃ、という観点からぴんからトリオも確か梅田花月に出掛けて行った覚えがある。

それはともかくとして、やっぱりまだまだ外タレなるものをこの目でみることが出来なかった時代というのは本当に懐かしい。

今、調べてみると、1950年代は圧倒的にクラシックやジャズの来日ミュージシャンが多く、60年代はロック系の来日ミュージシャンが多かったのかもしれない。

そこにフォークソングが63~64年あたりからブームになり、多くのフォークミュージシャンが来日したのだろう。

しかし、不思議なことにフォークソング関連では多分、ブラザース・フォーしか観ていない。

PP&Mもキングストン・トリオも観に行っていない。

その頃には興味がブルーグラスに移行していったのだろうか。いや、多分、静岡と云う立地条件でなかなか足が運べなかったのだろう。

そんな時代の事を時々思い出している。

コロナに関するいろんな話題

1年以上経って、多くの人が感染して、町が静まり返ったり、かと思えばめっちゃくちゃ多くの人でごった返している場所もあるし、流石にほとんどの人はマスクをしているけど、もうなんだか慣れてしまっている。

今日の感染者は…なんていっても良く分からないところで起こっているようにしか思えないし。

でも医療関係者はず~っと大変な思いをしているんだろうな、という事は良く分かる。

思いだけでなく、身体だってちゃんと保っていけてるんだろうか、という事が気になる。

アメリカではまだマスクをしない人が沢山いる州もある。

いろいろ話を聞いてみると面白い。

今まで手も洗ったことのない人達がめっちゃくちゃいろんなところを拭きまくっている。

それなのに家に帰ったら靴も脱がない。それって…?

ロックダウンの最中に何十人もの人が連なってジョギングしているおもしろい光景が毎日のようにあった、ということも聞いた。

レストランは何万ドルもかけて店の外で食事できる施設を作った途端ロックダウン。やっと規制が柔らかくなってもテイクアウトだけということになり、人々はテイクアウトしたフードを持ち帰って沢山の友人たちとパーティ。

それだったら店開けていても同じじゃねぇ、とも言っていた。

アメリカなんて日本の比じゃあないくらいの感染者や死者だという認識だけど、曰く、交通事故で死んだ人も調べたら陽性だった、みたいなケースでもコロナの死者としてカウントされているし、本当のところはもうよく分からないらしい。

日本でも、もういい加減慣れてきてしまって夜の渋谷なんか凄いことになっているらしい。

そんな処には出向かないので良く知らないが、僕の住んでいるあたりでも昼から大勢の人が集まって飲んでいる光景をかなりの場所で見ることがある。

結構歳のいった人も多いので、別に若者だけではなさそうだ。

マスコミは盛んに2重マスクのことを言っているけど、また街に2重マスク警察なんていう馬鹿がはびこりそうで怖い。

誰かが言っていたけど、そんなことこれから暑くなる日本じゃ無理なことだし、それよりも、ちゃんとしたマスクの付け方を学んだ方がいいのではないか、と。

僕もそう思う。一体何枚のマスクを重ねると完璧なのかを試しているうちに、呼吸困難になって結局病院に担ぎ込まれる奴、なんていうのが現れるんじゃないかな。

それはそうと、日本医師会の中川会長が出てくるたびに希花さんが「正しいマスクの付け方のお手本!」と絶賛している。

総理大臣はある時は正しい付け方、ある時は逆。幹事長や財務大臣に至っては平気で鼻を出している。結局1年経っても何にも学んでいないのではないか?

感染者の数もオリンピックを見据えて調整して発表しているんじゃないか、なんて疑いを持ってしまう。

WHOは中国旅行を楽しんだだろうか?

中国にとっては1年も証拠を抹消する時間があって、その上、2週間隔離して隠しきれない部分を全て処分して、政治的な圧力もかけて…等々、素人の僕でも安易に想像ができるのに、一応形として視察という名目をつけないとどうしようもないんだろうなぁ。

絶対に発生源なんて今更分かりはしないだろうなぁ。

取りあえず僕はワクチンの順番が来たら打とうと思っている。

それで動くことができるようになったら、打たずにじっとしているよりもいいと思うし。 

地震

数日前にもあったけど、やっぱり地震は本当に怖い。

今迄にも沢山の地震を経験したけど、自分が避難する立場になった、という経験は無い。

ただ、いつそういう事になっても不思議なことではない。

そんな事はだれにもわかっていることだろうけど、日々それを恐れて生きていくわけにもいかない。

そんな中、突然警報か鳴っても「ありゃ?」と思うしかなくてそわそわして、もし火でも使っていたら即刻消す。

家屋の条件によっては外へ出た方が良いだろうけど、右往左往しているうちにグラグラっとくる。

中には突然来る迷惑なやつもある。

どちらにせよ、右往左往しながら「いつまで続くんだろう。このままもっと揺れたら…」なんていうことを考えてしまう。

僕にとってのよく覚えている地震は、サンフランシスコで経験した1989年のもの。

既に、最近ちょっと触れたが。

あの日はちょうどワールドシリーズでサンフランシスコ・ジャイアンツとオークランド・アスレティックスの試合がある、というベイエリアでは持って来い、の盛り上がりをみせるはずの日だった。

まだ小さかった息子がテレビの前にバットとグローブとヘルメット(多分ジャイアンツ)を置いて、今か今かと待ち構えていた時だった。

運よくヘルメットがあったので、すぐ被ったらしい。そしてあっという間にテーブルの下にもぐった、という。

それというのも、学校でそのように教わっていたらしいのだ。ヘルメットはおまけだったが。

サンフランシスコは1906年のマグニチュード7.8の地震で壊滅状態になったので、それ以後、建物の建築方法などに大きな影響を与えたようだ。

アメリカだなぁと感じたのは、すぐに住民たちが外に繰り出して、信号の止まった交差点に立ち、懐中電灯を照らしながら交通整理を始めたこと。

それと、驚いたことに翌日Tシャツが売られていた事。胸に大きく書かれていたのは

「M’7.1  I Survived」という文字。

これは、恥ずかしかったがすぐ購入して永六輔氏に送ってあげた。

しかし、地震の怖さのもう一つは、数日後でもなんか身体が揺れている感じがすることだ。

そう感じた途端、思考が止まってしまう。

なんとなく周りを見つめ、自分以外になにか揺れていないか確認してしまう。そして勘違いだったことを知る。

下手すると一日のうち数回、そんな感覚に襲われる。

しかし、今回の揺れも長く感じたなぁ。

東京でこれだったら震源に近い人達、特に今回はあの東日本を連想させるものだっただけに、本当に怖かっただろうなぁ。

実際に10年経っているのにあの余震だ、という話があったし、今後1週間くらいの間に同クラスのものが来る可能性がある、なんていう恐ろしいことも云われている。

また津波なんてあったら…。

どちらにせよ、地震は自然のことだし、どうしようもないのかな。

1週間にいちどくらいでいいから小さいのが決まった時間に来てくれてエネルギーを放出してくれたら嬉しい。

出来れば、溜まったエネルギーを爆発させないでほしい。

なんだか、また身体が揺れてきた。歳かな?

テクノロジー ♯2

最近やっとスマホが分かりかけてきた。

と云えども、何もインストールしているわけではなし、写真を撮って少し編集したり、ラインをして、電話して…くらいか?分かってきた、とは到底云い難いか。

よく、CDを注文してきてくれる人の中でも、こちらからの自動返信メールが届かなかったりする人がいるが、その多くは携帯メールから送られてくるものだったり、ちょっとしたメールアドレスの打ち間違いだったりと、多様だ。

間違いを見分けることが出来る場合はまだいいのだが、どうしても返信メールが届かなかったらもうお手上げだ。

ブロックされている場合もある。迷惑メールに入っているのか、最初から跳ねているのか。

先日ある人から、そちらからのメールをブロックしているようで、それを解除するのでもう一度自動返信メールを送ってください、とご丁寧なメールが来たのでそちらに送ってみたがやっぱり届かない。

多分ブロックを解除したつもりでまだできていないのかも?僕にも無理かも。

ちょっと前に外国の裁判かなんかオンラインでやっているもので、弁護士の顔がネコになっていて直し方が分からない、という話があったが、もし僕だったらやっぱり分からないだろう。その場合、希花さんを呼ぶしかない。

なんでも便利になってかえってややこしいが、若い人にとっては何ともないのだろう。

希花さんは取扱説明書を読むのが好きなようだ。

食い入るように見てはチェックポイントを探すことに情熱を燃やすらしい。

ま、それでないと医学部なんて無理か。だが、人体だけではなく機械も充分こなしているところをみると、取説を読むことは大事なんだな、というのが良く分かる。

が、そこに書いてあることの意味が解らなかったり(根本的な問題)字が小さくてハズキルーペでもないと読めなかったりすると、もう無理だ。

ワクチンを打つことで、しばらく様子をみて、っていう人がいるけど、別に日本人が最初に受けるわけではないし、人体なんて中身は一緒だ。もう外国でみんな打っているんだし、他人の様子なんて気にするよりとっとと打って、外へ出ていったほうがいい、と言っている。

僕も同じ考えなのですぐにでも打ちたいし、その方が他人に移さずに済む可能性が高いはずだ。

僕はワクチンだけにワクワクしている。あ、冷たい視線を感じた。

テクノロジーについて書いていたつもりがこんなことになってしまった。

しかし、日本ほどいろんな意味で技術力の優れている国のワクチンがいち早くできなかったのは何故だろう。

やっぱり、つぎ込むお金のあり方を政府が分かっていないのかな。彼らの給料が高すぎるんじゃないのかな?

それで本当に大事なところが手薄になっているのかもしれない。

何となく無理やり、これからの事も含めてのテクノロジーというところに話を落ち着かせた感はあるなぁ。

相変わらずの日々

何だか知らないが、ぬくぬくと気持ちの良さそうな椅子でほとんど眠っている大臣や、嘘ばっかりついて、記憶にございません、なんて言う決まり文句を言っている人達。

嘘がばれたらまるきり他人事のように、そんなことがあったのか、みたいな云い方をして逃げようとする。

世の中の人達は本当に大変な日々を過ごしているのに、高級な飯をご馳走してもらって、先生、先生と云われていい気になってふんぞり返っている。

こんな大変な時に子供みたいな嘘をついて引き延ばそうとする奴らは正直もう政界どころか、世の中に居てはいけない存在だと僕は思う。

また、いつまで追求しても逃げられてしまうんだろうな。

取りあえずポジションを動かして、雀の涙ほどを給料から引いて、ほとぼりがさめたら目立たない程度に戻すんだろうな。

なんと楽な商売だ。

下っ端は下っ端で最低だが、上の方は最悪ときている。

もうほとんど自分の発言に責任が持てないのか、何を言っているのか自分でも分からないのだろう、それをまた下っ端がカバーして同じようにふるまっている。

結局その下っ端も同じ道を歩むことになるのだろう。

国の進むべき道を決めるところがそんな人間たちの嘘偽りの温床になっているなんて、救いようがない。

先日、アイルランドの友人と話をした。

政府はよくやっているそうだ。ただ、国民の意識が低い、とその人は言っていた。

日本の逆かな。

ただ、以前から気にはなっていたが、感染者に対する差別みたいなものは聞いたことがないそうだ。

日本はその点、遅れているのか、元々そういう民族なのか、同じ島国のアイルランドとは違うようだ。

友人は、とに角政府はきちんとしたメッセージを出しているし、取りあえず国民のサポートは素早くやるし、彼らの云う事はきちんと理解しようと思う、と言っていた。

因みに友人は日本人。

日本の国会の様子なんかもテレビで観たりするらしいが、ほとんど記憶のとんでしまった老人の集まりにしかみえないようだ。

残念ながら若い人を育てる能力のない(その気もない)人たちが日々国会で寝ているか、会見で悪態をついているだけにしか思えない。

そんなことばかり目につく相変わらずの日々です。

入院?

いや、僕ではありません。今のところ。

また、政府の人間が都合悪くなって病院に逃げ込んだ。

本当に体調が悪いのなら責めやしないが、つい先日まで、飲み会(会食?)は絶対に断らない、などと言って高額な飯を食っていた奴が、そんなに急に体調を崩すはずがない。

食べるものもままならず、厳しい状況の中で一生懸命生きている人のことを少しでも考えたことがあるのだろうか?

それに、今この状況が医療に与えている影響のこと。

この状況下、入院して医療関係者に負担をかけることをなんとも思わないのだろうか?正直、迷惑なはなしだ。

感染しても入院できない人を踏み越えてさっさと病院に駆け込んで、ほとぼりがさめるのを待つ。

辞職願は出したようだが、そんなことでちっとも可哀そうだとは思わない。

あんな連中の入院費や給料や退職金を捻出するために僕らは税金を払い続けるのだろうか?

とに角、政府の人間に云いたい。

逃げるな。

たまには音楽の話

たまには誠意のない連中の事から頭を離して、音楽のことでも書かないといけないな、と思っています。

もう1年以上動きが取れないような状況が続いています。

そんな中でも、いくつかの場所には行かせていただきましたが、そのたびに主催していただいた方達、集まっていただいた方達の熱意に感謝するのみでした。

幸い、僕の則近には医療関係者が居るので、そんな意味でもこの状況下に音楽会を開くことにはかなり慎重になることが出来たと思います。

さて、こういう状況になる前から少し思うところがありました。

僕等はこの10年間、アイリッシュミュージックというカテゴリーで演奏を重ねてきました。

ですが、僕は常日頃から、この音楽に付いていろいろ思うことがありました。

30年前、アンドリュー・マクナマラと出会って以来、深く関わってきて、それより7年ほど前、84年のカーターファミリーとの暮らしと重なる生活を体験してきました。

山に登り、先住民の残した矢じりや石器を掘り出したり、南北戦争の弾丸の残りを拾ったりしながら、太陽に照らされたアメリカでも最も貧しいと云われるプアーヴァレイを眺め、ジョー・カーターの唄を聴く。

同じような体験を何度も何度もアイルランドで繰り返していると、ことさら、アイリッシュミュージックなどと言っている事自体がナンセンスに思えてきてしまいました。

アンドリューは皮肉交じりで「俺はアイリッシュミュージックが大嫌いだ!」とよく言っていました。

僕と彼とで、どこかアイルランドの小さな町へ出掛けた時、朝ごはんで席につくと家主が嬉々としてパブソングのテープをかけました。

僕の方は仕方ないけど、彼はどう見てもアイリッシュだ。夜な夜なパブを飲み歩いてこんな歌を唄っている人だと思ってサービスしたのかな。

アンドリューは盛んにFを呟いていました。

通常、世の中ではパブソングやエンヤなどがいわゆるアイリッシュミュージックなのかもしれません。

特にこの日本では、イベント音楽のようなイメージか、妖精の国のヒーリングミュージックという認識の方が多いようです。

アメリカの方に眼を向けてみると、アメリカはやっぱり移民の国です。

ユダヤ教会ではクレズマーのコンサートを聴くことが出来るし、ギリシャ人街にいけばブズーキ音楽もたっぷり聴けます。

メキシコ人街に行けば危険と隣り合わせてもラ・バンバを聴くことが出来るし、同じ危険と隣り合わせとしては黒人街のブルースも熱い。

よく、なぜ自分はここにいるんだろう、というような場所に居合わせたこともありました。

その中でもアイルランド人と、或いはアイルランド系の人達と過ごすことが圧倒的に多かったのかな。

友人達の中には物凄くイギリスが嫌いな人も多く、ロンドンデリーなんていう土地名のロンドンを黒く塗りつぶす人もいるし、フェスティバル会場では、これは見ず知らずの人だったけど「その昔は俺達こういう所にはよく爆弾を仕掛けたもんだ」みたいな会話を耳にしたこともあります。

この音楽はそういう歴史のなかにも存在してきたものだという事がよくわかります。

そんなアイリッシュミュージックを演奏して30年。

そして希花さんはそれまでやってきたアイリッシュミュージックでは到底感じることが出来なかったであろう、奥深いところまで関わってしまった。

そんな中で僕らは、少なくとも僕はことさらアイリッシュミュージックという意識がなくなってきているのです。

でも、僕らがやっているのはアイリッシュミュージック。それも、ほとんどが古いもの。

ただ、もういろんなものが僕らの音になりつつあるような気もします。

それは本当に僕が描いていたものかもしれません。

アメリカでこの音楽を始めた時に、誰でもない自分の音を出すことを目指し、それでも多くの先人たちの演奏を注意深く聴く。そんな当たり前のことをずっと繰り返してきたからこそ、もうアイリッシュミュージックというカテゴリーに囚われなくなってきているのかな、と思うのです。

今年、またアイルランドに行く予定でいます。あくまでも予定。

そして自分たちの音を彼らの音楽に乗せていく。そんな気持ちでまたこの音楽を演奏していきたいものです。

あくまで僕等の中から湧き出てくるものと、数百年の歴史あるものを大事にしつつ、この音楽に取り組んでいく姿勢に変わりはないように思います。

Irish Musicその174

Londonderry Air    (Air)

今回は、このあまりにも有名な曲に付いて書いてみる。Danny Boyと云う方が人々には知られているタイトルだろう。

また、イギリス嫌いの人達にとっては、Londonとついているのが気に入らず、Derry Airと云う人も多い。実際、元々はDerryが正式名称(1613年まで)だったのをイングランドがLondonを引っ付けたらしいのでそれは許せない人も多く居て当たり前だろう。

さて、曲について面白い話がある。作者と云うのは不明、となっていることが多いようだが、あるストーリーを読んでみると Rory Dall O’Cahanの作ではないか、ということだ。

彼が飲み過ぎて川のほとりでこけて、持っていたハープを落としてしまってからそこで寝込んでいる間に妖精が彼のハープを弾いていて、目を覚ましてからそのメロディの美しさを想い出した。そしてすぐに彼のパトロンの下に行き、まだ誰も聴いたことのないそれを弾いた。その時点ではO’Cahan’s Lamentと呼んでいたらしい。

彼が生まれたのはアイルランドCo.Antrimで1580年頃、1653年頃にスコットランドで亡くなっている。

そのだいぶ後、1800年代中ごろに人々に知られるようになったという事だ。

それは、Jane Ross という女性が北アイルランドで聴いたハープ奏者の演奏を楽譜に起し、アイルランド音楽を研究する人物Dr George Petrieに送ったことに始まった。

彼がその曲をLondonderry Airと名付けたようだ。

そして最終的には1910年、弁護士であるFred Weatherlyという人物が詩を書いた。

それがDanny Boyだ。

なお、Jane Rossにその曲を聴かせた人物は盲目のフィドラーJimmy McCurryということだが、よくそんな記録が残っているものだ。

ただ、Jane Rossが聴いたのはハープによる演奏だったという記事もあり、良く分からないことも多いはずだ。

Irish Musicその175

Catherine Ogie  (Air)

ひとつ前のDerry Airの作者Rory Dall O’Cahanの作品。

彼の作品はしばしばO’Carolanの作品と思われていることが多い。

93に登場したGive Me Your HandはいまだにO’Carolanの作として認識されているようだが実際はO’Cahan,アイリッシュではO’Cathainと表記されている彼の作品だ。

O’Carolanは彼O’Cathainの死後17年の1670年に生まれている。

Irish Musicその176

Bonaparte Crossing the Rhine    (March)

この曲に関しては完全に違うメロディが2種類存在している。

僕がよく聴いていたのは別名Battle Called of the Fianna或いはThe Battle of Waterlooともいわれるものでマイナー調のもの。トニー・マクマホンの素晴らしく力強い演奏で覚えた。

もうひとつのDメジャーで演奏されるものはオールドタイムの人達に馴染みが深いかもしれない。別名The Braes of Dungevan March或いはDurham Rangersというバーンダンスとも云われている。これはどちらも完全にスコットランド音楽の形式だ。

その昔、Foggy Mt, BoysのPaul WarrenがDurham’s Bull という勢いの良いフィドルチューンを弾いていたがそのDurhamはノース・キャロライナの土地名だろう。イギリスにもあるようだが。

青春の光と影

先日、とある人の勧めで、ある映画の試写会に行った。

タイトルは「君が死んだあとで」

1967年10月8日、羽田闘争の際、山崎博昭さんが弁天橋で死亡した。映画は、彼のお兄さん、そして当時の仲間たち、友人たちに話を聞くドキュメンタリーだ。

僕が京都産業大学に入ったのは1968年だったが、そこは学生運動が無い大学として知られていたので学内はとても静かだった。

一方で、たまに同志社や立命といったところに出掛けて行くと、そこにはヘルメットをかぶり、角棒を持った学生達がうようよ居た。

そんな彼らを横目で見ながらバンジョーを持って歩いた。

高校時代にはフォークソングを歌い、その中にも反戦歌はあったにせよ、そのための集会などには興味が無かった。

そうはいえども、そういった運動を否定する気持ちもなかったので、彼等にはある意味一目置いていた感がある。

そんな僕なので、これは観に行ったらもっと深いところを知ることができるかな?と思い、何と休憩を挟んで3時間20分もあるものだったが、希花さんを誘って行ってみた。

3時間かぁ…と思いつつ、はっきり言って“寝ちゃうかなぁ”と思っていたが、最後まで寝ずに観ることが出来た。

ただ、あとちょっとの編集で30分位短くしたら、もう少し多くの人に観てもらえるのかな、とも思った。

それはそうとして、僕には“あの時代はみんな熱かったなぁ。中には山崎さんのように命を懸けてでも政治の悪の部分に(悪ばかりではないのかもしれないのであくまで“部分”ということで)立ち向かう勇気と知性を持っていた人達がいたけど、彼にしてもそこで死ぬとは思わなかっただろう。でも、死をもっても抵抗するくらいの思いを持っていた大学生がいたんだ”という、一種の自分には無かった才能を持ち合わせた同世代が近くにいたような親近感をおぼえ、なにか懐かしさと虚しさ、そして悲しさを感じた。

さて、希花さんの反応はどうであったか。

実はその辺りが一番知りたいところだった、というのも事実だ。

周りを見ても僕くらいか、その少し下、或いはその少し上という世代がほとんどだったので、それに内容も内容だし寝るのかな、と思っていたらしっかり観ていた。

そこで曰く「あれだけの熱い思いを持って突き進んでいった人達、行動力だけではなく、頭脳も優れた人達が、いま、どうしてそのまま日本を良くしていく仕事に就いていないんだろう。なぜ、ある時を境にみんな止めてしまったんだろう。そこには偉大な達成感があったんだろうか。それともこれ以上は無理、という敗北感だろうか。とにかくあれだけの人達がそのまま世の中を引っ張って行ければ今、少しは変わった世界になったかもしれないのに」

というようなことを言っていた。

勿論、ぼくらのように同世代の仲間意識みたいなものは無いし、熱き時代を語ることとは縁が遠い。しかし、希花さんにも彼らの熱い思いと、抵抗する力と頭脳を強く感じたドキュメンタリー映画だったのだろう。

弁天橋の事件も、首相のベトナム訪問を阻止する目的だったが、彼らの描いていた成功例は羽田空港に突入して飛行機を飛べなくすることだったのか、あるいはそれが出来なくても、強く反対の意思を表すことが目的だったのか…いや、やっぱり阻止が最終的に描いていたものだろう。

彼の死は結局のところ、うやむやにされてしまうのだが、それが政府、国家権力のありかたで、今もそこは全く変わりない。

同じように、彼らの運動は無かったものとして捉えているのが国家権力なんだろう。

存在すらも消してしまうような。

学生運動をやめた人達の中には、考えに考えた末、或いはずっと“もやもや”しながら、ある日突然、やめた、という人もいたようだ。

それは、まるでフォレストガンプが突然「家に帰る」といって足を止めたあのシーンと全く同じだった。

達成感と敗北感の挾間で何かがフッとふっきれたのだろうか。はたまた、次なる活動のビジョンが見えなくなったのか。

とに角、それまでとは全く違う世界が見えた、という話もあった。

この映画であの時代、60~70年代の事を語ってくれた人達は間違いなく、熱い心を持って力強く生きてきた人達だ。

そしてその中で仲間の死、それも権力の下に蓋をされてしまった死に対してはこのような形で語り継いでいくしかないのだろう。

我々は何をどうすべきか

壮大なテーマだが、最近、コロナ患者を受け入れている病院で働いている友人から興味深い話を聞いた。

「重症になっているのはほとんど年寄り。それも昼カラオケの奴ら。大体煙草を吸う連中か不健康に太っているやつ。そんな奴がなにも考えずにカラオケに行って運ばれてくるのを僕たちが面倒みなければならない。正直、自業自得。もちろん、中には家庭内感染も居るけど、圧倒的に昼カラオケが多い。こんな奴の為に死に物狂いになって働かなくちゃならないのは正直頭にくる。ナースはもっと大変。ナースコールが来るとすぐに出来るだけ急いで防護服を完璧に着こなして出かける。それはそれは大変な作業の1つ。やっと戻ってきて防護服を脱いで捨てた途端にまたナースコール。一体何人の看護師が辞めていったのか、もうすでに分からない。若い奴は若い奴で、大騒ぎした挙句に苦しくてたまらないと言って運ばれてくるし。でもそんなに重症化せずに帰っていくと、もう忘れちゃうんだろうな」

また、彼はこうも言っていた。

「みんなちゃんと予防をしようよ。身体によく無いこと…たばことか、食べ物とか、少し気を付けて、世の中でこうした方が感染は防げるよ、と云われている事、例えばマスクとか手洗いとか、食事の時のこととか、ちゃんと守っていれば感染はある程度防げる可能性があるし、重症化も防げる可能性もある。それでも感染してしまう事はあるし、でも自分が後悔しないためにもできるだけ規則を守ったり、少し自制心を強めに持ってくれると僕らも助かるんだけど」

とても説得力がある話だった。

「ここ1年以上、飯食いに行こうか、なんていう事をいうやつは医者の中にはいないよ。誰かを誘うなんてもってのほか。ま、そんな暇もないしね」

最近はそんな感じだそうだ。

国会で嘘ばっかりついて、何の展望も示さずに国民をバカにしている政治家って生きている必要があるんだろうか?

学習能力の無さに於いては、繰り返しあおり運転をする奴、震災の後に泥棒に入る奴、平気でカラオケに行って医者に面倒をかけるやつ、飲み過ぎ、騒ぎ過ぎて倒れて病院に運ばれる奴、そんな奴らと政治家はほぼ変わりが無いんじゃないか、と僕は思っている。

しかしながら、友人は政治家に関してはなにも言わなかった。多分、もう人間以下の存在としか捉えていないのだろうか。

取りあえず、次から次へと運ばれてくる人たちの面倒をみることしかないのだろう。

こんな文章を随分前に書いたのだが、こんな事、もうみんな分かっていることだろうし、バカバカしいので掲載するのは辞めておこうと思っていたが、厚労相の大宴会のニュースを聞いて愕然として、ま、いいかと思ってしまった。

やっぱり一番危機感の無いのは官僚であり、役人であり、政治家であった、という事だ。

我々が何をどうすべきかはさっぱり分からなくなってきた。

そろそろ

そろそろ本気になってくれてもいいんじゃないかな?

マンボ―なんて言っているより、こう言ってほしい。

「国民すべてがオリンピックまでにワクチンを打てるように全業務、責任をもって行う」

しかし、もうすでに手遅れになっていることが全く分かっていないのだろう。

なぜ、ワクチンの研究にもっと、お金も精力も費やす努力を政治の力で真剣に考えて取り組んでこなかったのだろう。

どう考えても「自分たちは守られているから大丈夫」という甘い考えを持ったまま、2年目に突入しているように見える。

もういい加減、嘘で固めた政治、金と権力だけで固めた政治からはおさらばしても良い時にきているのではないだろうか。

どの政権にもウイルスと戦うことが出来ないだろう事は分かっている。

しかし、闘う姿勢とそのための努力を見せて欲しいのだ。

嘘ばかりついて金と権力に胡坐をかいている場合ではない。特に今の政権は。

爆発音

昨日、東京の京浜東北線という電車に乗って埼玉の大宮から戻ってきたときの事。

時刻は夜の9時をまわった頃でしたが、

日曜日ということもあり、混み様は大したことなく、それでもそこそこの乗車率でした。

僕は一番隅っこの3人掛けの処、壁際に座っていたのですが、やがて中国語が聞こえてきました。

それは僕が座っている処から結構離れている、でも同じ車両の端の方でした。

そこに親子らしき中国人の家族が居たのですが、なにを興奮しているのか、やがて声が尋常でなく車両に響き渡り始めました。

日本人だったら間違いなく大喧嘩の怒鳴り合いですが、もしかしたら家族愛を語っているのかもしれません。

ただ面白かったのが、ちょっと身体を乗り出してみると、その辺だけガラガラです。

だ~れも座っていないのです。

多くの人が避難してきて、それでも興味津々、同じ車両のこちら側に立っているのです。

そんなことにはお構いなく強烈な爆発音で叫び続ける家族。

ま、ここからこのパンデミックが始まったんだろうな、と、改めて感じました。

白人種は声がでかいし家も外も一緒、フランス人やイタリア人はすぐハグをし、キスをする、

中国人は飛ぶものは飛行機以外、4つ足は机以外何でも食べ、世界中どこにいても聞こえるくらいの爆発音で喋る…等々、確かに日本人とはよくできた民族だと感じざるを得ない。

中にはいまだにマスクを拒否するミミズみたいな奴も居るけど。

おっと、ミミズさんごめんなさい。

その昔、アメリカのスタジオで録音していた時のこと。

そのスタジオがチャイナタウンの近くにあり、ま、それでもスタジオなので防音もしっかりできているはずなのに、ヘッドフォンから僅かになにか音が漏れているのを感じ、表を見て見ると、2人の中国人のおばちゃんがスタジオの前で世間話(だと思う)をしていたのです。

エンジニアのデイブに「外に中国人が二人いる」と伝えると彼が「本当か?100人は居るんじゃないか?」と言ったほどだった。

ま、おばちゃんと云うのは大阪人に代表されるようにうるさいものではあるが。

しかし、アメリカでもヨーロッパでも多くのシーンで遭遇しているはずの中国人でも、昨夜の家族には正直驚かされました。

あー、今でも耳鳴りが…って大袈裟か…。

Irish Musicその177

Penny Candle / Red Tom of the Hills (Reels)

最初の曲はPaddy O’Brien次がEd Reavyという2大コンポーザーのメドレー。

これは、サンフランシスコのPlough and Starsの為に世界のアイリッシュミュージシャンが作ってきた映像のうちのジョディース・ヘブンが担当した曲。

ちょっと前に僕がアンドリューから受け継いでEaster Snowを弾いたが、その後、ジャック・ギルダーに渡して、それならばジョディース・ヘブンで、ということになり、デイル・ラスにも参加してもらった。

基本Plough,,,に出演していたミュージシャンが、これからもPlough,,,を応援し続けよう、と発足したもの。

僕にとってもホームグラウンドであった、そしてアイリッシュミュージックとの出会いの場所でもあったPlough and Starsがいつまでも継続してくれることを願うばかりだ。

馬鹿も休み休み…

この言葉は誰でもが知っている言葉であろう。

散々休んでいる政治家が「あの水は飲んでも大丈夫だ」と言っていた。

この時の国民の反応は「だったらお前が真っ先に飲め!」か「馬鹿も休み休み言え!」だっただろう。ほぼ100%の割で。

まぁ、確かに休みが多すぎて馬鹿も休み過ぎた結果だろうけど。

「うちわ会食」というのにも「おいおい、遊んでいる場合じゃないだろう」

これも国民のほぼ100%がそう思っただろうが、これ考えた人ってどういう頭の中身をしているんだろう。

「まだ、大きなうねりとはなっていない」と言っている国のトップ。

この男の云う「うねり」とは…国民の半分以上が感染するくらいの状態の事なのだろうか?

一体、頭の中はどうなっているんだろう。馬鹿も休み休み言え!だ。

ほぼ、このまま3年目に突入していくんじゃないか、という疑念が湧いてきた。

頼みの綱であるワクチンよりも、やれマンボ―だ、やれうちわだ、やれマスク会食だなんて、その上、早期解散という仕事放棄まで来てしまっては、もはや救いようがない。

馬鹿も休み休み言え!だ。

またしても

2011年の12月から書き始めたこのコラムも、最近はなんか文句ばかりになってきてしまったが、それもこれもほとんどが嘘つき政治のせいだろう。

長いこと続いている。

文句を言うのだったらアイディアを出せ、と云われたら僕はこんなアイディアを出す。

緊急事態宣言は政治家に向かって出すべきものだ。

ボーナスは無し。それは彼等にとって緊急事態だろう。

でも、もしそうだったら彼らは緊急事態宣言は発出しないだろう。彼等にとってはその程度のものだ。取りあえず生活がかかっていないのだから。

最近友人からこんな話を聞いた。

「先日、本当に頭に来たことがある」彼は医者で、多くのコロナ患者を診ている。

「居酒屋を5軒はしごして、酔っぱらって道で倒れて救急車で運ばれてきた若い奴が、検査をしたら見事に感染していた。こんなアホを助けるために自分の命をかけなくちゃならないってどうよ!」

給料もボーナスもしっかりもらってほとんど隠れて、たまに出てきたと思ったら国民をバカにしている政治家でも助けたほうがいいのかなぁ?これは僕の心の声。

さて、ワクチンは?

なんか9月には全国民の分、とか言っているけど、決して全国民が打てるとは言っていないし、どうせ見通しの甘い嘘だろうと、今まで通り勘ぐってしまう。

アメリカやイギリス、アイルランドの友人たちがこぞって、もう2回打ったけど君は?なんて聞いてくる。恥ずかしくて何も言えない。

とに角、またしても緊急事態宣言などと称して国民ではなく、自分たちを守ろうとしている政府は本当の意味での緊急事態を自ら知るべきだ。

CD ” The Strings ” 近日発売

このアルバムはハープとギターの演奏をメインにしたものです。

使用楽器であるアイリッシュ・ハープについては、アメリカ、ミネソタのレッドウイングにある小さな工房で作られているもので、約2年前、希花さんが工房を訪れた際、制作者とお話したことで、更にこの楽器が世の中に普及してほしいという思いが強くなりました。

使用しているのは、ラップハープと呼ばれている比較的小型のモデル名Brittany-22

というものでフルレバー(全ての弦にレバーが対応し、様々なキーで演奏可能)です。

比較的小型であることは素晴らしく、様々なキーとは言えども、リミテッドな部分も否めませんが、この音を実際に耳にすると、多くの方が「欲しいな、弾きたいな」と思うようになるという、不思議な楽器です。

ギターに関してはもう書くことはありませんが、使用楽器はローデン。北アイルランド製です。

長年マーチンギターを使用していましたが92年頃、このローデンギターに出会ってからはずっとこれです。

このアルバムでも全てDADGADチューニングでO-32cというモデルを使用しています。

ここまではアルバムの概要。

それぞれの楽曲についての解説はライナーに書き記しております。

ジャケットデザインについては、今までとはかなり違う印象を持たれるかもしれません。

これは是非楽しみにしていてください。

さて、僕らは既に次のアルバムに向かっていますが、今のこの状況ではいつコンサートを再開できるか分かりません。それどころかもう無いかもしれません。

既に小さな音楽会を開催している方達もいますし、それを否定する気もありません。

勿論、感染防止対策はきちんとなされているのだろうし、様々な意見を出し合った結果のことだと思うので。

ただ、僕の考えではやはりそれはなかなか出来ません。慎重すぎるくらい慎重にならざるを得ません。慎重すぎるのかもしれませんが…。

そんなわけで、ライブの予定が立てられない中、今年はすでに2枚のCDを計画しております。もしかしたら3枚になるかもしれません。

それで何とか皆さんとの間をつないでいきたいと思っております。

聴いていただいて、本当に僕等らしい演奏だと感じていただけるだろう音づくりに専念いたしました。

The stringsは5月半ばには出来上がってきます。

どうかよろしくお願い致します。

ネットニュース?テレビ?新聞?

以前は新聞をとっていた。あまり目につかない小さなニュース、というか話題というか、そんなものを見つけるのが結構面白くて…。

アメリカではこんな小さな記事を見つけることが出来た。

「蒙古班をみた事の無いベビーシッターが、虐待と勘違いして両親を訴えた」

「メキシコからの不法移民がアメリカの高速道路のスピードに不慣れで、必ず列の最後尾の奴がはねられて死亡する、というケースが毎年数件ある」

「コーヒーを一日2杯以上飲む人の自殺率は低い」

など、本当かな?と思う事から、もしかしたら…と思うことまで様々だ。

今ではネットで新聞を読むこともできるが、こんな小さな記事に気がつくかどうか分からない。

今やテレビでニュースを観ることが多い。

朝は必ずいくつかの番組(ニュースではないが)を観ているが、腹が立って仕方がない。

これはひょっとして新聞や、その他の文章で読むより腹が立つものだろうか。

やはり人の声で伝えられた方がこちらも反応しやすいという側面があるのだろう。

他人の命など自分の給料の次の次だと思っている内閣官房参与。それを何とも思わずにスルーしてしまう今の政権。

改ざんした資料を更に黒塗りして裁判所に提出しようとしている財務省。

その財務省に助けてもらった元首相から現首相まで。

むかし「悪いやつほど良く眠る」という映画があったが(1960年、何故か観たなぁ)国会で寝ている奴らを見ると自然とそのタイトルを想い出す。

話変わって(ま、あんまり変わっていないけど)大嘘をついてまでも招致したオリンピックは決して選手の事を考えていないことは最初から分かっていた。

こういう云い方は良くないのかもしれないけど、大嘘のつけがまわってきたような気もする。

7月の日本は温暖でスポーツに最適だとか、アンダーコントロールだとか…。

国民はコントロールされている、という意味だったんだろうか?

また話変わって、中国は、最初からこのウイルスに対抗できるワクチンなどを用意していたんではないか、と勘ぐってしまう。

これは中国が起した地球規模のテロではないか、とも勘ぐってしまう。それを手助けしたテドロスはいまだに涼しい顔をしている。

2022年の北京冬季オリンピックは彼等にとって美味しいものとなりそうだ。

これらはテレビのニュースや情報番組で得ることなので、ちょっと極端な、独断と偏見というものも含まれるかもしれない。

そういう事もあるので、やはり新聞などで情報を得たほうが冷静になれるのかもしれない。

それにしても水泳選手のコメントは突き刺さった。素晴らしかった。テレビでもネットでも。

The Strings収録曲よもやま話1

各楽曲についての詳しい説明はライナーノーツにあるのだが、ここではそれ以外の裏話や書ききれなかったストーリーをここに書いてみる。

長くなりそうなので少しづつ。

Diarmuid’s March

ハープのイントロから始まったこの曲は、以前Listening to the Outside Worldというアルバムで一度録音したことがあるが、その時はメインの楽器がコンサーティナであった。

この曲を初めて聴いたのは…と云えども、初めてではなかったのだが…。

アイルランド、フィークルのフェスティバル会場で多くの人達と飲んで話をしながら、ふと建物の中を覗くと、5~6人の若者たちがステージの上で演奏していた。

文句のつけようのない素晴らしいトラッド精神に裏付けされ、その上強烈なテクニックを持った10代後半と思われる彼等。

そんな彼らが演奏していたこの曲。希花女史がどえらい気に入ったものだった。

良い曲だけど、どこかで聴いたことがあるような気がする。

そんな思いを抱いたまま、自分たちの演奏もあるのでその場を後にした。

そうなると気になって仕方がない。

さて、何の楽器で聴いたかな?多分アコーディオン。

若者たちもアコーディオンをリーダーとするバンドであったので、比較的聞き覚えのあるサウンドだった。

そして、朝から晩まで知っている限りのアコーディオン奏者のアルバムのそれらしい曲を聴いてみる。

ワルツかスリップジグかマーチだということは分かっている。

やがてシャロン・シャノンの演奏に行きついた。結構有名なアルバムのタイトル曲になっていたものなので、もう忘れていたんだろう。

シャロン・シャノンと言えば、僕がよくサンフランシスコで一緒に演奏していた、アシ―ナというフィドラーが彼女のバンドに入っていて、ある時「このバンドでギターを探しているんだけどジュンジやる?」という電話がかかってきた。

有難い話だったけど、確か当時、フランキーやパディとのトリオが発足したばかりだったかな。それで忙しくて断った覚えがある。

シャロン・シャノンにはそんな想い出がある。

Vincent

ドン・マクリーンはアメリカのフォークシンガーの中でもかなり有名だが、日本ではどうだろうか。来日はしていないようだ。

1971年から2年にかけてアメリカンパイと、このビンセントが立て続けにヒットして有名になった。

この人はヴェガのロングネックを弾くし、ある写真ではリゾネーター付きのバンジョー(機種は何だったか忘れたが、インレイはハーツ&フラワーだったと思う)を横に置いた写真もあったので、興味を持ったものだ。

因みに、ロバータ・フラックのKilling me Softly with his Songについて、作者のロリ・リーバーマン曰く、ドン・マクリーンがロスの小さなクラブで歌っている姿に感動して作ったものらしい。

以前、ドキュメンタリーで観た時、彼女が「自分の作った曲が素晴らしいアレンジでラジオから流れて来て、思わずフリーウエイで車を止めて聴き入ってしまった」という話をしていた。

ここではチェット・アトキンスの演奏からヒントを得ているが、彼の演奏はスタンダードチューニングだったのに対して、僕はあくまでDadgadで演奏している。

The Strings収録曲よもやま話2

Niel Gow’s Lament for his Second Wife / The Humours of Trim

美しいフィドル曲を今回はハープソロで。この曲は多くの人に取り上げられている。それだけに難しい曲でもあるので、かえって奇をてらわずに淡々としたペースがいいだろうという事で敢えてハープ一つにしてみた。

1800年代前半に書かれたこの曲に関してはすでにコラムの方で詳しく書いているのでここでは省略するが、明治時代以前からこんなメロディが存在したのかと思ってしまう。

因みに彼は2度結婚しているが、どちらもマーガレットという名の女性だったという。ここにあるセカンドワイフは Margaret Urquhart と云う人で1768年に結婚したという記事が残っている。彼女は1807年に亡くなり、その2年後の3月1日に彼は80歳で亡くなっている。当時としては長生きだったかな。

続く曲は別名Rolling Wavesとも云われているが、これについてもよくわからないが、アイルランド音楽に於いてはよくあることなのであまり追求しないほうがいいかもしれない。

単純だがとても美しい曲だと思っている。そのくらいに留めておいて、誰かが「Rolling Wavesをやろうか」と言った時、どちらかな?と考える余裕があるといい。

なので僕は常にいくつかのタイトルを知るようにしている。その方がセッションなどでは対処しやすい。

なお、これではないRolling WavesはThrough the Woodというアルバムで収録している。

Sakura / The Butterfly

1曲目は、云わずと知れた「さくら~さくら~」だ。アメリカでダウンタウンを歩いている時、黒人のバイオリン弾きが「日本人か?これ知ってるか?」と言ってやにわに弾き始めた。

アイルランドではブレンダン・ベグリーが夜中の1時過ぎに近所の酔っ払いお姉さんの家に連れて行ってくれて、ワイン片手のお姉さんが「あたし日本に行ったことがあるのよ。それでこの唄良く知っているの」と唄い出したのがこの歌。とてつもなく上手かったがそれもそのはず、その酔っ払い姉さん、メアリー・ブラックだったのだ。

日本人なら誰でも知っているこの名曲だが、酔っぱらって歌ったり、感極まって歌ったりすることはまず無い…だろう。

そして続くは、これも名曲。誰もが知る、というものではないが、僕がこの曲に出会ったのは1970年代中ごろ。ボシーバンドのライブ盤でなんと悲し気な美しい曲だろうと思ったものだ。

彼等のアレンジが素晴らしく、同じアルバムに入っていたThe Maids of Michelstown と共に僕のお気に入りだったので、後年パディ・キーナンに誰のアレンジか訊いてみたところ、やはりドーナル・ラニーだったようだ。

あまり記憶が定かではなさそうだが、僕もそう思う。

いろんな和音の付け方があると思うけど、僕にとってはこれがベスト。

ハープもいいです。蝶が舞うようなイメージがありますね。

The Strings収録曲よもやま話3

Sean O’Dwyer of the Glen

この曲は以前にもギターソロで録音したことがあるが、多くのギタリストにカバーされているものだ。

勿論、John O’Dwyer of the Glenというタイトルでもある。

自分なりにアレンジしたものだが、Dadgadの特性を生かしている、と思う。

まことにややこしいが、全く同じタイトルでセットダンスがあるが、聴いてみると全く違うように聞こえるが、何故かどちらかが基になっているんじゃないかと思わせる部分もあるから不思議だ。

この手のことはこの音楽を聴いていると結構な頻度で起こりうることだ。

悲しくてやりきれない / Her Long Hair

1曲目は、フォーク世代にはお馴染みの曲。なにも言う事はない。フォーク・クルセダーズと云うのは、思えば僕らがまだ高校生だったころ、1967年頃に初めて聴いたグループだった。高校生最後の年だったのかな。そろそろ進路を決めていて、京都に行くことを待ちわびていた頃だ。

ブルーグラスをやるぞ!と心に決めていながらも、京都にはこんな面白い人達がいるんだなぁ、と思ったものだ。

静岡と云う立地からどうしても東京に出ることが多く、関西よりも関東のフォークシーンの方が馴染み深かった。なのに何故京都を選んだのか。

それは多分父親が立命館の出身でなんとなく京都、だったのだろう。

立命、同志社はちょっと厳しいかな、と思っていたところに京都産業大学というところを見つけた。そして坂庭君と出会った。

2曲目のHer Long Hairというのは実際のタイトルはこうだ。

Her Long Dark Hair Flowing Down Her Back

これだけ長いと一行では収まらないので省略したが、このように表記する人も多くいる。

また、Flowing down her back and the colour of her golden hair was blackと云うのが作者が提示しているタイトルだという話もあるが、ほとんど冗談だ。

でも多分そう言ったんだろう。

美しいメロディのホーンパイプで、Junior Crehanのコンポジションということだ。

なお、1894年にFelix McGlennonが書き1944年にSong of Nevadaという映画でDale EvansとSons of the pioneersが歌った歌からヒントを得たのではないか、と云われてもいる。イントロはちょっと似ているかも。

歌のタイトルはHer Golden Hair was hanging down her back というものだ。

非常に興味深い。

The Strings収録曲よもやま話4

O’Carolan’s Ramble to Cashel

最も美しいハープ曲のひとつだ。

僕はジョディースヘブン時代から好んで弾いていた。

初めて聴いた時から、これ、ギターで美しく演奏してみたいな、と思ったものだ。

ある時、どこだったかな。サンノゼのどこかだと思ったが、アイリッシュ系の人達を集めたストーリーテリングとダンスと音楽の会があって、お客さんは300人くらい。お歳よりも随分いて、タイタニックに出ていたような人がいっぱい来ていた。

その中でギターソロとしてこの曲を弾いたら、終了後2人の歳の頃は90くらいだろうか…おばあさんが「いたく感動して国を想い出して涙が止まらなかった」と言ってくれた。

多分に曲の美しさもある。

これも僕らはMusic in the Airという2作目のアルバムで、すでにハープとギターで録音しているが、今回は敢えてハープのソロにしてみた。

Derry Air

恐らく世界で最もカバーされている曲のひとつだろう。

僕自身も最も好きな曲のひとつにあげることが出来る。

ただ、日本人にとっての「さくら」と同様、アイルランド人なら誰しも好きで歌ったり演奏したりするような曲ではない。

パブのセッションでこんな曲をリクエストしたら、ほとんどのケースいやがられるだろう。

ミュージシャンもだいぶ時間が経って酔いもかなり回ってきたら冗談のように演奏しだしたりすることもないではない。

ただ、ほとんど「しゃれ」だ。

この曲に関してはライナーでも少しだけ触れているし、コラム(カテゴリーでいうと、Irish Musicその174)でもかなり細かく書いた。

そのストーリーは日本で言えば、まるっきり「日本昔ばなし」だ。常田富士男と市原悦子の声が浮かんでくる。

ライナーではRory Dal O’Cahanという作者の名前が出ているが、彼の生まれは1580年とも1570年とも云われている。どちらにせよかなり昔の話だ。

名前もRolly だったりRoryだったりするが、どうやらRoryが正しいかもしれない。

春よ、来い

この曲についても、ほぼ日本では知らない人がいないのではないか、と思うくらいの名曲だ。

もともと、ハープで演奏するのがいいんじゃないかな、と思っていたところに、ちょっと真逆とも思えるバンジョーを合わせてみたらこんな風になった。

本家ではベースはリーランド・スクラ―が弾いていたんですね。

ダニー・クーチマーやラス・カンケルなどと共によく聴いていたものです。

みんなが知っている曲だけに結構演奏するのは難しい部分も否めない。

そこそこ長いこと二人で演奏しているが、春にならないとやらないので、ついつい忘れてしまう。

バンジョーのチューニングはどうだったかな?なんて想い出しながら…。やり始めた時にはスタンダードチューニングだったかもしれないけど今回はマウンテンマイナーを使ったかな。春も過ぎて暑くなってきたのでもう忘れたかな。

また練習しなくちゃ。

希花さんもいくつかのキーで演奏しているようだ。

The Strings好評発売中

皆様、いかがお過ごしですか?

新しいアルバムThe Strings販売開始のお知らせです。

ハープをメインにして、ギターソロあり、デュエットありで、なかなか僕ららしいサウンドのこのアルバム、多くの方の心の支えになっていただければ幸いです。

ご注文はこちらから 10strings CDs

その他のCDもまとめてご覧いただけますので、見逃していた作品等ありましたらぜひ。

どうか皆様がご健康で、そして、このアルバムを手に取っていただき、ちょっとだけでもリラックスされることを願っています。

ワクチン接種

5月28日にコロナワクチン接種を受けました。別にこんなところに書くことではありませんが、自分の日記だと思って書いています。

接種券がきてから4日目の予約開始日。

電話とかネットとか書いてあったけど、やっぱりネットの方が良いだろうと思い、希花さんに相談すると「任しゃんかい!」とばかりに、全ての資料を手元に置いて、朝8時半の受付と同時にパソコンを打ち始めました。

そのスピードの速いこと速いこと。僕ならまだ自分の名前を打ち込んでいる最中くらいのところですでに全ての必要事項の書き込み終了。

気がついたら3分ほどで2回分の予約が取れてしまいました。

念のためにもう一度15分ほどしてからサイトを覗いてみたところ、もうほとんど埋まっていました。

やれやれでした。

3週間後は6月18日。

近所の僕より8歳くらい上の女性が自慢げに「あたしは根気よく電話をして30分で取れたわよ!と言っていたので「ネットで3分」と言っても頑固な人なので、「電話で30分」とまくし立てていた。

おまけに2回目は6月〇日に取った、と云うので「〇日なら3週間後は〇日じゃないはずだよ」と言っても「私はちゃんとカレンダーを置いていたから間違っていないわよ!カレンダー見てみなさいよ」と云い張っている。

あまりにしつこいので僕はおもむろにスマホを取り出し、カレンダーを表示して「あんたは△日。これ見てごらん」と言ったが「あー△日ね」と言っただけだった。

それまでの〇日と云うのがすごい剣幕だったのに、あら間違ってたのね、の一言も無かったので後で思えばそのままにしておけばよかった…なんて…思っても…いたか。

こうして日程を間違える人っていっぱいいるんだろうなぁ。

年寄りは頑固になり過ぎてもいけないな、という反面教師。

さて、接種当日。

沢山の年寄りに囲まれて(向うもそう思っているだろうが)待合室へ。

一応希花さんにも付いて行ってもらったが、受付の人が番号札をもっているか希花さんにも訊ねていた。

おいおい、見りゃ付き添いって分かるだろう。全くお役所仕事と云うか…なんと申しましょうか、小西さん。

まぁ、そんなこんなで何の混乱もなくめでたく接種が始まりました。

看護師さんが名前を確認。「痛いですか?」と尋ねると「大丈夫。数でも数えていてください」と云われた途端、「はい終わり」「え?」というくらいのあっという間でした。

痛くも痒くもない、とはこのことだろうか。素晴らしいテクニックだ!

採血はけっこう痛いですよね。

そして15分ほど体調を整えて、会場を後に。

やがて少し腕が重くなってきてちょっとだけ痛みも出て来て、と通常の予防接種くらいの感覚が生まれてきました。

年寄りほどあまり症状は出ない、と聞いていたので若い人は、もうここらあたりでもっと、ずしんと来ているのかな?と思いつつもなんとか時を過ごしていましたが、流石に夜中には寒気と微熱がありました。

朝には普通の体調に戻っていましたが、腕はすこしまだ筋肉痛。

2回目の後がかなりきつい、という話も聞きますがそれも若い人にとっては、というところもあるし、どうでしょうか。

調子悪くなったら若い証拠かなぁ。

オリンピック

待ち遠しく思っている人もいっぱいいるんだろうなぁ。僕は元々あまり興味が無かったので、何にもなかったら2020年は日本に居ないつもりでいた。

嘘ばかりついて招致したオリンピックだと感じていたので、スポーツを観戦するのは決して嫌いでもないし、素晴らしい選手たちを応援することに変わりはないが、なんか今回のオリンピックに関してはそっぽを向きたくなっていた。

7月の日本は温暖でスポーツに適しているって、7月に外でスポーツしたことあるのかなぁ。

原発はアンダーコントロールだって、ど…ど…どこが?

そして遂にこれだ。

本人は今頃涼しい部屋で犬を抱いてコーヒーでも飲んでいるのだろう。

嘘もほうべん(方便)とはよく言ったものだ。便でも拭いたり流したりするのに、何もしないで逃げるように去っていくって…ありゃ、あんまり関係ないか。

でも沢山嘘をついて逃げていったなぁ。

思えば、1964年のオリンピックの事もあまりよく覚えていない。

女子バレーが強かったこと、マラソンの円谷の事、ウエイトリフティングの三宅、それくらいだろうか。体操の男子も少し記憶にあるかな?

今回のオリンピック、もしやったとして(もう開催は、眼を堅く閉じて、耳も堅く閉じて決まっているようですが)世の中の人にとってはどういった記憶が残るものになるのだろう。

もう後何日もないのに、別な地平って何なんだろう。

自主的な研究成果の発表?

ワクチンを頑張っているってお前たちの功績のような言い方をいとも簡単に言ってのける。

政治と金の問題はきれいになった?お前が居る以上それはあり得ない!

政治家になる条件として、自分に否定的な意見には耳を閉ざす。嘘をついてでも自分の存在を誇示する。金はどんな汚い手を使ってでも手に入れる。何かがばれたら入院するか辞職して放っておく。

究極、国民のことは考えなくていい、というところだろう。

2020年からのコロナ、オリンピック騒動ではっきりした。

ま、頑張っていることは認めよう。しかし、一生懸命頑張っているようにはみえない。

よく「しっかりと」などと言っているが、その「しっかりと」も死んだ魚のような眼を上目使いにして、他人事のような口調なので、どうしても「しっかり」と聞く気にはなれない。

オリンピックを心待ちにしているみなさん、ごめんなさい。

そして何よりも、こんな状況の中、一生懸命練習をし、調整を怠らない選手の方達が本当に祝福されることを願っている。

僕のように政治の事もスポーツの事も良く知らない人間まで懐疑的になってしまう事が本当に気の毒だ。

アイリッシュハープ日本上陸

とうとうやってきました。

遠くミネソタ州、レッドウイングから、ストーニーエンド社の制作するアイリッシュハープ。

御茶ノ水クロサワ楽器のバンジョー、マンドリン、アコースティックギター、ウクレレ、クラシックギターなどと共に昨日から粛々と鎮座しております。

見るからに素朴で上品な芸術品といういでたち。

そして音は様々なハープメーカーの中でも秀一といえるでしょう。

弾きやすさと云う点に於いても、また値段とのつり合いも良く、今まで日本では手に入りにくかったのが不思議なこのストーニーエンド社のハープ。

是非、お店の方でチェックしてみてください。

遠方の方は下記に連絡すると詳しいことを教えていただけると思います。

クロサワ楽器ドクターサウンド 担当 小林

小林氏は僕よりもナターシャーセブンの唄をよく覚えているのですが何故か30歳。

まだ生まれていなかったはずなのに。

それにバンジョーもかなりの腕前。加えてとてもよく勉強しているらしく、その歴史や構造に関してもかなり詳しいです。

そんな彼が昨日、希花さんの指導を受け、調弦からスタートいたしました。

ミネソタから遠路はるばる届いたばかりのハープ。

まだケースの中身も確認していないような状況でしたが、ちゃんとハープは入っていました。

非常に親切なガイドブックも、交換のための弦も全て付いています。勿論持ち運びに便利なソフトケース(結構しっかりクッションが入っている)は綺麗な緑色。

これは忖度なしに云わせていただきますが「いい物」です。

駅前#2

去年の6月23日に書いたことと同じことが今起きている。

ただひたすら騒がしい。

またしても想像力に欠けた政治家が、がなり立てている。

このやり方はもう止めた方が良いと思うが、みんなあまり気にならないのかな?

ある脳科学の先生が「日本人は工事現場の音も、音楽の音も同じところで聴いている」という恐ろしいことを言っていた。

究極、日本人には「静寂」というものが一番似合っているはずだろうか。

あ~あいつらが速く居なくなってほしいと思うが、しばらく続くはずだ。

駅前で「ガーナの子供たちのために…」と言って頑張っているガーナ人。

肉声だ。

「ワンちゃん、ネコちゃん達を助けてあげてください」と言っている若者たち。

やっぱり肉声だ。

スピーカーをガーガーピーピーいわせて、思い切り叫んでいる政治家は…。

貴方たちの大音量は健康被害を招きます。

映画

ミッドウェーという1976年の映画をBSで観た。これは劇場で観た覚えがあるが、もっと前の映画かと思っていた。

三船敏郎やヘンリー・フォンダ、チャールトン・ヘストンなど錚々たるスターが出ていたものだ。

懐かしさもさることながら、度々出てくる作戦会議の様は、現政権の何が何でもオリンピックに突き進んでいく姿を見ているようだった。

いかにして国民をだまし、説明もせずに突撃させていくか。

ちょっとした違いとしては、今は全員ほとんど判断力がなくなった年寄りばかり、というところかな?

オリンピックに関しては、もう決まっているので特に反対はしない。

もうやりたいようにやったらいい、と思っているが、医療機関は守ってあげて欲しい。

国民のことはどうせ考えていないのだからもういい。結局、何を言ったって突き進んでいくことは間違いないのだから。

戦争映画を観ていてなんか妙に重なってくるのは困ったもんだ。

ワクチン接種#2

いよいよ2回目のワクチン。

前回同様、沢山のお年寄りに囲まれてスムーズに終わりました。

隣のブースの看護師さんが前回の人で「あ、このあいだの人」とお互い反応してしまいました。

今回も全く痛くなく、15分の待機の間も何も無かったかのようでした。

戻ると少し腕が痛い、と感じます。

「もう一人で行けるでしょ!」と希花さんに言われていたので、取りあえず、何事もない旨の報告を済ませ、夕方位になってきたらちょっと腕が筋肉痛。

良かった。これも出なかったらなかなかの年寄り。

しかし、夜は前回のようなことも無し、すんなり寝てしまいました。

問題は朝起きてから。

これが倦怠感というものでしょうか。

決定的に調子が悪いわけでもないけど、なにもやる気が起きない。

横になりたいような感じ。念のため熱を測ったら37・4度。

普段35~36の間なので、これはやっぱり副反応だと思い、腕を挙げてみると昨日より痛い。まわりもほんのり赤くなっている。

これは確かに予防接種を打たれた、という感じ…子供の頃もそんなことがあったような記憶が蘇ってきました。

さすがにその日はもう何もせず、倦怠感に浸っておりましたが、次の日はケロッと治りました。体温も36度まで下がりましたが、まだ腕は痛い。

そしてその痛みは3日ほど続きました。

これが僕の経験した副反応。ま、常識的な予防接種後の反応でした。

梅雨

いよいよやってきました。楽器が鳴らなくなる季節。

やっぱり楽器はあんまり沢山持っていないほうがいいのかもしれない。

全部引っ張り出して調整するわけにもいかないし、たまには弦も替えたりして弾きまくってあげないと腐ってしまうかも。

でもすぐ腐ってしまうかもしれないので替えるのももったいない気がする。

僕なんか少ししか持っていないほうだけど、それでも何日もほったらかしている物もある。

沢山持っている人は大変だ。

それにしても、あれだけよく雨が降るアイルランドであんなに楽器が良く鳴るのは何故だろう。

人間が少ない、というのもあるのかもしれない。圧倒的に音を塞がれる要素が少ないのかな。

それにしては日本での選挙演説の声はめっちゃ響いている。

本人も耳栓でもしていなければとても耐えることができないだろう。

ただでさえもムシムシしたこの日本で楽器も鳴らなくて困っているのに、余計なわめき声ばかり鳴っているのはなかなか堪え難いことだ。

結局何が云いたいのか分からなくなってきたが、取りあえず選挙演説はうるさい。

選挙

あんまりうるさいので、一番静かな奴で現嘘つき政党から遠い奴に入れるしかないか。

そんなことを考えていたら、大した策もなさそうでほとんど「あ~、え~…」しか言わない、しかもめっちゃ声が小さいおっさんがいた。聞いたこともない党を名乗って。

よし、こいつだ!誰一人として信頼に値しないけど、行かずに嘘つき党に俺の分が入ってしまってもしゃくだし。

その程度だが、この数日の狂ったような大騒ぎに悩まされた僕としては、少しでも静かな奴の方がいい。一応いろいろ検索してみたが、毒にも薬にもなりそうではないのでいいだろう。

ま、絶対に当選しないだろうことは分かっているし…。

しかし、本当に彼らは仕事をしているのだろうか。

当選!ばんざ~い!で終わっている奴が多いのではないだろうか。

大学に受かった途端に疲れてしまって、本来やるべきことよりも、さぁ遊ぶぞ、みたいなことに夢中になるような…。

いえいえ、僕の場合はそれほど入試勉強をしなかったので、最初から大学で勉強しようとは思っていなかった。ブルーグラスをやろうと思っていたので。

政治家は金がからんでいるのでもっとたちが悪い。

ま、取りあえず行ってくるか。