Irish Music その110

Irish Music その110

★Planxty Dermot Grogan (Jig)
最初はHolly Geraghtyのハープの演奏で聴いたもの。これは彼女によって書かれた曲で、2006年の2月4日に48歳という若さで他界した、Co.Mayoのフルート&アコーディオン奏者Dermot Groganに捧げたものだ。2009年に彼女自身が録音しているが、2016年、アイルランドのあちこちでこの曲を聴いた。美しいメロディでワルツとして、あるいはエアーとして演奏してもいい。

★Kilmovee (Jig)
多くの人が演奏していて、前々からよく知っている曲ではあったが、これもいろんな名前がある。そのひとつにDermot Grogan’sがある。Brendan Larriseyの作だという説もあるが、定かではない。

2016年 今年も有難うございました

気がつけばもう年末。2015年もお世話になりました、なんて書いてからもう1年が経つなんて…。2017年も書いておこうかな、なんていうことを考えてしまう。

今年のアイルランドでは何といってもキアラン君との出会いが大きな収穫だったかもしれない。

おかげでブリタニ―にも行って二コラとも会えたし。

モン・サン=ミッシェルも観たし。

誰か特別な機会でも作ってくれなければなかなか足を延ばさなかったかもしれないし、そんな意味でもキアラン君に感謝。

それに、あり得ないシチュエーションでミルタウン・マルベイのど真ん中にも滞在できたし。

トニー・マクマホンにも再会できたし。

そして、10月のノエル・ヒル来日、というのも僕らにとって大きな出来事だった。

もう何年も前にステージを一緒にやってそれ以来なのでこちらも少々緊張したが、間違いなく素晴らしいミュージシャンだった。

ふりかえってみれば、特筆すべき劇的な人命救助みたいなことはなかったけど、いろんな意味でいい年であったことは確かだ。

2011年の1月から本格的に始めたデュオも、来年は7年目に入る。

2017年はどんな年になるだろうか。

みなさんの健康を心から祈っています。そして来年もよろしくお願いします。

これからバースデイ・コンサートのために京都に向かいます。

67歳になるようです。なんか他人事みたい。

Irish Music その109

★The Fisher’s Wedding / Lady Harriet Hope

Alasdair Fraser & Jody Stecherの古いアルバム「Driving Bow」からの選曲。僕が90年ころからずっと聴いてきたもので、希花さんとやり始めた頃、彼女にCDを一枚選んでプレゼントしたものがこれだった。Jody Stecherはサン・フランシスコの人で一度だけ電話でお話したことがある。フォーク系の人でフィドルやバンジョーもこなすが、このアルバムでは素晴らしいギターを聴かせてくれる。Alasdairは何度か会ったことがあるものの、スコティッシュ・スタイルのフィドラーで音楽を合わせたことはなかった。彼もまた素晴らしいフィドラーだ。僕がよく一緒にやっていたLaura RiskやAthenaは彼の生徒さんだったと聞いている。因みに彼女たちは10代でスコティッシュ・フィドル・チャンピオンになっている。
1曲目に関しての資料は無いが、2曲目に関しては諸説ある。1800年頃Edinburghで出版されたものに記載されているようだ。又は1759年というピンポイントで指摘する人もいる。Lady Henrrietta Johnstone(1682 -1750)と云う女性がCharles Hope(1681 -1742)と結婚したという史実は残っている。後にHenrriettaはHarrietと呼ばれるようになったらしいが、彼女の娘も孫娘も同じ名前だったというからややこしい。

 

2016年 沖縄 石垣島 そして竹富島

今回はギグではなく友人に誘われるがままに、クリスマスを南国で過ごすことにしてみた。

ちょうどアイルランドからキアラン君が来ていたので、できれば地元の音楽を聴けたらいいな、と思っていた。

沖縄には返還直前の1972年に行ったのが初めてだ。もう記憶には薄いが、本部の野外でなんか船の前で演奏したと思う。

1985年にはかまやつさんと二人で九州と沖縄をまわった。

その時の印象は強烈だ。コザに出掛け、当時すでに解散していただろうか、コンディション・グリーンの人達と一緒に演奏した。

ベトナム戦争はもうとっくに終結していたが、当時の熱い話をいろいろ聞くことが出来たわけだ。

そして2000年ころだろうか。省悟とふたりで行った沖縄は飲み過ぎた覚えがある。と言いながらよく覚えていないくらい飲んだ。

しかしながら、石垣島、竹富島は今回が初めて。

特に、アイルランドに非常に詳しい古矢さん、早野さんにとって、この竹富島もほとんど故郷といえるくらいの場所なので彼女たちに任せておけば間違いない、とキアラン君にも伝えておいた。

気温25℃ほどのやわらかい風が心地いい。確かに「ざわわ、ざわわ」とサトウキビ畑から声が聞こえてくるようだ。

僕らは民宿「マキ」に着いた。ザ・竹富といえるくらいのお母さんが、数日前に腕を骨折したにも関わらず、満面の笑みで僕らを迎えてくれる。

骨折のほうはもうかなり良くなっているという話だが。

とにかく、気候は僕には少し暑いけどその程度でとても気持ちがいい。なんといっても風がさわやかだ。

それに島の人達がいい感じだ。そこに猫だ。

キアラン君も初めてなので目をくりくりしている。

そんなこんなで夜になり、さて、彼女たちが昔から良く知っている糸洌さんの三線と歌を聴く。

例えば、アイルランドの特にゲール語地区で、歌の謂れを聞いてからその歌に耳を傾ける、それと全く同じ光景だ。

そして民宿「マキ」の息子さん(忍さん)による一期一会と歌と三線。こちらもめっちゃ良かった。

ぼくらも3人でトラディショナル・アイリッシュ・ミュージックを披露する。

みんなが「こんなの生で聴いたの初めてだ。すごい!」と言ってくれた。近いうちに竹富に来てもう一度、今度は島のみんなにも聴いてもらいたいから、と促された。

勿論だ。僕らも島に伝わる古い歌をもっともっと聴きたい。

時の流れが、穏やかな海の波のようにゆっくりと漂う中、陽がどっぷりと暮れてきて満天の星をビーチで眺めた。

次の日、僕らは石垣島に向かう。波止場には民宿のみんなが見送りに来てくれている。ご近所の90歳のおばあちゃんがお別れの歌を唄ってくれる。

その歌声は波の音にかき消されることなく、波止場が遠のくまで聴こえてきた。極上の時をありがとう。

そして、石垣島ではキアラン君が海に飛び込んで思う存分泳いだ。

なんでもカーロ―ではクリスマスの日に川で泳ぐ風習があるらしい。本当かな、と思うけど、彼の家族や友人達だけではなさそうだ。

キアラン君大満足だったようだ。

この夏、彼には本当にお世話になったので、ぼくらも彼が満足してくれたらそれでとても嬉しい。

古矢さん、早野さん、どうも有難うございました。

民宿「マキ」の皆さん、本当に御世話になりました。

とてもいいクリスマスを過ごさせていただきました。

Irish Music その108

★Farley Bridge (Reel)
Duncan Chisholm作のこの曲はリールというよりも、スロー・リール、或いはエアーと呼んでもいいくらいの美しいメロディを持った曲だ。キーはEmajorでギターなど伴奏楽器の音の配列によっても大きくニュアンスが変わってきそうな気がする。僕らはいくつかの歌の後にこの曲を合わせている。

★Lonesome Eyes (Waltz)
Jerry Holland作のこれも美しいワルツ。彼のフィドリングは昔から好きでいくつかテープを持っていた。1955年にアメリカで生まれ、2009年にカナダで亡くなるまで、実に素晴らしい演奏を残している。思ったより若かったことにびっくり。

Irish Music その107

★Trolley (Reel)
Cape BretonスタイルのフィドラーColin Grant作の美しいリール。最初はスローで始めるのだが、それがなんとも美しい。速くなってくるとそんなにいいとは(勿論いい曲であることは確かだが)思えず、よくある感じになってしまうので、僕らは敢えてスローだけで演奏している。

★Carriag Aonair   (Air)
実に17年前、Dale Russ & Todd Denmanと録音したものの中に含まれている曲。飢饉から解放されるため北米に船出したアイルランド移民たちが、コークを出て「これがアイルランドの見納めだ」と称した小さな島Fastnet Rockのことらしいが、これは又「The Lonely Rock」というタイトルでもあるようだ。故郷を後にする移民たちの心をえぐるようなメロディが美しくも哀しい。

Irish Music その106

★O’Carolan’s Cup
さて、これはどうもCarolanの作ではなさそうだ。いろんな見解があるようだが、結局のところこの曲に関する資料はないようだ。因みにメロディはかなりCarolanっぽい。さもありなん、という感じはするのだが…。一方であまりにも「らしすぎる」感も否めないではない。

★Paddy’s Return   (Jig)
Kitty Lie Overというタイトルもある。僕はKevin Burkeでその昔覚えた曲だ。
初心者にも非常に分かり易い曲だと思う。

★Up In The Air   (Jig)
Kevin Burkeの作。とてもいいメロディだ。Jody’sでも録音したことがある。

Irish Music その105

★Planxty Davis (Hornpipe)

PlanxtyというとO’Carolanと思ってしまうが、これは違うようだ。しかもメロディもとてもO’Carolanっぽいので初めて聴いた時は完全にそう思っていた。どうやらスコットランドの有名な曲Battle of Killiecrankieが基になっているようだ。定かではないがThomas Connellanというアイルランドのハープ奏者(長年スコットランドに居たという)が書いた曲らしい。彼は1600年代、兄弟のウイリアムと共に700以上の曲を書いた、という記事が残っている。更にもう少し詳しい記事を見つけた。1694年に出版されたもののなかに載っているらしいがそこではKilliecrankieとなっており、後にロンドンでも出版された書物も同じタイトルであるが、なぜかアイルランドではPlanxty Davisとして知られるようになったのが1742年以降。正式なタイトルとしてはThe Two William DavisesとなっておりO’Carolanの作品とされている。聴いてみると確かによく似ているが違うところはかなり違う…がよく似ている。このあたりが「O’CarolanはCopycatだ」と言われる由縁かもしれないが素晴らしい作曲者であることも確かだ。この曲はNoel Hillから習った。

★The Maple Tree   (Mazurka)

Blowzabellaからの選曲。マズルカは元々、ポーランド発祥のリズムと言われているが、確かにこの曲はリズムもさることながら、曲調もそんな感じがする。因みに作者はJon Swayne & Jo FreyaどちらもBlowzabellaのメンバーだ。

Irish Music その104

★Niel Gow’s Lament for His Second Wife (Waltz)

ニール・ガウ (1727–1807)の作品。彼が亡くなる2年前に亡くなった二人目の妻に捧げたものだ。因みに最初の妻も二人目の妻もマーガレットという名前だったという。一応ワルツとしておいたが、ジグという人もいるし、エアーとする人もいる。どちらにせよ美しいメロディで、僕はハープがきれいだと思う。本人はフィドラーであったというからフィドル曲なのかもしれないが。クラシックの分野でも特にギタリストに好んで取り上げられているようだ。有名な曲なので覚えておいて損はない。

 

★Jackson’s (Reel)

これは以前出た同名の曲とは違う曲だ。Jackson’s FavoritesとかJackson’s No1とかいうタイトルも付いている。おそらくMichael Colemanでよく知られている曲だと思うが、これもShips a Sailingに近い曲と言われている。その89に登場したDorogheda Bayという曲も同じような曲なので、これは3曲メドレーでやったら大変なことになるだろう。リード楽器は頭の混乱を覚悟しなければならないし、伴奏者に於いてはメロディは弾かないが全ての音の動きを把握していなければならないし。脳トレにいいかも。

Irish Music その103

★Harp and Shamrock / Fairies’ Hornpipe (Hornpipe)

一曲目はPat Crowleyの作。古くからあるものと思っていたほどポピュラーな曲。とてもいいメロディで親しみやすい。タイトルは“ベタ”な感じがするのだが、作者の親が持っているパブの名前?あるいはそのパブで名付けた、というからやっぱりその名前のパブだったのかな。2曲目については、僕はかなり前Dick Gaughanのギターアルバムで覚えた、とても簡単ないい曲だ。

★The Devil and The Dirk

どこまでもScott Skinnerらしい曲だ。相当なテクニックが必要だろうが、それはそれなりに盛り上げる要素満載の曲と言える。決して名曲とは思えないが。

Irish Music その102

★Horizonto (Jig)

古いBlowzabellaのアルバムから。Paul James(Bagpiper)のペンになるいい曲だ。この人の作品も同じグループのメンバーであるAndy Cutting同様、なかなかに味がある。それにメロディーもいい。Bello Horizonteという古いオペラハウスを題材にしているようだ。

 

★Ritual / The Black Pat’s (Reel)

最初の曲はThe Old Blind DogsのパイパーであるRory Campbellの作。このバンドはスコットランドからの若者たち(元)で、その昔僕もすごく仲のよかった連中だ。彼らのアルバムではローホイスルによる素晴らしい演奏を聴くことができる。

2曲目はTommy Peopleのペンになるフィドラー必須の曲。

Irish Music その101

久々に書いてみようかな、という気になった。今まで何曲のレパートリーを載せたのか、もう分からなくなってきているので、一項目1曲にしたほうが良かったのかな、と思いつつ、やっぱり何曲かまとめて、を基本にした方がいいか、という結論に達した。

今回はまずこの曲から。

★Johnny Cope (Hornpipe)

この曲はまず、Noel Hillがやろうということで持ってきた曲だ。なんとなくは聴いたこともあるし、タイトルも知っていたものだが、なにせ6パートのどこも似たような、それでいてちょっと変わった曲なのでもう忘れていた。彼自身も長らく演奏していない曲なので、やりながらどうもこんがらかっている様子だった。彼とのツァーも終わり、Dale Russにこれをやろう、とメールしたら、「俺の心を読んでいるなぁ。最近やり始めたところだ」というメールが返ってきた。スコットランド発祥の古いパイプチューンのようだ。どこかくせになるような曲である。また、ギタリストにとってはとても深い考えが必要な曲でもある。

 

★Geese in the Bog (Jig)

別名、Lark’s Marchと呼ばれる5パートのジグ。パートによってはほとんどLark in the Morningと言える。実際、これも8パートのバージョンもあると言われているし、同じタイトルで似たようなものもあるが、僕らはこのバージョンが好きなので敢えてこれを選んだ。

 

ブレンダン・ベグリー

とうとう来てもらうことにした。アイリッシュ・ミュージックを語るうえでなくてはならない最重要人物のひとりだ。

1999年の5月、僕はアンドリュー・マクナマラと共にケリーに居た。そして、パブに入りきれないほどの人の中にブレンダンが居た。演奏が終わると彼を交えての激しいセッションが始まった。次から次へとポルカの応酬。アンドリューは嬉しそうに飲んでいるし、僕はひたすらブレンダンのためにギターを弾いた。そして、彼は「歩いてすぐだから家に来い」と云って多くのひとを引き連れて表に出た。時間はとっくに午前2時をまわっている。

真っ暗な道を10分ほど歩くと彼の大きな家が現れた。

中に入るとこれまた大きなキッチン。「さぁ、やるぞ」とアコーディオンを出し、またまたポルカだ。10人ほどの男女が入り乱れて踊り狂う。アンドリューは嬉しそうに飲んでいる。

その頃コーマックはまだ高校生くらいだったろうか。記憶にないのでおそらくどんちゃん騒ぎをものともせず、2階で寝ていたのかもしれない。いつものことなのだろう。

とに角そのまま朝まで大騒ぎをして別れた。

それから確か2003年頃、彼と再会した。その時「一緒にフランスに行こう」と誘われたが時間が合わずにそのままになっていた。

2010年に再び会うことが叶い、彼とまたゆっくり話したり、演奏することが出来た。それからは毎年彼と様々なかたちで会っている。

それらの様子は「2011年アイルランドの旅」から毎年少しづつ書いてきた。

彼を日本のアイリッシュ・ミュージック・ファンに紹介したい、と思い始めたのはその2011年の頃からだろう。

しかし、果たして日本のアイリッシュ・ミュージック・シーンに本物の彼のアイリッシュ・ミュージックが分かるだろうか、という疑問はある。

本来、彼のような人の演奏を、そして歌を聴かずしてアイリッシュ・ミュージックを語ろうなんて言うのは大きな間違いだ、と僕は確信するのだが…。

70年代、80年代、生活の一部として過ごしてきたフォークソングやカーター・ファミリーの音楽にも共通する彼の生活と音楽の全てを目の当たりにするチャンスです。

アイリッシュ・ミュージックがどういうところから生まれてきたかを体感するチャンスです。

まだ詳細は決まっていませんが、彼とのやり取りは続いています。来日の日程も決まっています。

アイルランドからスペインまで小さなボートを漕いで行ってしまう人ですが、さすがに日本までは無理そうなので、いや、言えばやりそうなので怖いから飛行機も予約しました。

彼はやってきます。

詳細が決まり次第お知らせいたします。

 

Johnny Cash

テレビを観ていたらジョニー・キャッシュのドキュメンタリーをやっていた。

元々カントリーにはあまり興味がなかったので、一生懸命聴いたこともなかったし、あまり詳しくはない。

しかし、1984年にジョー&ジャネットを訪ねてHilton Virginiaにステイしていた時、彼らの一番上のお姉さんであるグラディスの家によく行っていた。

そこはオールド・ホーム・プレイスと呼ばれ、アメリカンフォークのルーツといわれる場所だった。同じくこんな看板もかかっていた。「Home of Johnny Cash」

なので、いつもその看板を見ながらドアをノックしていた僕にとってジョニー・キャッシュはどこか身近な感があったのだ。

今回のテレビ番組で彼のことがよく分かって、たまにはテレビもいいかな、と思ったものだ。

僕にとってはウェイロン・ジェニングス、クリス・クリストファソン・ウイリー・ネルソンとの4人でやっていたThe Highwaymanで彼の歌も聴く程度のものだった。この4人はめちゃくちゃかっこよかった。僕はクリス・クリストファソンが結構好きだったので。

でも、もう一度じっくりジョニー・キャッシュの歌を味わってみるのもいいかも。

そういえば、12月にやってくるキアラン君がBob Dylan & Johnny Cashの映像を送ってきて「これ(The Girl From North Country)がやりたい」なんて言ってた。

僕が今一度ジョニー・キャッシュを聴いてみようかなと思い、ボブ・ディランがノーベル賞なんか取って、なかなかにいいタイミングかもしれない。

Noel Hill 日本ツァー 2016

ノエル・ヒル。この名前を知らないアイリッシュ・ミュージシャンは皆無だろう。コンサルティナという楽器の可能性を大きく広げた第一人者だ。

以前のコラム(2012年)でも書いているが、彼との出会いは2000年の初めころ。鬼気迫る演奏のためにギターを弾いたのが僕だったのだが、その時はデュオで2時間半ほどの演奏。

初めての出会いだった彼に「また、いつかやろう」と言われてからやっと実現した、それも日本と云う土地での今回のツァー。

驚いたことに日本に来たことがなかった、と云う。

彼は自身でも寿司を作る、それもかなりの腕前で大人数の寿司パーティを自宅でひらくほどの日本食通である。

「わたし、寿司だいすき」という外国人は多いが、彼はなかなか舌が肥えている。アイルランド人にはないだろう「出汁」の感覚や、微妙な味付けの違いが意外にも分かるようだ。

そんな彼が一たびコンサルティナを弾き始めると、そのエネルギッシュなダンス曲、胸に突き刺さるようにしみわたるスロー・エアーで聴く者の心を捉えてしまう。

また、彼のエンタテイニングの素晴らしさからは、彼が本物のプロミュージシャンとしても超一流だと言うことがよくわかる。

音楽と云うものを、また、プロフェッショナルがステージでどうあるべきかを、よく理解している人だ。

「幼くして父親を亡くし、残された母と7人の兄弟姉妹とともに貧しい暮らしをしてきたけど心は豊かだった。楽器を買うお金はなかったが、兄弟で夜遅くまでリルティング(いわゆる口三味線)をして曲を覚えた。本当の豊かさはそういうところに存在するものだ」という彼の演奏に触れなかったら、アイルランド音楽の歴史の大切な1ページが抜け落ちてしまう。

今回足を運んでいただいた全ての皆さんには、その大切な1ページを体感していただけたろうと僕は確信している。

旅には慣れているだろうが、初めての日本で大変だったのに気配りも細かく、ワークショップにもとても熱心に取り組んでくれるし、また、来年にでも呼んであげられたらな、と思っていることも事実だ。

それには、この音楽の真の姿は安っぽい流行りものやイベントのなかにあるのではない、ということを心底から理解してくれる方たちの御協力が必要だ。

彼はアイルランドでも知らない人はいないくらいの超大物である。そんな彼のお相手は大変だが、こちらが誠意を持って付き合えば必ずそれに応えてくれる人だ。

僕らは、彼のような素晴らしい音楽家が、貧しい環境の中で大切に大切に修得してきたこの音楽をいい加減な気持ちで演奏するわけにはいかない。

ノエル・ヒル、偉大な音楽家であり、僕らにとってもまた、心の引き締まる数日間だった。

ザ・ナターシャー・セブンを歌う 2016

2016年9月24日 ザ・ナターシャー・セブンを歌う会 1日目 with進藤了彦

この企画は大泉の久保田さんによるものだった。彼が歌いたいナターシャーの歌を僕らがサポートする、というもの。

彼と進ちゃんとはすでにやっていることだが、僕も参加して、ということなので、久保田さんも多少緊張していたようだ。

元々ナターシャーの音楽部門担当は僕と省ちゃん、そして後から加わった進ちゃんの若いセンスも加えてのものだったと思っているし、久保田さんの歌をどうサポートするかを考えればいいわけだ。

久保田さんのボーカルは、本当に歌いたいという気持ちが出ていて、清々しくてなかなかいい。

この日、奥さんが用事で出かけている、ということで彼が一番気にしていたのは、打ち上げの料理のこと。

まさか柿の種やエダマメで全てを終わらせたくはない、と思っていただろう。しかし急遽、奥様が無理を承知で時間のやりくりをして全てのお料理を用意してくれることになったので、彼も思い切り歌うことができただろう。

いい歌声でした。

集まっていただいた皆さんに、久保田さんに、奥様の典子さんに感謝です。

 

2016年9月25日 岡崎 with進藤了彦 金海たかひろ 3人会

こちらの方は岡崎の深谷君が長年温めていた企画。

朝早く僕と進ちゃんは久保田家を出発。進ちゃんの運転で約5時間。昔ばなしに花が咲いて、2回ほど道を間違えて引き返したり、そのたびに大笑いして楽しいひと時だった。進ちゃんお疲れ様。

途中、案内役の武ちゃんと、静岡からやってきた金海君と合流。

この日のコンサートは全て3人一緒に歌と演奏。お客さんも大合唱。

北は北海道から、南は九州から、多くの人が駆けつけてくれた。

最初の「私を待つ人がいる~陽の当たる道」から最後の「ヘイヘイヘイ」まで2時間、僕らにとっても結構短く感じる時間だったが、アンコールに次ぐアンコールで、最後は深谷君が「もう体力的限界です」という主旨の司会で締めてくれた。

PAはいつものてーさん。それと助手の女性。ありがとうございました。

深谷君の仲間のみなさんもお疲れ様でした。ありがとうございました。

進ちゃんは京都へ、金海君は静岡へ、それぞれまた普段の生活に戻るために帰っていきました。いい演奏を聴かせてくれてありがとう。

集まっていただいた皆さんに感謝します。

2016年 アイルランドの旅  番外編

10月にNoel Hill が日本にやってきます。初めての日本ということにはちょっと驚いています。

これだけの名演奏家が日本にやってきていないというのも意外なことなのですが、昨今の来日アイリッシュ・ミュージシャンの誰もが聴いてきた人物です。ただ、日本ではバンド・ブームのようになってしまって、この音楽もイベントのための音楽みたいに考えられている筋があります。

なので、先のFrankie Gavin & Paddy Keenan同様、名前すらも知らない若い人がいることも事実です。

彼がゴールウェイの雨の中、アパートにやってきて「なにやろうか?」とおもむろにコンサルティナを抱えると、飛び出してくる音はまるで嵐のようです。

15〜6曲、軽くリハーサルをして、帰って行きました。

本人も相当楽しみにしているようです。多分「寿司」を食べるのを。

日程に関しては別な案内で確認することができます。

初来日です。また来るかどうかはわかりません。

この機会を逃すとアイリッシュ・ミュージックの一角が抜け落ちます。(あくまで僕の独断と偏見に満ちた言い方)

しかし、ぜひ足をお運びになることを勧めます。

2016年 アイルランドの旅 22最終回

今年も無事9月を迎えた。帰国まであと1週間ほど。厳密にはあと5日でアイルランドを離れる。

思えばここの音楽の世界にどっぷり浸かってから25年。希花とこの地に来て演奏を始めて6年。様々な経験をしてきた。

僕はこの音楽をこよなく愛し、できる限り伝統を重んじてきた。それはギタリストという立場において、本当は難しいものだがとても重要なことだ。特にこの音楽では。

しかし、クラシックからフォーク、ブルーグラス、そしてアイリッシュと進み、その間にも様々な形態の音楽を経験してきた僕にとっては、ギターでこの音楽に関わっていく上で何を重んじていくか、ということがよく分かった。

とにかく1曲1曲正確に覚えていくこと。楽器で弾くこともさることながら、歌って覚えること。

そこにどんな和音を当てはめていくか、その最適な道を見出すこと。

それは様々なシーンで経験を積んできた僕にとってはそんなに難しいことではなかった。

しかし、ずっとこうしてやってきて思うことは、これは究極アイルランド人の音楽。どれだけ確実に演奏しようと、どれだけ認められようと、僕らの音楽ではない、ということ。

外国の音楽を演奏している人はどの世界にもいっぱいいるし、そんなことは当たり前のことだが。

また、このようなコアな(言うなれば)音楽に関わっていることであまり頑なになってはいけない。

「こうでなくてはいけない」というところと「これでもいい」という部分が必要だ。

簡単なことのようだが、これが意外に難しい。特に「これでもいい」という部分は人それぞれ違うだろうから。

そこを理解するには幅広い音楽の経験が必要となってくる。

毎年Tunes in the Churchのレギュラー演奏者として迎えられることはとても名誉なことだが、どこか申し訳ないような気持ちも存在した。

最初はセッションに参加することや、いわゆるバスキングもやった。

そのうち、あまりそこには重要性を感じなくなってきた。特にバスキングに関しては。

セッションは、いいセッションであればいくらでもそこに居られるのだが、ちょっとなぁ、と思うところはできるだけ避けたほうがよい。

みんながどれだけ聴く耳を持っているかはセッションの重要なポイントだ。

いや、セッションだけではない。それはどんな音楽に関しても、また、どんな場面に際しても最も重要なことかもしれない。

いろんなところに行って、たくさんの人にお世話になった。宝くじでも当たったらみんな日本にも呼んであげたい。でも買わないので当たるわけも無い。

なので、せめてこの音楽に対してのリスペクトだけは忘れずにいたい。そうすることでくらいしか恩返しができない。

Tunes in the Churchのシーズンラストの演奏も無事終えた。

Cormacは今ダブリンの方で、同じTunes in the Churchのプロデュースをしている。

この企画自体も既に7年目になるらしいが、これも継続するのは結構大変そうだ。来年は果たしてどうなっているだろうか。

僕も、2017年アイルランドの旅というものを書いているのかどうかはわからないけど、なんとか健康で居れたらいいかな、と思っている。

帰ってみなさんのお顔を見るのが待ち遠しいです。

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2016年 アイルランドの旅 21

ここまではカーローでののんびりした生活も含め、沢山の目新しい経験で埋め尽くされてきた。

ネット世代でもない僕にとっても、まるでWiFiなどというものに無縁の土地にいると結構困ったりもしたものだ。

今、少しの期間、住み慣れたゴールウェイに身を置いている。

2014年から書いてきている鳥たちのこと。

あんなに警戒心が強かったロビンは、朝早くから餌をもらえるのを待つようになった。

チュンチュンと鳴き声がするので餌をまくと喜んで(だと思うが)飛んできて、しばらくつついてまたどこかへ飛んで行く。

前に見たのと同じ奴だという証拠はないが、去年、一昨年とよく来ていた足の不自由な鳥、今年は現れない。

8月もあと5日ほど。今日もいい天気だ。

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2016年 アイルランドの旅 20 ちょっとだけエニス

あと2週間ほどでアイルランドに別れを告げる。

昨日僕らはエニスに出かけた。テレビ番組の出演依頼がきていたので(とは言っても、ほんの数分。少しのインタビューとセットをひとつ)朝早くから出かけて行ったのだが、これがなかったら行かなかっただろう。

すぐに帰ってくるチョイスもあったが、いろんな人に連絡を取ってみて会えるようなら少しゆっくりしてこようかな、とも考えた。

前にも書いたが、今年はフラーキョールがエニスで開催された。今回の番組もその中のひとつだった。

この祭典はそもそも、地元ののど自慢や腕自慢、そしてこれから巣立っていく若者や子供達のためのコンペティションがメインで、特別な出演依頼でもない限り音楽で生活している人はあまり行かない。

まして近年、人がたくさん集まりすぎてなんだかよく分からなくなってきているので敬遠するミュージシャンも多いようだ。

一応、楽器も持たずにうろうろ飲み歩いているアンドリューとパディには会えた。これで充分。

あと一人、どうしても会いたかったのが赤嶺フーさん。何とか連絡を取ったら会うことができたので、結局彼とは食事をしたりお茶を飲んだり、ちょっと演奏したりで4〜5時間一緒に過ごすことができた。

アイルランドではとても頼りになるアイルランド在住の…すみません。なんのお仕事をしているのか結局よく聞いていなかったのですが、少しだけ(本人談)ミュージシャンも兼ねて生活している人だ。

エニスはほぼ一日中シャワー程度の雨。ずっと僕らに付き合ってくれたフーさんに感謝。

2016年 アイルランドの旅 19 ブリタニー

8月9日、ブリタニーに向かう。もうすでに先乗りしているキアラン君と、彼の元生徒さんたち、ブライアン(コンサーティナ)キリアン(パイプス)共に25歳、そして21歳になったばかりのブライアン(フィドル)この三人の若者を含めての珍道中がこれから始まるのだ。

目指すところはGuemeneという小さな村。ここで彼らと落ち合うわけだが、ここはキアラン君曰く、ブリタニーの最もブリタニーらしいところのひとつであり、ここに来なければブリタニーに来た、とは言えないくらいの

ディープな場所だ。

その言葉どおり、景色はどんどん今まで見たこともないものに変わっていく。

実際、飛行機から見た海岸線はまるで映画「史上最大の作戦」を見ているようだった。それもそのはず。そこはノルマンディーだったのだ。

それはともかくとして、まず道沿いのお菓子屋さんに立ち寄ると美味しそうなカスタードケーキが目に入った。

日本で売っているものの三倍くらいの大きさで、値段は3分の1くらいだ。思わず「これとこれ」と言いそうになるが、そこは抑えてひとつにした。

これが実に美味しかった。たくさんのひとがフランスパンを抱えて店から出ていくのを眺めながら青空の下でコーヒーとケーキ。

そしていよいよ村に入っていく。なんか連合軍とドイツ軍が市街戦をやっている光景が目に浮かぶような建物が並んでいる。

キアラン君が夏の間にブリタニーで過ごすために借りているアパートに着くとすぐに始まるセッション。

皆それぞれにトラディショナルをこよなく愛し、追求している若者たちだ。プレイにも熱が篭る。

そして、若いのによく飲む。若いからかな。

そして、ここでは当然ワインだ。

フランスはワインが安いと聞いていたが、それは驚きの1ユーロもしないものから始まる。

平均的なそこそこいいものでも2ユーロか3ユーロくらいでひと瓶買えてしまう。なのでアパートでも次から次へとワインボトルが空になっていく。

外に出てみるとこの小さな村にいくつかの商店が並び、パブのようなものとレストランがいくつかある。

ブリタニーはクレープ(ガレット)で有名らしい。こんなことは日本の人の方がよく知っていることだろう。

早速みんなでワインとクレープ。

別な場所に行ってワイン。また別なところでワイン。隣のよろず屋さんのような、何でも置いてある店に入っても、奥からおやじさんがワインを持ってきてくれる。

ちょっとしたワイン責めだ。

でも今回のブリタニーはワインを飲みに来たわけではない。

僕にとっての大きな目的はギタリストのNicholas Quemener(以下ニコラ)に会うことだ。

キアラン君のソロアルバムでもギターを弾いていたが、そのプレイにはだいぶ前から注目していた。

いわゆるアイリッシュ・ミュージックに於けるギターというよりも、もっとブリタニーの音楽、ブレットンの独特な響きを持っている人なので、あえていままで名前は出していなかったが、とてもいい音を出すギタリストだ。

彼に会ってさらにその素晴らしいプレイに魅了されたが、彼がDADGADを使っていることは意外だった。

その響きはDADGADに聞こえない、言葉で表すことはむずかしいが、彼の醸し出す独特な音だ。

また、彼の住んでいるところはほとんど森で、その広さは京都で言ったら…「平安神宮」くらいの広さは優にあるだろうか。

そんな中でテーブルを囲んでみんなでまたワイン。

まさにこの景色から彼の音が生まれてきているんだな、と思えるような空気と時間が流れている。

今回の旅についてはまたコンサートなどでお話しするので、あまり長い文章は書かないが、希花さんがワインの飲み過ぎで赤い顔をして、いい写真をいっぱい撮ってくれたのでそれをいくつか載せてみることにした。

というよりもちょっと飲み疲れて横着をさせていただこうと思って……。

ニコラと

ニコラと

みんなとワイン

みんなと

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2016年 アイルランドの旅 18 フィークル#3

今年のフィークルでは久しぶりにパット・オコーナーとのセッション・ホストも入った。

彼と初めて会ったのはいつだったろう。‘98年くらいだっただろうか。

その時のことは2011年のアイルランドの旅で既に書いているし、Irish Music その45ではパットの子供の頃のフィドルの練習の様子なども書いた。

愛すべきクレアの筋金入りフィドラーだ。

この日、夏の恒例の行事と言っていいだろうか、古矢、早野コンビがはるばる日本からフィークルめがけて来ていた。

彼女たちはアイルランド音楽を演奏している僕達よりも、よっぽどこの国のこと、特に文化や芸能に詳しい。

そんな彼女たちにとっても、このフィークルは特別な場所だ。そしてできれば僕らが演奏している時に、このクレアの音楽とギネスビールに浸っていたい、と考えている。

そんな彼女たちと一路フィークルに向かう。

パット・オコーナーとのセッションは9時半からの予定だが、彼はすでにその前に別なところでやっているので、そんなに遅くまではやらないだろう、と思いきや、例によってとどまるところを知らない。

ゴールウェイのセッションとは違って、淡々と、そして徐々に気分を高揚させていくような味わいの深さを感じる。

ゴールウェイはあまりに観光客向けになってきてしまっているのだろうか。いいミュージシャンもいっぱいいるが、聴く側の姿勢もやはり普通の観光客と、この音楽を求めてきている人では、それは違って当然かもしれない。

アンドリューもちょっと顔を出すが、“ごきげんさん”でしばらく聴いて「明日9時からペパーズに来い。待ってるぞ」と勝手に言って“ごきげんさん”のままどこかへフラフラ出かけて行った。

結局パットとのセッション、1時過ぎまで職務は果たしたが、パットはケロっとして、もう少しみんなのおつきあいをするよ、と言っていた。

パットを取り囲んでいる人たちはなかなか帰りそうにない。

この日の「困ったちゃん」は希花さんの横でフィドルを弾いていたおじさん。なんか偉そうにしているが、全く曲を知らないらしい。指だけは動かしている“よう”に見えるが実際は全然違うものを弾いている。

希花さんも初めて「出て行ってくれない?」と言いたかったらしい。そんなやつに横で弾かれたら確かに困るのだ。

僕の方までは聞こえてこないくらいの音量だが、横の者はたまったもんじゃない。

しかし、「出て行け」というのはキャサリン・マカボイかアンドリューでないとなかなか言えない。

いや、アンドリューは態度でガンガンに攻めまくるタイプかな。やはり、どんなセッションにも礼儀は必要である。

それにしてもパット・オコーナー、素晴らしいフィドラーだ。

さて、アンドリューが言っていた次の日のこと。まぁ、これでしばらく彼とも会えないかな、と思うとやっぱり行くしかないと思い、また出かけて行った。

古矢、早野コンビもその晩のタラ・ケイリ・バンドの伴奏によるダンスを楽しみにしているし。

こちらのセッションではアンドリューも大活躍。カレン・ライアンや、キーボードのピートも一緒だ。

アンドリューは僕らを見つけると、嬉しそうに「ここはじゅんじ。ここはまれか」と他の人が座らないように椅子を用意する。

彼の大活躍はそこから始まるのだ。いつものように自分のお気に入りのミュージシャンをできる限り自分の周りに固める。

“困ったちゃん”の付け入る隙を与えないのだ。そして大爆発。

この日、もうひとりの大爆発はシェイマス・ベグリー。酔っ払いの困ったちゃんではあるが、さすがにいい歌声と、クレアとはまた違うリズムで聴くものを魅了する。

ケイト・パーセルもいい歌声を聴かせてくれたし、驚いたのはランダル・ベイズが現れたことだ。

向こうもさぞ驚いたことだろう。もう、18年ぶりくらいだ。

アンドリューのおかげでそんな再会も果たせた。

そして、なにより古矢、早野コンビにも感謝。

残りの旅、どうか安全に楽しんでください。そしてたくさんのおみやげ話を持って帰ってください。

僕らは明日からしばらくブリタニーに行くので、コラムはちょっとの間お休みになるかもしれません。また帰ってきたら報告するつもりでいます。

2016年 アイルランドの旅 17 フィークル#2

フィークル2日目。

今日はペパーズ裏のステージでの演奏と、またしてもアンドリューとのセッションがある。

十分な休憩を取っておかなくては、と思い、朝から「フルアイリッシュ・ブレックファースト」を食べて、もういちど寝ることにした。

午後、子供達が水泳教室から帰ってきてしばらくしてから庭で彼らと遊んだ。

ちょっとした日本の公園くらいの広さのある緑の庭、遠くには小高い丘が広がっている。

こんなところで毎日走り回ることができる子供達や犬は幸せだろうな、とつくづく思ってしまう。

水泳教室にしてもプールではなく、自然の湖で行われているらしい。なかなかに面白い。

しばし子供達と遊んでシャワーを浴びて、いざ出陣。

ステージでの演奏は7時半から。でも何分くらいやるのか、どういう順番なのかも知らされていない。

とにかく居ればいいのだ。音響のおじさんもたいしたものだ。さっと用意して素知らぬ顔をしている。慣れたもんなんだろう。特にこの音楽には。

僕らはフォギーでデニス・カヒルに友情出演してもらうことにした。彼も「お、面白そう。いいよ」とやる気満々。

最後の2セットほどはアンドリューとのトリオもやった。

このクレアでクレアのミュージシャンとステージを作る。それはこの音楽に関わってきた数々のシーンのなかでも最高の瞬間であることに間違いない。

約20分のステージを終えて、最後はTulla Ceili Bandの演奏だ。

だが、僕らは次なるセッション・ホストの仕事。アンドリュー、そしてアイリーンと一緒だ。

その夜、帰ったのは4時にもなろうとしていた。アンドリューはまだまだ飲む気満々のようだったが、とても付き合えない。

フィークル2日目の夜もそろそろ明けそうだ。

2016年 アイルランドの旅 16 フィークル

今年もフィークルにやってきた。相変わらずの景色が嬉しい。今日から2日間弟分のアンドリューと演奏する。

ここにある4つのパブのうち、一番奥(反対から来れば入り口)に存在する、ペパーズ。そこが今日のアンドリューとの演奏場所だ。

フィークルも、2011年から必ず二人で来るようになっているせいか、行き交う人々への挨拶に忙しい。

ヨーロッパ各地や、もちろん日本からも沢山のひとが訪れる。が、しかし、今年はエニスでフラーキョールがあるのでさすがに遠い日本からここと両方に来る人は少ない。

アイルランド最大の音楽フェスティバルだが、それだけに半端ではない人の数で、ぼくらは東京の電車で十分経験しているので、もういい。

てなわけではないが、小さなエニスの街は大混乱になるだろう。ジョセフィン・マーシュも、その期間家に泊まったらいい、と言ってくれているが、ま、そのときに考えることにしよう。

とりあえず、ペパーズのオーナーと話をまとめて本日の宿泊地に向かう。今回はミュージシャンのために特別に個人宅が用意されていた。

といっても、ほとんど通常のB&Bと変わらない感じで、「朝はフル・アイリッシュ・ブレックファーストでいい?紅茶?コーヒー?何時がいい?」と矢継ぎ早に質問が飛んでくる。

「この前はジョニー・マッデン(言わずと知れたチェリッシュ・ザ・レディースの)が泊まっていたし、ミュージシャンがよく泊まるのよ」とニコニコしてお話ししてくれる彼女の子供たちも、まだ小さいのに荷物を一緒に運んでくれたり、本当にいいファミリーだ。

しばし、緑に囲まれた素晴らしい家で景色を楽しんで演奏場所のペパーズに向かう。

珍しくアンドリューも時間までには来ていた。が、始めるまでにかなりの時間を要する。

まず、飲み物を僕らの分も含めてオーダーし、椅子を並べ替える。完全に自分のお気に入りのミュージシャンで自らが囲まれるようにする。

僕、アンドリュー、希花の順に座ると「後でアイリーン(オブライエン)が来るから椅子をひとつ残しておく、と誰も座らないようにしておく。

ピリピリしたセッションだが、やっぱり彼に認められた者でないと、このセッションにはなかなか参加することができない、というのもひとつのセッションの形であるのかもしれない。

もちろん、ここにやってくる人はそれなりのレベルの人から初心者まで、多種多様であるが、なかにはそれなりのレベルを装って、実際には早くいなくなってほしい人が現れるケースもある。

そんなときにはハッキリとそう言える人が必要かもしれない。

夜も更け、だんだん参加していた人間が消えていくと、ますます激しく「のりにのった」演奏を展開する。

もうこうなったらアンドリューの独壇場だ。だが、こちらもそれを盛り上げるだけのものは持っている。

ほとんど僕ら三人の趣味の世界に達しているところにアイリーンの登場だ。それでさらに激しさも増す。

希花にとっても数年前は恐れていたアイリーンだが、完全に一目置いてくれている様子がわかる。

僕らにとってもアイリーンとアンドリューという組み合わせは極上だ。

気がついたらとっくに2時半を回っている。5時間が経過しているわけだ。これがフィークルの初日。

目の前に置かれたありあまる量のグラスとアンドリューの笑い声、どこまでも力強いクレアのリズム、それが僕にとってはこのペパーズ、強いて言うならばフィークル、そのものだ。

2016年 アイルランドの旅 15

もうすぐ7月も終わる。日本では記録的な長梅雨だということを聞いた。

僕らは来週から、ゴールウェイ、フィークル、ブリタニーと出かけ、またカーローに戻り、そしてゴールウェイに戻り、とかなりあっちこっち動きまわる。

その間にエニス、コークなどにも会いたい人たちがいるが、予定をすり合わせてみても無理かもしれない。

ここでもずいぶんたくさんの人に良くしてもらった。たくさんの地元のミュージシャンとも知り合えた。

80年代、カーター・ファミリーと過ごしたバージニアの世界とこことは本当に共通したものがある。

だいぶ前(70年代だったかな)スタンレー・ブラザースがどんなところで育って、その環境が彼らの音楽にどれほどの影響を与えたか、というようなことをある本で読んだ。

ジョー・カーターと山へ山菜を採りに行き、谷間に群がるカラスにジョーが彼らの鳴き声を真似ると、みんなこちらに向かって一目散に飛んできた。

鬱蒼とした山路には、南北戦争の時代の薬莢や、先住民が残していっただろう石の道具のかけらなどが落ちていた。

そんな山歩きや、川での夕食用のなまず釣り。それはまるで、あの本で読んだスタンレー・ブラザースの生活と同じものだったかもしれない。

そして、それらはここでの生活とあまり変わりはない。

ましてや、一仕事終えてからの音楽は全く一緒だ。ただ、あそこでビールなどを飲んだ覚えがないが、それは彼らの宗教的なものだったのだろうか。

いずれにせよ、あまりにディープな世界に入ってしまうと、かえって「これはこの人たちの音楽なんだ」ということを明確に感じてしまう。

だからこそ、きちんと取り組みたいと思うのだ。

そんな気持ちを再び確認しながら、フィークルでの演奏に向かいたい。

今年はCD (Through The Wood) のラウンチをやらないか、という打診が主催者からあった。

あといくつかのセッションホストの仕事。またまた眠れない日が続きそう。

体調をしっかり整えておかなくちゃ。

昨日、ジョンがまた鮭を持ってきてくれた。鮭茶漬けを食べればまた元気百倍かな。

このカーローにも素晴らしい人たちがいた。

素晴らしいお仕事をされているレイコさんとそのお友達。2mは優にあるチェコから来ているお姉さん。オーストラリアから来て、沢山の車と動物とで、とんでもなく広い空き地みたいなところに居を構えるヒッピーのようなお姉さん。フランキー・ギャビンの近所で育ったという、何から何まで気配りの素晴らしいお兄さん。

元気いっぱい、親切いっぱいのジョンとその仲間たち。

僕らに演奏の場を与えてくれたホテルの支配人、ジェームス。

そして、キアラン君とそのご家族。

カーローは確かに人里離れたようなところかもしれないけど、ここには温かい人たちがいっぱいいました。

2016年 アイルランドの旅 14

今日はバンジョー弾きのジョンがどこかに連れて行ってくれるらしい。

少し小雨が降っているが、さすがにジトジトした感じの雨ではないので、庭のウサギも同じところで佇んでいる。

時折ピョンと跳ねるが、その時、おしりのあたりが白くてとても可愛らしい。耳が綺麗にピースサインのようになっている。

そんなウサギの観察をしているとジョンが来てくれた。10時半。ほとんど正確だ。

今日はドライブがてら、友人のギター&バンジョー作りの工房につれていってくれるということだが、「連絡がつかないんだよねー」と言いながら走る。そしてまた走る。

ひたすら走ってカウンティ ウィックローに入る。景色がガラッと変わる。

実際、どこもかしこも緑、そして緑なのだが、ここはその緑の深さがまた違う。きれいにトンネル状アーチになった木立を抜けると、荒涼とした大地も見えてくる。

ジョンが「800年の終わりころバイキングがこの土地を開拓して町をつくったんだ。それから…」とニコニコしてこの土地の歴史のことを細かく説明してくれる。

この国では沢山の人が自分の生まれ育った場所以外についても、その歴史や文化のことをよく知っている。それとよく訊かれるのは日本の人口だ。

そのつど、あー正確に覚えておかなくちゃ、と思うのだがついつい忘れる。

途中、カフェでコーヒーをいただく。空もすっかり晴れ渡っている。晴れ男全開。

ところでここまで約2時間。すごい勢いで走り続けているが、友人とはまだ連絡が取れないらしい。

「たぶんバケーションにでも行っているんだろう」とのんびりしている。よくよく聞くと、別な道を通ればもっと早く彼の工房には行けるらしいが、僕らにウィックローの景色を見せてあげたかったらしく、遠回りをしたみたいだ。

終始にこにこしてバンジョーの話に夢中になったり、いろんな説明をしてくれるジョン。一緒にWicklow Hornpipeを歌う。

結局3時間くらいの行程で「またいつか来よう。今日はそれより家でバーベキューでもしようか。そして夜はセッションだ」

なんだかとても嬉しそう。

さて、ジョンの家だが。

素晴らしく広い緑に囲まれた、素晴らしいデザインの家。自分たちで建てたというがこの人のセンスがうかがわれるものだ。

裏庭ではポニーが草を食べているし、隣の家では緑の大平原のような広さの庭に羊たちがくつろいでいる。

ジョンの家も坪数にしたら…う〜ん、よくわからないけど800坪ではきかないだろう。庭に咲き乱れるラベンダーからもいい香りが漂っている。

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これだけ広大な土地にガラス張りの大きな部屋がいくつもあって、どこの部屋も綺麗にしてあって、時計も正確な時間を指していて(この人がいつも時間通りに現れる理由がわかった)等…それでいてとても質素な暮らしをしているようでどこまでも好感の持てる人だ。

肉や野菜が焼けるまでちょっと弾こうか、とバンジョーを出すジョン。今日は家族がみんな出かけているので、ひとりでバーベキューもバンジョーもこなす。

ワインを飲みながら、羊やポニーを見て、広大な緑と爽やかな風に当たって、すっかりできあがって、さぁセッションに出かける。

ジョンも飲む気満々で、タクシーを呼んで一路カーロー方面へ。僕らもさっぱりどこに連れて行かれるのか分からないけど、ここはジョンに任せるしかない。

着いたところは、ちょっと見、コミュニティーセンターっぽい見かけだが、中がパブになっていてそこにすでに数人の子供や大人がいた。

ここでは地元の子供達が集まってセッションをする場を提供しているようだ。もちろん大人も参加するのだが、子供達がなかなかに可愛い。

6歳くらいのアコーディオンを抱えた男の子や、そのお姉ちゃんらしき10歳くらいのフィドラーの女の子。フルートもいる。4歳くらいの女の子がハープをたどたどしく弾いた。

こんな風に、練習してきた曲を披露する場所があり、大人たちが「なんか弾いてごらん」と促すと、とまどいながらもジグやリールを弾き出す様はこの国独特の光景かもしれない。

3時間ほどここで過ごし、帰りのタクシーの中で「もう一軒セッションがあるけど行くか?」と言う。

そこは帰り道だからどちらでもいいよ、というが、こうなったら“のりかかったタクシー”だ。

もう一軒は僕らもキアラン君に紹介されてよく知っている人のパブ。どちらかというとシンギング・セッション。

おじさん、おじいさん、おばさん、おばあさん。その数7〜8人。

マギーという推定80歳くらい(間違っていたらごめんなさい)の女性が歌を歌う。朗朗と歌うその様は僕たちに、随分ディープな場所に来ている、ということを実感させてくれる。

いくつかのチューンも演奏したが歌の伴奏で5弦バンジョーも弾いた。なんとなくクランシー・ブラザースのようなサウンドに地元の人たちも大喜び。

久々にフォークソングのようなバンジョーを弾いた。

Inisheerで希花さんが一発入魂のフィドルプレイを披露すると、周りから感激の大拍手。

僕らもすっかり打ち解け、彼らともすっかりひとつのグループのように歌い、演奏して帰路についたのが12時頃。

帰りのタクシーにはマギーも乗り合わせたが、彼女と運転手の会話、英語だったようだが、なにを言っているのかひとつもわからない。

特にマギーのほうは独特なアクセントだ。それでもジョンにはわかるようなのでそれが不思議だ。当たり前か。

でも、僕は高橋竹山先生がなにを言っているのかよくわからなかったが。

とりあえず今日も無事に終わった。

14時間ほどの貴重な経験。ジョン、どうもありがとう。地元の子供達も大人たちもみんな素晴らしい笑顔でした。ありがとう。

2016年 アイルランドの旅 13

土曜日。今日はここから車で30分ほど北へ行った町、カーローで毎週開かれているフード・マーケットに連れて行ってもらった。

アイルランドのどこの景色とも同じように、またまた牛や羊を見ながら予定どおりカーローに着いた。

決して大きなマーケットではないが、オーガニックの野菜やスウィーツ、パン、はちみつ、ハーブ類、魚等いろいろある。

僕らはミックスサラダの大きなパックを買った。日本の半分以下の値段だが、オーガニックだし、ひょっとすると3分の1位の値段なのかもしれない。

あとは立派なネギ。九条ネギのような感じ。美味しそうな玉ねぎ。

オリーブオイルもなんだかすばらしそうだったが、買いすぎるのも何だし、やめておいた。

目を引いたのはスコーンやスウィーツを売っている屋台。(こんな書き方でいいのだろうか)

ここで特大のスコーンを2個と、これもなかなかに大きいピースのオレンジケーキとチョコレートケーキ、しめて6ユーロを購入。

日本ではこの大きなスコーンと紅茶で600円が妥当な値段だろう。

全てに材料費が高すぎるのかな。希花さんですら、アイルランドにいると気軽にお菓子でも作ってみようかな、と思うらしい。

つい先日もクッキーらしきものを焼いていたが「あー、先にオーブンをあっためりゃいいのに。あー、今のうちにそのボウルを洗っておけばいいのに」なんてついつい口に出しかけたが、怒られると困るのでやめておいた。

それでも出来上がりは上々。本人曰く、日本ではお金がかかりすぎて作る気にならないそうだ。

ともあれ、帰ってから早速サラダを食べてみたが、こんなに美味しいサラダを食べたのは初めて、というくらい美味しかった。

かくしてサラダの違いがわかる男の出現。

有意義な1日を過ごさせていただいたのは、なんと偶然にもこのCo.Carlowに、それも近くに住んでいるレイコさんのおかげ。

覚えておられる方もいるかもしれないが、パディ・キーナンが2010年に日本にやってきたときに東京のワークショップで通訳を担当してくれた女性。今はこのカーローでフェルトのお店を持ち、世界的に活躍している人だ。

2016年 アイルランドの旅 12

7月下旬、Muine Bheag Co.Carlow今日もなかなかにいい天気のようだ。この様子だと25℃くらいにはなりそうだ。

昨夜も時おり霧雨のようなものが降っていた。この国が緑で覆われているのは、どんなにいい天気でもサーッと通り雨が降ることがよくあるからだろう。

毎日何気なく過ごしているが、この辺は空気が美味しい。

朝のコケコッコ〜で眼が覚めた後、広いキッチンでコーヒーを飲む。木立が美しく光っている。

どこからか野うさぎが出てきて庭で佇んでいる。

ロビンをはじめ、小鳥たちもなんかつついている。

晴れている日は、東からおもいきり陽の光が差し込んでいる。

もちろん日本でも経験できるものだが、大きく違うのは“時間が止まっている感覚”かもしれない。

アイルランド人特有の「2 seconds」「2 minuites」「~ish」に始まって、この人たちには、例えば9時から9時半までの間に存在する時間というものがないのだろうか、と思ってしまう。

そんなことは友人とパブで語らう“時”に比べたら大した問題ではないのだろう。

ここで正確な時計を見たのは放送局だけだった。どの家の時計もあらぬ時間をさしたまま止まっていることが多く、バスの車内の時計も飾る程のものでもないが、単なる飾りでしかない。

ある意味ここにいたらそれでいいような気もする。一大事でない限り時間に追われるのは楽しくない。

そういえばコケコッコ〜。この頃はあらぬ時間にも鳴いている。こちらもさすがにアイルランドの鶏。いや、因みに鶏はどこの鶏でもあまり時間に関係なくコケコッコ〜を発するらしい。

さて、最初に25℃くらいにはなりそうだ、と書いたが、ところがどっこいすっとこどっこい、今は寒いくらいだ。

何から何までアイルランド。

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2016年 アイルランドの旅 11

キアラン君、無事ブリタニーに着いたらしく、ワインで乾杯の写真をフェイスブックで確認することができた。

最も、その前からワクワクメールがフェリーを降りた直後くらいから数回送られてきていたが。

彼はこのところブリタニーの音楽を盛んに取り入れているので、どうしてもその音楽が生まれた背景を肌で感じたいのだろう。

テントを持って行ったり、自転車を持って行ったりワクワクしているのはそんな気持ちの表れなんだろう。

40歳手前、これからもいい音楽をたくさん演奏していくことだろう。そういえば、12月に一ヶ月くらい日本にやってくるのだ。

みなさん、よろしくお願いします。

さて、昨日、彼の友人のバンジョー弾きであるジョンが突然やってきて、なんととても新鮮な鮭と鱒を持ってきてくれた。

「君たち日本の人は魚が好きだろう?」といって結構大きいピースを僕に渡して、にこにこして帰って行った。

ジョンはテナー・バンジョーを弾く。プロのミュージシャンではないし、決してすごい腕ではないし、曲も多くは知らないが、なんともいい音を奏でる。

真面目に楽曲に取り組んでいるのがよく分かる。

先日、キアラン君がワクワク大忙しのときになぜかジョンひとりがキッチンでバンジョーを練習していた。

彼もすごく忙しかったらしい。例のお葬式があった日だ。やっと落ち着いて少し気も紛らわしかったのだろう。

僕も2階にいたのだが、ご機嫌なEileen Curranが聞こえてきたのでギターを持ってキッチンに降りた。

見るとワインを嗜みながら老眼鏡をかけて自分の作ったノートとにらめっこしている。

僕を見ると嬉しそうに「ワイン飲むか」とグラスを用意する。

僕もご相伴にあずかりながら「Eileen Curranいい曲だね。今はAmでやっていたけど多くの人はGmで演奏するよ」「へぇ、そうなんだ。でもGmは僕には難しいなぁ」なんていう会話をしながら次から次へと嬉しそうにいいペースで弾いている。「伴奏がいいと、こんなに弾きやすいもんなんだ。ワクワク」

こちらもワクワクおじさん。おっとキアラン君はまだお兄さんかな。ジョンは56歳。彼もキアラン君が日本にいる間に一週間ほど日本を訪れたいと言っているが、こんなに何もないところから、東京なんか行って大丈夫だろうか。

そんなジョンが持ってきてくれた鮭をまず、こんがり焼いて鮭茶漬けにしていただいた。

日本人にしか分からない至福のひと時かもしれない。明日は鱒をムニエルにでもしようかな。

2016年 アイルランドの旅 10

7月も後半に入ろうとしている。今日からキアラン君はブリタニーに向けて旅立つ。

数日前からその用意で大忙し。というか“ワクワク”なのだ。今回は彼の面白い行動を書いて終わりそうだが、本人はいたって真面目だ。いや、だから面白いのかも。

やらなくてはいけない事を紙に書き出して「これでオーケー」と大満足したが、前日の朝に「どれが済んだ?」と訊いたら14項目のうちの2つくらいなのだ。

4日ほど前に書き出したのだが、キャンプをしたいからと言って、6年も出していないテントを引っ張り出してきて庭に張ってみたりしているのだ。

6年も出していないのだから一応隅々まで見てみないといけないことは確かだ。

もちろんギグで行くのだから泊まる所はあるが、時間が多少あるので外で寝たいそうだ。

めでたくなんの問題もなく張れたテントを嬉しそうに眺め「ちょっと来て寝てみろ。いいだろう。ワクワク」
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車の中、マットなどを引っ張り出して大掃除。

コインや食べ物のかす。わけのわからない紙切れの数々。掃除機を出してきて、ぼくらも手伝って大掃除。

希花さん曰く「どうせまたこんなんになるのに。意味無くない?」本人は「おー、綺麗になった。ワクワク」

なんだか布団を引っ張り出してきて「見て見て。雨がふったらこうして車の中でも寝れるんだ。ワクワク」

他にもやることがいっぱいあるだろうに嬉しくて仕方ない様子だ。

とはいえ、9時過ぎても日本の夕方くらいに明るいので時間はいくらでもあるような感じがするのだろう。

実際、飲みに行こうか、というのも10時過ぎくらいからだ。この立て込んだ時でも「町まで行っていっぱいやろうか」というので「いや、君には時間がない」というと「あ、そうだった」と言ってなんだかまたごそごそ動き回っている。

「ちょっと見てくれ。こんないいものがあるんだ」と言って持ってきたのは、ごく普通の両面テープ。

「ここを切ってまず貼ってからこうやって剥がす。素晴らしいだろ。ワクワク」

「そんなもの100円ショップ行きゃ腐るほどある」というとさすがにがっかりしたのか、すぐにしまっていた。なんとも可愛いところがある。

前日(18日)に彼の友人の母親が亡くなったのでそのお葬式があった。彼も友人たちと、音楽で故人を見送ったようだ。

全てが終わった後、友人たちを家によんで紅茶をのみながらしばし時を過ごした。

こんなに忙しい時でも時間を気にしている様子も無く、みんなと一緒の時を大切にする。事が事だけに尚更そうだが、どんな時にでも友人や家族との時間を大切にするのは素晴らしい事だ。

だからどんなに忙しい時でもパブに行って飲む時間だけは作るのだろう。そこには必ず友人たちとの語らいの時があるのだ。

それは彼らにとって、いや、ひょっとしたら僕らにとっても、何ものにも代え難い大切なものなのかもしれない。

かくして、車への積み込みは昨夜行うつもりがこれから。まだ寝ているけど大丈夫だろうか。

そういえばこんなことも言っていた「明日は出かける前に美味しい昼飯を作るぞ。ワクワク」実際けっこう料理好きらしく、なかなか素晴らしいパスタを作ってくれるのだが、いかんせん時間が…。

昨夜も2時近くまでソワソワあっちいったりこっちいったり。

「新しいブレットンの曲を覚えなくちゃ。全くどこも同じようなメロディで困っちゃうよ。ワクワク」

もう心はブリタニー。なんだか可愛らしい。お、シャワーを浴びている。良かった、起きたようだ。

 

2016年 アイルランドの旅 9

7月14日。京都では祇園祭が始まろうとしているのかな。蒸し暑い円山音楽堂が懐かしい。

ここ、カーローは快晴。気温は少し高めの22℃。

朝から芝刈り機を動かして、裏庭の大掃除をして大忙し。

なかなか日本では考えられないくらいの広さがあるので、これを一人でやっていたら大変だろう。

そう考えると少しはヘルプになるかな。「田舎に泊まろう」みたいなものだ。

しかし、今日はキアラン君のグループ「パイパーズ・ユニオン」のコンサートがキルケニーである。

なのでキアラン君、考えなくてはいけない事、やらなくてはいけない事が頭の中をぐるぐるしているようだ。

メンバーはキアラン君のフルート、イーリアン・パイプス、他にデビッド・パワーがイーリアン・パイプスやホイッスル、ちょっとマンドリン、それからドーナル・クランシーがギター、ブズーキ、ボーカルだ。

ドーナルは僕が4年前のコラムで「アイリッシュミュージックに於けるギタープレイの真髄」という項目を書いたときに影響を受けたギタリストとして名を挙げている人物だ。

先日タバカリーで、ある若者が「君のギターはドーナル・クランシーを思い浮かべるプレイだな」と言っていた。

「会ったことないけど明後日、初めて会うことになっている」と答えたが、この時に彼の名前が出るとは。とても不思議な感じがした。

さて、コンサートが始まる少し前からお決まりの雨。あれだけいい天気だったのに、と思うが誰も気にしていないようだ。

会場はキルケニーでも1、2を争うホテルの中にあるすばらしい作りの、日本で言えばライブ・ラウンジといったところだろうか。

ぼくらは受付を手伝った。最後のほうにゲスト出演も頼まれている。

日本とはシステムも違うし、みんな考えているようでぜんぜん“あちゃらか”だし、金の絡んだことなのでもうちょっときちんとできないのかなぁと、ついついぼやいてしまうが、なかなか面白い経験だ。

そういえば最近の(僕らが知らなかっただけかもしれないが)アイルランドではお釣りは四捨五入だと聞いた。なので、多くもらえたり少なかったりすることがある。

これはもちろんスーパーのレジなどでの小銭の話だが。そんなところもとてもアバウトな国だ。

コンサートは、三人が歌もコーラスも演奏も、それぞれの持ち味を生かして、なかなかアレンジも決まっていた。

いい組み合わせだ。イーリアン・パイプスを二つ使うというのもあまり無いことで面白い。ドーナルのギタープレイも思った通り素晴らしい。歌も親父さんゆずりでとても良かった。

最後に3曲、バンジョーとフィドルでゲスト出演して締めくくり。

終了したのがほぼ11時。始まりは8:30となっていたが、ここも例によって9:00。お客さんはここでも結構飲んでいるが、またこれからパブにでも行くのだろう。

今日のところはデビッドとドーナルとは別れ、静かな家に戻って、アメリカのユタ州から来ているマークというパイパーと1時間ほどビールやブランデーを飲んで語らいの時を過ごした。

 

2016年 アイルランドの旅 8  タバカリー スライゴー

カウンティ・カーロー、曇り。ここから約250km離れたカウンティ・スライゴーのタバカリーという町に出かける。

明日には戻らなくてはいけないので大忙しだ。

前回の7では行くかもしれない、ということを書いたが、結局キアランとの演奏が入り、急遽行かなければいけないこととなった。

いろんな街を抜け、途中Roscommonで食事をし、7時頃タバカリーに着いた。キルケニーでちょっとした用事を済ませたり、スライゴーに入る前に美しい虹を見てしばし見とれたりしていたので、全行程5時間ほどかかった。

その虹は、おそらくいままでに見たものの中でいちばん美しかったかもしれない。

緑の大地、少しの太陽が光っている雲の上を、空全体に綺麗な弧を描き、全ての色がまるで濃い絵の具で描いたように綺麗に浮き出ていた。

きっと雨上がり、極上に綺麗な空気に包まれていたのだろう。これだけでも十分来たかいがあったぐらいだ。

町について演奏場所に出かける。9時過ぎからなので十分時間はある。いくつかのパブでコーヒーなどを飲み、ちょっと寄り道もしたが、とても小さい町なので急ぐこともない。それに行き着くところアイリッシュタイムだ。

オシーン・マクディアマダやリズとイボンヌのケイン姉妹も一緒だ。

僕らは3セットほど3人で演奏した。

そしてここではもうひとつ再会の喜びがあった。

2014年に出会ったバンジョー弾きの少年が、今年はタバカリーに来ているのでミルタウンには行かない。どこかで会えたら嬉しい、と少し前にメールをくれていた。

その時はまだタバカリーに行く事は考えていなかったので今年は会えないかな、と思っていたが、僕らの演奏の会場に来てくれたのだ。

2年前は小さな少年だったが、会ったら分かるだろうか。いや、少なくとも向こうは分かるだろうし問題ないだろう。

オシーンの演奏をドア越しに見ているとお客さんの中の一人の少年が恥ずかしそうにこっちを見てにっこり微笑んでいる。彼だ。

13歳から15歳。すっかり大きくなった彼がいる。

演奏を終えてすぐ、控え室に来てくれた彼はもう少しだけ見上げるくらいに成長していた。

お父さんも嬉しそうに横にいた。

ところでこの2年間、彼の名前が「リアム」だと思っていたが実はお父さんが「リアム」で少年は「ダラウ」という名前だと初めて知った。

いままでずっと少年だと思ってテキストを送っていた。そんな話も交えて、夜どこかでセッションをしよう、という話になり、彼らと落ち合った。

町のメインストリートは、ほんの200メートルほどだ。

その中にいくつものパブがある。

その一箇所で初心者から中級者まで、他のメンバーもいたが、彼と演奏する事ができた。

いちばん嬉しそうだったのは彼のお父さん、リアム。彼は終始恥ずかしそうにニコニコしていた。

彼のような子には本当にいい伴奏者が付いていれば、もっともっと成長することができるだろう。そんなことを一番よくわかっているのはひょっとしてお父さんかもしれない。

是非、僕らの町に来て一緒に演奏してほしいと、強く言われた。実現するかわからないけど、すごく熱心な父親だ。今年は無理でも次の機会を見つけて何日か一緒に過ごしてみたいものだ。

ともあれ、まだまだこれからが楽しみだ。

宿泊場所に戻ったのが2時45分くらい。ギネスでお腹がいっぱい。ま、アイルランドでは良くある現象だ。

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2016年 アイルランドの旅 7

カウンティ・カーロー。寒くて夜になるとストーブを焚いているが、今頃日本では大変な暑さになっていることだろう

静かな夜。10時過ぎに暗くなってくると雲の切れ目から月が顔を出す。もう近くの牛や羊も寝ているだろうか。

永 六輔さんの訃報を聞いたのはそんな景色の中だった。

永さんと初めて会ったのは、まだ彼が39か40歳くらいの時だったと思うと今更ながら驚いてしまう。

僕はあまり長い文章で「こんなことも、あんなこともありました…」なんて書く気はない。

なので、ただただこのアイルランドからお悔やみの言葉と、ありがとうの言葉を贈りたい。

明日からは2日間だけCo.Sligoに出かけるかもしれないがまだ決めていない。

いろいろやることがいっぱいあるが、とりあえず生かされている以上、一生懸命前を、そして上を向いていくしかない。

ここではまるで時間が止まったような感覚があるが、それだけに一見たっぷりありそうな時間を有意義に過ごしてみよう。

2016年 アイルランドの旅 6 ミルタウン・マルベイ

7月3日、日曜日、いざミルタウン・マルベイ(以下、ミルタウンと省略)に向けて出発。信じられないほどの快晴だ。

途中、バラク・オバマ・プラザという所で軽く食事。ここはオバマ大統領に所縁のある土地らしい。因みにCo.OffelyのMoneygallという所からオバマ大統領の6代祖先がアメリカに移住した、という事実があり、ちょうどCo.Offelyの入り口辺りに位置するドライブインということだ。

様々なファストフード店が並んでいる様子はアメリカでのツァーを彷彿とさせる。決まり切ったハンバーガーやピザの匂い。

来る日も来る日もパディやフランキーと顔を突き合わせ、またこの匂いか、と思ったものだ。

そのときも、ここにうどんやラーメンがあったらなぁとつぶやいていた。

こういうところで一番お得感があって間違いないのはToday’s Soupかもしれない。パンも必ずついているし、アイルランドで美味しくないスープに出会ったことはない…いや、一度あったか。

ダブリンの、普通に高めの値段のレストランで頼んだスープは全く味がしなかった。なにか調味料を入れ忘れたのかな、という感じ。

いやいや、一説によると、テーブルに塩や胡椒が置いてあるのはそのためらしい。基本は作ったから後は自分の好きな味に調整してくれ、ということだ。

そんな常識がまかり通るところもまた面白い。「出汁」という観念は全くなさそうだ。

ともあれ、ここのスープはなかなかに美味しかった。満足。

さて、今日はミルタウンでの大事な仕事が控えている。

CDラウンチに参加して、キアランがEire Japanの紹介を、そしてなんと(何故か)僕がキアランのCDの紹介をするのだ。

それも、きちんと設けられた席で5分以内のスピーチを、オーディエンスに対してしなければならない。

これは寿司をつくるためのレクチャーではありません。といってまず笑いを取り、初めて彼の演奏を他のCDで聴いたときの衝撃、本人との出会いのことなどを話して今回の新しいアルバムの話につなげて行って、最後は「これからの人生のパートナーとして是非このアルバムを」と締めくくって終わった。

後でいろんな人から「いいスピーチだった」と言われたけど、なんだかよく覚えていないくらい汗びっしょりだった。

ただ、他にも沢山(20人くらいだったかな)喋ったけど、もちろんみんな英語が達者で、僕のときにはみんなが本当に注意深く、また、興味深い表情で聞いてくれ、最後に「Please get this album for your life partner」と言った途端にさわやかな笑いと拍手が起こったのは覚えている。

会場ではアンドリュー、ミック・モロニー、キャサリン・マカボイ等と再会。緊張したけど楽しいひと時だった。

7月4日、小雨。なのにアパートの向かいのグローサリーのおばちゃんが野菜や果物を外に並べている。

もうしわけ程度のテントはあるものの役には立たないだろう。ま、いいや。そのうち晴れるだろう。

街角で獲れたての鯖を売っているおっさんもいる。モリー・マローンのおっさん版。

お昼になると教室から戻った子供達が街角のいたるところで演奏を始める。4歳くらいから高校生まで。10メートル間隔くらいでおのおの習ってきた曲を演奏しているが、初心者からとても子供と思えない演奏をする子までが街中に溢れている。

このフェスティバルはそういう子供達のためのもの、という認識をある程度持っていないといけないのかもしれない。

ケビン・グラッケンやジェリー・フィドル・オコーナー等とも再会。

夜になるとあちらこちらのパブからいろんな音が聴こえて来る。しばらくはゆっくり休もうと思っていたが、向かいの閉店したグローサリーの前で4〜5人の演奏が始まった。

時間は深夜12時。それが、この世のものとも思えないひどいバンドだった。リズムボックスを鳴らし、バウロンを叩き、エレキ・ベースとマンドリン、時々しかメロディー(らしきもの)がわからない、メチャクチャに吹いているホイスル。そんな奴らにも立ち止まって聴いている、あるいは拍手までしている人がいるのだ。

ストリートで演奏することの無意味さを感じずにはいられない。2時になってやっとその苦しみから解放された。

7月5日、晴れ。今日は7時からRTEのラジオ番組に出演する。そのためにキアラン君と3人で向かっていると、向こうから見た顔が歩いてきた。杖をつき、誰かに介護されているようだったが、すぐに誰かわかった。

「トニー、トニー・マクマホン?」と声をかけると、やにわに「ジュンジ」とハグをしてくれた。

13年ぶりだろうか。今回、ミルタウンに来て本当に良かったことのひとつかもしれない。

「もう、演奏はできない」という彼に「あなたの音楽はいつまでもみんなの胸のなかに残っているよ」と言うと「うん、ハートはまだあるんだ」とにっこりしてうなづいていた。

ラジオではキアラン君があまり喋り慣れないゲール語で話し、パーソナリティもゲール語だけで話し、僕らはちんぷんかん。

2曲演奏している間にも外をニーブ・パーソンズが、メアリー・バーガンが歩きながら手を振る。

無事終わって一杯ギネスを。キアラン君は2杯でも3杯でもいける。

12時、またしてもひどいものが聴こえて来る。たちが悪いことに、たまに何の曲をやりたいのかがわかるのだ。

もとから即興でなにか違うものをやっているのならともかく「ありゃ、この曲だったのか」と思うとまたとんでもないへんてこなものになる。

4〜5人いてまともなのはリズムボックスだけ、というけったいな現象だ。

7月6日、曇り。今日もRTEのラジオ出演。

特に変わったこともなく、キアラン君と飲んで、いろんな人と会って喋って夜中にひどいものを聴かされて1日が終わる。

7月7日、晴れ。朝、スパニッシュポイントまで片道30分ほどを散歩。朝に弱い希花もしぶしぶ付いてきたけど、馬、羊、牛などを見ながら少しは機嫌がよさそうだった。

海辺にボビー・ケイシーの娘さんが住んでいる家がある。

素晴らしいビーチの風に当たってしばしくつろぐ。

そして、今日はゴールウェイから和カフェの芳美さん(早川さん)がやってくる。なんでも、こちらの方面に雲丹を採りに来るらしいのだ。ついでだから来て泊まっちゃおうかな、というので是非そうしてください、と返事した。

実は去年以来、この日には3人が揃わなければいけないような理由があるのだ。あのゴールウェイでの出来事で3人が経験したことは人生における最も貴重なことだった。

本人からもあれから1年、という感謝のメールが入っていた。しかしちょうどこの日にミルタウンに居て、芳美さんもこちらの方面に出向いて3人が揃う、というのも不思議なものだ。

キアラン君とも初めて出会って意気投合。また飲んで過ごした。途中ジョセフィン・マーシュからテキスト「アンジェリーナ・カーベリーとセッションしているから良かったら来て」という。喜んで出かけた。

セッションをしているその場所のちょっと外になっているところにツバメの巣があって、3匹くらいの子供が口を開けてお母さんが餌を運んでくるのを待っている。お母さんは大忙し。そんな光景を見ながらのセッション。うん、素晴らしい。

最後に「Anna Foxe」を一緒に演奏してパブを後にした。11時半くらいかな。外でコーマック・ベグリーやノエル・ヒルとも出会う。

夜中のひどいバンドはどこかへ消えたのだろうか。今日は居なかった。芳美さんラッキー。

7月8日、降ったり止んだり。芳美さんはゴールウェイに戻った。

夜、アンドリューと大騒ぎ。セッションとパブの飲み歩き。もうハチャメチャで帰ったのが1時半。比較的早かったんではないだろうか。アンドリューは4時半くらいだったらしい。

7月9日、快晴。夕方カーローに向けて出発。

その前にキアラン君がスパニッシュポイントやラ・ヒンチに連れて行ってくれた。海辺でランチを済ませ、カーローに着いたのが9時半くらい。

この上なく静かだ。

この約1週間、いろんな人に再会できたのも、芳美さんと7月7日を過ごせたのも全てキアラン君のおかげだ。

彼に感謝。みんなが元気でいてくれたことにも感謝。とても有意義ないい1週間だった。

忘れていたが、ここで一番よく入ったレストランの名前が「コーガンズ」。なんという名前だろうか。キアラン君に日本語では「コウガン」という、と教えたら大喜びしていた。

2016年 アイルランドの旅 5

6月最後の日は1日雨。用事でリムリックとエニスに出かけたが、ほとんど雨の中だった。

7月に入って、朝よく晴れていたが、10時近くになってきたらまた雨が降っている。でもどうせすぐまた止むかもしれない。ありゃ、大雨が降ってきた。あ、急にサンサンと陽が輝いてきた。

天気図も晴れと雨と曇りが一応全部書いてあるし、必ず当たる様に出来ている。アイルランドで天気のことや一年先のことを言うのはナンセンスだ。一寸先は闇か天国か…。

そう思ったら、確かに少なくとも1日の終わりにはギネスでも飲んで、友と語らいに興じたほうが幸せだ。

う〜ん、段々分かってきたぞ。

そういえば面白いことがあった。

「郵便局が閉まる前に行かなくちゃ」と言って振り向いて壁にかかっている時計を見たキアラン君。

だが、その時計、僕たちがここに来た時から止まったままだ。いつから止まっているのかわからないが、時々見ている。

なにか違いがあるのだろうか。謎多きアイルランド人。

因みに今は晴れているので、ミルタウン・マルベイに行く前にまた三人で庭の手入れをする予定になっているが、またいつ降り出すか分からない。

記憶によると、アイルランドの雨は前兆もなにもないことがよくある。

案の定、降ったり止んだりの中で数回にわたって「ティー・タイム」を設けて一応全部済ませた。

これで安心してミルタウンに行ける。

そしてその晩、キアランは地元のミュージシャンたちとのセッション、僕らはホテルでの演奏のギグに出かけた。

この辺で最もファンシーで有名なホテルで、ウィークエンドには必ず結婚パーティが開かれて、レストランもパブも相当賑わうらしいが、今日は比較的静かだった。かえってそのほうがやりやすい。

僕らはそこで2時間ほど演奏して12時頃戻って来た。

やがてセッションを終えたキアランが数人の友達を連れて帰ってきた。見れば普通のおっさんや若者だが、みんなティン・ホイスル、コンサルティナ、バンジョーなど、それこそ普通に演奏する。

そして飲みまくって演奏しまくって帰って行ったのが3時半過ぎ。

明後日にはミルタウン・マルベイに行かなければいけないのに。早起きして用意しようと思っていたのに…と思いながら眠りについた。

外はもう明るかった。

2016年 アイルランドの旅 4

カウンティ・カーローの小さな町に来てから約1週間。すっきり晴れた日はまだ1日しかない。

だが、生い繁る緑に雨が降り注ぎ、遠くに見える丘が美しく、風にそよぐ木々から落ちる水滴がキラキラと光る。

やはり、都会の雨では味わえない趣がある。

昨日は地元の高校生たちの演奏を聴いた。キアランの生徒さんたちだ。

アイルランドのどこでもそうだが、普通に実直なトラッドを演奏する子供たちの表情がとてもいい。

いかにも音楽が特別なものではなく、生活の一部であるということを否応なく感じてしまうのだ。

しばし彼らと紅茶を飲み、マフィンやスコーンをいただいて歓談し、家に帰ってきたらキアラン君がパスタを作ってくれる、と言い出した。

連日の仕事で疲れているだろうに、やる気満々なのでそのままお願いした。

出来上がったパスタは素晴らしく美味しかった。

ギリシャヨーグルトを使ったクリームパスタだ。トマトや玉ねぎ、セロリがふんだんに入った実に味わいのあるもの。レストランで12ユーロは取れるくらいのもので実に満足した。

それから少しお茶を飲んでいたら、カウチに座ったキアラン君から寝息が聞こえてきたので、僕らも少し休むことにした。

ここで急にキアラン君と、君付けにしてよび出したが、彼の兄貴であるデクランは、日本人でも知らない言葉を知っているくらいに日本語が堪能な人物だ。その彼が「キアラン君」と呼んでいたのでいつしか僕らもそう呼ぶようになっている。なので、時々君付けだったりそうでなかったりすると思うがお許しあれ。

今日はもう6月も終わるので、庭の手入れを手伝った。ここの庭は相当広い。都会で育っている僕らにしてみれば手入れはかなり大変な作業となることは間違いない。

ほとんど電動だが、刈り上げたものを捨てる作業は手動でやらなければならない。

キアラン君が芝や木々を刈り上げ、希花がそれを熊手で集め、僕が裏山に捨てに行く、というトリオ編成で行った。

時々芝刈りを交代したり、希花が裏山に捨てに行ったりした。

9時過ぎに作業を終えたが、まだサンサンと陽の光が降り注いでいる。ただでさえも労働の後のビールは美味いだろうが、こう明るかったらやっぱりどこかへ出かけて飲もうというはなしになってしまう。

が、しかし彼らにとっては特別なことではない。

街まで出ると、まだ早いのか、バーには5〜6人のお客さんしかいなかった。なかには推定80代後半と思えるお婆さんもいる。

10時半も過ぎるといつのまにかカウンターが埋まってきて、座りきれない人たちも立ち話に興じる。

これは明らかに文化だ。

日本で例えて言うならば、というような事柄が見つからない。

11時半、パブを出るとやはり西の空はまだ明るい。

夏はすぐそこまでやってきているのだろうが、とてもそうとは思えないくらいに寒い。

パブはもう賑わっている。その賑わいを後に帰路についた。

2016年 アイルランドの旅 3

まだ生きています。

今日は、アイルランド対フランスのサッカーの試合をテレビで見て過ごした。普段サッカーなどには興味がないものの、一応建前でアイルランドの応援をしていたが2−1で負けてしまった。

天気も良くなったので、ちょっと買い物に出かけた。

川のほとりに鴨や白鳥が憩う最高のロケーションであった。

ところで忘れていたが、ソーセージはキアランも食べたが、彼曰く、味がやっぱり違うそうだ。

僕らにはあまり馴染みのないタイプのものだし、彼の意見のほうが正しいかもしれない。

ここで、じゃがいもとアップルパイに次いで、ソーセージの違いがわかる男が登場したわけだ。

おかげで残りのソーセージは敢えなく屑かご行きとなった。だから三人ともまだ生きているのかな。

夜になり、普通なら暗くなっている時間だが、まだ例によって明るい9時頃、町まで歩いて飲みに行く話がまとまり、外へ出た。

ここからはさくさく歩いて20分ほど。ちょうどいい距離だ。

なにもない「奥の細道」のような道路が唯一町へ出ることのできる比較的安全な道だが、結構せまい。車はこんな道を100キロほどのスピードで行き交うので、帰りのことも考え、ライトに光るジャケットを羽織って変な組み合わせの三人が一列になって歩く。

途中、道がさらに細くなるので、その区間は広い墓場を横切るのが通常の行き方らしい。

サマーズ家代々のお墓に挨拶して墓場を出ると、少しだけ歩道のある道が続く。

やぎの子供達が佇んでいる。普段はやぎのチーズの香りが漂ってくるらしいが、今日はあまり匂わない、ということで僕としては助かった。強い香りのするチーズは苦手なのだ。

しかし、やぎの子供達はかわいい。6〜7匹が一目散に駆け寄ってくる。何を言っているのかわからないが、メ〜メ〜言っている。

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しばし相手をしていたせいか30分ほどで町に到着。お昼はゲームがあったので、さぞにぎやかだったろうが、まだそれでも多くの人が飲んでいる。

小さい町だ。みんながキアランのことは知っているし、キアランも彼らのことは知っている。

あまり飲めない僕にとっては、こうして毎晩のように集まって飲む、という行為がわからないが、これは明らかにこの国の文化だ。

キアランのように、普段からあんまり酒、酒と言わない男でもあっという間に1〜2パイントは終わらせてしまう。そして決まり切ったセリフのように、もう一軒行こうなどと言う。

決して酔った勢いとか、もっと飲みたいから、とかいうのではなさそうだ。

それでも彼、明日の朝は早く出掛ける用事があるので早々と11時頃に二軒目の店を出て帰路に就いた。

西の空がまだほんのり明るい。やぎももう寝ているようだった。暗くなった墓場も広いせいかあまり怖くない。日本のお墓の方が怖いような気がするのは日本人だからだろうか。

この時間になると蛍光ジャケットは効力を発揮する。墓場を出てまたしばらく細い道を歩くと、やぎと遊んでいたわけでもないが足元がおぼつかなかったせいか、30分で家に着いた。

家に着いたら「ワイン飲むか?」というキアラン。どこまで強いんだろう。

一夜明けて朝8時。キアランがシャワーを浴びている。8時半に出ると言っていたのでほぼ時間通りだ。

この男はアイルランド人には珍しく時間に関する観念がしっかりしているようだ。

ちなみに6月27日、カーロー。素晴らしくいい天気だ。

2016年 アイルランドの旅 2

アイルランドに到着して5日目。やっとまともな時間に目が覚めたようだ。

今日も外はどんより曇って寒々としている。まだ夏はやってきていないのだろうが、やっと来たかと思っても1ヶ月ほどで終わってしまう。

しかし、湿度は新聞で見る限り、昨日などは70%以上あったのに楽器の鳴り方が異常にいい。

建物のせいだろう。特にここ、キアランの家は広々として基本コンクリート造だし、周りはどこまでも広がる緑だし。周りは気分的なものだろうが…。

よく、練習はできるだけ響かないところでやったほうが良い、ともいうが、これだけ「いい音」というものを感じると自分自身が楽しめると思う。

確かに自分の技術の範囲をだいたいわかっているのなら、いい響きの所で弾いたほうが面白さを感じることができるだろう。

いわゆる「思わずのってしまった」みたいな。もちろん脱線もあるのだろうが音楽はそのほうが面白い時もあるし、そういう音楽もある。

とかなんとか云って、音楽に関わってからたかだか60数年。人の一生からすると確かに短い時間ではないが、文章ではいくらでも偉そうなことが言える。特に今の世の中、そんな奴が多すぎるから気をつけなくては。

おっと、年寄りの愚痴が始まりそうなので、ちょっと外でも散歩してこようか。

 

久々にパディ・キーナンのFactory Girl を聴いて「おー、コンサートではこれに2番からギターを乗せて、キーを変えて確かMan of the Houseに行ったなぁ」などということを想い出した。

そこで、iTunesで流れるものにギターを乗せていたら、それを動画で録音していた希花が早々とパディに送っていた。すごい世の中になったものだ。

すぐパディから返事が来た。「今日、ニュー・ハンプシャーにフランキーが来ているから見に行くつもりでいる。動画は後で見るよ」

慌てて「そんなにシリアスなもんではないから見なくてもいいものだ」と伝えてもらった。

ふと壁に目をやると、Matt MolloyとSean KeanのContentment is Wealthというアルバムのジャケットが飾ってあるが、同じタイトルのアルバムをアンドリューもリリースしているし、これはEmのジグだ。「たしかこういうメロディだった」

など、ここには多くの資料もあるし、探し出せばいろんな曲を掘り起こすチャンスも出てくるだろう。

午後、天気も良くなったので、キアランと一緒にキルケニーに出かけた。ここはマーブル・ストーンで有名らしい。

そういえばCarrickfergusという歌の2番にこの町の名前が出て、マーブル・ストーンという歌詞につながっていく。

歌の歌詞や曲名からその町を見ていくのも面白い。

キルケニーから戻ってしばらくして、パディからフランキーのソロステージの様子がビデオで送られてきた。パディは自撮りで美味しそうにギネスを飲んでいた。

 

6月26日。昨夜、期限切れのソーセージをキアランが捨てようとしていたので「いや、これくらいならまだいけるだろう」と保存を促した手前上、みんなが寝ている間に12本全てをクックしてみた。

それから保存するなり、細かくしてパスタにいれるなりすればいいだろうと思ったからだ。

しかし、そこはやっぱりみんなに食べさせる前に自分が食べてみなければいけない。犠牲になるのは一人で十分だ。

本当はその行程を昨夜から考えていた。やっぱり料理がすきなのかもしれない。食べ物にはあまり執着がないのに、こういうことは大好きなのだ。

かくして、立派にクックされたソーセージは普通に食べられるので、後でナポリタンもどきでも作ってみるか。

もし、2016年アイルランドの旅がここで終わっていたら、ソーセージのせいだと思ってください。

2016年 アイルランドの旅 1

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6月19日、いよいよアイルランドに向けて、暑い日本と暫しの別れを告げた。今回もアブダビを経由してダブリンに着く予定だ。

フライトも快適、といえども多少揺れたが、これくらいの揺れは空気の中を飛んでいるのだから致し方ない、という程度のものだった。が、しかし「飛行機大好き」という人の気持ちがわからない。

僕はあくまで外観が好きだったのでしょっちゅうプラモデルを作っていたのだ。まぁ時代のせいもあってか、零戦、隼、紫電改などの戦闘機をはじめとして、ドイツ、イギリス、アメリカの飛行機はよく作ったものだ。

だいぶ前に、久々に零戦を作りたいなと思い購入してみたが、最近のプラモデルはあまりにもよくできていて細かすぎるので、全然手つかずで置いたままだ。もう根気もなくなっているし、眼もよく見えないし、何事もあきらめるのが早くなっている。

それはともかくとして、問題なくダブリンに着いた。見たところ、なにも変わっていない。それは嬉しいことだ。

気温は18℃ということだが、今はお昼過ぎ。夕方になったらきっと寒くなってくるだろう。

僕らはそのままゴールウェイに向かった。この辺はもう慣れたもので、こちらも大した問題もなく2時間半ほどで到着。

今回のゴールウェイ滞在は短い。和カフェのオーナーである早川さんに会うのが目的だ。

ぼくら三人は去年の出来事以来、説明のつかない深い絆で結ばれているような気がする。

3日ほどゴールウェイに滞在して早川さんの車でダブリンに向かった。少し用事を済ませて、ラーメンなんかを食べてしまった。

84年にニューヨークでラーメンが結構なブームになり、ラーメン屋さんに入ったことを思い出した。

ナターシャー・セブンのファンの男の子が働いていてサインをお願いされたことがある。

今はそんなことはないが、ラーメンに関してはヨーロッパの他の国で結構流行っていて、それが今、じわじわとアイルランドに来つつあるらしい。

そういえば、先の話に戻るが、和カフェで早川さんとお話をしていたら、日本人の若者が入ってきて「あ、城田さん、内藤さん」とびっくりした様子で直立不動のまま固まってしまった。

なんでも、アイリッシュ・ミュージックが大好きでギターを弾いている、ということだが、初めての海外旅行でアイルランドに来てしまったという。

本場の空気に触れたいという彼は、その行動力と音楽に対する感性でいいギタリストになるに違いない。

古い録音をいっぱい聴いて、機会があったらまたアイルランドに出向いて、独自のスタイルを創って欲しいものだ。

最初の数日はこんな風に過ごし、僕らは今回来たことのないところに来ている。

Muine BheagというCo.Carlowの小さな町だ。

先日来日したCiaran Somersに幾つかのギグをセッティングしてもらっているので、彼に会うためにここに来ているが、これはまた何もないところだ。

とことんトラッド・アイリッシュを肌で感じることができる。

着いてすぐになんだかよくわからないけど、誰かのバースディ・パーティに出かけた。

どこをどう走ったのか、山道を延々と抜けて着いたところは人里離れたようなパブ。

Ciaranと三人で少し演奏しただけで、山のようなサンドイッチや、じゃがいも、ソーセージ、それに勿論ギネス。

まだまだ時差ぼけも抜け切れていない身にとってはなかなかにきつい。やっぱり酒飲みにはこの国はいいだろうなぁ。

10時に出て1時間で帰ると言っていたが、結局パブを出たのが1時過ぎだった。

アイリッシュの見積もりはあてにならない。普段きっちりしている好青年のCiaranでもリラックスするとこんな感じだ。

しかし、このアバウトなところが彼らの、そして彼らの音楽の素晴らしさでもあるのだろう。

ここで全く別な話で申し訳ないが、今日ラルフ・スタンレーの訃報を聞いた。僕が最も好きなブルーグラス「スタンレー・ブラザース」はこれでふたりともいなくなってしまった。

いま、このCarlowの深い緑を見ていて、山々に囲まれた緑のVirginiaを歌い続けてきたスタンレー兄弟に改めて思いを馳せている。

ジェリー・ガルシアとグレイトフル・デッド

グレイトフル・デッドについても、ジェリー・ガルシアについても今更何の説明もいらないだろうが、最近、何人かの熱狂的なグレイトフル・デッド・ファンの若者や、そこ迄でもないが、彼らに興味を示す若者に出会った。みんな20代だ。

僕は何度も何度も彼らのコンサートを観に行ったが、彼ら、若者たちは生で観たことが無い、という。

無理もない。ジェリー・ガルシアは1995年の8月に亡くなっている。

当時サンフランシスコに居た僕はその日のことをよく覚えている。

ヘイト・アシュベリーには多くの人が集まり、道端に座り込んで蝋燭を立て、花を飾ってお祈りを捧げていた。

どこまでも真っ青に澄み渡った空の下、街全体が失意のどん底に突き落とされたような光景だった。

8月13日にゴールデンゲート・パークのポロ・フィールドでメモリアルセレモニーが行われた、とあるが、25000の人の中に確かに僕も居た。

遡ること、僕が彼らの存在を意識し出したのは、特にジェリー・ガルシアの、あるいはグレイトフル・デッドの音楽に興味があったわけではないが、それはジェリーのバンジョープレイによるものだったかもしれない。

オールド・アンド・イン・ザ・ウエイで聴くことが出来る絶妙なタイミングのバンジョーは、まさに彼ならではの感がある。

また、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのヒット曲で演奏されたスティール・ギターも絶妙だ。

それくらいの知識と、サンフランシスコという土地に住んでいるというだけの流れに乗っかって彼らのコンサートには何十回も足を運んだ。

曲間に話すことはなく、前の曲が終わると同時に自然と次のイントロに入っていく。3時間もそのままだ。

前の方では5~600人のヒッピーたちが踊っている。座席には2000人もいるだろうか。そして、数百人が後ろの芝生でフリスビーをしたり犬と戯れたりして楽しんでいる。

そして会場の外には数千人のヒッピーたちがキャンプをしている。

ほとんどのコンサートで毎回そんな光景が繰り広げられていた。

会場には入れなくても、彼らの近くにいればもうそれでいい、という人達が世界中から集まってくるのだ。

僕がその文化の中心、ヘイト・アシュベリーのすぐ近くに住んでいたことは非常に幸運だったかもしれない。

近くのコーヒー・ショップでまだ始めたばかりのアイリッシュを演奏していると、グレイトフル・デッドのメンバーであったフィル・レッシュが聴きに来たりしていた。そんな日常もこの地区に住んでいたからこそ、だろう。

また、若いデッド・ヘッズたちにそんな話を聞かせてあげたいものだ。

だが、多分グレイトフル・デッドについても、ジェリー・ガルシアについても彼らの方が詳しいだろうな。

2016年5月27日

この日は広島にとって、日本にとって、そして世界にとって歴史的な日として意味あっただろうか。できればそうであってほしい。

金曜日の夜、酒に酔った若者が奇声を上げているのが聞こえてくる。取りあえず平和だ。

広島のことは勿論、熊本の地震も、東日本も忘れているわけではない、と言いたいが普段の自分自身の生活にはあまり関係してこない。

これは決して責められることではないと思う。何事も当事者にしか理解できないものがある。

フォークソングに長いこと関わってきたけど、反戦集会に出たことは一度も無い。もし、自分が反戦をテーマにしたコンサートに出てくれ、といわれても恥ずかしくて出るわけにはいかない。

高校の頃、それでもいくつかの反戦歌をそれと知りながら唄っていた。ほとんど原語のものばかりだったが。

折しも日の丸を掲げることに反対意見が発せられていた頃。親父が祝日になると嬉しそうに日の丸を玄関に掲げるのを見て、何も言えなかった。

この人、このために命を懸けて南の島にいたんだな、と思うと、それは何も言えなくなるのは当然だろう。

僕らはなんにも知らない。でも知る義務があることは確かだ。

知る権利というと、知らなくてもいいことに首を突っ込んでは、間違った情報を嬉々として書き込んだりする輩もいるので、「事柄によっては知らなくてはいけない義務がある」と言ういい方の方が良いのかな。

僕にとって一番身近な戦争は湾岸戦争だったかもしれない。身近というと変だが、少なくとも、毎日のように帰ってくる帰還兵を題材にした「ヒーロー・インタビュー」みたいな番組が放送されていた。

高校生たちは海兵隊には入ってみたいけど、ブッシュのために死ぬのはごめんだ、と言っていた。

レストランに御用聞きに来る日本人の女性の息子さんが湾岸に出征していった話を聞いた。空港で、それはそれは泣いたそうだ。

ジョン・デンバーの「傷心のジェット・プレイン」を想い出した。

ジュリー・ゴールドの「フロム・ディスタンス」にも随分感銘したものだ。

ボブ・ディランは「答えはいつも風に吹かれてさまよっているのではない。フッと目の前に落ちてくることがある。その時、気がつくか気がつかないか、それが問題だ。気がつかなければ答えはまた風に吹かれて何処かへ行ってしまう」と言っていた。

そんないろいろなことを想い出しながらテレビを観ていた「記念すべき日」だった。

反戦運動とフォークソング

俗に言うベトナム戦争というのは、1960年頃から1975年くらいまでだろうか。ちょうど僕らが高校、大学、そして社会へと進む時代だった。

何不自由なく、普通に暮らしている僕らにはほとんど無縁といえるものだった、としか言いようがない。

実際には数々の恩恵にも授かっただろうし、悪い方の影響もあったかもしれないが、そんなことも全く感じることなく暮らしていた。

フォークソングに興味が出てくると、当然のごとく反戦フォークなるものも耳に入ってきた。

だが、それらが本当に自分の気持ちに入ってきたのは正直、終結してから随分経ったアメリカに渡ってからだろう。

歩いていると多くのホームレスに出会った。

「空軍兵士としてベトナムから帰ってきて、職もなく困っています。どうか少しのお金をめぐんでください。エディ。」

通りの向かいには「僕の兄貴は空軍の元軍人でエディといいます。ベトナムから帰ってきて困っています。どうか彼を助けてあげてください。マイク。」

どこまで本当か分からないが、少なくとも見た感じエディの歳はそれ相応だ。親しくなってたまには25セントあげたりしたが、こちらも小銭が必要になったら貸してくれたりした。

また、道に腰かけてハーモニカを吹いているやつもいた。

彼が友達のところに連れて行ってくれたが、それはそれは驚きの光景だった。真っ暗な部屋にベトナム帰還兵が2人で暮らしている。一日中ほとんど部屋を出ることがない。

怖いそうだ。いまでもジャングルが脳裏から離れない。敵も怖いけど、蛇や身体に引っ付くヒルみたいなやつが寝ても覚めても襲ってくる、と云いながら煙草をふかし、ウイスキーをあおる。

こんな奴らが街角に、あるいは人知れない部屋の片隅にうようよ居た。

ゴールデンゲート・パークにもいっぱいいたし、すぐ近くのヘイト・アシュべリ―地区は言わずと知れたグレイトフル・デッドを始め、いわゆるヒッピー文化の発祥地だ。

また、対岸に行けば学生運動の街、バークレイもある。

そして働いていた先には多くのベトナム人がいた。彼らからの話はこのコラムで既に書いているが、僕らが普通に生活をしていた最中に起きていたことを多く知ることとなった。

湾岸戦争では、友人の息子たちが多く出陣していった。

街では多くのデモ隊が拘束されているのを遠巻きに見ていた。

世界中の偉い人達は絶対的に守られているので、庶民がいかに騒ごうが何とも思っていない。

税金を上げることばかりを考えないで、自分たちの給料を少し減らせばいいのに。知事なんかがネコばばしたお金を復興に使ったらいいのに…っていうのは簡単だけど、そうも言いたくなるくらいに守られている。

と、ここまで書いてきて何を言いたいのかが自分でも良く分からなくなってくるので、プロの小説家にもコラムニストにもなれないだろうことは良く分かる。

ただ、あの時代にフォークソングから学んだこともいっぱいあったことは確かだ。それは音楽的にも思考的にも。

そして、その思考的な部分をアメリカで体験できたことも確かだ。

だが、それほど音楽に思考的なもの、強いて言うならば思想的なものを入れたいとは思わない。僕自身それはそれとして、音楽を大切にしていきたいと考えている。

 

2016年6月17日(Fri)ラ・カーニャ

キーボード奏者 宇戸俊秀とベーシストの河合徹三を迎えてのユニットで、アイリッシュ・ミュージックの数々を演奏します。

彼らは言わずと知れた、日本最高峰のミュージシャン。彼らのような、縁の下の力持ちである伴奏者(僕もその一部ではありますが)は本物の実力と経験がないと、どんなシーンでも音楽がきちんと成り立たないのです。

そんな彼らの懐を借りて、本場で演奏を展開してきた僕らにとっても、また違う風を得るコンサートになるはずです。

「アイルランド行ってきますコンサート」
出演:
内藤希花(fiddle,irish harp&concertina)

城田純二(guitar,banjo&vocal)
河合徹三(bass)
宇戸俊秀(keyboard&accordion)

日時:2016年6月17日(金) open 19:00 start 19:30
予約・3000円+1drink order
当日・3500円+1drink order

ご予約・お問い合わせは下北沢ラカーニャlacana1980@mac.com まで

高橋竹童コンサート

先日、ひょんな繋がりから、津軽三味線の高橋竹童の音楽会に出掛けるチャンスを得た。

隣の会場では森山良子さんがやっていたみたいで、ちょうど同じような時間帯にそちらに並んでいる人を見ると、大体僕らの世代。

こちらは僕より10~15は上の世代がほとんど。恐らく希花さんが一番若いかもしれない、というような感じだったが、一杯の人だった。

ほぼ満員御礼と言えるだろう。

まず、彼自身が苦労して録音してきたという津軽の波の音と、なかなか鳴いてくれなかったというウミネコの鳴き声が会場に響く。

そこに登場した彼が最初に演奏したのが「十三の砂山」

僕は昔京都にいたので、これは大阪の十三(じゅうそう)かと思ったことがあった。それこそ初代竹山と出会う前の話だが。

お話もなかなか落ち着いていて面白く、お客さんを引き込んでいく技術もしっかりしていると感じた。

僕にもなじみのある「津軽甚句」(どだればち)や、「弥三郎節」。もちろん「じょんから節」に至るまで、トラッドの素晴らしさを存分に味わった。

尺八や胡弓。コンサートのアクセントとしても、演奏としてもとても素晴らしく、ひとつの世界を創りだしていたようだ。

また個人的にゆっくりお話しできる機会があれば面白いかもしれない。あれだけきちんとトラッド(和楽に使う言葉ではないかも知れないが)をできる人なので話は合うかもしれない。

益々の活躍が期待できる人だ。

ギター弦に関すること

ギターを始めた頃、最初はクラシック・ギターだったので、当然ナイロン弦だったが、フォークギターを買ってからはどうしていたのか覚えていない。針金を代用したことは覚えているが、それはいつもというわけではない。

70年代に入って、マーチンギターを手に入れると、まぁその頃にはいろんな会社の弦が手に入ったのだが、最初はやっぱりマーチン弦だったと思う。

特にゲージに拘ることなくライト・ゲージを張っていた。

常に僕はフィンガー・ピッキングが多かったのでライト。省ちゃんはフラット・ピッキングが多かったのでミディアム。

マーチンの他にはダルコというのもあったし、ギルドの弦も使っていた。それが良かったからという覚えもないが、今のようにネットで買えるような時代でもなかったので、良く行く楽器屋さんからまとめ買いしていたのだろう。

アイリッシュをやるようになってからはずっとブルーグラス・ゲージを使っている。これは

1、2、3、がライト、4,5,6がミディアムというものだ。

以前、僕はギグごとに張り替えていた。それがどんなに小さなセッションでも。なので月に20セットくらい使っていたことになる。

そんなに簡単に切れるものではない、ということは百も承知だが、僕はギタリストとしてバンドのベース、リズムを一手に担っている。

もし、途中で切れたらどうしようもなくなる。これで飯を食っている以上そういうわけにいかない、という怖さからしょっちゅう変えていた。

しかし、困ったことに新品の弦より少し腐り気味くらいのほうが良い感触の音が得られるのも事実だ。僕はそれでも3つ目の仕事では必ず変えている。

今ではかなりロングライフの弦も出ているが、ロングライフの弦は値段も高い。怖いという感覚だけでそうそう変えるわけにはいかないので使っていない。

ともあれ、このブルーグラス・ゲージというものは低音の力強さが好きだ。ライト・ゲージでは出せない迫力が出るので今のところこれで決まり。因みにダダリオのブルーグラス・ゲージ、フォスファー・ブロンズの012-056というものだ。

6弦はDまで下げているし、056という太めの弦でガツンと弾いた方が音に深みが出る。

だが、これも好みだし、プレイヤーにとってもギターにとっても向き不向きがあるだろう。

因みに、DADGAD専用、というゲージもあるが、僕には不向きだった。1,2がミディアム程度の太さがあり、3,4,5が少し柔らかいのだ。慣れればどうってことないのかもしれないが。

究極、好みであることは確かだ。

健康に関すること

最も大切なテーマだろうが、つい最近、若いタレントが急死した。もうみんなが知っていることだろう。それにしても若すぎる。

もちろん歳がいっていれば仕方ないかということもないが。

詳しい話をきいていると、僕らの去年の夏のことが蘇ってきた。ほとんど同じ症状だったが、

彼は希花さんの渾身の心臓マッサージの末、運が良かったのだろうか、生き返った。

しかもアイルランドで。救急車が到着したのが20分後。AEDも手に入れることが出来なかった。

やっと運ばれた病院はまるで野戦病院。血だらけの若者から、元気のない老人までが廊下のあっちこっちにごろごろしていた。

そんなところで、それでも最優先ということですぐに運ばれて行った彼は真っ白だったのを覚えている。

希花さんが医師と面談をして、カルテから心電図までチェックした。遠い日本に住む親とも病院の電話から話をしたが、さすがに医師としてツボを得た説明をしていた。

とにかく僕らだっていつ何時どこで倒れるか分からない。

健康なものを食べていれば大丈夫なわけでもないが、できれば不健康な食べ物は口にしないほうがいい。

でも、そういうものが結構美味しいということはだれにも分かっている。

運動を欠かさずおこなっていればいいことも分かる。なので、ジムにも適度に通っている。よく歩くことも心掛けている。

だが、僕の健康の秘密は(というほどのことでもないが)おそらく「歯」だろう。

35歳くらいの時に京都のカントリー歌手兼歯科医の永富先生に「お前一生自分の歯で行けるわ」と、口を開けただけで言われたことがある。

だが、僕は子供の頃から寝る前に歯を磨いたことが全然ないわけではないが、あまり記憶にない。

今でも朝や出かける前、あるいは気の向いたときに磨く。それで、虫歯というのは1回しか経験していない。

それも63歳くらいの時。何が痛いのか…頭痛か、口内炎か…分からなかった。歯痛というものの経験がなかったからだ。

それでもかぶせ物をして、あっという間に治った。医者は「なんと立派な歯」と感嘆して言った。親に感謝だ。

僕が思うに、そんな歯なのでこの歳でも結構食べられる。食べ物が美味しくないと思ったことがほとんどない。アイルランドは別。

美味しく食べることが出来るというのは基本だろう。

僕の嫌いな言葉で「不味い」という言葉がある。確かにそういうものもあるが僕は敢えて「美味しくない」か、「苦手」を使う。

おそらく作った人は美味しいと思っているのかもしれないし、せっかく作ったものに「不味い」というのは気の毒だ。自分には合わないだけかもしれない。

僕には好き嫌いがあまりない。強いて言うならば「漬かりすぎた漬物。特になすの漬物」は苦手かな。「魚醬」のあんまりきついもの。「生ハム」や「フォアグラ」は食べない。

ありゃ、こうしてみると結構あるのかな。

でも、普通に出されるものはなんでも食べる。「気持ちいいくらいによく食べるね」と言われるのが好きだ。

それってやっぱり健康の秘訣かもしれない。

良く食べて、適度に運動をして、寝る時間を大切にして、ストレスをストレスと思わないのが一番だが、なかなか難しい。

取りあえず、いま位の感じを行けるところまでキープ出来れば良し、としておこう。

ついでに、歯について普段僕がやっていることは、練り歯磨きはあまり落とさないで少しだけゆすぐ。本当は食べる前に磨くようにしたい。くらいかな。

それと、これはメーカーの宣伝になってしまうかもしれないけど、クレスト社から出ている「Glide」というデンタルフロス。日本ではほとんどネットでしか手に入らないようだが、これは万人に勧めたいものだ。

ブルーグラス、オールドタイム、アイリッシュ

この順番は僕が歩んで来たものなので、本来歴史上では書くべき順番は逆になるのだろう。僕の場合勿論ブルーグラスの前にフォークソング、というものが入るが。

初めてフォークソングというものを耳にしたのは、ひょっとすると1960年、うん、まだ10歳?

ブラザース・フォーの「遥かなるアラモ」だろうか。しかし、同じグループの「グリーンフィールズ」も1960年。「アラモ」より少し前に出ている。そしてすでに知っていたので、取りあえず1960年にフォークソングと出会ったと言っていいだろう。56年前?

それから4年か5年ほどして初めてのピアレス・バンジョーを手に入れ、フォークソングに夢中になるのだが、その辺のことはもう既に書いている。

ギターはそれより少し早く手に入れているので、なんとなく知っているメロディを自分なりにアレンジして弾いていた。

小さいころからのピアノの訓練で、和声と云うものはいとも簡単に理解できた。バンジョーについても同じだった。

そして、もっともっとバンジョーを弾いてみたくなったら自然とブルーグラスにのめり込んでいった。それにしても、フォギー・マウンテン・ボーイズの来日はいいタイミングだったと言えるだろう。

朝から晩までブルーグラスのことを考えていたら、今度は自然とルーツに向かうようになる。そして友人と3人でニュー・ロスト・シティ・ランブラーズのスタイルを目指す。

そこにはもちろん、ブルーグラスで演奏したものからカーター・ファミリーの歌まで、旧知の曲がいっぱいあった。

もちろん、たまには別な仲間と4人、5人集まってブルーグラスも楽しんだ。

この際、ナターシャー・セブンというものはさておいて、1991年からはアイリッシュ専門である。

よくいろんな人に「なぜアイリッシュか?」という質問を受けるが、そんな時よく「ルーツに戻っていっただけ」と答えるが、これは決して間違いではないものの、正しくもない。

散々ブルーグラスを経験すると、そのルーツはスコティッシュだということがはっきりわかる。

アイリッシュは独特だ。もちろん隣国であるスコットランドの影響を受けたものも数多く存在する。

そしてその演奏形態、ジャムのあり方は実にオールドタイムとよく似ている。が、もっともっとヨーロッパの匂いがする。

そこにはクラシックの要素もいっぱい入っている。だからこそ、クラシックの演奏家は好んでアイリッシュの曲を演奏したりするのだが、そこにはどうしようもないリズムの違いが生じる。

クラシックの演奏家の最も弱いところはリズムだろう。えも言われん、楽譜で記すことのできないきちんとしていないリズム感覚。

これが把握できないと単なる音の羅列になってしまう。

パディ・キーナンが日本の若手アイリッシュ・グループを聴いた時「とても上手いけどパッションが全く感じられない」と言った。

この音楽は生活の音楽だ。そうして考えてみるとオールドタイムからもそれを感じる。ブルーグラスはもっとショウとしての魅力に溢れる音楽なのかもしれない。それに、宗教も色濃く感じる。

ともあれ、ブレンダン・ベグリーが畑を掘り起こし、出来たジャガイモをクンクンして「うん、いける」と僕に渡した。

ジョー・カーターが「畑にラディッシュを植えるから手伝ってくれ」と鍬を持ってきた。

アンドリュー・マクナマラが「草むしりをするから、ジュンジ、そこの長靴を履いてきてくれ」と自分の分と仲良く並んだ長靴を指さして言った。

これ、全て音楽だ。オールドタイムだ。アイリッシュだ。そして、本来、ブルーグラスもその流れの中にある。

60年代からこれらの音楽に接してきて、ようやくそんなことが身に染みて感じるようになってきたのはやっぱり、彼らとの生活を体験してきているからだろう。

50年。いろんなものを見て、やっと分かりかけてきたのかも知れない。

キアラン・サマーズ Ciaran Somers

とてもいいフルート奏者であり、僕らが生きている証であるアイリッシュ・ミュージックの基本中の基本をたっぷり聴かせてくれた演奏家であった。

この音楽を演奏しているにもかかわらず、楽し気に飛び跳ねるパフォーマンスばかりが横行している昨今。そしてそれがもてはやされているこの国。

確かに、あまり一生懸命になっても時間が足りないし、一般的な人達にはどうでもいいことだし、本場の超一流のミュージシャン達と関わるよりも、自分たちの身内でつるんでいるほうが気楽だ。

もちろんみんなで楽しむことも音楽のひとつの大切なかたちであるのだが、これでお金をいただいている僕らにはこの音楽に対する飽くなき探求心と尊敬の気持ちがとても大切なこととなる。

知る限り、本当に真面目に取り組んでいるミュージシャンもこの日本には数少ないが居ることも確かだ。問題はそのことがさっぱりわからないのにこの音楽に関わってこようとする人間が居ることなのかもしれない。

とに角Ciaranの演奏からはまた気を引き締められるいいチャンスを与えてもらった。

僕は、アンドリュー・マクナマラに始まり、ジェリー・フィドル・オコーナー、ブリーダ・スミス、トニー・マクマホン、ジョン・ヒックス、コーマック・ベグリー、パディ・キーナン、フランキー・ギャビンを日本に紹介した。イデル・フォックスは大使館の招聘だったが、彼女との素晴らしい演奏も体験させていただいた。

そして彼らは一様にトラッド(伝承音楽)に対する真摯な姿勢を僕らに見せてくれた。

だが、この日本でアイリッシュ・ミュージックを自分たちの生業の一角として演奏している人たちがほとんどそういった会に姿を見せないことが不思議でならない。

ま、諸々の事情もあるのだろうし仕方のないことだが…。

80年代、トニー・マクマホンがコマーシャリズムに乗りかけたアイリッシュ・ミュージックを嘆いていた、というが、アイルランドですらそういうことが起きるのだ。

そんな中で、しっかり伝統を守っていきながらこの音楽で生活を築いていく人達は貴重な存在だ。

Ciaran Somersにもう一度「ありがとう」と言っておきたい。

京都産業大学 ブルーリッジ・マウンテンボーイズ

大学へ入学したその日からバンジョーを持って学内を歩いていた。大学に行ったらブルーグラスをやろうと決めていたからだ。

今でもはっきり覚えている。「自分、バンジョー弾くんけ?」とザ・関西ともいうべき言葉をかけられたことを。

それは初代バンジョー弾き、酒井さんだった。そして先輩たちに出会ったわけだ。

ギターとヴォーカルの細谷さんは僕とは全然違って坊主頭だった。フィドルの松井さんはニコニコして「お、新メンバー獲得」と、言ったか言わなかったか、そこまで覚えていないが、二人で嬉しそうな顔をしていた。長身のベース弾き山本さんはクールに出迎えてくれた。

僕が2代目ブルーリッジ・マウンテンボーイズのメンバーとなった瞬間だ。

さすがに先輩たちは練り上げられたサウンドでスタンレー・ブラザースや、バージニア・ボーイズの曲を歌い、演奏していた。

僕は必死になって裏打ちの練習をした。ブルーグラスの基本というべきだろうか。

やがて、新入生歓迎会というのがあって、京都会館で先輩たちと演奏したが、その時に僕の演奏にぶっ飛んだのが坂庭君だったのだ。

因みにこの時だったと思う。大阪歯科大学のブルーリッジ・マウンテンボーイズの連中が「わしらこそブルーリッジや」と楽屋に押し寄せてきたのは。

フラムスのバンジョーを得意げに弾いていた奴に思いっきりピアレスのバンジョーを弾いて勝負してやった。

喰うか喰われるかだ。絶対に負けるもんか。そんな気持ちでバンジョーを弾いていた。

やがて、先輩たちの卒業も間近に迫り、新たに加わったメンバー達とブルーリッジ・マウンテンボーイズを続けていた。

ベースは野口さん。彼は初代のひとつ下だったので、ベースマンとして残った。フィドルに伊藤さん。この人も一つくらい上だったかもしれない。そしてマンドリン奏者が入った。中村、いや仲村だったかな。ここで、ほぼフルの編成になったわけだ。

やがて、ひょんなことからフィドルが抜け、4人編成のカントリー・ジェントルメンスタイルに移行していった。

とに角この頃はエディ・アドコックに夢中で、来る日も来る日も彼の音を拾っていた。

ナイト・ウォーク、サン・ライズ、ブルー・ベル、ハート・エイクス、歌物では「ダイナおばさんのパーティ」もう破竹の勢いだった…かな。

とに角、京都産業大ブルーリッジ・マウンテンボーイズここにあり!という感じだった。

毎日遅くまで部室に残り、真っ暗くなった山道を二軒茶屋の駅まで歩いて帰った。しかもバンジョーを持って。

今なら絶対にやりたくない。いや、なかなかできない。それくらいに情熱を注ぎ込む力が体中にみなぎっていたのだ。

ほどなくしてベースの野口さんが抜け、バンドもなんとなく消滅状態になった。その少し前に、ジム&ジェシーが大好きという、藤田君が入ってきた記憶がある。ギターを少し斜めに構え、長身のなかなかハンサムな、いかにもジム・マクレイノルズが大好きって顔に書いてあったような感じだった。

しかし、僕もなんとなくグループから離れていって、個人的に川西の早川君、それから大阪の伊藤君と三人で、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズをお手本にオールドタイムにのめりこんでいった。

そうこうしている間に高石ともや氏と出会ったわけだが、ブルーリッジ・マウンテンボーイズはまだまだ続いていたようだ。

藤田君が引っ張っていってくれたのかな。

5年ほど前に後輩の木内君に出会うまで、ほとんどブルーリッジのことは忘れていた。しかし、彼がいいきっかけを作ってくれて、あれから約50年ぶりにもなる初代の面々と再会することもできたのがつい最近。

先輩も後輩も、みんながあたたかく出迎えてくれて、ブルーリッジ・マウンテンボーイズは自分のブルーグラスの原点であったことを再認識させられた。

いつか近いうちにもう一度みんなで会って演奏に、そして話に華を咲かせてみたいものだ。

ブルーリッジ・マウンテンボーイズの軌跡を辿る意味に於いても。

聴こえてくる音に関して

僕には、音楽が聴こえる時、その一つ一つの音に対しての和音が同時に聞こえてきてしまう。因みに希花さんには色が見えてくるらしい。これはキーであり、和音でもあるのだが。もちろん、それと同時に同じ基音のコードでもマイナーとメジャーでは色もかわってくるのは当然のことだろう。

そういう人は他にもいるらしいが、その色は人によって違うらしい。いろいろ調べてみると、これは「色聴」というらしく、絶対音感の持ち主に多いということだ。

また、それとは違うケース、例えば絵を見ていてその色彩から音が浮かんでくるなど、そういう感覚を総じて「共感覚」と呼ぶらしい。こういうことについてはかなり詳しく書いている人もいるので今更…なのだが。

話を自分のことに戻すと、昔から和音という観念に取りつかれ、ここはこれでないと気持ち悪いという感覚が常にあった。

しかし、例えばひとりが明らかにFのコードを弾いているのに、もう一人がDmを弾いているような、言うならばF6が出来ちゃいました、みたいなのが気持ちいいこともよく分かる。

Foggy Mt. Break DownではGの後Emが通説だが、何故か1949年の元々の録音ではギターがEmajを弾いている。そしてまた、1小節ずれてGに戻っているなど、えも言われん不協和音とも取れるものの気持ちよさもよく分かる。

面白いものだ。

僕のように、ある音に対して常に別な音が同時進行で聞こえてくるのは、いわゆる相対音感の一部だろうか。

曲を聴くと、必ずベースとコードが同時進行で思い浮かぶ。もちろんとんでもなくややこしい曲などは別だ。

それがアイリッシュ・ミュージックにとってどれだけ便利なものだったかは言うまでもない。他人にコードを尋ねる必要は全くない。

たまに自分が思うコードとは違うコードで「なるほど。これも理に適っている」と思うものがあるが、その逆もこのアイリッシュ・ミュージックにおいてはかなりの頻度で遭遇することも事実だ。

かといって、誰もがそういっぺんに音がきこえてくるわけではないのだが、多分普段の訓練でなんとかなるのだろう。しかし、それは出来れば6歳くらいまでに訓練しておいたほうがいいのかも。

僕にしてみると、希花さんの発する442を覚えておこうと思うのだが、すぐ忘れてしまう。ギターの弦を変えた時、自分の声で、下のCはこんなもんだし、弦の張り具合からみてこんなところだろうと判断する。そしてそれはかなり近い確率で442なのだ。

僕には絶対音感は無い。色も見えていない。では、なにが見えているんだろう。希花さんにとっても不思議な音感の持ち主なのかもしれない。

クロウハンマー

言わずと知れたオールドタイムに於けるバンジョーの奏法だ。最近はギターにも応用している人もいる。ジョディ―・スタッカーや、よく一緒に演奏したスティーブ・ボウマンなどがその代表だが(どちらもサン・フランシスコ)取りあえず今回はバンジョーに限って書いてみよう。

初めてこの奏法のことを知ったのは、多分ピート・シーガーの教則本だったかも知れない。彼自身はもうちょっとシンプルなダブル・サミングという弾き方を使っていたようだが。

スリーフィンガーといわれるブルーグラスに於けるスクラッグス・スタイルとは全く違って派手さはないが、そのなんとも言えない味わいのあるサウンドには随分前から興味があったし、それなりに極めてみようかという考えも持っていた。

しかしそこには多くの面倒なことが存在する。

まず、中指の爪の甲と親指の2本指だけでメロディを作りださなくてはならないので、考えようによってはスリーフィンガーよりも複雑だ。

というより、スリーフィンガーに比べて無理も生じてくる。

そのために、その曲だけに使うチューニングというものも考案しなければならなくなってくる。必然性を求めるわけだ。

そして、厄介なのがそうして綺麗にメロディを創りだしても、いわゆるスタンダードなキーで演奏できるとは限らない。

例えばMiss McLeord’sという曲。スタンダードにはAmajかGmajで演奏される。だが、Cチューニング(この場合gCGCE)にして創り出すメロディがとてもきれいなのだ。そうなるとどうしてもCか、カポをしてDでの演奏がベストなサウンドになる。

勿論、普通にGチューニングでも演奏できないことはないが、それでは本当に普通になってしまう。

そんな風に他の人と合わせる時などにいろいろと面倒なことが起こる。

更にアイリッシュ・チューンなどをその道の第一人者Ken Parlmanを筆頭に、多くの人が実に見事に演奏するが、それはソロ・パフォーマンスという評価でしか語れない。

リズムも違ってくるし、メロディも多少変えなければいけない部分も出てくるし、キーも曲によってはスタンダードなキーでは演奏できない、ということも出てくるし、しょっちゅうチューニングも変えなければならない、ということも出てくるだろう。

それを考えなければ、とても魅力的な奏法だ。

特にある程度歳がいってくると、スリーフィンガーのような細かい奏法よりも、よく言えば味わい深いこの奏法に移行していく人も多いようだ。

そして、この奏法は多くの場合、リゾネーターのないオープンバックのバンジョーを使用するので、何といっても軽い。年寄りにはやさしい物となる。

そんなクロウハンマー(フレイリングあるいはドロップサムとも呼ばれる)を今一度研究してみようかな、と思っている今日この頃だ。

回想

前回、初めて外タレを見に行ったのは…というようなことを書いたので、もう少しなにか想い出してみようかな、と思う。

幼稚園から小学校4年までは、とに角クラシックに浸かっていた。

しかし、2歳年上の姉は先生のいうことを忠実に守っていたようだが、僕は自分なりの解釈を大切にしていたようだ。

生徒の中では全くの異端児だったらしい。

初めてフォークソングなるものに触れたのは、恐らくラジオから流れてきたブラザース・フォアの「グリーン・フィールズ」だったと思う。

1960年ということなので、まだ小学生だ。

東京の放送局から流れてきた、それはそれは受信状況の悪い中、なんと美しいんだろうと思った記憶がある。

ほどなくして同じグループの「遥かなるアラモ」を聴き、この映画を何としても観なくては、と思い立ち、一人で上京。

もちろん新幹線など無かった時代。しかもまだ小学生だった。

その後「9500万人のポピュラー・リクエスト」なる番組が、どうやら1963年に始まったらしいが、当時、ギターを手に入れたか入れないかの瀬戸際だったような記憶がある。

取りあえず、流れてくるいろんな音楽をピアノやギターで真似してみた。

そして、街の小さなレコード屋さんで「ビートルズ」という聞き慣れないグループのドーナツ盤を買ったのもこのころだ。

片端から当時のヒット曲をギターでメロディとコードを弾いてみた。もともとピアニストを目指していたせいか、さほどの苦労も無かった。

そして、衝撃的な「フォギー…」との出会いに続いてゆくのだが、まだバンジョーなる楽器がどんな形をしているのか見当もつかなかった頃だ。

やがてバンジョーを手に入れると、あらゆるフォーク・グループの演奏を耳にタコができるほど聴きに聴きまくった。

ひとつの音も聴き逃すまい、と、コピーに明け暮れる毎日だった。

キングストン・トリオのMTA ブラザース・フォアのDarling Coreyに始まり、徐々にブルーグラスへと興味が移っていった。バンジョーという楽器に惚れてしまった者にとっては当然の結果だ。

考えてみればブルーグラスという音楽はコピーに明け暮れるものだ。もし、「あなたのプレイはアール・スクラッグスそのものだ」と言われたらブルーグラス・バンジョー奏者にとっては最高の栄誉だろう。

もちろん、ドン・レノしかり、エディ・アドコックしかり、J Dクロウしかり、そして、僕のアイドルのひとり、ビル・キースしかり、みんなそれぞれのスタイルを持っている。

しかし面白いことにその誰もがブルーグラス魂を持ち合わせている、と感じる。

僕らは日本でなんの情報も入らなかった頃から、こんな感じだろうか…という方法でしか弾くことができなかった。

やがてピート・シーガーの教則本を見つけ、アール・スクラッグスの教則本を見つけ、段々いろんなことが解明されてきた。

それと同時に外タレの来日も徐々に増えてきた。

マイク・シーガー、リリー・ブラザース、ビル・モンロー、デビッド・グリスマン、トニー・トリシュカ、ピーター・ローワン……。

まだまだ挙げればきりがない。

だが、元々様々な音楽に興味があったので他の分野のコンサートにもよく行っていた。山下和仁、チック・コリア、ジョージ川口、後藤みどり、エマーソン・レイク&パーマー、何故か欧陽菲菲も聴きに行ったことがある。

他にも前出したサード・ワールドなどはブルーグラス畑の人はまず、わざわざ出かけて聴きに行かないだろう。やっぱりどこの世界に居ても結構な異端児だったのかもしれない。

91年からのアイリッシュでは、この音楽の奥の深さにとことん引きずり込まれていった、と言えるだろう。

だが、相変わらずホット・ツナ、BB King、ジョージ・ウィンストンなどを聴くために様々な場所に出掛けて行ったものだ。そういえばTower of Powerなんかも聴きにいった。

とに角、ギタリストとして他人の持ち合わせていないスタイルで、なお且トラッド魂をきちんと踏まえた存在になること。そればかりを目指してきた。

そんな意味でも、いろんな場所に顔を突っ込む異端児であったことは大いに役立ったと感じる。

様々な音楽の要素を取り入れて作り上げてゆく独自のスタイルを持つことと、この音楽に対する敬意を常に忘れずにいたいものだ。

伴奏者にとって最も大切なところだ。

たまに昔のことを想い出してみると、欧陽菲菲や、Tower of PowerのWilling to Learnでもまた聴いてみようかな、なんて思う。

2016年1月

毎回感じるのだが、あっと言う間にもう正月ではなくなってしまう。

今年は日記でも書いてみようかと思いながら書かずしてもう1週間も過ぎてしまった。そうなると2~3日前は何をしていたか、よーく考えないと出てこない。

昔、省悟が「どこで何を食べたかメモしておくんや。忘れてしまったら食べてないのと同じことになる。特に美味しかったものはそれではもったいない」と言っていた。

彼は好き嫌いも比較的多く、また、歯も悪く、本当に食べるものを吟味していた感があったし、特別なことでもない限りある程度パターンが決まっていたのかもしれない。

お好み焼きには異常にうるさかったかな。

何はともあれ、その特別なことを忘れてしまっては、という彼の言うことには一理ある。僕もこれから何を食べたかメモしておいたほうがいいかな。

さて、2016年、音楽の世界はどうなっていくのだろう。

考えてみれば、初めて「外タレ」というのを見たのはThe Brothers Fourだったかな。それからArt Blakeyどちらも1961年が初来日だったらしい。

立て続けに聴きに(見に)言った覚えがあるからその頃だろうか。

それから先は、やっぱりFoggy Mountain Boysかな。京都産業大学入学直前だった…と思う。ほら、やっぱり日記に書いておけば良かったのに。

そして、いろんなブルーグラス・ミュージシャンが来日し、カルロス・サンタナやニール・ヤング、サード・ワールドまで見に行ったものだ。

アメリカへ渡って初めて見たのが、なんとDe Dannanだった。それからはStephane GrappelliやSuper Guitar Trio, そして何度も行ったThe Greatful Dead いろんな音楽を経て91年からアイリッシュの世界に入った。

そしてDervishもSolasもLunasaもみんなツァー仲間になった。

今年はどんな音楽シーンが待ち受けているだろう。

そういえばまだ手帳も買っていなかった。大体のスケジュールは希花さんに把握しておいてもらったほうが間違いないと思い、自分の手帳なるものは後回しに考えていたが、日記代わりにひとつ持っておかないとやばいかもしれない。これからは忘れることも更に多くなるかも知れないし。

日曜始まりは譲れないが、デザインのことはあまり考えないようにしよう。

「ぐでたま」がいいとか、「スヌーピー」がいいとか、は…。

取りあえず、今年もよろしくお願いします。

2015年 12月 今年の総まとめ

また今年も終わってしまう。2000年問題、などと大騒ぎしてからもう15年が過ぎようとしている。

2015年という年、皆さんにとってどんな年だっただろう。

僕らにとってはなかなかに濃い年であった。

まず、1月早々、アイルランドに出掛け、パディ、フランキーとレコーディング。この二人は揃えるのになかなか難しい。

もう皆さんご存知のように特殊な人間であり、アイルランド音楽の中でも特別な存在であり、世界中のどこにいるかわからないような二人だ。

スタジオはゴルウェイ近郊のキンバラという小さな町(村落かな)から更に奥地へ行った、限りなく風光明美な場所にあった。

そこに4日ほど通い詰めての録音だったが、それはそれは寒かった。

1月にアイルランドへ来るのは初めてだったが、これでは鬱になりそうだな、という感じがひしひしと伝わってきた。

毎日が嵐のようで、風はビュービュー、雨はザーザー、スタジオ近辺はみぞれ交じりの極寒。

それでも湿気があるので日本の冬ほど肌を突き刺すような感覚はない。

元々寒がりではないけど、歳と共に寒さも感じてくるようになった。とは言え、暑さにもめっぽう弱いのだが…。

そして、帰ってきてすぐにオッピー今富君とツァーに出掛けた。それが10日間。アイルランドと合わせると、1月はほとんど出っぱなしだったので、正月だった、だの、新しい一年が始まった、だのという記憶があまりない。

3月にはかねてから希花さんが希望していたニュー・カレドニアにも行った。古くからの友人に同行させていただいたわけだが、そんな機会でもないと、少なくとも僕はいかなかっただろう。

美しい海を見てのんびりして。そのおかげで帰ってから自分たちの新しいアルバムをフレッシュな気持ちで作るいいきかけになった。

そして、夏にまたアイルランド。

ここでとんでもない体験をする。これが今年の一大事かな。

希花さんがいなかったら、大変なことになっていたことが2つ。特に最初のほうは僕らのアパートのキッチンでの出来事だったので、そこは、まるでERの撮影現場を見ているようになってしまった。

僕もパニックになりながら走り回った。

気がついたら何もできない自分と向き合い、倒れた奴の洗濯ものを回しながら、明けていく空を眺めてただただ祈るだけだった。

結局、死から蘇った彼、今はピンピンしている。これは紛れもなく希花さんの知識と経験、それと的確な指示能力のおかげだ。

もう一人は日本でもアイリッシュ・ミュージックの世界では知らない人はいない、という人物。なんとその彼の命も希花さんが救った。

これ以上詳しくは書かないが、とんでもない夏だった。

日本に帰ってきたらAEDが至る所で目に入った。アイルランドであれほど走り回ってもなかなか見つからなかったのに。

今はいろんな人がAEDを普及させる運動を展開しているが、今回のことで、それが無かった時どうすべきかも、きちんと知らなくてはいけないということを知った。

また、今回は和カフェのオーナー、早川さんとみんなでイギリスにも出掛けた。

アイルランドとはちょっと違った、こう言っちゃ語弊があるかもしれないが、どこか高貴な雰囲気が漂っていて、あまり好きではなかったが、建造物の美しさには心を打たれた。

ここはひとつ、観光ということに徹して楽しむことができた。

そして、いよいよ帰り道で立ち寄ったドバイ。

急激にサウナに入ったような、10メートルほど歩いただけでも石川五右衛門になったような気分。

超高層ビルが立ち並ぶ市内。こんなところでヘリコプター飛ばして「イエス!」なんて言っていたらぶつかりそうだ。

砂漠のど真ん中のアブダビ空港。アラビアのロレンスさながらの夕陽が砂漠の彼方に沈んでゆく…。

そして日本。2015年もあと4ヶ月。ゆっくり活動を開始し始めた。帰ってきた矢先に久しぶりにこうせつとも会ったし。

が、10月に控えたパディとフランキーとのEire Japanのツァーに向けての準備もしなければならない。

と同時にアイルランドに行く前にほぼ仕上げた僕らのアルバムも完成させなくてはならない。

2015年はどちらかというと、パフォーマンスよりも、それに付随したことか、全く関係のないことで忙しく明け暮れた年だった。

特にあの日、あの時間、あの場所に居合わせた人間同士は何かに引き合わされているのかな、と感じざるを得ない、そんな1年だったかもしれない。

コンサートもそうだろうか。

だからこそ、PC相手にクリックしたらいつでもなんでも見ることが出来るとか、自分の名前も正々堂々と言えない連中が、人の悪口を言うことにつまらない人生をかけてみたりとか、そんなことが横行している世の中に、ちゃんと顔を合わせるということが大切なんだと思う。

コンサートでみんなの元気な顔をみたいし、同じ日、同じ場所で、同じ時間を共有したいものだ。

話は変わるが、今年亡くなった人で野坂昭如さんについては小さな思い出がある。

あれはどこだったろう。たぶん新宿厚生年金会館とか、そういうところだったと思うが。

楽屋でリハーサルの順番を待っていた僕と省ちゃんのところに野坂さんが入ってきてこう言ったのだ。「新人歌手の野坂昭如と申します。よろしくお願いします」

今でもあのシーンをよく覚えている。

さて、国民がどう思おうがどう困ろうが、お構いなしの贅沢三昧政治家たちには早く消えて欲しい2016年だが、更に彼らの自己満足ぶりには拍車がかかりそうな予感もしないではない。

結局、自分のお財布からお金を出したこともない連中が国民だけに負担を強いるのだからたちが悪い。こっちの方が安いけどポイントが付かないし、でもあっちは結構高いな、なんて国民が一生懸命考えていることなんて知らないのだろう。知っていて知らないふりか…。

だから僕らは僕らで自分の信じる道を行くしかない。

そこでアイルランド音楽の話もしておかなくてはならないだろう。

アイルランド音楽の世界にどっぷりつかり始めて25年。まだまだ赤ん坊みたいなものではあるが、かなり濃い経験は積んできた。

ここ毎年アイルランドでパフォーマンスをしてきて、この音楽をやるんだったらやっぱり現地の一流ミュージシャンと対等に勝負できなければこの道で生きているトラッド・アイリッシュのミュージシャンとは言えないということが分かってきた。

今、僕らがやっているような最小限の編成というのはやはり難しい。だが、僕にとってはこれが基本中の基本だ。

2016年、僕らはまたアイルランドに出掛ける。

Eire Japanもいくつかできるかもしれないし、今回はどこでどういう人達と演奏することになるだろう。

そういえば、アンドリューのお母上も亡くなってしまった。僕がアンドリューと一緒に「鉄砲獅子踊り唄」かなんかをやっていたら、横で一緒に足踏みしていたっけ。

彼にも会いに行かなくちゃ。お母さん子だったからさぞ悲しんだだろうと思うけど、なにか生活が変わっただろうか。

僕にとってのアイリッシュ・ミュージックは25年前、彼から始まっているのだ。

あの日、あの時、あの場所で彼と出会ったことで。

Irish Musicその100

その100といっても100曲ではない。もう何曲載せてきたか自分でも分からなくなっている。自分たちのレパートリーとしてのアイリッシュ・チューンや少しのアメリカン・チューンを掲載してきたが、まだまだ想い出せば出てくるだろう。できるだけダブらないようには心がけてきたが、これからも書き続けていったら、というか、残していったらどういうことになるかわからない。一時のようなペースでは書けないだろうが、まだまだレパートリーとして取り入れたい曲は沢山出てくるだろうし、想い出す曲もあるだろう。100回目にふさわしい曲は何だろう、と考えても仕方ないので、今回は敢えてレパートリーとして取り入れてはいない、非常にポピュラーなもの(ポピュラー過ぎるもの)を数曲羅列してみる。

例えば…。

  • Morisson’s   (Jig)
  • Off to California (Hornpipe)
  • The Wind That Shakes The Barley  (Reel)
  • The Kesh   (Jig)
  • Connaughtman’s Ramble (Jig) ※最近は好んで取り入れているが。
  • The Mist Covered Mountain (Jig)
  • The Dusty Windowsills  (Jig)
  • The Hag At The Churn (Jig)
  • The Tar Road To Sligo (Jig)
  • The Humours Of Glendart (Jig)
  • The Pipe On The Hob (Jig)
  • The Silver Spear (Reel)
  • The Banshee (Reel)
  • The Cup Of Tea (Reel)
  • The Old Concertina (Reel)
  • The Salamanca   (Reel)
  • Carolan’s Concerto   (O’Carolan)
  • The Bird In The Bush (Reel)
  • The Tailor’s Twist   (Hornpipe) ※結構好きな曲
  • The Little Stack Of Wheat (Hornpipe)
  • The Boys Of Ballycastle (Hornpipe)
  • The Orphan (Jig)

取りあえずこれくらいにしておこうか。これらの曲はたまに練習中、思い出して復習ってみるもので、多分他にも一杯あるだろう。常識的に知っておかなくてはいけないものが多すぎて困る。しかし、記憶をよみがえらせるためにもこういうこと(記しておくこと)は必要なことだ。

Irish Musicその99

The Garden of Butterflies / Miss Galvin’s    (Hornpipe)

  • The Garden of Butterflies

“Poll Ha’ Pennyというタイトルの方が有名だろうか。ずっと前にJody’s Heavenで録音しているが、それとは別に僕らはWest Clareのバージョンから、Jody’sで演奏してきたバージョンへと移行している。どちらも変わったメロディで、ちょっと聴いたら変な感じだ。しかし、こういうへんてこなメロディというのは何故か頭から離れない。West Clareバージョンも長いこと聴いていなかったが、ゴルウェイのチャーチでClareからのフィドラーが弾いていて思い出したのだ”

  • Miss Galvin’s

“特にこれといって特徴の無い曲ではあるが、ほとんどの場合、前の曲とセットで演奏されることが多い。そんな意味でレパートリーとして取り入れている。因みにMrs. Galvin’sという結婚後の、違うバージョンも存在するが、こちらの方はあまり注目されない”

 

The Coalminer’s / Anderson’s   (Reel)

  • The Coalminer’s

“ずっと前からしょっちゅうタラの連中(アンドリューやケイリ・バンド)の演奏で耳にしていた曲。実にのりのいい覚えやすいメロディだ。特に目立った特徴はないが、何回繰り返しても飽きが来ないような感じだ。それだけにどんな曲とも組み合わせが可能な、いい曲だとも思う”

  • Anderson’s

“時々、前の曲とセットで演奏されているようだが、これも比較的覚えやすい良いメロディの曲だ。Paddy Keenanの演奏でよく一緒にやっていたことがある。いかにも彼が好きそうな、ちょっとロックっぽいビートの曲”

Irish Musicその98

★Crabs in the Skillet    (Jig)
“オニールのコレクションからTara Breenの演奏で覚えた曲。Gmで演奏される3パートのジグ。特に3パート目が好きだ”

 

★Larry Redican’s Bow    (Reel)
“ここしばらく頭の中にAパートのメロデイが浮かんでいて、どうしてもBパートが想い出せなかった曲。随分むかし、ティプシー・ハウスで確かGreat Eastern(別名The Land of Sunshine)という曲の後にやっていたと思う。全く記憶になかったBパートはBmから始まる意外な展開だった。取りあえず、こんな風にどうしても思い出せない曲はしつこくしつこく調べまわるしかない。そして見つけた時には相当な喜びになる。僕らはこれによく似た曲Oak Tree(その20)を後にもって来てみた。どちらもなかなかに好きな曲だ”
★Great Eastern   (Reel)
“ついでにこの曲も。Martin Mulhaireのペンになる単調だが美しい曲。キーはCmajorで演奏される。AパートもBパートも全く同じコード展開なので(くずせばいくらもくずせるだろうが、理にかなわぬくずしは好きでない)曲のテキスチァーをよく把握することが伴奏者として大切なところだろう。どのようにすべきか、どのようにすべきではないか、その見極めは重要なポイントだ”

ギブソンRB-250

‘60年代からバンジョーに親しんできた者にとってこのRB-250というモデルは絶対的存在だろう。

それも、’70年代以前のいわゆる「ボウタイ」といわれるインレイのもの。

まだ情報を得るのが極めて難しかった時代。ほとんどはレコードのジャケットでしかお目にかかれなかったアメリカ製のバンジョーは本当に遠い存在だった。

確かブラザース・フォーが何かのジャケット写真で持っていたような気がする。しかし、当時、フォークをやっている人たちの主流は何といっても、ヴェガのロングネック、ピート・シーガー・モデルだった。

ロングネックって今見たら極端に長く見える。あのころは写真などでも良く見かけ、これが当たり前だと思っていたのでそんなには感じなかったのだが。

そうこうしている間に、バンジョーもそこそこ見かけるようになり、RB-250を店頭に飾っている店も出現した。

そのせいか、ギブソンと言ったらRB-250という観念が生まれたのは極自然の成り行きかもしれない。なんといっても初めて見る本物がRB-250だったのだから。

しかし、‘70年か‘71年か、そこらへんでRB-250も大幅にモデル・チェンジしている。詳しくは京都の小野田博士にでも訊いてください。

印象的だったのが、友人の一人がRB-250を欲しくて、神戸のある有名なバンジョー弾きに頼んでいたところ、やっと手に入った、という連絡をもらい、それが送られてきた。

本人はわくわくしながら「待ちに待ったボウタイ…」と、ケースを開けたら、見たこともないバンジョーが入っていたのだ。

ペグヘッドの形も、インレイも…もはやそれは僕らの知っているRB-250ではなかった。

因みにモデル・チェンジ以後のペグヘッドの形は「フィドル・シェイプ」というものだが、それ以前のものは「ハエ叩き」(Flyswatter)と言われる。

インレイに関しては、ボウタイに対して‘70年以降のものは「スタイル3」という。

本人は結構がっかりしていたが、それはおそらくモデル・チェンジしたRB-250の日本上陸第1号だったのだろう。それが確か‘71年ころだったような気がする。

今、ボウタイを探すとしたら中古でしかないのだが、僕は少し前に‘66年のものを手に入れた。

全てがオリジナルではないので安かったのだが…いや安くなければ買わないが…。

憶えているだろうか。坂庭君が「花嫁」のジャケットでRB-250を誇らしげに持っている姿を。

そして、今、僕もホームページのトップ写真で誇らしげに抱えている。

誰もが、憧れる「誰か」みたいに弾きたい!と思っていた時代。来る日も来る日も想像を張り巡らせて、同じバンジョーを手に入れる夢を追いかけていた時代。

RB-250はそんな時代のひとつの象徴である。少なくとも僕にとって。

Irish Music その97

Blackbird(Hornpipe)

“その11とその82に既に出ているが、ここでは違うBlackbirdを2種挙げておく。

困ったことに同じタイトルで5つのメロディが存在しているが、僕らがレパートリーとして取り上げているのは4種。もうひとつは明らかに誰かが作り上げたバージョンのような気がするので特に気にしてはいない。そう聞かれないバージョンである。

僕らは“その11”で掲載したケビン・バークとジャッキー・デイリーのバージョン、実を言ってこれもポピュラーなものではないが、メロディの美しさと、明らかに他のものとは違う点でレパートリーに取り入れた。アンドリューはそんなホーンパイプは無い!と言っていたがそれはひとえに彼の頑固さの象徴だろう。立派なホーンパイプである。それに“その82”で登場しているパディ・キーナンのパイプ演奏で有名なバージョンをよく演奏している。その他、のバージョンとしてOld Blackbirdと呼ばれるもの。これは大好きなメロディだ。それと、これもボシー・バンドがリールとして演奏していたメロディのもの。僕らはこの4つを好んで演奏している。ややこしい話であるが、Blackbirdと言ったら、どのバージョンで演奏するかを確認したいものである。少なくともビートルズの…ではないはずだ。

取りあえず、分かりやすく記しておくとこうだ。

Blackbird Em Hornpipe From Kevin Burk & Jackie Daly その11

Blackbird G/D Set Dance From Paddy Keenan その82

Blackbird D   Hornpipe   (Also as known as Old Blackbird)

Blackbird D   Hornpipe/Reel From The Bothy Band

この4つのBlackbirdが僕らのレパートリーとして存在する”

 

オッピドム

2012年3月19日の月曜日、初めて訪れたオッピドム。京都産業大ブルーリッジの後輩、木内君がオーガナイズしてくれたが、マスターの今富君とは旧知の仲。

約40年ぶりに再会したわけだ。木内君に感謝すると同時に、頑張ってお店を切り盛りしている今富君にも感動したものだ。

そのオッピドムが閉店するという。

僕は行くたびに調理場で黙々とお料理を作っていた平岩さんにもいつも感謝していた。

その平岩さんが亡くなった、という話を聞いたのはアイルランドにいる時だった。

平岩さんのご冥福を祈るとともに、今富君大丈夫かな、と心配したものだ。でも、それからも頑張っていた今富君。

今年初めには一緒に九州にまで僕らを連れて行ってくれた。

彼の出身地は大分。希花さんの母方の実家が大分。偶然のことで大いに盛り上がったものだ。

今富君の「国東半島」を僕が「くにひがし半島」と読んで笑われた。

楽しいツァーだった。

10日も一緒に居たのに、そして、僕らはアイルランドでのレコーディングが終えてすぐだったのに、ちっとも疲れなかった。

ひとえに今富君のお人柄だ。

平岩さんのこともあり、そして他のことに関しても、やっぱりお店をやっていくことって大変だっただろうな。

僕らは勝手にライブのお願いをして帰ってきたらいいのだけれど、彼は大変だっただろうな。

今富君、閉店が決まってしまったにせよ、あなたのやってきた10年間、とても意義のあることでした。オッピドムのことは誰も忘れないし、これからも今富君の活躍を多くの人が期待しています。

僕もそのうちのひとり。内藤希花も大好きな今富君に期待しています。

お疲れ様。少しゆっくりしてまたなんか考えてください。

ビル・キース

長年のアイドルであったビル・キースが先日亡くなった。僕が5弦バンジョーなる楽器に出会った60年代初頭、日本に於いてこの楽器はまだそれほどポピュラーでなかったが、その当時(詳しくは63年頃)彼はビル・モンローのブルーグラス・ボーイズにいた。彼の回想記の中にこんな文章があった。

「GからCにいくとき、僕は7thだけではなく、9thを強調したフレーズを弾くことにしている。そうすることによって次のコードにいく予感が更に増すんだ。一番最初にそれをやった時、ビル(モンロー)がハッとした表情で後ろを振り向いたのを覚えている」

この“予感を与える”という音運びの選び方に感動したものだ。もともとピアノお宅の僕にとって和音の組み立てはとても面白い作業だ。

70年代、ずっと会いたかった彼を自宅に招待した。来日時、すぐ近くに宿泊していたので連れ出した、というわけだ。

ジャズ曲のアレンジに関する様々なアイデアを見せてくれた彼は、何度も何度も「うん?ここはこの方がいいかな?」などといいながら、親切に説明してくれた。

また、いろんなものの構造を穴のあくほど見つめ、中身がどうなっているか調べてみたい、という顔を見せる彼がキース・チューナーの考案者であることはうなずける。

もの静かな勉強家という感じだ。

その彼と、アイルランドで再会したのは2002年頃。ジョニー・キーナン・バンジョー・フェスティバル、ロングフォードでのことだった。

偶然にも同じB&Bに宿泊していた彼と朝食を共にしたが、話が弾んで2時間以上も紅茶を飲んで過ごした。他にピート・ワーニック夫妻、それからモーリス・レノンも同席していた。モーリスは言わずと知れたStockton’s Wingのフィドラーだ。ブルーグラスとアイリッシュの両面から…話は弾むはずだ。

彼のメロディック奏法は、今では頭が混乱し、指がもつれてなかなか弾けないが、長い間僕の重要な一部分であった。

Beating Around the BushやNoraなどは最も得意とする曲だった。

彼の話で、本当に彼らしいなと思ったエピソードがある。

「映画Deliveranceの音楽を担当しないか?という話があったんだけど、よく考えた末に断ったんだ。あの時僕は世界を見てみたかったし、旅をすることがとても好きだった。そしてそれをできるのは今しかない、と思っていた。だから断ったんだけど、映画は大ヒットし、Dueling Banjoも大ヒットし、世界のどこでも演奏されるようになった。おかげで僕の代わりにこの仕事を受けたEric Weissbergはハリウッドに居た切りになってしまった。どこへも旅ができなかった。お金はいっぱい入ったかもしれないけど、僕にとって大切なのはお金じゃぁない。その時自分がなにをしたいか、そして本当にやりたいことに向かって進むことがとても大切だと僕は思う」

ビル・キース 75歳。多くのことを教えてくれた人だった。

Irish Musicその96

今回は3rdアルバムThe Rambler で録音した楽曲から。

  • The Rambler / Banish Misfortune / Bye A While

“ご機嫌なジグ。結構音が飛んでいるのでリズムを取るのも、テクニック的にも難しそうだ。2曲目はアメリカでもこぞって取り上げられるもの。どこか、言うなれば“らしい”といった感じの曲だ。ハンマー・ダルシマー奏者には結構人気がある。3曲目は超絶テクニックのコンサルティーナ奏者、Padraig Rynneの作。彼とは2001年か2年頃、ゴールウェイにてセッションしたことがある”

  • Anna Foxe

“ジョセフィン・マーシュから直々に教わった彼女の作品。CD発表時はまだタイトルがAnna Fox かと思っていたが、正しくはFoxe ということなので、ここで訂正しておく。ライブなどで演奏すると、みんなが「可愛らしい曲」と言って覚えてくれる”

  • Coilsfield House

“Kevin Crowford やGearoid OHAllmhurain(いまだに発音できない)のプレイでよく聴いていた曲。ひたすら美しいメロディに心を打たれる”

  • Jackson’s

“フランキー・ギャビンから習った曲。他の人の演奏ではあまり聴いたことがない”

  • Breton Gavotte(Ton Double Gavotte)

“ケビン・バークのアルバムから覚えた曲だが、これも他の人の演奏は聴いたことがないような気がする”

  • She’s Sweetest When She’s Naked

“とても古く、とても美しい曲だ。こんなに美しい曲がそんなに昔から演奏されていたなんて驚きだが、確かにヨーロッパの建造物などを多く見てみると納得がいく。こういうものを幼い時から当たり前のように見ていたら、この曲のような感性が芽生えるんじゃないかな、という気にさえさせられる”

  • Thomas Farewell / As The Sun Was Setting

“このセットはすでに「その7」に登場している”

  • O’Carolan’s Welcome

“彼の作品の中でもとりわけ大好きな美しいメロディ”

  • The Banks of The Suir

“ファーストアルバムでも録音している美しいエアー。今回はハープとフィドルをメインにまた違った美しさが際立っている”

 

その他、このアルバムでは「この想い」「おわいやれ」の日本語の歌、それにバンジョーによる「クリンチ・マウンテン・バック・ステップ」も収録されている。

こちらのアルバムはまだ在庫があります。

Eire Japan tourを終えて

フランキーが帰り、そしてパディが帰っていった11月。

あまりの強烈さにほぼ「抜け殻」状態。

やっぱり彼らとまともに渡り合うことは、並の伴奏者では無理かもしれない。

その辺は誇りに思ってもいいかもしれない。

「かもしれない」ばかりだが、ここで言い切るほど自信過剰でも、いやみな男でもない。

ただただ、どれだけの神経を集中させて演奏しているか、終わった後のこの感覚はなかなか他では味わえないものだ。

歳のせいかもしれない。しかし、パディは僕とおない年。フランキーももう60だ。あいつらのパワーの源は良くも悪くも…酒か。

飲み過ぎた時の自由奔放さは果てしなくどぎつい。まわりの空気が破れるような感じだ。

そこにシラフの僕がギターを乗っけていくわけだが、そうしないと崩壊してしまうかもしれないのだ。しかしながら、その崩壊一歩手前、あるいは片足を突っ込んだあたりが一番面白い。そこを常にコントロールするのが僕の役目なのだ。

フランキーのフィドル・プレイ、好き嫌いはあろうが、アイリッシュ・ミュージックの世界では避けて通れないひとつのスタイルだ。

それに、長年De Dannanを引っ張ってきた超大物だ。この機会を逃すとなかなか日本ではお目にかかれないだろうし、昨今の来日アイリッシュ・ミュージシャンの全ての者が聴いてきたフィドラーのひとりであろう。

それにパディ。限りなく絞り出される魂の叫びにも似た力強い音色。Bothy Bandのことはあまり言いたがらないが、こちらも誰もが聴いてきた伝説のバンドだ。このふたつのバンドの核である2人はもう日本では揃わないと思っていい。

フランキーからは自由奔放なクラシックとジャズ、パディからは限りなくブルースとロックを感じる。そして二人とも経験豊富な本物のアイリッシュ・ミュージシャン。この組み合わせは多くの音楽シーンを体験した僕にとってもってこいだ。

Lunasa, Solas, Dervishなど、日本では認知度も人気も高い、素晴らしく完成されたバンドの連中が「え!フランキーとパディ?すごい組み合わせだな。ジュンジ、どうしたらあいつらと一緒にツァーまで出来るんだ?」と口を揃えて言った。

それが2003年にアメリカで、そして2015年にこともあろうに日本で実現した。

希花が「ふたりを呼ぼう!」と言い出してから約1年。そのひとことが無かったら実現しなかったかもしれない。

今年1月のレコーディング以来2人が揃うのは10ヶ月ぶり。次に揃うのはいつだろう。どこで…だろう。

また崩壊覚悟で挑まなくては…。

Eire Japan

怒涛の約10日間。やっと終わりました。

報告はいずれ。今は足を運んでいただいた皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。

アイリッシュ・ミュージックの歴史に於ける最も重要な人物の中の二人、2大巨頭ともいえる二人を日本に連れてくることが出来て本当に良かったです。

もし叶うことが出来るなら再び、ということも考えますが、何せそれぞれに忙しく飛び回っているふたり。彼らが揃うことはほとんど奇跡に近かったのです。

1月のレコーディングでなんとか彼らを揃え、今回のツァーの計画を練ったわけですが、これがなかったら、おそらく二人はそれぞれに世界を飛び回っていたでしょう。

そんな奇跡の来日でした。

関係者の皆様、様々なかたちでサポートしていただいてありがとうございました。

各地の旧友たちもみんなお手伝いしてくれてありがとう。

そして、なによりも、聴きに来ていただいた全ての皆様に重ねて感謝いたします。彼らからもみんなに「ありがとう」と「よろしく」とのことです。

なおEire JapanのCD、ネット上での販売が近く始まります。

パディ・キーナン、フランキー・ギャビンの二人が揃ったアルバムは世界中どこを探してもこれしかありません。

どうかご購入漏れの無きように。

ギタリストという立場から考えるアイリッシュ・ミュージック

この音楽に於けるギタリストの役割などというものは無いに等しい、というようなことは既に書いている。

僕は‘91年からこの音楽のギタリストとして、ほとんどのリビング・レジェンド(現存する伝説)と呼ばれる人たちと共演してきた。

それはセッションというような気軽なものではなく、対その人、対お客さん、という緊迫した状況でのものがほとんどだった。

聴いたこともない曲が突然出てくることもあったし、ここにはギターは必要ないだろうと思われるところにまで最適な伴奏を求められることもあった。

とにかくスタンダードな曲、この音楽では「トラッド」と言うけど、それらは数限りなく全てのパートを把握していなければはなしにならない。

何度か僕自身のスタイルを教える、ということもやってきた。しかし“教える”というのは別な作業だ。別な才能だとも言える。

この音楽に関していえば、リード楽器の人達は10年や20年のキャリアでは到底“教える”なんていうことはできないはずだ。最低でも30年以上、あるいは40年以上の経験が無いと無理だ、と僕は思う。

もちろん年数の問題ではないが、少なくとも僕ら日本人は、母親の胎内でこの音楽を聴いてこなかった…と思う。

そんな僕らにこの音楽を伝授することはできない。真面目に考えれば考えるほど、できないことなのだ。

一方ギターは、といえば、そういった点では可能性がある。比較的新しく加わった楽器だからこそそれが言えるのだが。

しかしながらそこが難しい。ギタリストこそ楽曲に詳しくなくては話にならない、というのが僕の考えだ。

ギタリストに限らず、伴奏楽器全般に言えることだが、まずそこがスタート地点になる。また、そうでなければリード楽器に対して失礼にあたる。

彼らは全ての楽曲にたいして正確にメロディを覚え、正確に弾けることが最低条件となり、そのうえで自分らしさを出していかなければならない。しかもそれが数百曲にも及ぶわけだ。また、各地方のリズムの取り方、バージョンまでもがその上に課題としてのしかかってくる。

それに対してギタリスト(伴奏楽器)が適当でいいわけがない。

どんな音楽でも、グループで、あるいは誰かと一緒にやる以上、相手に対する自分の責任を考えなくてはならない。

このアイリッシュ・ミュージックというもの、これは試練の音楽だ。

Irish Music その95

今回は2枚目のアルバム「Music In The Air」での録音曲を掲載してみました。

★Si Bheag Si Mhor

“アイリッシュ・ミュージシャンのみならず、他の分野でもこぞって取り上げられる、親しみやすい、それでいて美しいメロディ。言わずと知れたO’Carolanのペンになる。あまりにポピュラーなため、演奏する機会も少ないがいい曲であることは確かだ”

★The Mountains Of Pomeroy

“ブレンダン・ベグリーの歌は格別だが、もちろんインストでやっても美しい。元はマーチとして書かれたというからちょっぴり勇敢な曲だろう。そう思って演奏してみると意外と面白い。Pomeroyは北アイルランドのCo. Tyroneにある”

★Lord Inchiquin

“O’Carolanによるこれも美しい曲。少し早い目に演奏されることが多いが、確かにそういう感じのメロディだ。僕も随分前にガット・ギターで録音したことがある”

★Jim Donoghue’s / Road to Cashel

“B♭とCmでの演奏が独特な世界を創り出している。コンサートではこの後Neckbellyという曲に突入する”

★May morning Dew

“大好きなエアー”

★Inis Sui

“Maire Breatnachのペンになる美しい曲。2013年に彼女と出会い、セッションにまで一緒に行ったのに彼女だとは気付かなかった、という不覚な出来事があった”

★Eleanor Plunkett

“これもO’carolanのペンになる美しい曲”

★O’Carolan’s Ramble to Cashel

“すでに“その66”で登場している”

★A Stor Mo Chroi

“1929年に書かれたと言われる曲。僕にとってのベストはBonnie Raittの歌かも知れない。初めて聴いたのはジャック・ギルダーとバークレーに行く途中の車の中だったが、いまだにその時の衝撃は覚えている”

★Hector The Hero

“スコットランドの美しいエアー”

★Valse Des Jouets / Going To The Well For Water / Fairy dance

“ワルツからスライド、そしてリールで締めくくり”

 

このアルバムも現在は完売。ありがとうございました。

フォークソング考 2

いろいろ考えていたら、想い出したことがあった。ひとつにまとめられたらいいのだが、記憶と言うものはそう一度に蘇ってこない。

80年代後半に、ある新聞記事が載っていた。見出しはこうだった。「Where Have All The Folk Songs Gone」ジョーン・バエズがインタビューに答えていたものだった。

最近、そういう名目でいろんなシンガーが出演しているコンサートがあるようだ。日本でも「懐かしのフォークソング」のようなタイトルでコンサートが開かれている。

だが、フォークソングも80年代にはほとんど消滅したといっていいのかもしれない。それは本国アメリカに於いても、だ。

60年代から70年代にかけては、よくニューポート・フォークフェスティバルのライブ盤を聴いたものだ。

そしてその頃最も深く感銘を受けたのはDoc Watsonの演奏だったかもしれない。そんな昔から歌い継がれているものや、フィドル・チューンなどに興味が湧いた。

やがて、ブルーグラスの世界に入っていくと、自然とフォークソングから離れていったが、何かの本でジャニス・ジョップリンもうんと若いころはストリートでオートハープを演奏していたり、フォギー・マウンテンボーイズと共にツァーに出ていたり、という記事を見て面白いなと思ったものだ。

アメリカでのフォークソングの成り立ちは日本のそれとは全く違うものだった。僕らは訳も分からず、恰好だけは真似てみたし、音楽も真似てみた。

今、アイリッシュ・ミュージックに深くかかわっていると、本当のフォークミュージックというものはどのように伝承され、その中からフォークソングなるものがどのように生まれてきたのか、ということがよくわかる。

フォークソング~ブルーグラス~カーター・ファミリー~アイリッシュ・ミュージック、この流れは僕にとってごく自然なものだった。

まずフォークソング。1964年頃、ギターを初めて手にしてフォークソングを始めた。それから数々の歌が反戦歌、反社会的な要素を含んだ歌だと知った。もちろん、アイルランドあたりからやってきた歌が沢山あることも知った。

そしてブルーグラス。フォーク時代からバンジョーを担当していた僕にとっては、この世界に足を踏み入れたことはごく自然な成り行きだった。

それからカーター・ファミリー。カントリー・ジェントルメンや、キース奏法などを追及していたものの、古いスタイルの演奏にはかなり興味があった。ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズからチャーリー・プールなどの録音をよく聴いていた。そしてカーター・ファミリーにも行きついた。そういえばフォギー・マウンテンボーイズのカーター・ファミリー集というアルバムもあった。

最後にアイリッシュ・ミュージック。1991年、タラ・ケイリ・バンドからのアンドリュー・マクナマラとの出会いにより、この世界に入る。

そして、彼らの生活や音楽を体験することにより、これが本当の意味でのフォークミュージックである、と感じるようになった。

ここアイルランドやスコットランド、イングランドから渡ったフォークミュージックがアメリカでフォークソングを産む基となった、という誰でもが知っているだろうことを身体で感じることとなる。

やっぱり僕にとってフォークソングというのは60年代から70年初期にアメリカで歌われていたものだけを指す。あるいは、日本全国に存在する我夢土下座のような人たちが歌っているものか。少なくとも、この日本で売れているものでフォークソングと呼べるものは存在していないような気がする。

もちろんいい歌は沢山ある。が、それらをフォークソングとして扱うには無理がある。少なくとも僕にとっては。

おそらく最初の記事「Where have all~」を書いた記者もそのような気持ちから本物のフォークシンガーと言える人達にインタビューしたものだろう。

今、様々な問題が提議されている中、フォークソングというものはまた生まれてくるだろうか。そしてそれらは(古いものも含めて)どう評価されていくだろうか。

Irish Music その94

The Maid I Ne’re Forgot / JB’s / Lad O’Beirne’s   (Reel)

★The Maid I Ne’er Forgot
“コンサルティーナ奏者のPadraig Rynneの録音から覚えたものだが、随分前にArty McGlynnとNollaig Caseyのアルバムで聴いていたものだ。彼らはEm Reelとして録音していたので同じ曲だとは気がつかなかったし、とっくに忘れていた。なお、RynneはBm Reelと名付けていた。O’Neillのコレクションにも含まれているというので、そんなに新しい曲ではなさそうだ。Michael Gormanの曲とも言われているが、とても現代的なメロディを持った曲だ”

★JB’s
“古いスコットランドの曲でF#mで書かれている。James Murdoch Hendersonによって1932年に書かれているというから驚きだ。JBとはどうやらJames B Patersonという人物のことらしい。これは多くの人がエアーのように演奏しているものだが、Rynne はReelとして超絶テクニックを披露している。僕らは彼の演奏から学んだので今度はエアーにしてみてもいいかもしれない。Old Blind DogsのJohnny Hardieがいい味を出している”

★Lad O’Beirne’s
“Josephine MarshやSharon Shannonの演奏でさんざん聴いた曲だが実にいいメロディだ。キーもFで書かれているし、一味違う感じがある。
この3曲はPadraig Rynneのセットだが、あれはいつだったか。恐らく2002年頃ゴルウェイでブリーダ・スミスとセッションに出掛けた時に初めて彼と出会った。ブリーダが「今、若手で一番売れているコンサルティーナ奏者」と言っていた。もともとはクレアーの出だがその時はゴルウェイにいた。今はまたクレアーに戻っているようだ。
その日のセッションではCherish The Ladiesのアコーディオン弾きMirella Murreyとも再会した”

Irish Music その93

敢えて書いてこなかったレパートリーもいくつかある。それはCDですでに録音、解説しているものなので、タイトルだけでも書いておこう。

詳しくはKeep Her Lit! スペシャル・サイト

 

★Far Away Waltz / Trip to Skye  (Waltz)

“フランスからやってきた美貌のティン・ホイスル奏者“マリー”から90年代に習った曲。その頃はタイトルが分からず、マリーズ・ワルツと呼んでいた”

“John Whelanのペンになる美しいワルツ”

 

★The Maids of Selma / Coloraine Jig / Mouse in the Kitchen (Jig)

“Selmaは1965年 アラバマ州のマーティン・ルサー・キング・ジュニアによる行進が始まった都市のことだろうか。定かではない”

 

★The Girl Who Broke My Heart / Paddy Ryan’s Dream / The Boys of Malin (Reel)

 

★The Banks of Suir  (Air)

 

★Jackie Tar / Golden Eagle     (Hornpipe)

 

★Ookpick Waltz (Waltz)

“CDでは歌の挿入曲として演奏したが、僕らはよくKevin Keegan’s というワルツの後で演奏することも多い”

 

★Teetotaler’s Reel / Whiskey Before Breakfast / The Virginia  (Reel)

“オールドタイム、ブルーグラスの流れを汲むレパートリー”

 

★Garech’s Wedding / Kid on the Mountain   (Slip Jig)

 

★Planxty Hewlett / Give Me Your Hand     (O’Carolan / O’Cathain)

 

★Jenny’s Welcome to Charlie / Rakish Paddy Donegal Setting (Reel)

 

★Inion Ni Scannlain (Donogh Hennessy)

 

★Calliope House   (Jig)

★An Drucht Geal Ceoidh     (Air)

 

アルバムKeep Her Lit!は2011年に発表したもので、既に絶版となっています。

2人で始めてわずか数か月という時に録音したもの。当時(今でも)名もないこのデュオのアルバムを購入していただいた皆さんに感謝いたします。

フォークソング考

音楽評論家でも、歴史研究家でもないので、詳しい話は書けないかもしれないが、日本にフォークソングなるものが上陸したころから歌い、演奏してきたのでなにか想い出して書いてみてもいいかな、という気がする。

それというのも先日、初めて南こうせつのコンサートというものを聴きに行ったのだが、それはそれは驚きだった。

今の若者たちが立ち上がって盛り上がっているのとほとんど同じような光景が、開演前から見られた。でも、明らかに歳のころは僕と一緒くらいか、5~10歳くらい下の人達だったが。

確かに僕も宵々山コンサートでの盛り上がりは経験している。しかし、それとは明らかに違う盛り上がり方だ。

恐らく、アリスや他のいわゆる“売れているフォーク・グループや、フォーク・シンガー”のコンサートというものはああいう感じなんだろう。

実に面白い。もう、もはやフォークソングではない。すくなくとも僕にとっては。

フォークソングを始めた頃、よく感じたのは東京方面の人達はいわゆる“モダーン・フォークというものに憧れて、ひたすらPP&M, Kingston Trio, Brothers Fourなどのコピーを展開する、あるいはそのスタイルを取り入れた人達が多かったのに対して、関西では早くから自分たちの言葉、スタイルでフォークソングを解釈する人達が多かったような気がする。

もちろん、反戦運動は東京でも起きていた。

僕は静岡という立地上、東京に出向くことが多く、記憶によると森山良子、PP&Mフォロワーズ、フロッギーズ、ニュー・フロンティアーズなどのフォーク・グループをよく聴いていた。

中でもオックス・ドライバーズという2人組の演奏に魅かれていった。彼らはキングストンやライムライターズのコピーをしていた。他にもハイウェイメン、タリアーズ、トラベラーズ3などのコピーもしていたかも。

とに角、多少の反戦、反社会的な息吹きは残しつつ、あくまでモダーン・フォークであったことは事実だ。

大学入学と共にブルーグラスに傾倒していったが、フォーク・グループとの接点もかなりあった。

高田渡と知り合ったのも、坂庭君と知り合ったのも大学時代だ。

京都産業大学ではいなかったが、立命館や京大に出向くとヘルメットをかぶって、角材を持った連中が一杯いた。

フォークソングも1975年のベトナム戦争終結後には少しづつ変化していったようだ。いや、少し前の泥沼化したころからかな。そして、いわゆるニューミュージックなる言葉が頻繁に使われ出したのもこの頃だろう。

僕自身、さんざんピート・シーガーやボブ・ディランなども聴いてきたが、そのメッセージ性よりも音楽としてのフォークソングに興味があったので、彼らのルーツを探ることの方が面白かったのかもしれない。

そして行きついた先がブルーグラスやオールドタイム、カーター・ファミリー、ということになるのだろう。

“売れたい”“テレビに出たい”というような欲望もなく、更に、メッセージ性を出したい、といった思いもそんなに強くはなかったのだ。

そんな中で高石氏と出会った。当時は彼のことを“反戦フォーク・シンガー”として認識していたが、彼もニューミュージックなるものの出現は予知していたのだろう。いち早くフォークソングのルーツを探る旅に出たのだから。

やがて、僕らは日本に於いて特殊な存在となった。

ブルーグラスでも、反体制でも、ましてやニューミュージックでもない。しかし高石氏のカリスマ性による何かしらのメッセージを残すという、それこそ新しい形のフォーク・グループとなったわけだ。

あの頃が良かった、という気もないし、時代背景も多分に影響していたのだろう。それと何といっても組み合わせの妙、というものは大きかった。

とに角、最初の話に戻るが、あんなに盛り上がるコンサートの中でも何故か“しらけている”自分。こうせつは友達として大好きで、音楽的にも優れているし、素晴らしい感性を持ち合わせているし、申し分のない男で、ショーも楽しい。

これはひとえに自分の性格なんだろう。他人と一緒になって大騒ぎ(バカ騒ぎではない)できないのだ。

幼稚園の時も「みんなと一緒に踊りましょう」なんて言われようものなら、一人だけ隅っこで立っていた。そんなことを思いだした。

フォークソング。その社会性と音楽性、イベント性。様々な視野から今一度考えてみるのも面白いかもしれない。

ついでに、2015年を機に、再び安保闘争という言葉が聞こえてくるか、も。

Irish Music その92

 

Miss Thompson’s / Derry Reel     (Reel)

  • Miss Thompson’s
    “Sharon Shannonの演奏で有名だが、Fisher’s Hornpipeとはどういった関連性があるのだろう。BパートはほとんどFisher’sだ。なのでリールというよりはホーンパイプというイメージが強い。とは言え、ブルーグラスのホーンパイプはほとんどリールと言えるが。Errington Thompsonという人によって書かれた、という資料があるようだ。但しホーンパイプとして。
  • Derry Reel
    “Charlestownとも呼ばれ、またシンプルにDerryとも呼ばれる。Sharon Shannonでこのセットが知られるようになり、もうかれこれ15年ほど前から僕らもよく演奏していたセットだ。非常にノリのいい曲だが、Bパートに入るとメロディがちょっとセンチメンタルになる感じでとてもいい。急に想い出したのでレパートリーに取り入れてみた。

Irish Music その91

Kitty O’Shea’s     (Barndance)

★Kitty O’Shea’s

この曲を初めて演奏したのは、パディ・キーナンとのツァー中だったと記憶している。彼はたしかKitty O’Neil’s Hornpipeとして演奏していた。それは2パートのシンプルなものだったが、後になってEdel Foxとのツァー中、彼女が演奏したのは6パートだった。いや、7パートだったかもしれない。それくらい長くて混乱する曲だ。この人物は1870年代から80年代にかけてニュー・ヨークで活躍したダンサーということだ。Kitty O’Neil’s Champion Jigとよばれるこの曲。ジグでもないのに何故ジグなんだろうと思っていた。これは多分に時代によるものらしい。19世紀のアメリカでは2/4 2/2などでもミンストレル・ショーなどの躍動するダンスの象徴とされていたらしい。そういえば、何かの映画でブルース・ウィリスが全ての大活躍が終わった時「ジグでも踊るか」と言っていた。それがアイリッシュ・ジグに限ったことではないだろうことが、ここからも分かってくる。でも、なんでO’Neilと言ったりO’Sheaと言ったりするんだろう。一説によると、それはトミー・ピープルスが間違ってKitty O’Sheaと言ったのが始まりだ、と云われている。元々はKitty O’Neilだったはずだ。もっと調べればいろんな説が出てくるだろうが。ところで、最も古い資料では2パートだ、という説もある。

 

Billy in the Low Ground / Ragtime Annie  (Reel)

★Billy in the Low Ground

“これは決してアイリッシュ・チューンではない。アメリカン・オールドタイムと呼ばれるカテゴリーに入るものだろう。面白いことにSharon Shannonがやっているようだが、随分僕の知っているメロディとはかけ離れているし、タイトルもなにかもじったようなものになっている。僕はというと、70年代初頭、Nitty Gritty Dirt Bandの最初のアルバムで聴いたのが初めてだった。Uncle Charlie and His Dog Teddyというタイトルのアルバム。その中で マンドリンとギターでフェイド・インして入ってくるしゃれたやり方が印象的だった。後年、アイリッシュの世界に入った時、Maid Behind the Barという曲に出会ったが、どこまでもこの曲に似ていたが、どこかでクロス・オーバーしたのだろうか。とに角これは希花さんに古いギブソンで弾いてもらうことにしたが、とてもいい音で曲調にもよく合っている。

★Ragtime Annie

“これもアメリカン・チューンだがアイリッシュ・ミュージシャンにも好んで取り上げられている。僕は1922年頃のEck Robertsonの録音をよく聴いていた。おそらくこれが最初のこの曲の録音だと言われているが本当だろうか。日本では石田一松が「のんき節」を録音したのと同じ年だ。なお、ほとんどのブルーグラス・ミュージシャンは2パートで演奏するが、この録音を聴く限りではもともと3パートのようだ。その昔、宵々山コンサートでジョー・カーターと弾いたのはこの曲だった。このようにアメリカン・チューンでもアイリッシュ・ミュージシャンに取り上げられているものや、決してそうでないもの、また、その逆の現象もあるので、こと細かに見ていると面白い。

時差ボケから解放されてまた、考え事

やっと時差ボケが解消されてきたようだ。というか今年はちょっとパターンが違った。

戻ってきたその晩はぐったりと寝てしまったが、次の日くらいから、夜中の1時頃眼が覚めて朝まで寝付けない、という状態が続いた。

やっぱり歳取ると時差ボケも遅れてやってくるのか…。

2011年から5年連続で希花と一緒にアイルランドに行っている。

最初の年は希花をいろんなミュージシャンに引き合わせることで、僕が90年代初頭からどっぷり浸かってきたこの音楽が、どういう生活から、どういう感性から生まれてきたかを身体で感じてもらう、というのが目的だった。

実際、僕も84年のカーター・ファミリーとの生活で、真剣に取り組むには彼らの生活に入っていくのが一番だろう、と感じたからだ。

その上で自分の感性を合わせていくことが必要になってくるのだ。

フランキー・ギャビンと家でゆっくり食事をし、音楽や生活の話をし、近所を散歩し、演奏し、アンドリューの家で、なかなか出てこないシャワーに苦戦しながらも、買い物に行って食事を作って、夜中まで演奏しに出掛け、ブレンダン・ベグリーの家でいやいや寿司を作らされ、ボートに乗せられて大西洋のはるか沖まで連れていかれ、無事戻ってきた喜びを噛みしめてキッチンで演奏し…等々、こういうことがいかにこの音楽を演奏するうえで大切なことか分かるには10年やそこらの経験では無理かもしれない。そういうことは後から感じることだろうし。

とにかくいろんな人と演奏をして、いろんなスタイルを学んで、迷いに迷った方がいい。

20年や30年ではなかなか人に教えるなんてことのできない奥深い音楽なのだ。

2012年からはセント・ニコラス教会のトラッド・コンサートのレギュラー演奏者として迎えられている。

ここでは有名無名を問わず、きちんとこの音楽に取り組んでいる者しか演奏することが許されない。

ここで演奏できるというのは限りなく光栄なことだ。同じ時間、街のあちこちでセッションも行われている。

もちろん騒がしいパブでのセッションもアイルランド音楽のひとつの姿だが、歴史ある教会でのきちっとしたコンサートもいいものだ。

この曲にはこういう謂れがあって、何年の誰それの録音ではこのように弾かれたが、後年、誰それによってこう弾かれている、というような説明もきちんとできなければならないし、究極、自分が好きなのは前者のほうだが、後者のこの部分の音使いはなかなか言えてるかもしれない、などとレパートリーについてもこと細かに考えておかなければならない。

そのためには数限りないアイリッシュ・ミュージックに耳を傾けなければならないし、様々なジャンルの音楽も聴いていたいものだ。

しかし、フィドラーは大変だ。今回だけでもBrid Harper Yvonne Kane Eileen O’Brien

をはじめとする名フィドラー、偉大なフランキー・ギャビン、そういった人物たちと、ともすれば仕事まで入ってきてしまう。

これは正直、心から楽しめるものではないだろうな、と思う。

ブルーグラスからオールドタイム、果てはスウィングまで登場することもある。そうなると、

Gid Tanner & Skillet Lickers もKenny Bakerも Papa John Creachも聴いていなければならないし、もちろんMichael Colemanも、そして自分を見つけていかなければならないし、人に教えている場合ではない。

少し無理させ過ぎだろうか。でもそれがきっと一味違うフィドラーとして、あるいはトラッドに真面目に取り組んでいるフィドラーとしてアイルランドでも通用する存在になれるということなんだろう。

アメリカでも経験していることだが、日本人としての珍しさなんて、もってせいぜい6か月くらい。

まだまだ奥深いアイリッシュ・ミュージック。

帰ってきました

ほとんど毎日15℃前後の所から、この蒸し暑い日本に帰ってくると本当に空気の重さを感じる。

但し、今回は乗り継ぎの関係上、ドバイにも立ち寄ったので、暑さに関しては「暑いぜ熊谷」の比ではなかったような気がする。

44℃、灼熱の砂漠にそびえ立つ高層ビル。思わず「イエス!高須クリニック」と呟いてしまった。あれがドバイかどうか良く知らないが。

砂漠の彼方に沈んでいく夕陽は“アラビアのロレンス”を彷彿とさせる。

ここで暮らす人たちと、アイルランドで暮らす人達、そして日本で暮らす人たち、同じ人間なのにやっぱり環境っていろいろだな、と思わざるを得ない。

さて、日本に着いて先ずしたいこと。それは野菜をはじめ、体に優しいものを食べたい、ということかもしれない。

アイルランドの食文化についてはさんざん書いてきているのでもういいが、日本はどう考えても素晴らしい。

テレビをつければ、自称“芸人”という面白くもない連中が食べ歩いている番組か、デパ地下の食品コーナーの案内の番組か、兎にも角にも食べ物に関する番組の多いことに今更ながらに驚く。

やっぱり食に対する関心度の違いか。アイルランド人は飲めれば幸せ、というところだろう。

でも、酒に関するテレビ番組などはない。当たり前か。

野菜も肉も日本に比べれば格段に安いが、それでもほとんどすべてに於いてクオリティは日本の方が数段上なので仕方がないだろう。

僕はオート・ミール(ヨーロッパではポリッジという)が大好きなので、必ず購入するが、これも1㎏入りで200円くらい。

同じものを日本で買ったら1000円くらいするだろうか。これは輸入物だからかな。

でも結局食べきれずに鳥たちと分け合って食べていた。

そんな国、アイルランドにはもし音楽をやっていなかったら来ていただろうか。その辺は至って微妙だ。

食べ物はどれをとっても大したことはない。シャワーの出は悪い。公共のトイレなんてほとんど野っぱらでするのと変わらない。その上この国で最も大切な酒にもあまり強くない。

やっぱり音楽がなければ来なかったかも知れない。

音楽を聴くために毎年来る人たちもいるし、やっぱりこの国の音楽は魅力的なものなんだろう。

少し体が戻ったらまたアイルランド音楽についていろいろ書いてみたいのだが、時差ボケも歳のせいか、遅れてやってきているようだ。

2015年 アイルランドの旅 30

いよいよ最終回。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

最後の方はなんかバタバタとして、たいした報告はできなかったけどなんとか楽しんでいただいたでしょうか。

トラッド・アイリッシュは真剣にやればやるほど日本では相手にされなくなってくる。

かといって、かっこよく見せる事や、トラッドとしてのかたちを崩していくことには興味が無い。と言うよりも自分の主義ではない。

勿論、ナターシャー・セブン時代から面白い事や、新しい事には節操無く飛びついたものだが、それも古いものをきちんとフォローし続けて成り立つものだ。

僕らは、このままトラッドを愛しつつ、こちらのミュージシャンにも恥ずかしくないものができるような存在でありたいし、それでいて視野の広い、スケールの大きいミュージシャンでいたい。ここがとても大切なところだ。

まだまだ模索は続いていくのだろう。

2016年 アイルランドの旅、というのはどんなコラムになって登場するだろうか。

2015年 アイルランドの旅 29

そういえば、鳥たちについてしばらく書いていなかった。

相変わらず、いつもの3羽は仲良く現れるが、最近もう1羽増えた。

鳩だ。どうも“ハト”というのはいつだったかの総理大臣以来、印象が極端に悪い。おっと!

ともあれ、こいつは人慣れしているせいか、かなり近くまでやってくる。そして長居するのだ。

昨日、試しに部屋の中にパンを置いてドアを開けてこっそり見ていたら、少しのぞいていたが、ちょんちょんと中に入ってきて食べていた。

それも結構長い間、そして奥のほうまでやってきたのだ。

他の鳥では決してそんなことはない。

ちょっとばかし図々しいといえばそう言えないこともないし、他に比べて図体がでかいので、もしかしたら他が恐れて出てこなくなるかもしれない。

しかし、餌をまけば必ずどこからともなくやってくるし、完全にこの場所を覚えてしまったようだ。

来年もやってくるだろうか。とっつかまえて目印でも付けておこうかな…なんちゃって。

そう思っていたところにまた別な鳩もやってきた。ところが元からいた鳩がそいつを追っかけ回して追っ払う。

気まぐれかな、と思いきやそんなことが何度も繰り返される。俺が見つけた貴重な場所だ、とでも言いたいのだろうか。

やっぱり部屋の中までおびきよせ、とっつかまえて「こりゃ大変」と思わせてみようかな。

それでもいつもの3羽は代わる代わる出てきて平和に共存している。鳩も彼らには敵対心は抱かないのでこのままにしておこう。

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2015年 アイルランドの旅 28

セント・ニコラス教会での最後の(僕らにとって)コンサートも終えて、また来年の話も出た。

その日のセカンド・ハーフはダブリンからやって来たパイパー.Maitiu O Casadeという若い、希花より年下の男の子。

彼もまた、きっちりとトラッドを演奏するミュージシャンだった。

ここに出演することがなければほとんど会う事がなかっただろうミュージシャン達との出会いはとても貴重なものだ。

勿論日々のセッションでも、ひょっとすると前回のマーチン・オコーナーのような人と会える事はあるが、それくらいの人物になるとあまり観光客向けのようなセッション、あるいはラフなオープンセッションには顔を出さないのが普通だ。

来年はこのセント・ニコラス教会でどんな出会いがあるか楽しみだ。

 

2015年 アイルランドの旅 27

大体のイベントは終わったが、まだまだ細かい事が残っている。いつもそうだが、帰る2週間前くらいから急な用事が入ったりしてバタバタと忙しくなるのだ。人生もそんな感じかな。

歳がいってからのほうが時の経つのは早い…ような気がする。でも、これも結構みんなが言う事なので、なにを今更、という感じかも。

今年の旅は僕らにとってある意味忘れがたいものになった。

このコラムをどれだけの人に読んでいただいているかわからないが、おそらく僕らはこの世界で最も尊い事柄に遭遇した。

今回のアイルランドにはなにか強い力で呼ばれてきたのかも知れない、と思えるほどの体験だったが、それは決して音楽との繋がりだけではなかったところがまた面白い。

いくつかのライブでお話しするつもりでいるのだが、先ずは東京の神楽坂にあるThe Greeというところが単独のライブになる。

後はまた故郷の静岡に行くし、名古屋にも行くかもしれない。

とにかく暑そうだし、体調の管理を心がけなくては。ここは相変わらず20度もないし。

また来年ここに来るつもりでいるが、今度はどんな事が待っているだろう。

2015年 アイルランドの旅 26

まだまだ忙しい日が続く。今日はこれからタラに向かう。

タラというとほとんどの場合Taraと勘違いされる。「風と共に去りぬ」で有名なHills of Taraだ。

なので、どちらかと言えば“トラ”に近い発音で言わなければ分かってもらえない。そこにカウンティ・クレアも付けても知らない人が多いくらいの何もないところだ。

1999年、僕は初めてアイルランドの地を踏み、アンドリューに迎えにきてもらって、マクナマラ家に2週間ほどお世話になった。

お姉ちゃんのマリーさんがシチューと、慣れないご飯を炊いてくれて、珍しいお客に会うためにお母さんまで手ぐすね引いて待っていてくれた。

その時に見つけたパブがフランのパブだ。

この村にある4つのパブの中でダントツに小さく、静かでアットホームな隠れ家的存在で、中に入るのにはある意味、抵抗がなかったと記憶している。

確かにドアを開けた瞬間、多くの目にさらされるか、数人だけかは…う〜ん、どちらがいいだろうか。

とにかく3〜4人の人がいたと思う。

多分その中にいただろう、クリスティという男の人が今回僕らをタラに呼んでくれたのだ。勿論アンドリューも一緒になって計画してくれた。

だが、オーナーのフランはもういない。

去年の冬に85年の生涯を閉じた。この村を訪れる度に必ず会っていたフラン。そして“彼を慕って毎晩のように来ていたお客さんみんなで彼を偲んでお話をしたり演奏したり、歌を歌ったりしよう。ジュンジとマレカが居るうちに”

そんな計画を練ってくれていたのだ。

クリスティとの夕食後、まず彼が僕らをフランのお墓に連れて行ってくれた。

アンドリューの家の前、通りを渡って坂を登った高台にある墓地。初めて来た時もアンドリューとここを散歩した。

朽ち果てた教会の跡がわずかに残り、本などでよく見る形の十字架が並び、四方に緑の大地がひろがり、山々が遠くに佇んでいる、なんとも寂しく、そして荘厳な気持ちになる場所。ここにも必ず散歩に来ていた。

僕らはフランが安らかに眠るようにお祈りをした。そしてパブへ。

今は彼の甥がここを継いでいる。

「良く来てくれた」と、まずギネスを注いでくれる。ブレンダン・ハーティがいた。アンドリューと一緒に演奏していて昔から良く知っているギタリストだ。間もなくしてフィドラーのアイリーン・オブライエンもやってきた。

希花が初めて会ったとき、怖そうなおばさん、と思ったそうだが、もう今ではいい友達のひとりだ。

アンドリューもやってきて奥の部屋でセッションの始まり。11時頃になると知った顔、知らない顔が次々と現れてにぎやかになってきた。

それでも他のパブのようには騒がしくならない。ちょっとゴルウェイのパブの騒がしさから遠ざかりたいこの頃だったので、とても心地よい。

そうしてフランを偲んで良い時間を過ごす事ができた。

1時過ぎ、みんなに挨拶をしてパブを出ると、いつものように満天の星空。

それから朝6時過ぎまでアンドリューとアイリーンが大騒ぎ。

アンドリューのお母ちゃんも病院だし(フランと同じ歳)彼も大好きなブルースやロックンロールを大音量でかけて大はしゃぎ。

お母ちゃん子のアンドリューも、さぞ心配だろうけど、ずっと面倒をみてきているので来るべき時の覚悟はしているだろう。

今のうちに大騒ぎ…かな。

そんなことを考えながら、4時頃には僕らは眠りに就いた。キッチンから盛んにアンドリューが「ジュンジ!」と叫んでいた。アイリーンの笑い声。ミシシッピ・デルタのどぎついブルース…。

最初のうちは僕も答えていたが、そのうち段々呼び声も遠くなり、そのまま爆睡。

翌朝、11時過ぎのバスでゴルウェイに戻ったが、エニスのバス発着所で「また来年もやろう」と眠たそうな目をして去って行ったアンドリュー。

その後、エニスの病院にいるお母ちゃんに会いに行っただろうか。

フラン、クリスティ、クリスティの奥さん、フランの甥のリチャード。みんなに感謝。

 

2015年 アイルランドの旅 25

今日はリムリックに行く。因に8月8日の土曜日。天気はまぁまぁ。やっとアイルランドにも夏がやってきたかな、と思えるこの数日間だが、やはり風は冷たい。

ブレンダンと待ち合わせして一路リムリックへ。

着いた所はMilk MarketというところにあるMari’s Cheese Shopというお店。

とても感じのいいオーナーと、いかにも外国のコーヒー店らしく、美味しそうなチーズやサンドウィッチ、パウンド・ケーキなどが並ぶ、狭いが素晴らしくアット・ホームなお店だ。

着いたとたんにお店の中で買い物袋をぶらさげたまま、お客さんのなかにまじっているおじいさんが、座ったまま誰に聴かせるでもなく歌を唄っている。

歌詞を語り、メロディーに戻って好きなように唄っている。お店のお客さんもごく自然にコーヒーを飲み、サンドウィッチを食べ、みんなが美しい昼下がりをごく自然に楽しんでいる。

その一角での演奏。2時間ほどだったが、地元のパイパーが現れ、隣でコーヒーを飲んでいたおじさんが、突然アコーディオンを弾き始め、10代の少年が恥ずかしそうにティン・ホイスルを吹きにきたり、通りがかりの女の子がフィドルで参加したり、大丈夫かなと思うくらい太った7〜8歳の男の子が台の上に乗っかって歌ったり、楽しいひと時を過ごした。

因に最初に居たおじいさんは演奏が始まる前に、自分の出番は終わった、と思ったか、じゃ後は任せたぜ、と言わんばかりに帰って行った。

マーケットではあらゆるものが売り出されていて大賑わい。食べ物から着るもの、装飾品。

随分前にリムリックに来たとき、中に入った事はあった。でも、その時は週末でもなかったし、もう終わりの時間だったので全くイメージは違っていたのだが、今回はいろんなものを見て楽しむ事が出来た。

ドゥーランから早野さん、古矢さんコンビも寄り道して、そのままケリーに向かって去って行った。

僕らがゴルウェイに着いたら、しとしとと雨が降って寒かった。また夏がどこかへ行ってしまったようだ。

2015年 アイルランドの旅 24

フィークルから戻ってすぐに、今度はショーン・ギャビンから電話。なんでもショーンの息子がやっているバンドで5弦バンジョーを弾いて欲しい、ということだ。

その日はベネフィット・コンサートでセコンド・ハーフにDe Dannan、その前に彼らが演奏する、という。

どんなバンドか訊いてみると、完全なアイリッシュ・ロックだ。

U2 , Pouges , Bruce Springsteenをはじめとして、ブルースやロックン・ロールを歌う5人編成のバンド。

ギター&ボーカル、カホーン、スネア&ハイファット&ボーカル、ダブル・ベース&ボーカル、そしてショーンの息子である、ショーン(ややこしいが同じ名前)のフィドル&ボーカル。

コーラスはなかなかに決まっている。ただ、演奏する曲は全部で10曲。そのうち知っている曲が2曲。後は彼らのオリジナル曲だったり、聴いた事の無いポップス系のものばかり。

だが、ほとんどはブルース進行で歌われる。

全員、25〜6歳の若者でトラッドなど知らないが、Michael ColemanやTommy Peoplesの存在は知っている。

随分前にかまやつさんと沖縄に行って、コンディション・グリーンと演奏した時のように、取りあえず相手の出方を見ながらやっていけばいいのだが、彼らも気に入ってくれたのか「ここはバンジョーソロでいこう」などと言い始める。

アカペラのコーラスになると、バンジョーだけが伴奏にまわるといったアレンジも突然思いついたり。

だが、なかなかコーラスがパワフルで良いので、こちらもガンガンいける。

結局全ての曲で弾きまくって無事終了。

セコンド・ハーフのDe Dannanもゆっくり楽しむことが出来た。

希花はこの日、同じ時間に教会でCo Mayo 出身のShane Mulchrone というバンジョー奏者のコンサートにフィドラーとして参加。バンジョーとフィドルのデュエットで演奏していた。

こちらは純粋なトラッド・アイリッシュ。後でDe Dannanを聴くために合流したが奇妙な一日だった。

2015年 アイルランドの旅 23

久しぶりにアンドリューとのセッションだ。メンバーはアンドリューと僕ら、そしてアイリーン・オブライエン。

フィークルのおなじみのパブ“ペパーズ”だ。

初めてアイルランドを訪れた時のこと。アンドリューとふたり、長靴をはいて(長靴といってもゴム長)野原を歩いた後、アンドリューは自分だけちゃっかり靴を履き替え、僕はそのままパブに入って行ったら、みんなが大笑いしていたのを覚えている。

ここは今でも昔のままの景色だ。勿論ほとんどの場所が同じ景色を保っている。そんな国だ。

セッションはいつものように僕とアンドリューが大笑いしながら進めて行く。となりの部屋ではマーク・ドネラン達がやっている。

困った事におそくなればなるほど盛り上がってくる。名うてのミュージシャン達が次から次へと来てなかなか帰してくれない。

ゴルウェイに戻ったのが2時半過ぎ。彼らはまだやっているだろうし、ひょっとするとこれから更に盛り上がるかも。

そして翌日、再びフィークル。どちらかというと、この日のほうがコンサート出演ということで先にきまっていた。

去年、一緒にツァーしたEdel Foxとのトリオ。その後Ivonne Kane Eileen O’brien Tara Diamond等とのセッションホスト。

フィークルとは来年、もっと関わっていたらいいかもしれない。

思えば2011年にはずっとフィークルに泊まって夜な夜なセッションホストをしては全てのパブを巡ったものだ。

去年からは仕事のある日だけ出向いていたが、来年はアンドリューの家にでも泊まらせてもらってもいいかも。

今年も日本から早野さん、古矢さんの名コンビがここに合わせてやってきてくれた。遠いところをありがとうございました。

2015年 アイルランドの旅 22

夕食後、あまりにいい天気になったので、近所の散策を楽しんだ。

老若男女、子供達、みんな太陽の光を楽しんでいる。もう夜8時になるが気持ちのいい夕方だ。

それでも日陰は風がかなり冷たい。

セント・ニコラス教会の横を通り過ぎたら、見た事のある人が電話をしている。

フランキーだ。

3ピースのスーツに身を包み、あっちへウロウロ、こっちへウロウロしながら話している。

電話が終わるのを待ち、声をかけてしばらく立ち話をしているとショーン(兄)が現れた。

実は10時からのセッションに誘われていたがちょっと遅いし、ギネスも半端じゃなく飲まされるし、と思い、今日は辞退しようと考えていたのだ。

そこに会ってしまい、再び一生懸命誘ってくれるので結局行く事になった。

さて、このセッションだが、本当に行ってよかった。

と言うのが、アコーディオン奏者、マーチン・オコーナーがひょっこり現れたからだ。

アイリッシュ界のアコーディオン弾きの中でも特別な存在だ。そのテクニックたるや、おそらく世界のアコーディオン弾きとしてもトップクラスのひとりだろう。

また、その上めちゃくちゃにいい人だ。

誰に対しても礼儀正しく、にこやかに人の話を聞き、そして静かに話す。

アコーディオンを弾き始めたらスラスラと多くの音が飛び出し、その全てがとても心地よい響きを持っている。

一流中の一流だ。

結局戻ったのは午前2時半。それでも本当に忘れる事ができない夜になった。「何度か会っていたけど、一緒にやったのは初めてだったな。すごく良かった。またやろう」と、にこにこして帰って行ったマーチン。本当にいい人だ。

この日の他の参加者は ギャリー・へスティング、デシ・ウィルキンソン、共にフルート、それにケビン・ホークがギター、珍しくフィドルが希花一人。

Jewish Reelをマーチンとふたりで演奏した時は往年のDe Dannanサウンドそのものだった。

あまりに強烈だったせいか、デシ・ウィルキンソンが喜んで動画を撮っていた。

誘ってくれたショーンに感謝。

ところでこの夜はお茶をメインに飲み、ギネスは1杯だけにしておいたので比較的楽だった。

これからこれでいこう。

 

2015年 アイルランドの旅 21

ついに4羽目のカモメを助けた。車に轢かれている同じくらいの年齢(?)のカモメを見たそのすぐ後だったこともあり、手早くサッと包んでまた同じ所に放しに行った。

昨日の事。しょっちゅう雨が降っては晴れる。風が吹いては雨が降り、そしてまた晴れるといった一日。

久しぶりに、ゴルウェイの名物アコーディオン奏者、アンダースと日本人の奥さん“まよさん”のセッションに顔を出してみた。

最近女の子が誕生したらしく、いつもにこやかなアンダースがさらにデレデレになっているようだ。いい男だ。

まよさんも赤ちゃんのこと、気がかりだろうが力強いプレイを展開する。彼らはゴルウェイを代表する夫婦演奏家だ。

パブを出る頃には美しい空がひろがっていた。8時、陽はまだ高い。

彼らはベビーシッターに預けた赤ちゃんのことが気になるらしく、急いで引き上げて行く。

アンダースの何とも言えず嬉しそうな後ろ姿。母親らしく落ち着いた振る舞いのまよさん。何とも言えず好印象の夫婦だ。

 

さて、一日経って、今日はいい天気だった。そろそろ7月も終わるが、今年のアイルランドには夏が来ないのかもしれない。

日本はかなり暑そうだが、ここは17℃くらいだろうか。午後になればもう少し気温が上がるだろうけど。

2015年 アイルランドの旅 20

さて、次の日。
昨日は清々しい青空で、やっと好天に恵まれたと感激したものの、今日は一変して小雨がぱらつき、空はどんよりした雲に覆われている。

これじゃ山は無理だろうと思いきや、朝、早速メールが来た。

「俺たち今から支度するから20分くらいで迎えに行く」登る気満々だ。

実際、彼ら曰く、300メートルくらいの山で、老若男女がこぞって登るらしい。

信仰深い人達は裸足で登る、とも言っていた。

彼らはしっかりしたブーツを履き、ダウンジャケットに身を包んで登場。一応僕らのために同じようなジャケットは用意して来てくれたが、今日は天候もそんなに良くないし、山だけ見て君たちはウェストポートにでも行っていたら後でピックアップしてあげるよ、と言う。

実際、ウェストポートを抜けて更に15分ほど走ると山の麓に到着する。ゴルウェイから2時間ほどドライブして、ウェストポートに到着。更に15分ほど走ってまたウェストポートに戻り、僕らを落としてくれて、山に戻るという。

彼らにとっては大した距離ではないのだろう。

山は確かに荘厳な雰囲気を漂わせ、子供から老人まで多くの人達が登って行くのが見えた。

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Croagh Patrick

 

雨も上がってきたようだが、霧がたちこめている。

ウェストポートで僕らを落とした後、そんな山を目がけて兄弟仲良く意気揚々と出かけて行った。

一方、僕らはしばしこの可愛らしい小さな町を散策する事にした。

ここには、有名なMatt Molloyのパブがある。言わずと知れたチーフタンズのマット・モロイの店だ。

そこだけでなく、パブは数限りなくこの小さな町に存在するが、そのどこでもLive Trad Musicという看板を掲げている。

お腹も空いてきたので、食事をすることにしたがちょうどお昼時を少し過ぎたくらい。

どこも家族連れや旅行者で盛り上がっているように見える。おしゃれな店も随分多い。

沢山見て回ったが、Mill Times Hotelというところが目についた。どうやらベストフードのアワードを何度か取っているらしい。

おそるおそるメニューをチェックするものの、そんなにべらぼうな値段ではないようだ。

アイルランド人の言う“ベストフード”というのも怪しいものだが、とりあえずお腹も空いているし、あまり高くないので入る事にした。

僕がシーフード・チャウダー、希花さんがチキンのホワイトミートをベーコンで巻いたものにグレイビーソースがかかっているものをオーダーした。

やがて隣の老夫婦に運ばれて来たディッシュを見て「おっ。あれはなんだろう」と思ったが訊いてみるわけにもいかない。僕一人だったら訊いたかもしれないが、見た感じ奇麗に盛りつけられてあり、とても豪華だ。

しばらく待っているとチャウダーが登場。これが実に美味しそうで量も決して少なくない。パンも美味しそうだ。

ほとんど同時にチキンもやってきた。隣の老夫婦と同じディッシュだ。

こちら、もう中川イサト師匠化して、ついつい写真を撮りまくってしまった。

そして、その味はさすがにベストフードと言われるだけのことはあった。珍しくアイルランドの外食で満足のいくものに巡り会え、大感激。

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デザートまで頼んでしまった。

後はまた町を散策して待ち合わせのパブに入り、ギネスを飲んで彼らを待つ事1時間程。あまり食事が美味しかったこともあり、3時間近く食事と周りの料理の見物で1カ所に留まってしまったのだが、退屈もしなかった。

彼らは6時頃戻って来た。山に登り始めたのが2時頃なので、大体彼らが言っていた時間通りだった。

アイルランド人としては珍しく時間に正確な人達だ。

山は霧がたちこめて寒かったらしいが、二人とも大して疲れた様子もなく、非常に清々しい顔で「今回は天気もあまりよくなかったし、それに今度はちゃんと着るものを用意して一緒に登ろう」と言ってくれる。

是非そうしたいものだ。彼らに感謝。

O

2015年 アイルランドの旅 19

久しぶりにショーン・ギャビンとセッションをした。だが、彼の持ってきたアコーディオンはE♭。ギターはチューニングを上げるか、あるいはカポ位置をずらすとかで対処は簡単だ。その場合、ちょっと視覚的には混乱することもあるが。

しかし、フィドルの場合は半音上げてチューニングをしなければならない。こんな場合はほぼ100パーセント、いや100パーセントのフィドラーはそうするはずだ。

だが、希花さんが厄介に思うのは曲が半音上がったことで、通常のキーで演奏されているものと同じ曲に聴こえなくなる事なのだ。

それならばと、通常のチューニングで半音高いポジションで弾いてしまおう、と考える。

普通は無理だ。1曲2曲だったらいけるかもしれないが、10曲20曲どころではない。次から次へと繰り出される曲を見事に半音上がったポジションで弾きこなしていく。

これにはさすがのショーン・ギャビンも舌をまく。さすがにフォギー・マウンテンをG♯で弾けるだけのことはある。

フィドル界広しといえどもあまりいないだろう。

おかげでセッションも無事終えた。

そしてその日、1年ぶりの友人に出会った。去年知り合ったアンガスという男と、名前を聞き忘れたのだがその兄弟、もの静かな音楽通だ。

彼が音楽通ということは会話からも分かるように、クラシックからジャズ、ワールドミュージックに至るまで、幅広く聴いて、その分析たるやその辺の音楽評論家もかなわないくらいの鋭い感性を持っている。

実際、セッションを見ながら飲んでいる人達の中で唯一、彼だけが運指を変えている希花さんのプレイに気がついていたのだ。

音楽だけではなく、広い分野で様々な知識を持った男だ。

そんな彼と、兄弟のアンガスが明日、山に上りに行くけど一緒に行こう、と誘ってくれた。

Croagh Patrick(クロッグ或はクロー パトリック)という聖なる山で頂上に教会があり、360度のパノラマで全てが見えるんだ、と、ギネス片手に熱く語る。

あまりに熱心に誘ってくれるので、一応オーケーしたが、そのための靴も服も持っていない。さて、どうしたもんだろうか。

2015年 アイルランドの旅 18

今日、またしても迷子のかもめの子供を見つけた。一体川っぷちからどうやってここまで来るのだろう。

距離にして300メートルくらい。交通量もかなり多い。まだ飛べないので、歩いて来ているのだろう。

よく車に轢かれないものだ。こいつはジョナサンだろうか。

とにかく、また助けなくてはならない。

着ていたジャケットを脱いでサッとかぶせた。もう慣れたもんだ。一発で決めてやった。

くるっと包んだつもりだったが、顔が出るとやっぱり暴れる。

ちょっと噛まれた。というよりつつかれた。ロバに続きカモメにも。

だが、なんとか希花さんに顔を覆うように頼んで、川っぷちまで運んだ。

かもめはそのままチョイチョイと歩き始めた。

一体何度こんなことをするんだろう。もうすでに3匹、いや3羽目だ。それにしても、いちばん最初に見た死んだ子はかわいそうだった。

仕方が無いのでこれからも見つけたら助けてあげよう。もう段々“こつ”もつかめて来たから。

2015年 アイルランドの旅 17

セント・ニコラス教会でのコンサート出演もすっかりレギュラーになってしまった。

ホスト役のコーマック・ベグリー欠席時の代理として、必ず僕らがファースト・ハーフを担当することになったからだ。

今夜のセコンド・ハーフはアコーディオンがColm Gannonその奥さんで、コンサーティナ奏者のKelly Gannon

淡々とトラッドを演奏する姿は、ショーとして見るのではなく、本当にアイリッシュ・ミュージックを愛していて、本気で聴く人にとっては素晴らしいものだ。

この教会で、静かにトラッドを聴け、本物のオールド・スタイルのダンスが見れるというのは価値のあることだ。

そして、月曜日に続く、水曜日のセコンド・ハーフはパイパーのMick O’Brienと彼の娘さんであるフィドラー。名前が聴き取れなかったが、オール・アイルランドを獲得した人だ。

Mickはさすがベテラン。最後はエマのダンスと共に有名なマイケル・コールマンのTarbolton setで。

小さなステージ上、4人で立って演奏。あまりにステージが狭いのでミックの前に僕が立ち、娘さんの前に希花が立つ。彼女も180センチくらいありそうなので、もし希花が後ろに立ったらすっぽり覆われてしまう。

「あんたが前に行きなさい。それでないと全然見えないから」と言われていた。演奏が終わると4人並んで深々とお辞儀。もっとお辞儀しよう、とミックが促す。

心地よいパイプの響きが忘れられない日となった

2015年 アイルランドの旅 16

一日中雨が降り続きそうな予感。今日はフィドラーのBrid Harperがゴルウェイにやってくる。

ドニゴール出身のベテランフィドラーだ。

日本から来てアイリッシュ・ミュージックに関わろうとしているのだったら、日々のセッションもいいけど、こういう人達の演奏に耳を傾けることも大切だ。

相方のギタリストも結構イケイケだったが、変なコードは使わず、実につぼを得ていた。ティン・ホイッスルもなかなかの腕前、そのうえ饒舌で(ちょっとうるさかったかな)、でもBridが淡々と曲の説明をするので、コンサート全体を通していい感じだった。

親子連れで来ていた子供達も真剣な面持ちで聴いていたが、ここで、実に何年ぶりになるだろうか、Breda Smythに再会した。

僕が宵々山コンサートに彼女を呼んだのは2000年?それから1回アイルランドで会ったかな。

いつだったかSean SmythからBredaに子供が産まれたという話を聞いたが、その息子もすっかり大きくなって、やっぱりティン・ホイッスルとフィドルを演奏するそうだ。

希花さんは、医者でもある彼女からアイルランドの病院事情について、次回ゆっくり話を聞く事にしたみたいだ。

今日の収穫はBrid Harperの素晴らしいフィドリングを聴けた事と、Bredaに再会できた事だ。

 

2015年 アイルランドの旅 15

今日、またしても迷子のカモメの子供を発見。

そこで、先日見たレスキューのまねをしてみたが、これがなかなか難しい。傍目に見れば、いじめているように見えるかも知れない。

というのも何度も何度も持っていたジャケットをかぶせようとして失敗するからだ。

その度に必死に逃げようとする。こちらの気も知らないで。

だが、やっとの思いで捕まえた。

そして、抱きかかえたがこれがなかなか怖い。噛まれたらロバより痛いかもしれない。

ちょうど一緒にいた和カフェのオーナー、早川さんが顔を覆えば暗くなるから騒がなくなる、と(彼女、烏骨鶏を中国から連れて帰って来た事がある)教えてくれて、確かに少し静かになった。

それでも僕のジャケットの中で“もそもそ”している。道行く人達が不思議そうな顔をして見ている。

なんとかここなら、という川沿いのところで放してみたが、希花さんがもっと仲間が沢山いる所のほうが良い、というので、また捕り物帳の始まり。

でも今度は少し慣れたせいか、ほどなく僕のジャケットの中に収まった。

かくして、仲間の多くいる場所へと移動。

とりあえず“鳥”は長い“捕”物帳の末、そんなに“取り”乱す事もなくセーフであった。

2015年 アイルランドの旅 14

今日は7月15日。ゴルウェイは快晴だ。

日本には台風が来ているらしく、祇園祭も大変だろうな。そして、それにつれて自然と宵々山コンサートの事などを思い出している。

せみがうるさかったなぁ、暑かったなぁ…みんな若かったなぁ…。会場の周りに何日もかけて並んで、みんな友達になる。まさに青春だったんだろうな。

そのころからずっと応援してくれている、もう家族みたいな京都の人達。遠いところから今でも駆けつけてくれる人達。

みんな青春時代を僕らとともに過ごしてくれて、今も変わらず青春を楽しんでいる。素敵な人達に感謝。

あれ?晴れていてもセンチメンタルになるのは歳のせい?かな。

さて、快晴のゴルウェイでは、今日また、教会で少しだけコーマックと演奏をすることになっている。

それというのも、僕らがお世話になっている詩人の佐々木幹郎氏が、イギリスでの仕事の帰り、何年かぶりにゴルウェイを訪れているので、コーマックが教会に来てもらって、ここ、ゴルウェイで一緒に演奏しているところを見てもらおう、と言ってくれたのだ。

いつものようにコーマックのソロ演奏から入り、僕らがステージに上がって3曲ほど一緒に演奏。そして、エマ・サリバンのダンスと共にファースト・ハーフを終えた。

気がついたら今年はまだコーマックと演奏していなかった。

やっぱり素晴らしいコンサーティナ奏者だ。

セコンド・ハーフはBryan O’Leary & Colm Guilfoyle というSliabh Luachra出身の若い二人。アコーディオンとフルートの演奏だ。

いかにも出身地らしいポルカとスライドのセットが続く。

トラッドを継承する二人の真面目な若者。こういう若者を多く見て来た僕にとって、あぁ、ここにも素晴らしい演奏家がいるな、と思わざるを得なかった。

日本の、特にアイリッシュ音楽を語る人達は彼らのような、一見地味かも知れないけど、本当の本物に多く触れた方がよい。

やはりTune in the Churchに身を置く事はトラッド演奏家としてこの上ない幸せな事なのかも知れない。

21歳と27歳のこのコンビとは、またいつかどこかで会うだろうが、彼らからも先人たちの演奏について様々な見解が聞けそうだ。

2015年 アイルランドの旅 13

こちらでは特に変わった事はないが、日本では東京が38℃になる、と聞いた。先日、北海道ですら35℃になったというし、大分で震度5、なんていうニュースをみるたびに日本は大丈夫かな、なんて心配になってしまう。

アイルランドは相変わらず肌寒い。

去年、この時期にやはりゴルウェイにいたのだが、今年は去年より寒いような気がする。歳のせい?いやいや、若い人もそう言っているのでやはり本当なんだろう。

今日のようなどんよりとした肌寒い日はなぜか“追憶の日”という感がある。以前も確かダブリンかどこかで同じような日に“思えば…”に始まって、自分が関わってきた音楽の思い出を書いた事がある。

そう言えば、北海道にはよく出かけたが、同じような気持ちになったことがあった。

秋の夕暮れの函館あたりで電車を降りると、とたんにセンチメンタルになってくるから不思議だが、ここはやはり北海道に似ているような気がする。

函館は僕の一番好きな街だったが、転勤族の子供だった希花さんが、自分の故郷と呼べるのは函館かもしれない、と言うのには不思議な共通点を感じる。

特にこのゴルウェイという街は、坂はないけど函館に近い、という気がしてならない。

そう言えば、中標津というところはよく覚えているが、今思えばカウンティ クレアみたいだった…かもしれない。

そう言えば続きで申し訳ないが、先日またラジオから僕らの演奏が流れて来た。前回のお約束通りThe Ramblerからもう1曲。

今度はClinch Mt. Back Stepだった。きっと変わっていて面白かったんだろう。

というところで空を見上げると、うん、晴れて来た。

今日はいい天気になるかもしれない。

今日からアート・フェスティバルが始まるらしい。街が騒がしくなる。

急にアンドリューから電話。フィークルでまた一緒にやろう、と言って来た。こちらの人間は日にちを言わず、曜日で言ってくる。

もちろん彼の言うのはフィークル・フェスの間の事だから、間違いはないのだが、一応日にちで確認をする。

突然といえば、アイルランドでは(特に西)突然天気が変わったりするので、1週間先のバーベキューの予定などたてられなく、やるなら今でしょ!ということになるらしい。あくまでたとえ話としてだが。

なので、あれよあれよ、という間に物事が進むことがよくある、という。

本当に最後の最後までつかみどころのない変わった民族だ。案外向こうもそう思っていたりして。

とはいえ、10カ国以上の人達と仕事をしてきた僕にとっては大した問題ではないが。

弟分のアンドリューとの演奏、楽しみだ。

2015年 アイルランドの旅 12

Tune In The Church出演の合間をぬって、Miltown Malbayに出かけた。

Willie Clancy追憶のための、アイルランドでは最も大きなフェスティバルのひとつ、と言って良いだろう。

世界中から、この小さな村目がけて多くの人が訪れるので、数多くあるパブは全てが身動きの取れない状況となる。

僕らの目的は、数人の知り合いと会う事。特に先日、日本で一緒だったイデルには、自分の生まれた所だし、クラスで教えているから是非来てちょうだい、と言われていた。

もちろん、僕らも初めて訪れるわけではない。過去にジョン・ヒックスと再会したのもここだ。

とにかく、パブには入る事が不可能なくらいの人が集まっているし、しばし、200メートルほどしかないこの村の道路を行ったり来たり。

ロン・カヴァーナと、それに驚いたことにサン・フランシスコでよく一緒にやったケイティという女の子が声をかけて来た。

彼女、あの時は23歳だったと言っていた。あれからもう15年経つらしい。

キルフェノラの彼女の実家にアンドリューと泊まって、ダブルベッドで夜中までキャッキャッ言って騒いでいたら、彼女のお母さんが「あんたたち、まるで兄弟みたいね」なんて言っていた。

僕らはしばし、比較的広くて空いているレストランに入って(基本的にレストランではセッションは行われていないので)時を過ごす。

イデルも忙しい中、顔を出してくれるが、すぐまた行かなくてはならないから後で連絡してね、と、相変わらずニコニコしていた。

そのうち、もうひとり連絡を取り合っていたジョセフィン・マーシュが駆けつけてくれた。

さぁ、やりましょう、と早速アコーディオンを出す。

お店の人も大歓迎だ。

近くにいた小さな男の子(10歳くらい)もアコーディオンで加わるが、真面目な顔をして、限りなく本物のトラッドを演奏する。彼の演奏と表情からも、この音楽に対する敬意が感じられる。やがて彼の妹もコンサーティナで参加。素晴らしいセッションとなる。

ジョセフィンと1時間ほど一緒に演奏をして別れた後、イデルから、彼女が全ての仕事を終えて、家族で食事をしているから、そこに来てちょうだい、と連絡が入った。

そして、レストランのオーナーがここでやってもいいって言っているから一緒にやりましょう、と促され中に入る。

これがベストだ。地元の名のあるミュージシャンと共に静かなところで、ちゃんとした音楽ができる。

ともすれば騒がしいパブでは聴き取れない音がきちんと聴こえる。

彼女も30分くらい、と言いながら止まらない。

日本に来た時仲良くなった“たけちゃん”の写真を、家族や友人達に「この人最高に面白かったわよ。すごくいい人」と言いながら見せて回っていた。

どこまでも明るくていい子だ。

結局1時間ほど一緒に演奏して別れた。

今回のMiltown Malbayの目的は、ジョセフィンと会う事と、イデルと会う事だったのだが、その両方とも果たされたわけだ。

僕らを、中継地EnnisからMiltown Malbayに連れて行ってくれたアイルランド在住の赤嶺“フー”さんに感謝。

2015年 アイルランドの旅 11

7月6日、今晩のメインイベントは教会でのコンサートだ。これも2012年から僕らは出演しているが、トータルで6年目ということなので、ほぼ準レギュラーとも言えるだろうか。

僕らもここで数多くのトラッド・ミュージシャンを聴いて来た。一緒に演奏もしてきた。

それはパブでのセッションとは全く違うかたちだ。

今日は1部を若手の3人。パイプとアコーディオンとハープだ。さすがに、ここに出演する人達は本物のトラッド・ミュージシャン。

楽曲の説明に関しても、演奏に関しても筋が通っている。

こんな若者達が国中あちらこちらにいて、みんなが古い録音に耳を傾け、歴史をきちんと学び、真面目に取り組んでいるのだ。

そんな音楽を勘違いイベントにしてはいけない、と心から思う。それは決して安物のこだわりではない。

こういうところで彼らのようなミュージシャンの演奏に触れ、なおかつ世界中のいたるところから来ている人達にこの音楽を紹介するには、それ相当の覚悟が必要になってくる。

僕らが演奏した曲目は、Fear A’ Bhata / Two Days To Go / Once In A Blue Moose これらは1曲目がスコットランドの古い美しい歌。作者は…これがなかなか読めないのだが、Sine NicFhionnlaigh(Jean Finlayson)19世紀の終わり頃のもの。訳すとボート・マン。何故僕が英語に訳しているんだろう、言って笑いを誘う。そのまま続けたのはDiarmaid Moynihanの曲からNiall Vallelyの曲だと説明を加える。

そして、Kitty O’Neill’s Champion Jig これは別名Kitty O’Sheaと言って…これから先は僕がアイリッシュ・ミュージックその91で書いた説明をする。

その後は日本の古い歌と言って「外山節」でクロス・カルチャーを楽しんでもらう。

アメリカから来ている人も数多くいて(昨夜は20人ほどもいただろうか)次はDry And Dusty / Indian Ate The Woodchuckでオールド・タイミー、Foggy Mt. Breakdownでブルーグラス。

コンサーティナでAnna Foxe医学部の学生時代に手に入れて忙しすぎて全然練習する暇がなく、またいつものホスト、コーマック・ベグリーがいたらなかなか弾こうとは思わないけど、今日はいないから弾いちゃいます、と言ってまた笑いを取る。

最後はThrough The Wood /Mamma’s Petで静かに終わる。そしておなじみ、Emma Sullivanによるダンスの伴奏でTrip to Durrowを。

彼女も言っていた。ダンサーズはしっかりと曲を覚えないといけない、と。やっぱり軽い気持ちでは取り組めない音楽だ。

このTune In The Churchに出演するためにはこれからも研究を怠ってはいけないようだ。

2015年 アイルランドの旅 10

今日は珍しいものを見た。

ことの発端は、買い物の帰り、死んだカモメの子供らしきものを見つけたことだ。

かわいそうに。車にはねられたのかな、と思ったが、そんなに激しい損傷もなく、また、歩道の上だったのでどうしたのかな、と気になっていた。

そこから数メートル歩いて来たら今度は全く同じくらいの、やっぱりカモメの子供らしき鳥が、ある家のドアにさしかかる階段のところで右往左往している。

見たところ飛べそうにない。怪我をしているのではなく、まだ飛べそうではないのだ。

このままでは他の動物に襲われるかも…もしかしたらさっきのもそれが原因だったのかもしれない。

もう少し歩けば仲間が一杯いる川縁に着くのだが、子供のカモメには遠すぎるし、車もかなり走っているので危険だ。

僕らは「さて、どうしたもんだろう」と、ちょっかいを出しながら通りに出てこないようになんとか道をふさいでみた。

しかしこのままではラチがあかない。

10分ほど困っていたところに、スペイン語を話す3人の女性が(一人は子供)歩いて来てすぐ状況を察知すると、どこかに電話をかけた。

なんでも友人が動物のレスキューに関する仕事をしている、と言う。だが、電話が通じないといい、そのうちの2人がちょっと行ってくる、と川縁の方まで歩いて行った。

残った一人が「今、レスキューを連れてくるから。親はいないのかしら」と言いながらあたりを見回して「心配しなくても必ず助かるから」とにこやかに話す。

それから10分ほどしてさっきの2人がもうひとりの女性を連れて帰って来た。どうやらその人が彼らの友人のレスキュー隊員らしい。

そして、ものの見事に持って来たコートのようなもので、サット包んでニコニコしながら「これで大丈夫。みんなありがとう」と言いながら去って行った。

クリント・イーストウッドか、古くはアラン・ラッドの後ろ姿を見る思いだった。

何はともあれ、素晴らしい仕事だな、と感激した一日だった。

2015年 アイルランドの旅 9

コーマックから電話が入った。

急で悪いけど、教会で少しだけ演奏してくれ、と言う。(って言うじゃな〜い、って言う奴いたなぁ。)

こちらも特に用事はなく、ちょうどいいので即OKの返事をした。

なんでも今日演奏するロレイン・オブライエンがコンサーティナだし、自分もコンサーティナだから、少し違うスパイスが欲しいという事だ。

彼女はクレア・スタイルのとてもいい奏者だ。

今はドニゴールにいる、って言ってたかな。キュートなカーリーの金髪、それにかわいい声で喋る人懐っこい子だ。

まずコーマックがいつものように、アイリッシュ・トラッドについて、また、コンサーティナについての解説と演奏を20分ほど。

それから僕らが15分ほどやって、エマのダンスの伴奏をして1部終了。

2部では落ち着いたスタイルの、いかにもクレアーという響きのコンサーティナ・プレイがふんだんに楽しめた。

終わって後片付けをして外に出たら、3人の男女が歩いて来てそのうちの男一人が「ジュンジ!」と叫んだ。

誰だったかな。見た事があるような気がする。

相手も「俺、誰だか分かる?前はヒゲがなかったんだ」と言うので、彼の顔をじっと見た。

「あっ。コーマック。コーマック・ギャノン」「そうだよ。久しぶり。よくわかったなぁ」

彼はサン・フランシスコの“ギャスメン”という6〜7人編成のバンドでバウロンを叩いていた人だ。

屋根の修理を本職にしている人で、時々一緒に演奏もしたことがあるし、よく話もしたものだ。

実家がこちらにあるので夏には必ず帰ってきている、という。今まで会わなかったのが不思議だが、ここでバッタリ出会ったことも不思議だ。

それに、教会の後片付けもいつもより時間がかかり、済んでからも少しのあいだ立ち話をしていたので、そのタイミングで外に出た、というのも微妙なことだ。

彼らもパブで飲んでいて、出て来たら僕らを見つけた、という。

やっぱりここに来ると多くの再会がある。

ゴルウェイの様々な状況に感謝だ。

2015年 アイルランドの旅 8

7月に入って少し暖かくなってきたようだ。それにしても一日のうちにあまりに天気が変わりすぎる。

一番困るのは洗濯物だ。乾燥機のないところでは外に干す事になるが、こちらでよく見かける光景は、雨の中で洗濯物がはためいている、というもの。

どうせすぐに止むし、入れてまた出して、は面倒だと考えるのだろうか。

アンドリューの裏庭でもよく、天気雨のなかで洗濯物がはためいていた。それでもあわてないのはひとえに国民性なのだろうか。

彼らがスーパーマーケットで走ったりする姿は見た事が無い。レジでのろのろしている人に文句も言わず、じっと待っている。

よく観察していると、大量の買い物をまず何分もかけて自分の袋に詰めてから、おもむろに値段をみて、それから財布を探し、やっと出て来た財布の中の小銭から勘定し、やっとのことで支払いを済ませる。

レジの人も決して急いでくれという表情をみせない。そんなことをしてもらっても自分の給料は変わらないから、だろうか。

いったいなにを考えているんだろう。おそらくなにも考えていないんだろう。それでも待っている人は嫌な顔もせず(なかにはいいかげんにしろ、という顔をしている人もいるが)ほとんどの人は気長に待つ。

日本にもたまにそんな人もいるが、アメリカでもアイルランドでも圧倒的に多いようだ。

自分があんまり急ぎ過ぎなんだろうな、と反省もするが、同じようにはできない。

洗濯物も入れたり出したり、どうすれば事は早く済むか、などいつも考えてしまっている。

思えば、そのほうが人生は短いのかも知れない。常に自分の中では30分先、1時間先が気になっているのだ。

その予定が狂うと、ことによってはパニックになったりするが、結局たいした違いは無いのかも知れない。

もう少し落ち着いた方が長い人生が送れることは確かだ。気分的に。

今日は晴れ。でもこんな日に限って後からまた雨が降る。洗濯物、どうしようかな…。

2015年 アイルランドの旅 7

今日から7月。日本で大変な事件が起きたことを昨日知った。新幹線でのことだ。5分おきくらいにやってくる新幹線はとても気軽で(ちょっと高いとは思っているが)安全なのに、これからが心配だ。

こんな事がおきると、自分の身の安全をいくら考慮してもどうしようもない、ということを再認識せざるを得ない。

こちらではフランスに熱波、というニュースがあった。そしてそれがアイルランドにもやってくる、ということでみんなびびっているが、その気温の予想がたかだか25℃くらい、と言っているので驚きだ。

そんなことではとても日本では暮らせない。

日本ではもう夏休みに入っているんだっけ。あれ、学生の頃の夏休みっていつからだっけ。

高校時代だってもう50年も前の事。忘れてしまっている。

50年って結構な時の流れだ。

そのむかし、まだ20歳そこそこだった進藤さとひこ君が僕と省悟を前にして「ねぇ、聞いてくださいよ。このあいだ30過ぎのおっさんが…あ、いや、おにいさまが…」と言っていたが、そんな彼も、もう50うん歳。

僕にしても60歳越えた自分なんて想像できなかったものだ。

今年もあと半年。どんなことが待っているだろうか。

そういえば、アイルランド人には来年の話をしても無駄らしい。日本でも来年の話をすると鬼が笑う、というが、この仕事では来年のこともある程度決めておかなくてはならない。

こちらでは“一応頭には入れておくけど詳しい事はもう少し近づいてから。でないと忘れるから”というような感じだろう。

大体“メモする”ということが苦手な人達らしい。

そんなアイルランド人を相手にしているのでやっかいなことも多いが、なかなかに面白い。

今、希花さんに「高校生のころはいつから夏休みだった?」と聞いたら「忘れた」という返事が返ってきた。

こちらもだいぶアイルランド化してきたようだ。

2015年 アイルランドの旅 6

月曜のお昼過ぎ、パディが無事荷物を引き上げて、ダブリンに戻って行った。木曜日にはまたこちらに出てくるので、どこかで飲もうぜ、とこわいことを言ってご機嫌さんですっ飛ばして消えて行ったが、また嵐のような数日間になるのだろう。

さて、今日で6月も最後。去年もここで「一年の半分が過ぎてゆく」と書いたはずだ。

今年は7月に入ると、やっぱり教会での演奏が増えてくる。コーマックからの要請でラインアップされていない日もいくつか空けておいてくれ、ということだ。

そういえばショーン・ギャビンからも連絡があった。またいっぱい飲まされるのだろうか。

それでも上質なセッションには是非参加したいものだ。

ところでもうひとつ“そういえば”。

昨夜バッタリ出会った奴がいる。15年にもなるだろうか。デイナの友達で僕も良く知っていたコルムというシンガーだ。

元々サン・フランシスコにいたが、今はニューヨークに住んでいてバケーションでゴルウェイに立ち寄って、偶然僕を見つけたようだ。

「確かデイナもこの辺に来ているよ。ミルタウン・マルベイに行くっていっていたから」と教えてくれた。

もし会えたらおもしろい。ここに来て、道でバッタリ、セッションでバッタリという再会がいっぱいある。

お互い連絡を取り合って、というのとはまた違った趣がある。

2015年 アイルランドの旅 5

パディが、そこの角にいる、とメールしてきた。結局ダブリンからすっ飛ばして来たようだ。

今後の事等を話しながらコーヒーを飲み、食事をしてから少しセッションでものぞいてみるか、ということになりパブに出かける。

ジョニー・リンゴやブライアン・マグラー、ミック・ニーリーのご機嫌なセッションに僕らは加わり、パディは飲み始めた。

飲み出したら止まらない。もうパイプは置きっぱなしであっちへフラフラこっちへフラフラ。

フィドラーのトミー・マッカーシーがパディと会うためにやってきた。そして新たに飲み始める。

どうやら今日は彼の家に泊まるらしいが、荷物は僕の部屋に置いてある。必要な物は歯ブラシくらいだけど、明日取りにいくよ、と言っていたが、朝起きて「僕の荷物がない???」なんて言いそう。パソコンも入っているのに。

これが、昨日(6月28日)一日のできごと。

相変わらず嵐のような男だ。何時頃荷物を取りにくるだろうか。ここにあるよ、と電話してあげた方がいいだろうか。

まだ朝早いしもう少し寝かせておこう。

2015年 アイルランドの旅 4

日曜日。いい天気だ。今日はパディ・キーナンが会いにくると言っていたが、遠路はるばるなのか、近場から来るのかよくわからないので、時間もわからない。

アンドリューもそうだが、彼らには予定などあってないようなものだ。いや、予定はあくまで「予」なのだから狂うこともあって当然なのかも。A型の僕にとっては時として非常に難解(ホークス)な感覚に陥る事がある。が、しかし、僕にもO型の血がはいっているらしく、甚だ気楽に考える時もある。

こんなことを書くと、決まって「血液型なんて気にするのは日本人だけですよ」と、上から目線で述べる人が出てくるが、そんなこと百も承知。環境や経験も加味される事など百も、いや、千も承知だ。

今日は腕立て伏せを百回やりました、などと言うと、必ず「いや、回数は問題ではない」と言う人が出てくるが、そういった場合は単なる目安と考えているだけで、決して百回やったから素晴らしいと思っているわけではない。

何の話からこうなったんだろう。そうか、一般的アイルランド人の事か。いや、彼らミュージシャンは一般的アイルランド人ともかけ離れているのだろう。

ところで、今日は足の不自由な鳥とロビンがなかよくパンを食べている。そこにロビンの子供らしいのも現れた。とびきり小さくてちょんちょん跳ねている。

この鳥たちにもアイルランド気質というものが備わっているのだろうか。この鳥たちもアイリッシュ・ミュージックを聴いて育っているのだろうか。

話は急に変わって、最近特に思うのだが、僕がタイトルやレパートリーにこだわるのは、この音楽に対する敬意なのだ。

かたくなにトラッドにこだわったり、新しいものを拒絶したりするわけではない。

クラシックの時期も含めて音楽との付き合いも60年を越えた。バッハに憧れ、ナルシソ・イエペスに聴き入り、ラジオで50年代のポップスに照準を合わせ、フォークソングと出会い、ブルーグラスに真剣に取り組み、そのかたわらビリー・ホリデイに耳を傾け、ブルースにのめり込み、いいな、と思うものには見境も無く傾倒してきた。

そんな中で自分が生きてゆく道として何故か深く関わりを持ったのがアイリッシュ・ミュージックだ。

僕らのこの音楽に関しての知識なんて微々たるものだ。こうでなければいけない、などと思ったところで屁のつっぱりにもならない。

が、やはり大切に思い、敬意を忘れてはいけないことは確かだ。少なくとも僕にとっては。

それを単なるこだわり、とみるかどうかは個人の自由だが。

 

2015年 アイルランドの旅 3

今年も鳥達がやってくるかな、と思い、パンを裏庭にまいてみた。もうあれから1年。鳥は3歩歩いたら忘れる、という話もあるので、とりあえずまいておけばまた新しい奴がきて食べるだろう、と思っていた。

が、驚いた事に去年良く来ていた足の不自由な鳥が来て食べていた。それから間もなくしてロビンも来たが、こちらは同じ奴かどうか分からない。

明日、もしかしたらパディがゴルウェイにやってくる。

どうやらフランキーにも明日か明後日には会えそうだ。

ま、なんと言ってもアイリッシュ。仕事ならなんとか時間通り、とはいかなくても約束は約束だが、かるーく会おうか、ということは実現するかどうかわからない。

こっちも気長にいくのがいちばん。

鳥達でも眺めてのんびり行ってみよう。

2015年 アイルランドの旅 2

昨日(26日)アイルランドの国営放送RTEラジオで僕らのCDが流れた。これは決してサプライズではなかったが。

去年、コークで演奏した時に出会ったケビンという人物がCDを欲しい、とメールしてきたのだ。

商売が成立した後、彼から長いメールをいただき、その中にラジオ局に持って行く、というくだりがあった。

そして、26日に1トラック流れる、と言ってきたのだ。その日ならゴルウェイにいる、と返事しておいた。

ところが、ゲール語の放送だ。かろうじて聞き取れるのは知っている人物の名前くらい。

ハリー・ブラッドリーの歯切れのいいフルート演奏が流れ、ジョン・マクシェリーのパイプがモダンなサウンドを作り出している。

そしていよいよ僕らの番だ。名前を言っているのはわかる。トラックは2番目の「Anna Foxe」

と同時にあちらこちらからメールや電話がきた。

「聴いてる?」コーマック・ベグリーが最初だったので「うん・聴いてる。でも何言ってるのかサッパリ分からない」とメールしたら「彼はすごく気に入って今週中にでも別なトラックをかける、と言っている」と翻訳してくれた。

そんなこんなで一日がまた過ぎてゆくが、やっぱり楽器がよく鳴る。建物の造りと空気の乾燥具合だ。

しかし、一日のうちに少なくとも1回は雨が降るのが日常茶飯事。不思議だ。

相変わらず寒い。

2015年 アイルランドの旅 1

6月23日、アブダビ空港。どこもかしこも全く見当のつかない文字が並んでいる。

素朴な疑問。この国で言う「達筆」と、そうでない人の違いはあるのだろうか?だとしたら是非それを見てみたいものだ。僕らでも見て分かるのだろうか。

希花さんも同じ事を考えていたと言うから、日本人の多くは考える事なんだろう。

外はかなり暑いようだが、その分空港内は結構寒い。見るからにインド系やアラブ系の人が多い。そして、その多くは頭からすっぽり毛布をかぶって休んでいる。

やっぱり寒さには弱いのかも。

長い待ち時間を経てダブリンに着いた。長い待ち時間とは言っても、見るもの聞くものが全て珍しく、あまり退屈しなかったことは幸いである。

ダブリンは例によって「晴れ」どうやら先ほどまで雨模様だったようだ。

ここで友人のジョンと会うことになっている。

彼はダブリン生まれのオーストラリア人で、アコーディオン奏者だ。本職はいろんな会社を立ち上げてきたバリバリのエリート・ビジネスマン。

彼のいとこでオールドタイムのバンジョー弾き、ビルと一緒にホース岬のシーフードレストランで食事。

バンジョー談義、そしてアイリッシュ・ミュージック談義に大いに花が咲き、初日が過ぎて行く。10時にもなるのに、日本の夕方くらい。

これじゃみんな今から飲みにいくなぁ。だが、彼らもある程度の歳だし、ほとんど普段から飲まない、というので疲れている我々としてはラッキーだった。

たいした時差ぼけも無く、ゴルウェイに向かう。

きっと11時くらいまで彼らと食事や話に夢中になったことが良かったんだろう。でなければ、着いたとたんにバタン。気がついたら夜。今度は寝ようと思っても眠れない。という悪循環になったのだろう。

そうそう。ダブリンを出るときには、空が厚い雲で覆われていたし、途中、かなり激しい雨がバスの窓を叩いていた。

しかし、ゴルウェイに着くと、これまた快晴。先ずは上々。気温は12〜3℃くらいだろうか。

とりあえず、ここでしばらくゆっくりする。

アイリッシュ・ミュージックと我夢土下座

今年もまた、アイルランド行きが近付いてきた。ゴルウェイの教会でのトラッド・コンサートと、イデル・フォックスとのフィークルでのコンサートが今年のメインだ。

行って色々な人に連絡を取れば演奏の機会はまだまだ増えるだろう。

だが、それよりもなによりも、自然に音楽を奏でることの大切さを身をもって体験できるいつもの夏。そこに価値があるのだ。

フランキーとパディもちょうどその頃はアイルランドにいるし、アンドリューは相変わらずだし、ブレンダンも突然顔を出すだろう。

テリーとコーマックは希花のコンサルティーナ仲間になりつつあるし、マット・クラニッチも手ぐすね引いて待っている。

さて、ここ最近、1971年からずっと一緒に山登りや、川下りや、野球、そして音楽をやってきた我夢土下座との音楽会をやったり、残念ながら他界してしまった笠木氏の歌を唄ってきたりして、更に僕たちのアイリッシュ・ミュージックも力強くなってきたような気もする。

面白いものだ。やっぱりどちらも生活の匂い、人々の心の叫びが音楽になっているんだ、とつくづく感じる。

僕は以前から我夢土下座が大好きだった。そして、ケリーの断崖絶壁から大西洋をながめ、ブレンダンの歌を聴いていたとき、笠木透や我夢土下座を想い出していたのだ。

それは決してイベントもののようなアイリッシュ・ミュージックではなく、人々の歌、そして人々の音楽なのだ。

希花は未だに自分のスタイルを模索しているし、この音楽が20年や30年の経験で語れるような音楽ではないことをよく理解している。

本当はもっと軽い気持ちで楽しめればいい。軽い気持ちで「こんなに楽しいものですよ」と他人に教えてあげられたらいい。軽い気持ちで「今日ライブやりまーす」なんて言えたらいい。

それにしても、他人からお金をいただくのは苦しいことだ。その苦しみの中のほんのちょっぴりの楽しみのために100%の努力をするものだ。そしてそのほんのちょっぴりの楽しみはまた次の苦しみへと発展してゆくのだ。

トラッドを謳って楽しいだけでは、それは一種のお遊びだ。お遊びで他人様からお金をいただくわけにはいかない。

希花は、ここ数年アイルランドで人々の生活の中に溶け込み、一流演奏家の下を訪ね、また、かれらとのステージを経験し、多くのセッションホストをこなし、その上、真の意味でのフォーク・ソングを体験している。

アイリッシュ・ミュージックを演奏しながら、ジョセフ・スペンスやロバート・ジョンソン、スティービー・レイ・ヴァーンを聴き、ブルーグラス・ボーイズを聴き、果ては我夢土下座とまで共演させられてしまう。そこが大きくプラスになっているだろうし、未だに模索をする原動力ともなっているのだろう。

僕もフォーク・ミュージックに関わって50年。未だに模索は続いている。

アイルランドに行く前に本物のフォーク・ソングと再会したことはアイリッシュ・ミュージックをもう一度考えるいい機会になったのかもしれない。

帰ってきてから、またいろんな話ができるといいな。

レコーディング

今、新たなレコーディングに取り掛かっております。

Mareka&Junjiとしての4作目。

勿論、その前に伝説のバンド「Eire Japan」が発売になります。こちらは10月末のツァーに向けての発売。

70年代、80年代に世界中のアイリッシュ・ミュージック・ファンを虜にした2人と90年代のアイリッシュ・ミュージック・シーンで最高のギタリストと評された僕とのトリオ。

今回は内藤も少しではありますが参加しております。

常に時代を意識し、様々な音楽に溶け込んできた彼等ですが、そのうえで、本当の意味でのトラッド・アイリッシュ・ミュージックを演奏できる稀有な存在です。

内藤にとっても未知の世界であったかもしれません。しかしながら、彼らが認めるまでのフィドラーになってきたことは間違いありません。

いわゆる「もの珍しさ」や「人情」では、こと音楽に関しては妥協しない彼等です。

ツァー共々お楽しみください。

話をMareka&Junji4作目に戻します。

アルバム・タイトルは密かに決めていますが、どう変わるか分からないので、まだ伏せておきます。

今のところ2曲の黒人霊歌を含むアイリッシュ・チューンの数々。フィドル、ギター、バンジョー、ハープ、コンサルティーナといういつもの楽器に加え、今回はマンドリンとビオラ、そして12弦ギターをふんだんに使用しました。

音の厚みもかなりあると思います。

しかしながら、またアイルランドで新しいアイデアが浮かぶことも想定内です。なので、まだまだ未完成ともいえますが、12月頃の発売を目指しております。

ロストシティ・キャッツとの再会

  時は2015年、5月9日。今富君のお店、オッピドムにて、もう40年ぶりにもなるだろうか。彼等との再会を果たした。

 まず、ベースの伊藤君が、かなり酔っていたが深々とお辞儀をして出迎えてくれ、お互い元気で生きていることを確認。

 もう本当に40年ほどの月日が流れてしまっているのだ。

次にフィドルの森繁君。確か、くしゃくしゃのカーリーヘアーに口髭、といういで立ちだったと記憶していたが、今ではすっきりとした風貌になっていた。

次にバンジョーの稲井田君。熱くバンジョーについて語り続ける彼は、きっと昔から大好きなバンジョーを片時も離さなかったんだろうな。

そして、今回最も昔のイメージを保っていたマンドリンの井沢君。この4人と我らが敬愛して止まないリードボーカルの今富君。

まぎれもなくロストシティ・キャッツだ。少しだけだったが往年の力強いサウンドも聴くことができた。

1年に1回くらいは集まっているらしいが、今日、僕もここに来ることができて良かった。本当に心からキャッツに乾杯だ。

同じ日、夜からナターシャー・ナイトというのがあって、ナターシャー・セブンの歌を中心に歌うグループが集まった。

皆さんの名前全てが分からないので申し訳ないが、みんなそれぞれに素晴らしい歌と演奏を聴かせてくれて本当に嬉しかった。

この日、なんだか訳もわからず付いてきた希花さん。お疲れ様。

アイリッシュセッション

  今まで数多くのセッションを経験してきた。勿論ブルーグラスもだが、こちらの方は大体ジャムと云われるように、それぞれが腕前や感性を披露するような成り立ちだ。

 ここではアイリッシュのセッションについて書いてみる。

まず、僕の場合はサンフランシスコのプラウ・アンド・スターズのセッションがこの音楽に関わる最初の扉だった。

日曜から木曜まで毎夜行われるセッション。様々なホストが登場していたが、なんといっても地元の老舗バンド、ティプシー・ハウスのセッションは、30人ほどの人が集まり、ぴりぴりした緊張感一杯の上質のセッションだった。

僕もそんな中で若きアンドリュー・マクナマラと出会ったわけだ。やがて、ティプシー・ハウスのメンバーになった僕は日曜と水曜にはセッションホストとして、たまに月曜、火曜には他のメンバーとのセッションホストとして、木曜にはセット・ダンスのミュージシャンとして、金曜か土曜にはステージで、というような毎日をすごすようになった。

セッションをしているといろんな人に会う。グレイ・ラーソンがひょっこり現れたり、クレイ・バックナーもやってきたし。トニー・ファータードも。ピーター・モロイ、チャーリー・レノンなどが顔を出したりすることもあった。

フェスティバルの後は名うてのミュージシャンが大挙押し寄せるし、そんななかで自分なりに腕を磨いていくのだ。

パディ・キーナンやルナサのメンバーと親交を深めたのもそんなセッションに於ける出会いが始まりだった。

セッションでは曲を注意深く聴いて、聴いて聴きまくって、タイトルを訊ねたり、その曲の謂れを聞いたりしながら曲を覚えていき、リズムを叩き込んでいく。

ブルーグラスのプレイヤーが来ると悲惨なことになるのは、以前ジャズ・ギタリストがブルースのセッションに行ったら「帰れ」と云われた、という経験談によく似ている。

彼はアメリカ在住の素晴らしい日本人ジャズ・ギタリストだったが、黒人街のディープなブルース・セッションではそのテクニックは受け入れてもらえなかったようだ。心で弾くことの大切さを教わったよ、と言っていた彼はやっぱりいい音楽家だ。

アイリッシュのセッションでそこまで露骨ではないにせよ、曲をきちんと知らなければ険悪なムードになることがよくあった。いや、充分露骨な態度を取る人も沢山知っているが、みんな根はいいやつだ。

僕にしても、明らかに合わないコードなどを雰囲気だけで弾かれたら、その場から逃れたくなるし、露骨にやめろ!と…云わないが態度で示す時がある。

弾き始めたプレイヤーを制止してその曲のそのパートはこうだ!と言って自分で新たに始めてしまうやつもいる。

確かにセッションはみんなで楽しむものではあるが、そこには最低限のルールと礼儀が必要なセッションも存在する。

 そこをきちんと把握しておかないと、アイルランドでのセッションホストも務まらないだろう。

スタンダードな名曲は少なくとも数百知らないと務まらないし、タイトルを訊かれることもあるので、知らない、忘れた、ではまずい。

ボケている暇はないくらいに、いつもいつも考えていなければいけない。

ティプシー・ハウスのリーダーであるジャック・ギルダーは僕をギタリストに抱えてから、自分の和音感覚に合う人間がやっと現れた、と感じ、次から次へと曲を出してきた。

嫌われようが文句を言われようが、自分がホストのセッションでは自分の納得のいくセットを組み立て、納得のいくかたちで進めていく。

勿論彼は以前から、自宅でも一人こつこつと練習しているようなタイプだったのだが、やはりそんな彼とのセッション三昧が今の僕にもかなり影響を与えている。

しかし、いくら考えてもアイリッシュのセッションというのは独特だ。

Ry Cooder

久しぶりにライ・クーダーをいっぱい聴いた。彼についてはもう、沢山の人達が山ほどの情報を提供してくれているので、今更何も云うことはない。それに僕は彼の追従者でもないし、適当なことも言えない。

だが、結構早いうちから注目していたミュージシャンであることは事実だ。最初のアルバムがリリースされたのが1971年の12月ということだが、その頃すでに手に入れて聴いていた、と記憶している。

何故購入したかはよく覚えていない。ジャケ買い、というほどでもないし…。でも聴いてしびれたことは確かだ。

スライド・ギターの響きや、独特の唄、そのスタイル全てがオールドタイム、ブルースを越えてすでに彼独自の音楽だった。

そして、彼を通してブルース・マンドリンのヤンク・レイチェルを聴き、ジョセフ・スペンスなども聴き始めた。テックス・メックスにも憧れた。

フラコ・ヒメネスのアコーディオンにもしびれたし、グレート・アメリカン・ミュージック・ホールのライブ盤は擦り切れるほど聴き入ったものだ。

それにチャンプルーズの大ヒット曲で聴くことが出来るスライド・ギターにも涙がでるほど感激したものだ。

いろいろ調べてみるとアフリカのマリ出身のミュージシャン、アリ・ファルカ・トゥーレとのアルバムが出てきたが、アリはしばしばブバカル・トラオレと一緒に演奏している。

このブバカルという人。実は僕はカナダで一緒にステージに上がったことがあるのだ。その時はデビッド・リンドレーも一緒だった。リンドレーはライ・クーダーともつながりが深い。

ともかく、ブバカルはフランス語しか通じないので通訳がいろいろ僕に説明してくれた。そして、僕の横でほとんど眠るようなスタイルでギターを弾いていた。彼の連れてきたアフリカン・ドラムの人、それにリンドレーと一緒にやっているワリー・イングラム、ティム・オブライエン、ダーク・パウエル、パディ・キーナンやニーブ・パーソンズもステージ上にいて、もうぐちゃぐちゃだったが。

そう、そこでほとんど眠っていたかと思ったブバカルは、自分の出番が来るとAminorだけで何万人もの人を踊り狂わせた。まるで三上寛だ。違うか…。

そんなこともライ・クーダーを聴いていて思い出したのだが、またしばらく彼の音楽が頭から離れそうにない。

Irish Music その90

O’Mahoney’s/Swallow’s Tail     Reel

  • O’Mahoney’s

“アコーディオン奏者のMartin Mulhaireが1950年代に彼の奥さんCarmel Mahoneyのために書いた、と云われる曲。MahoneyともO’Mahoneyとも、また、作者が付けた最初のタイトルはCarmel O’Mahoneyだった、とも云われている。なにはともあれとても美しい4パートのリール。Breda Smythと一緒によく演奏したが、彼女のホイッスル演奏は耳を疑うほどに素晴らしい。2000年頃、僕が日本に連れてきて、宵宵山コンサートなどで演奏したので、その時聴いた人もいるかもしれない”

 

  • Swallow’s Tail

“最初の頃、教則本で覚えたものだが、Dervishのバージョンとは違うものだった。勿論最初は91年なので、まだ彼らの存在は知らなかった頃だ。彼等自体もまだ形になり始めた頃と言っていいだろう。とに角彼らのバージョンはキーナン・ファミリーがやっていた、トラベラーズ・バージョン、しかもパディのお父さんのバージョンということなのでおもしろい。そして、僕が最初に覚えたバージョンで演奏する人は今ではほとんど聴かない”

 

This is My Love, Do You Like Her?/I Ne’er Shall Wean Her   Jig

  • This is My Love, Do You Like Her?

“有名な曲だが、スライドとして紹介される場合もある。それにI Lost My Love And Care Notという1950年代に録音されている曲はほとんどこれと一緒だと考えられる”

  • I Ne’er Shall Wean Her

“いいメロデイの曲だ。様々なキーで演奏されているが、キーが違うとタイトルが若干変わったりするから面白い。I Shell Ne’er Wean Her となったり。その辺の詳しい事情は分からない”

友あり、またまた遠方より来たる

  サンホセに住む友人のK君がやってきた。去年の僕のバースデー・コンサート以来なので、そんなに長いこと会っていなかったわけではないが、彼が帰国すると大体会うことにしている。

初めて彼と会ったのは、サンタ・クルーズにルナサのコンサートを聴きに行った時のことだと記憶しているが…。

後で彼に尋ねたら、それ以前にプラウ&スターズで会っているそうだ。記憶と云うものもあてにならない。

とに角、それ以来ケルティック・フェスティバルに同行してもらったり、いろいろないい音楽の情報をいただいたりしている。

彼は30年ほど個人事業として、サンホセでピアノの調律の仕事をしている。それも、かなり有名どころの仕事をこなしているようだ。

チーフタンズやチック・コリア、ボブ・ディラン等々、錚々たる顔ぶれだ。そういえば、「アート・ガーファンクルの時は音楽プロデューサーが、あのエリック・ワイズバーグで、音響のチェックの際、大ヒット曲Dueling Banjoを弾いていたことにいたく感動し、それを本番でもう一度聴けたことは今でも鮮烈に思い出されます」と言っているくらい、大のブルーグラス・ファンでもある。

そんな彼の顧客の一部を紹介してみよう。前出の3アーティストの他に、ディブ・ブルーベック、トニー・ベネット、ブルース・ホーンスビー、ノーラ・ジョーンズ、スティービー・ワンダー、ジョニー・キャッシュ、エバリー・ブラザース、イーグルス、BBキング、レイ・チャールス…。

あまり長くやっているので想い出せない人もいるのかもしれないが、この人たちの縁の下の力持ちとなっている彼の実力が伺われる。

彼と長く付き合っている理由のひとつに、彼の音楽体験の豊富さがある。驚くほどに良く知っている。ロックからクラシックからオールド・タイミーまで。もちろんアイリッシュもだ。それも仕事上、というのではなく本当に様々な音楽が好きなのだ。

実際ブリタニ―・ハスの家のピアノを調律していたこともあり、ジャック・タトルからフィドルを習っていたこともあるので、その辺の人脈もかなり広い。

調律師としての感覚もさることながら、その辺の音楽にも精通しているところがかなり面白い人である。

Irish Music その89

Jackie Coleman’s/Moving Bog/Ships are Sailing     Reel

  • Jackie Coleman’s

Jackie Coleman #1としても知られる名曲。ジャッキーといっても決して瀬戸内寂聴さんのことではない。美しいメロディだ。僕は3小節目にEmを弾くか、G6とするか、いまだに悩んでいる。どちらにしても美しい。Emは非常にまともだが、G6はメロディに対して独特な響きを提供する。結局のところメロディをA A’と考えるとEmを弾いておいて次にD onF#からG6にもっていくのがきれいではないか、という結論に最近行きついた。その逆でもいいが、やっぱり曲の成り立ちから考えるとEm/D onF#/Gという並びの方がいいようだ。Em11th Em11th on Bということも考えられるか。そこまで考えなくてもDADGADという調弦で自然にそんな響きを得ることが出来る。たったひとつのコードでもそこまで考えるのがギタリストの役目だ。自分たちの全てのレパートリーについて、これくらいの考えを持つべきだと思う”

  • Moving Bog

“すでに2回も出てきている。その49と、その53だ。何故か変わっていて頭から離れない曲である。最近聞いた話で、希花さんは初期にMatt Cranitchの教則本で学んだそうだが、ある人が(知人ではないが、その人の文章で)Matt Cranitchのお父さんMichael Cranitchから学んだ、と言っていた。偶然で面白い”

  • Ships are Sailing

“特にこれといって情報はないが、古い曲だ。結構初期に誰もが学ぶ曲のひとつであることは間違いないだろう。シンプルで美しいメロディだ。Drogheda Bay(Co.Louth)というBパートが全く同じ(人によりバリエイションが違う場合も当然ながらある)曲があるが関連性はわからない”

 Drogheda Bay    (Reel

  • Drogheda Bay

“ついでにこの曲についても調べてみたが、AndrewMaryのマクナマラ姉、弟がやっていて、そのままMaids of Galwayという曲に入っているのだが、ほとんど同じ曲みたいだ。これじゃぁ、ついでにこの曲に関しても書かなければならなくなってくるが、そこには別にTie the Ribbonsというそっくりなリール(Aパート、Bパート共に少しだけの違いはあるが)も関わってきてしまうしこの辺にしておこう。とに角かなり古い曲であることは確かだし、多分にフルート・チューンと云えることも確かだ”

Tommy Jarrell そしてSonny Terry & Brownie McGhee

  久しぶりに古いTommy Jarrellの演奏を聴いた。YouTubeであったが、何はともあれ、今は亡き人を今一度見られるのはありがたいことだ。

僕は確か、1984年の夏、ヴァージニアのゲイラックスで彼を見たことがある。亡くなったのが85年の1月ということなので、ほとんど直前と云ってもいいくらいだ。1901年の生まれというからそんなに云うほどの歳ではなかったが、僕にとってはとうとう見てしまった伝説の人物という感じだった。

大きな木の下で数人とジャムを楽しんでいた。誰かが「トミーだ。トミー・ジャレルがいる」と言っていたがそれでなければ気がつかなかったかもしれない。

バンジョー弾きとしても有名な彼はノースカロライナの生まれ。アメリカでも最も南部訛りのきついところと言われる。また、アール・スクラッグスの生まれた州なので、5弦バンジョーの故郷としても知られている。

何はともあれ、トミー・ジャレルの演奏に耳を傾けるのは何年ぶりだろうか。それは常に、マイケル・コールマンやジェイムス・モリソンのプレイに耳を傾けるのと一緒のことだ。出来得る限り自分のルーツとなる音楽の先人たちの演奏を聴く。最も大切なことだ。

そんな意味では、今の世の中ありがたいものだ。

ついでに大好きだったSonny Terry & Brownie McGheeも観てしまった。Sonnyは86年、Brownieは96年に亡くなっている。

彼等のアルバムはよく聴いていた。Midnight SpecialPeople Get Ready今聴いてもとことんかっこいい。

ブルーグラスを演奏しているときも、アイリッシュを演奏するときも、ブルースは意識してしまう。

若いアイリッシュの演奏家である希花さんにもこれを見なくちゃ、と言ってB.B Kingから

Johnny Winterそして今回はTommy JarrellからSonny&Brownieまで無理やり聴かせてしまった。

そうこうしているうちにCurtis Mayfieldまでお気に入りになったようだ。

Irish Music その88

The Plains of Boyle/Cronin’s  (Hornpipe

  • Plains of Boyle

“バンジョープレイにもってこいといわれるホーンパイプだ。初心者向きの曲ともいわれるが、たまに思い出してやってみるとそう悪くない。可愛い曲だ”

  • Cronin’s

Paddy Croninの古い録音で聴けるというが、彼の作かどうかはよくわからない。これもかなり最初の頃に習う曲のひとつかもしれない”

 The Mountain Road        Reel

  • The Mountain Road 

“とてもシンプルで初歩的な曲だが、最近注目すべき情報を手に入れた。あまりにポピュラーな曲なので特に気にかけていなかったが、面白いことに6パートもある、という。(普通は2パートで演奏される)。スライゴーのチャンピオン・フィドラー、Michael Gorman(1895-1970)による録音でそれは聴けるが、この人は有名なCooley’s ですら3パート目を作っている。そしてそれはまた別なタイトルまでつけられている。Put the Cake in the Dresserという。こういうことはよくあり、調べれば調べるほど様々な事柄が浮かび上がってくる。きりがないのだが、この音楽に関わってしまった者の宿命ともいえるだろう。こんなどうでもいいことでも、知っていてこの曲を演奏するか、なにも知らずに演奏するか、その辺は僕にとって大きな違いだ。ひとつの知識として”

 Andy McGann’s    Reel

  • Andy McGann’s

“とてもモダンな、いいメロディのリールだ。これも良く分からないが、実際にはJohn McGrathの曲らしい。が、また別の人はSean Ryanの曲だとも云う。Andy McGannという人も著名な作曲家であるし、McGann #42という曲もあるくらいなので、それ以上のAndy McGann’sがあるのだろう。もうよくわからなくなってきたが、とに角できるだけ沢山の情報は得ておこう”   

Irish Music その87

The Galtee Rangers/Swinging on the Gate/The Green Fields of America

  • The Galtee Rangers

“別名Callaghan’sとして知られているとてもシンプルなメロディのポピュラーな曲だ。こういう曲は長いこと演奏していなかったが、メロディがすぐに思い出されるものだ。細かいところはいろいろな人の演奏を聴いてどれがいちばん自分の記憶に近いか、どれがいちばん道理にかなっているか、などを考える。そして、次の曲につなげていく”   

  • Swinging on the Gate

その42にすでに掲載されているが、前の曲とのつながり具合もなかなか良かったので今回はここで使ってみた”

  • The Green Fields of America

“出処はよくわからないが、古いマイケル・コールマンの録音で聴くことができるし、比較的ブルーグラスやオールドタイムの演奏家にも知られている曲ではないかと思われる。3パートある、という人もいるがまだ聴いたことはない。また、The Maid in the Meadowという曲はこの曲のジグ・バージョンだと言われるが、確かにそうかもしれない。更に同じタイトル、The Maids in the Meadow(複数形だが)というリールもよくやっていたことがあるが、それはまた全然違う曲だ。どうでもいいことかもしれないが、面白い。でも、どうでもいいこととしてスルーしてしまうより知っていた方がいいと僕は思うのだが”

桜、桜、桜 そして櫻井ギター工房 Voyager Guitars

  ちょっとした打ち合わせを兼ねて、修善寺へ出かけた。整体師を本職とする旧友のアルマジロ君のところだ。

畑、山、川、そして桜に囲まれたマイナス・イオン一杯の場所を堪能してきたわけだが、今回の目的のひとつとして、いつもアルマジロ君が主催する会で、音響を担当してくれる櫻井君のギター工房を訪ねる、ということもあった。

伊豆半島のほとんど南端、といっていいだろうか。素晴らしい景色を眺めながら、ちょっとアルマジロ君が道を間違えたが、たどり着いたところは、彼の実家。

素敵な作りの家と彼一人が働いている小さな工場。かなり整然としている。以前彼の作ったギターを見せていただいたが、それはオンリー・ワンを目指す職人の創り出すもの、といって間違いなかった。

四国の塩崎君とはまた違ったコンセプトで、自身の特徴を出すべく試行錯誤していくのも大変だろう。

マーティン・ギターというのはもう不動のものだが、そこを研究し尽くすことに生涯を捧げている、といっても過言ではない塩崎君、そして、自分のスタイルを模索していこうと考える櫻井君。どちらも素晴らしい職人である。

彼が初めて作ってみた、というバイオリンも見せていただいた。それも随分前、彼がギター作りを学ぶためにイギリスに住んでいたときの作品、ということだ。

それはちゃんとしたバイオリンだったが、彼は今ギター作りがメインになっているので、第2号はしばらく作らないだろう。

ただ、まだ32歳という若さである。クラシック・ギターにも挑戦している。僕らには音の違いは分かるが、なかなか内部構造の違いまでは詳しくわからない。

低音は今作っている鉄線のギターからの経験でそれなりの音が作れるが、高音の鳴りがなかなか出せない、と云う。内部の細かいところが微妙に違うのだろう。

ここでもクラシック・ギター制作家のドアを叩き、様々な知識を吸収しているらしい。

非常にもの静かな青年だが、16歳からギター作りを目指し、19歳で単身イギリスに向かうなど、その情熱は大したものだ。

彼のギターはVoyager Guitarという。もうご存知の方も多いだろう。でも、もしまだ見たこと、弾いたことがなかったら、是非楽器フェアなどで手に取って確かめて欲しい。

そして、塩崎君と同じく、彼の人柄というものにも是非ふれて欲しい、と思うのだ。

Voyager Guitar  http://voyagerguitars.tumblr.com/profile

 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

動画配信のお知らせ その2

曲はAnna Foxe.クレアーのアコーディオン奏者ジョセフィン・マーシュの作曲。2013年に希花さんがジョセフィン自身から教えてもらったとても可愛らしい曲だ。

ジョセフィンと僕との出会いは2000年頃。サン・フランシスコ・ケルティック・フェスティバルのハイライト・シーンでミュージック・フロム・クレアーという集いがあった時のことだ。

僕は多くのミュージシャンのアコンパニストを務めた。アンドリュー・マクナマラ&マーテイン・ヘイズとのトリオでも演奏した。メアリー・マクナマラ&キャサリン・マカボイともトリオで。その時にジョセフィンに「あたしたちにも参加して」と頼まれた。メンバーはあとひとり。超絶技巧のマンドリン奏者デクラン・コリーであった。これもトリオで45分のステージを務めた。

それ以来アイルランドを訪れると、必ず声をかけてくれる。そんな中、とあるセッションで彼女が弾いたものを希花さんが習いコンサルティーナでのレパートリーとして加えることになった。

ジョセフィンのセッションには、彼女のその類まれなスタイルのアコーディオン奏法と、誰からも好かれる人柄で多くのミュージシャンが集まる。

なお、この曲は僕らのアルバム「The Rambler」でも録音している。

動画配信のお知らせ

  春もやってきて、それでもやたらと寒かったり急に暖かくなったりと、これからいい季節になる前兆のような今日この頃。

溝の口のコーヒー・ハウス「バードランド」にて、動画を作成しました。藤森さんにも、せっかくのお休みの日、いちにち付き合っていただきました。

撮影はデザイナーの佐谷さん。クエート育ちという変わった人。日本人です。とてもにこやかでやわらかい感じの人なので、出来上がった映像も彼の人柄が感じ取れるものだと思います。

 是非お楽しみください。

M SHIOZAKI Guitar

  その昔、と言っても80年代初期だったろうか。いや、70年代後期だったろうか。とに角、初めてお会いした時、彼(塩崎氏)が手にしていたのは、マーティン・タイプのそれはそれは綺麗なインレイを施したD-45然としたギターだった。

僕と坂庭君が四国ツアーをした時のことだ。

充分注目に値するそのギターを制作したのが彼本人だということを知り、僕らは衝撃を覚えたほどだった。

勿論、当時から様々なギター職人が日本にも存在しただろうし、良い物はさんざん作られてきていたと思うが、これほどまでにマーティン・ギターを再現しているものは、あまり見たことがなかった。

当時、まだ今ほど情報が簡単には手に入りにくく、作り手だけでなく、弾き手も、楽器の細かいところについてはよくわからなかった面がある。

それ以前にはDoc WatsonD-18を持っていれば、比較的安いモデルを買うお金しか無かったんではないか、なんて思ったり、D-21というモデルの存在もよく知らなかった。

D-45は知っていても、D-41のことは全く知らなかったと言っていいだろう。

70年代に様々なギターを見、そしていろんなことが分かってきた80年代初期でも、まだまだ不十分な知識であった。

そんな中にあって決して異色なものを求めるのではなく、ひたすらマーティンを追い続けてきた塩崎氏の熱意は大したものだ。

僕は90年代に入ってマーティン・ギターにほぼ別れを告げた。アイリッシュ・ミュージックとローデン・ギターに出会ったことで。

それは僕がこれから展開していく音楽に最適な“道具”だったからだ。しかしそんな中にあっても機会があるたびに楽器屋さんで、あるいは新聞広告に掲載されているマーティン・ギターを試奏していた。

000-18, 000-28, HD-28, D-18, 00-16など、40年代のものから新しいものまで、中には衝動買いしてしまったものもあった。

当時は多くの手工ギターが世に出始めて、マーティン・ギターの価格も比較的安くなって(感じて)きた頃だった。

だが、それだけではない。やはりマーティン・ギターというのは我が人生の通ってきた大切な道のひとつだったからだろう。

塩崎氏のポスト・マーティン・ギターは僕らの胸を高鳴らせるものだった。シーガルというブランド名で数々の良質のギターを生み出してきた彼は最近、M SHIOZAKIというブランドにネーミングを変更し、奥さんと共に制作を続けている。

彼自身、試行錯誤は繰り返しているだろうが、マーティン・ギターをこよなく愛し、その再現に努める一途の姿勢には頭が下がるばかりだ。

前回の四国ツァーで初めて彼の工房にお邪魔させていただいた。とても大きな立派な工房で「あー、ここでもう何年になるのか、彼はずーっと頑張ってきているんだな」ということをひしひしと感じる場所であった。

彼は過去、僕のために数本のギターを作ってくれた。そのうちの一本は2001年、カナダでステージを共にしたデヴィッド・リンドレ―が「いいギターだなぁ」と言い寄ってきたものだ。

初めて見せていただいた時よりも、また、リンドレーがその存在を認めた時よりも、確実に進歩している彼の作りだす音は、真のマーティン・ギターのノウハウを受け継ぐものとしてこれからもっともっと多くの人に注目されていくことだろう。

そして、なんといっても彼の人柄がいいギターを作りだしている、と言っても過言ではない。

塩崎氏と、彼をサポートし続けている奥さん。お二人の益々のご活躍を願っている。IMG_1895

 

Irish Music その86

 Rathlin Island/Michael Joe Kennedy’s  (Reel

  • Rathlin Island

Josephine Marshのファースト・アルバムから学んだものだが、‘14年のDale Russ来日時、彼もやっていたセットだ。1953年ダブリン生まれのパイパーPeter Browneによって書かれたこの曲、日本ではLunasaの演奏で知られているだろう。またDervishも随分前のアルバムでやっていたかもしれない。北アイルランドBallycastle とスコットランドの間に存在するとても小さな島だ”

  • Michael Joe Kennedy’s

“メロディオン奏者Michael Kennedyによって書かれた曲。希花さん一発入魂のコンサルティーナ・セットだ”

 

The Highlandman who Kissed His Granny/Steeplechase/The Humours of Scarriff/Tone Jacket  Reel

  • Highlandman who Kissed His Granny

“謎多き曲だ。随分昔のスコティッシュ・チューン、それも1760年頃か、とも言われているくらい。その名もRobert Bremner’s Reelと言われるらしいが、O’Neillによると、なんとJolly Sevenと紹介されている、というからもうわけがわからない。確かによく似ているが”

  • Steeplechase

“出処はよくわからないがCarrigalineというタイトルでも良く知られている。この土地名はCo.Corkの2番目に大きい都市として存在する”

  • The Humours of Scarriff

Bothy Bandの演奏でよく知られている。前曲からの繋ぎはTipsy House時代からのものだが、実によくつながっている、と思う。ScarriffCo.Clareに存在する小さな村”

  • Tone Jacket

“作曲者はCo.Corkにある都市 KilnamartyraのフィドラーConnie O’Connellなので、彼のセルフ・タイトルでも知られている。とてもシンプルで可愛らしい曲だ”

 

ローデン・ギターひとり談義

  前回、ローデン・ギターに関して「ローデンにしびれるまで」というレポートを書いた。クラシック・ギターから始まって、国産のどこ製かもわからないギターを質屋で購入したりしながら初めてマーティンD-28を手に入れて…と、60年代、70年代、そして80年代を思いだしてみた。

前回のコラムでは詳しく書かなかったが、ローデンを初めて手にしたのは94年だったかもしれない。

今では存在しないモデルだろうか。スプルース・トップのマホガニー・ボディだった。S-7というラベルが確認できる、ボディの大きい、カッタウェイでないモデルだったが、実に深い低音と、それでいて高音の美しい響きがなんとも言えず豪華なギターだった。因みにこのギターにはピックアップは付けなかった。

記憶ではGryphonというカリフォルニアのパロ・アルトにある楽器屋さんだったと思う。このギターは現在高橋創くんの手元にあるはずだ。

そして、これも恐らくとしかいえないが、それから1年ほどして、ミシガンのエルダリーという楽器屋さんのカタログで中古のローデンLSE-Ⅱという機種を見つけた。

少し小さめのボディが薄く、カッタウェイで、ピックアップ内蔵のモデルだった。しかも破格の値段だった。それも当時だから、ということだが。

僕は現物を見ていないにも関わらず迷うことなく注文した。果たして結果は…ジャカジャン。

そのギターは僕を、アメリカやアイルランドに於けるアイリッシュ・ミュージックのギタリストとして不動の地位へと導いてくれた。

当時、まだジョン・ドイルやドナウ・ヘネシーなどの名前が世に出ていなかった頃、僕はミホー・オドムネィルやザン・マクロード、マーク・サイモス、ダヒ・スプロール、ランダル・ベイズ等のプレイに耳を傾け続けた。

95年の夏にはサンフランシスコのセッションに於ける中心人物として、遠く東海岸、またアイルランドまで名前が知れ渡ってきた。

そこに現れたのがジョン・ヒックスだ。同じタイプのローデン・ギターを縦横無尽に弾きまくっていた。その強烈なキャラクターから生み出される音は未だ健在だ。というよりますます激しくなりつつある。

日本のアイリッシュ、とくにギタリストが彼の存在を認識していない、というのは考えられないことだ。

僕は迷わず彼と交流を図った。彼は自分とは違う僕のスタイルに食いついてきた。そうしてお互いの音楽について語り合い、ツイン・ギターというアイリッシュではあまりないものを楽しんだ。

彼のローデンはシダー・トップでマホガニー・サイド&バックのものだったろうか。そのギターはイタリアでワインを飲み過ぎた後、道で寝ていたらトラックに轢かれてあえなく最期を遂げたそうだ。実に彼らしい。いや、実に彼のギターらしい。今現在は0-32Cを所有しているようだ。

ローデン・ギターとしてはリチャード・トンプソンが弾いていたものも、素晴らしいものだった。

ドナウ・ヘネシーとはよく一緒になったので、大いに語ったものだ。彼はその時点で、すでに5本のローデンを弾き潰した、という噂があったが、それについて確かめるのは忘れていた。

彼の弾き方を見ればそういう都市伝説が生まれるのも納得がいく。

ジョン・ドイルについては、ソーラスを一緒に観ていたスティーブ・クーニーが「あいつは6弦にベースの弦を張っていたけど、いまはどうかな」と言っていた。因みにその時はタカミネをつかっていたようだった。

僕は今現在、LSE-Ⅱ(トップがシトカ・スプルース、サイド&バックがインディアン・ローズウッド)F-32C(シダー・トップ、サイド&バックがマホガニー)O-32C(スプルースとローズウッド)F-32C(スプルースとローズウッド)の4本を所有している。

ローデン・ギターは僕にとってベストではあるが、勿論音の好みやスタイルの好みはある。

ハイポジションの弾き易さのためにはカッタウェイは必須条件だ。ピックアップは内蔵されていればそれに越したことはないが、シダー・トップのF-32には中川イサトさんの紹介で大阪の三木楽器の方に後付していただいた。

後の2本はすべて内蔵されているものだったが、(中古のため元のオーナーが後付したもの)これも購入時に緻密にチェックしないといけない。また、アンダーサドルのものは、各弦のバランス取りが難しい。

僕は必ず後から自分でサドルを作るので、その辺は重要なポイントになる。ローデンのもう一つの選択ポイントは、そのネックの幅だ。ナットのところで45mm。これは僕にとってベストだ。

LSE-Ⅱのネック(S-7も同じく)は45mmだったが、後年ほぼ同じはずのモデルのネック幅が変わってしまった。

これは、ジョージ・ローデン本人が型紙を失ってしまったので、僕の物を彼の工場に送り、彼がそれを基に新たに作ったSE-32というモデルだ。ネック幅は43.5mmに変更されていて、そのわずかな違いが僕にとっては納得のいかないものになった。

きっと、多くのフィンガー・ピッキング・スタイルのギタリスト達から要望があったのかもしれない。

様々なモデルを見たが、今僕が一番気に入っているのはF-32Cということになるだろうか。その大きさ、胴の厚さ、ネックの手触り、表板とサイド&バックの材、全てにおいて完璧と言える。

但し、このモデル、元々ピックアップは付いていないので、付けるか否か、それは自分で選ばなくてはいけなくなるのだが。

他人にとってどうでもいい話ほど長くなりやすいのでこの辺で。

パン派かごはん派か…

 日本食、特にうどんの類を食べると、無性にパン類が食べたくなる。だが、シンプルなお茶漬けも限りなく美味しい。それは明らかに年齢的なものだと、自分でも分かっている。

僕は元来パン派なのだ。ロバのおじさんチンカラリン~♪~

お茶漬けと同じ、シンプルな食パンというのがベストだろうが、総菜パンというのもなかなかに良くできている。

コロッケパン、焼きそばパンはその代表だろう。カレーパンに至っては…!僕より少し上の世代にはメロンパンとアンパンが定番だろう。

僕はメロンパンというものはその良さがよくわからない。アンパンも漉し餡がいいと思うが、つぶ餡でもいい。しかし、餡ドーナツは漉し餡がいい。

と、ここまでくるとなにがなんだか話がまとまらなくなってきた。他人の好みなど、どうでもいいわけで、昨今のネット投稿となんら変わりない。

アイルランドではアンドリュー・マクナマラがいつでも自分で作ったハムサンドくらいしか食べていなかった。自分で作るのは決してそれが好きでやっているわけではない。

安心だし、安上がりだからだ。他人はあまり信用していない。ジャガイモも本物でなければいけないし、海からあがるものは何をたべているか分からない、というのが彼の持論だ。

食べることに時間をかけたくない、という気持ちは僕にもよくわかる。レストランに行ってメニューをよーく見て、ゆっくり食事を、というような感性があまりない。

なのでアンドリューのハムサンドは僕には理解できるのだ。

僕がよく作るのはツナサンド。玉ねぎをみじん切りにして、ツナ缶と黒コショウをふり、マヨネーズをちょっぴりつけて、余裕があればそこにチーズを乗せてトースターで焼くと、ツナメルトの出来上がり。アルファルファがあれば完璧だが日本ではあまり売っていないようだ。

希花さんはツナ缶と玉ねぎだけで食べるらしい。まるで猫だ。曰く「猫は玉ねぎを食べない」そうだ。

とにかく、そんな食事というのが(食事というか、ほとんど非常食)結構好きなのだ。多分レストランでの仕事も経験しているし、外食では、あそこのお客さんが水を欲しがっている、だの、あそこのテーブル、早く片付ければいいのに、だの、そんなことが気になって仕方がないのだ。

そして究極は、これは自分でも簡単に作れる、と思ってしまうことがいけないのだが。

話はそれた。ごはんかパンか、だった。

結局のところ、ごはんにしようと思うと、おかずを考え、味噌汁の具は何にするか考え、白菜でもあれば漬物を作ってみよう、などと考え…そうこうしているうちに、トースト2枚くらいで紅茶でも入れたらそれで満足してしまうところをみると、やっぱりパン派なんだろう。

ここで問題になるのが一日の終わり、そう、晩御飯でもそれでいいか、ということだが、僕の場合それでもいい。

ただしそれが1週間続くと、そのあいだにはご飯を食べたくなるのはやっぱり日本人、という体質がそう感じさせるからだろう。

喫茶店?それともカフェ?

  喫茶店とカフェの違いなんて、百貨店?それともデパート?炉辺焼き?それとも居酒屋?っていうくらいの「世代の違い」程度のことなんだろうか。いやいや、そうでもなさそうだ。

最近、昭和の香り漂う喫茶店がまた話題になっている、という話を聞いた。それでも僕は喫茶店というものには入らない。

最大の理由は、ほとんどの喫茶店とよばれるところが、たばこの匂いと共に成り立っているからだ。

勿論、分煙がきっちりできている喫茶店もあれば、見た感じおしゃれなカフェでも喫煙可というところもある。

しかし理由はそこだけではない。多分、コーヒーいっぱいで何百円も払えない、という考えからだろう。

カフェでも数百円は当たり前だが、どうもそういったところで落ち着いて何時間も過ごしたりすることができない、という性格なのだ。

コーヒーを飲んでいていちばんそれらしい気持になるのは…例えば、長距離バスのバス・ディーポで飲む安いコーヒーだ。

グレイハウンドの、とても綺麗とは言いがたい発着所で、一杯60セントくらいで“なみなみと”入っている美味しくないコーヒーが一番好きだ、と感じることもあった。

大体、ヨーロッパの人のように紅茶やコーヒーを、多少高いお金を出しても楽しむべきだ、と考えてスターバックスのような店がアメリカにも登場した、ということなので、アメリカ人、イコールがぶ飲みコーヒー、というところは確かだ。

本屋さんにもいつでもただで飲めるようにコーヒー・メーカーがセットされているところもあるし、レコーディングスタジオでは、一日過ごせば10杯どころでは済まない。

コーヒーにまつわる話としていつも思い出すのが、多分6歳か7歳くらいの時だと思うが、父親が喫茶店に行くのについて行ったことがある。その時コーヒーというものを初めて見た。

値段を聞いてぶったまげた。確か50円…だったと思う。そんなに高い飲み物があるんだ。それじゃぁ一口だけ、と言って飲んでみてまたぶったまげた。

まずい。世の中でこんなまずいものがあるのだろうか。しかも、こんなものに50円も払うなんて、大人は変わっている。

これが僕の初めてのコーヒー体験だ。そういえば初めてチーズを食べたときは、間違って石鹸を食べたんじゃないかとおもったこともあった。

そして、いつごろからコーヒーなるものを飲むようになったのか、と考えると、やっぱり60年代後半、大学に入ったころからだろうか。

当時ジャズ喫茶というのが京都のあっちこっちにあった。いまでも多少はあるんだろうけど。

暗い空間で、コルトレーンやマイルスを聴きながら、それこそ、漂う煙草の煙の中でほとんど半日過ごしてしまう、なんていう人達もまわりにはずいぶんいた。

僕もブルーグラスをやりながら、たまにはそんなところに行ってウェス・モンゴメリーやジョー・パス、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソンなどに耳を傾けていた。

コーヒーというとそんな生活を想い出す。

だが、今は豆さえ買ってくればいくらでも自分でつくれるし、コンビニなら100円でそこそこ美味しいし、よそでゆっくり座っているより、自分なりのことが出来る自分の空間にいたほうが気楽だ、と思ってしまう。

誰か友人が来て、食事以外で会うとしたら、やっぱりミスタードーナツ?マック?スタバはいつも混んでるし、ドトールは煙草が匂うし、と、そこでもまず、喫茶店という観念は生まれてこない。カフェと名の付くような感じのところだったら行くかもしれない。

どこかしら、カフェというのは明るくて、喫茶店というのは暗い。そんなイメージを持っているのだろうか。

場末の喫茶店、というものはあっても、場末のカフェというものはないかな。しかし最近は場末のカフェというのも、その立地条件にも関わらず、マスターの人柄、こだわりなどからコアなお客さんの寄り集まる場所として多く存在しているようだ。(場末という言葉には少し語弊があるかもしれないが)

60年から70年初頭にかけては、いわゆる「カフェ」というもの(言葉?概念?)はなかったんだろうな。少なくともぼくらの周りには。

冒頭に書いたように、最近また静かなブームを呼んでいるらしい喫茶店。多分に昭和というものが遠い昔になってきた、という証かもしれない。あるいは高齢化社会の証か。

因みに僕はどちらかというと、紅茶。そして紅茶より日本茶だ。静岡生まれのせいかお茶にはかなりうるさい。

でも、季節の変わり目、特に春や秋の早朝、どこからともなくコーヒーのいい香りが漂ってくると、ちょっと飲みたくなってくる。

ひとりバンジョー談義

  Allisonというメーカーのバンジョーのことを調べていたら、Rhode Islandにある、Providence Banjo&Guitarという場所にたどり着いた。どうやら正確にはMichael Allisonという人物らしい。

これは、以前にも書いたかもしれないが、ニュー・ヨークのソーホーあたりで見つけ、そして暫くしてカリフォルニアで手に入れたものだった。

アイルランドのロングフォードにおけるバンジョー・フェスティバルでAlison Brownと一緒になった時、彼女も「あ、アリソンだ。Lがひとつ多いけど」と言っていたものだ。

日本では、彼の有田君が「とてもいいバンジョーですよ」と言っていた。坂庭君もいたく気に入って一時期彼が使っていたこともあった。

あまり一般的ではない楽器のルーツを探ることはとても面白い。

しかしそれはバンジョーに限ったことではない。マンドリンでもギターでも、もちろん、僕らにはあまり縁のない楽器でも、それに携わっている人たちの中には、周りの人には理解できないくらいに調べまわったりする人もいる。

つい先日、ギブソンのAタイプのマンドリンA-4をある人が持っていて、それはなんともいえない音色の素晴らしいものだった。

シリアルナンバーを覚えておいて早速調べてみたが、2番違いのものがあった。どうやら作られたのは1911年。こんなことを事細かに分からせてくれるのだから、すごい時代になったものだ。

僕は随分前にスチュアート・マクドナルドの比較的安価なバンジョーを持っていた。ほとんどキットと呼べるものだったかもしれない。しかしながら結構きれいなインレイが入っているものだった。

正確にはスチュアート・マクドナルド・イーグル・キット・バンジョーだったかな。72年ころだった。今になっていろいろ調べてみても同じものは出てこないが、そのディテイルや外観はほとんどよく似ている。

後年になって、京都の占部さんというギター職人(現在はウクレレ製作家として高名)に4弦のネックを作っていただいて、それを装着していたことがあった。インレイは銀杏の葉っぱの形にしていただいた、かなりきれいなネックだった。

グレイト・レイクスのことはもう既に書いているが、当時(70年代)は本当に手に入りにくいものだった。

価値的に、ということではなく、物があまりなかったからだろう。1977年のマッド・エイカーズ来日の際(だったと記憶している)同行していたビル・キースを無理やり連れ出し、彼のリックを探り出し、様々な話を聞かせてもらった。

そこで本題だけど、と切り出し「あなたの使っているバンジョーは?」と訊いてみると「グレート・レイクス・エリート。手に入れるのは困難だよ。もう作っていないし」という旨の答えがかえってきた。

そして彼のそれは、彼好みのトップ・テンションで異常に重たかった。しかしながら、そのデザイン、ネックのフィット感、サウンド、どれをとっても素晴らしいものだった。

僕は、ほどなくして神戸のある楽器屋さんを通してグレイト・レイクスを手に入れたが、それはビル・キース・スペシャルという、エリートのワンランク下のものだった。トップ・テンションではなかったものの(かえって軽いからその方がいいが)それはそれは素晴らしく、僕のメイン楽器となった。

また、79年にアメリカのバークレーで同じくグレイト・レイクスのオープンバック・モデルであるヴァンガードを見つけた。

因みに、ミシガンの公演で制作者と出会った時、持っていたのはこのバンジョーだ。

80年代に入ると、京都でひとり、グレイト・レイクスNo 5というモデルを手に入れた、当時高校生だった男の子がいたが、彼曰く、ニュー・ヨークかどこかで作られたコピーらしい。もしこれを読んでいたら是非またバンジョー談義に花を咲かせてみたいものだが。

90年代後半になると、坂庭君がちょっと変わったスタイルのグレイト・レイクスを手に入れた。

インレイパターンは明らかにビル・キース・スペシャルだったが、ブラケットがテンション・フープの途中で引っかけるという非常に変わった構造だった。

それによく見ると、インレイもどことなく簡素なものであった。が、しかし、彼は気にしてかビル・キース本人にものを見せて確かめたのだ。

その結果「これは本物だ」という答えが返ってきたそうだ。そしてそのバンジョーは坂庭君亡き後、僕の手元にある。

結局、グレイト・レイクスをまともに見たのはビル・キースのもの、僕のもの、そして坂庭君のもの、京都の彼のものはコピーということで外すとして…それだけだ。

そば派かうどん派か

どうでもいいことかもしれないが、よく、どんぶりものを注文するとセット・メニューで、うどんかそばが付く、というのがある。そんな時、僕は迷わずうどんにする。

そばが嫌いなわけではない。ただ単にそばよりうどんが好きなのだろう。

若いころ、そば屋の前を通りかかるとカツオをふんだんに使った「出汁」のにおいがして、それが苦手だった。

考えてみればうどんも同じかもしれないのだが。

思い起こしてみると、大体、そば、うどんのたぐいはあまり食べなかったのだ。

坂庭君はそば、うどんには眼がなく、どこへ行っても食べていた。大体僕らはほとんど全てにおいて逆だった。

僕は洋菓子、彼は和菓子。僕はパン、彼はそば、うどん。僕はフィンガー・ピッキング、彼はフラット・ピッキング。

話はそれたが、どうもざるそばというのは量が足りない。どこか由緒あるそば屋に連れて行ってもらっても、あっと言う間になくなってしまう。

その辺の切なさ、わびさびの世界がいいのかもしれないが、僕にはその感覚があまりないのだろう。

また坂庭君の話だが、彼はよくこう言っていた「いいかじゅんじ、何を食べたかしっかり覚えておかないと、それは食べなかったことになってしまうんや」彼はツァーの最中でも朝、昼、晩としっかり食べるようにしていた。

しかし、それは彼の歯がとても悪かったせいもあるかもしれない。一回、一回の食事は彼にとって物凄く大切だったのだろう。好き嫌いもあったし。

僕の方は、歯医者などという面倒くさいものには関わったこともないし、好き嫌いもないので、いつ何を食べても美味しく、食べるということに無頓着だったのだ。

彼と一緒の最後のコンサート。リハーサルが終えていつも行くうどん屋に行ってカレーうどんを頼んだが、彼は1本しか食べることができなかった。

僕は天丼だったので、のこりのカレーうどんは僕が平らげた。よっぽど具合が悪かったのだろうが僕の方は平静を装って「うまいなぁ」と言って全部食べた。

今でもカレーうどんを食べるとその時のことを想い出す。

うどんのなかでもカレーうどんは好きだ。かきあげうどんもいいかな。しかし、やっぱりそば、というものにはあまり手が出ない。

名古屋に行けば味噌煮込みうどん、四国に行けばぶっかけ。僕もあんまりあれやこれや試さないほうなのでレパートリーは少ない。

もし、どうしてもそばを食べるのなら天ざる、だ。多分温かいそばが苦手なのかもしれない。でもコレステロールのことを考えたら、天ぷらは控えたほうがいいだろう。

そうなると、素うどんか…ざるそばしかなくなってしまう。でも困ったことに僕はそういったものよりもパン類のほうが好きなのだ。

バンジョー談義

先日、木内君とバンジョーについていろいろ話をしていて、5弦のボディに4弦のネック…という話をコラムに載せて、京都のバンジョー博士である(本人は非常に恐縮して、「私は博士ではありません」と、ちいさくなっているが)小野田君にでも訊ねてみよう、と書いたところ、早速小野田君からメールをいただいた。

下記のようなさすがに小野田君、という内容で非常に興味深かった。

 

まず、古い(戦前の)4弦ネックのバンジョーが5弦ネックに換装される例のほとんどがギブソンバンジョーです。そもそも、古いオリジナル5弦ネックのギブソンバンジョーは、4弦のそれと比べても非常に市場価値が高い(数倍)ので、古いオリジナル5弦ネックのギブソンバンジョーが4弦ネックに換装される例はほとんど見られません。なので、高いクオリティで4弦ネックに換装されたものが、正当に評価される機会自体が無かったのではないでしょうか?逆にもし、古い良質の5弦バンジョーが、高いクオリティで4弦ネックに換装されたものは、個々の好き嫌いは別にして、良いものとして評価されるはずだと思います。もっとも、これはあくまで私の私見ですが。

 

以前、某バンジョー・プレイヤー兼コレクターの方の記事で「残念ながら5弦のネックに変えられてしまっている」ということが書いてあり、当時5弦にしか興味がなかった僕にとっては「なんにも残念なことではない」という感覚しか無かった。このことは既に以前のコラムで書いたが。

確かに小野田君の言うようにギブソンがほとんどだったと思う。

さて、アイリッシュを始めて、テナー・バンジョーに興味を持ち出し、古い安価なものをいくつか手に入れた。

Bacon, Vega, GibsonTB-100, Orpheum No1, May Bell, Paramount StyleC StyleF…当時はあまりよく分からずいろいろ試してみた。

サンフランシスコではMaxという人がParamount StyleB  Kerryという人がStyleA

スザンヌという人がParamount Leaderを使っていた。様々なバンジョー弾きを見てみると、圧倒的に多かったのがClifford Essex Paragonだった。後は僕らが大学時代、関西で圧倒的人気だったFramusのテナーが意外と多かった。Mary Shannonはギブソン。アイリッシュに於いては比較的珍しい。

最近、人気を分けているのがClareenとDave Boyleだろう。これらは明らかに5弦とは異なった響きをしている。

僕は常々、同じバンジョーという楽器でありながら、5弦と4弦では全く違う楽器だという考えを持っている。

その奏法、音の出方、ことごとく違うように感じる。僕は一台、国産のあるメーカーが作ったテナー・バンジョーを持っているが、それがどうも5弦のボディをそのまま使ったらしいのだ。弾いてみると、5弦バンジョー独特のサスティーンが、いわゆるアイリッシュのチューンには適していない感じがするのだ。あくまで主観。

これが、もし小野田君の言うように良質のGibsonだったら違うかもしれないが、確かにとても手の出る値段ではないだろうし、わざわざ4弦に換装しないだろう。

さすが博士…おっとまた恐縮してしまうかも。

次に会う機会があったらもっといろいろお話を聞きたいが、僕も‘91年からほぼブルーグラス・バンジョーとはご無沙汰しているので彼の豊富な知識はかなり参考になるだろう。

猫派か犬派か

世の中ではよく猫派か、あるいは犬派か、ということを言う。確かに僕は犬派だった。子供の頃、家には必ず雑種か柴犬がいた。父が犬好きだったせいか…。いや、そういう理由もさることながら、番犬として必要だったのだろう。とに角いつでも犬がいたし、父は毎朝恒例のテニスには必ず一緒に連れて行った。してみると、やっぱり好きだったのだろう。

夏の夕方になると、近くの川に行って洗剤をつけてゴシゴシ洗っていた。沢山の子供がそんな光景を眺めていた。今では考えられないことだ。

でも、猫もいた。猫は勝手気ままに過ごしていたようだ。犬はいつも同じところにつながれていて、犬小屋もあり、散歩も連れて行ったので猫よりも存在が近かったのだろう。

それでも、やはり雑種や柴犬という種類ばかりだったので、いわゆる“お座敷犬”には興味がなかった。そして、それは今も続いている。きれいにカットされて服なんか着せられていると「犬は犬らしくしてろ」と言いたくなってしまう。

朝、走っているとそんな犬をよく見かける。得意気に靴下まではかされてキャンキャン吠えているのを見ると蹴っ飛ばしたくなる。

ところが、先日、いつものように走っていたら、チワワがひとりで座っていた。見るとひもがついていて、いかにも迷子らしく、そして、僕になにかを訴えているようだった。「どうしたんだ?」と訊くと、眼が「迷子になりました」と言っている。そしてぴったりとひっついてくる。本来なら蹴っ飛ばしたくなるが、こいつは違った。

僕は一瞬“とに角連れて帰ろう”と思った。着替えてから新たに飼い主を捜しに出よう、と思ったからだ。しかし途中で糞でもされたら困るな、と思い、交番へ連れて行くことにした。

チワワは従順についてくる。僕の方をチラチラと見ながら。止まると一緒に止まってじっと次の動きを見ている。こりゃ困ったものだ。だんだん可愛くなってきた。

交番を見つけ、お巡りさんに相談してみた。そのお巡りさん「監察はついているだろうか」と手を伸ばしたら、こともあろうに噛みつかれた。そして、僕の後ろで小さくなっている。もともと小さいが…。いや、お巡りさんでなくチワワのことだ。

取りあえず、手続きを済ませて交番を後にしたが、その時もずっと視線を感じた。後になって聞いたが、ほどなくして飼い主が現れて一件落着したらしい。良かった良かった。

これが最近猫派になった僕が久々に面倒をみた犬の話。

そんなこんなもあり、小さい犬でも中にはかわいいやつがいるが、なぜか圧倒的に猫のほうが好きになってきた。

猫を好きになれない人は大体「犬の方が従順でいい」というし、猫を好きな人は「なかなか思い通りにならないところがいい」という。

僕は特にそうは思わない。やっぱり少しは人懐こい猫がいい。だからと言って猫カフェには行ってみようとも思わない。

道を横切ってチラッとこちらを見て、一瞬立ち止まり、なにもくれないと思うや否やサッと逃げていくのがやっぱりいちばん猫らしい。カニカマでも持っていたら食べるかもしれないが、それでもかなり用心深いか、匂いだけかいで逃げるやつもなかなかに猫らしい。

日向で細い目をして丸くなっているときにちょっかいを出すと、迷惑そうに「ニャー」というやつもなかなかに好感が持てる。

そんな感じで、最近はどうやら猫派になってきたようだ。

ま、どちらにしても「The 猫」「The 犬」というやつが好きだ。

友あり、遠方より来る

  高松から木内君がやってきた。京都産業大ブルーリッジの後輩である。上京の目的は初孫との御対面ということ。

写真を見て「目がそっくり」というと「いや、これ眠ってます」…だそうだ。

「孫は可愛い。何と言っても責任がない。泣いてもほっとけばいいから」と、寝ている孫と同じくらいの目をして嬉しそうに話す。

可愛いだろうが、多分木内君の目の中には入らないだろう。

 冗談はさておき、孫から離れたら早速バンジョー談義に花が咲いた。

僕がバンジョーに興味を持ち始めたのは1963年ころ。面白い音の楽器だな、と思いながら、それがなんという楽器なのかまだ分からなかったような時代だ。

 ほどなくしてアール・スクラッグスを聴いて虜になり、その音にのめりこんでいった。当時から、バンジョーといえばギブソン、それもRB-250が自分の中では最もバンジョーらしいバンジョーだった。つい先日も40年近く会っていなかった友人たちとバンジョー談義に花が咲いたばかりだったが。

 古い良質の4弦バンジョーのボディに5弦のネックを付ける、というのは良くあることで、世間一般では良い物として評価されることが多いが、元々5弦用に作られたボディに4弦のネックを付けても4弦バンジョーらしい音にならないのは何故だろう…なんていう話も出た。もっとも、これは僕の意見だが。

 今度、京都のバンジョー博士である小野田君にでも訊いてみよう。

木内君は、オズボーン・チーフとオームを持っているが、「これでギブソンがあれば完璧」と、またまた目を細める。

 バンジョーやギターは金さえあればいくらでも欲しいものだが、バイオリンはそうでもないらしい。

 多分、どれ買っても大体同じ格好しているから、かな?勿論ギターやバンジョーとの値段の違いは歴然としているが、小さいころからバイオリンをやっている人は、ひとえに真面目だから、かもしれない。

 バンジョー好きとしては、宝クジ当たったら取りあえずオール・アメリカンとフローレンタインを買って眺めるか。いや、コレクターになってはいけない。

 いろんな話が飛び出す。

木内君は、その体格からかソニー・オズボーンが好きなようだ。僕はエディ・アドコックか、対局だが、ビル・キース。

 勿論、ふたりともアール・スクラッグスをはじめとして、他にも好きなバンジョー弾きは数々いるのだが。

 なかなか話は尽きないものだ。すっかり孫のこともそっちのけでバンジョー談義に花を咲かせて東京を後にした。

 また、いろんな話に花を咲かせたいが、結局同じようなことを話すんだろうな。ふたりとも歳もいってるし、何を話したか忘れているだろうし。

春。町のあちこちに花が咲き始めた。

木内君、初孫誕生おめでとう。

Irish Music その85

Ballinasloe Fair (Reel

  • Ballinasloe Fair

Michael Colemanの古い録音をはじめ、“その65”に登場したLord McDonaldとカップルでたびたび演奏される。1928年3月のTom Morrisonの録音では何故か「Roscommon Reel」とクレジットされている。John Masterson(1840-1925)というCo.Longfordのフィドラーの曲ではないか、と言われているが、定かではない。また、Leitrim Thrushとも呼ばれている曲とほとんど同じらしい。だが、セッションなどでこの曲が出ると間違いなくみんなBallinasloe Fairだと言うだろう。アイルランドで何度も何度もこの地を通り過ぎるが、そのたびにこのメロディーが浮かんでくる”

 

Miss Thornton’s    (Reel)

  • Miss Thornton’s

“上記のTom Morrisonの録音がこの曲に行っていたのでここに載せてしまった。これもスタンダードな曲だ。Roscommonのフルート奏者、Packie DuignanHouse on the Hillというタイトルで録音している”

 

The Ashplant   Reel

  • The Ashplant

“しりとりみたいになってきたが、上記のフルート演奏はこの曲に行っている。これはNoel Hill Tony McMahonの録音でよく知っていたし、アンドリューともよく演奏したものだ。大好きな曲のひとつ”

 

Black Haired Lass    Reel

  • Black Haired Lass

“ものはついでだが、上記の録音ではこの曲に行っている。僕も特に好きなセットのひとつなのでこのセットでやることもあるが、僕らがよくやっているのは「その32」に出てくるHand me down the Tuckleのセットの頭に持ってくるやり方だ。これもなかなかいいと思う”

 

Jenny Picking Cockles   Reel

  • Jenny Picking Cockles

“もうひとつ、ついでだがNoel Tonyは3曲目にこれをやっている。出だしはほとんどJenny’s Welcome to Charlieと関連性のある曲だと思わせるが、2パートだけだし、その2パート目はD majorなので明らかに違う曲だ”

Irish Music その84

A Fig For A Kiss   Slip Jig

  • A Fig For A Kiss

“とても美しいメロディーのスリップ・ジグ。Kid on the Mountainをつなげる人も多くいるようだ”

A Feg For A Kiss   Slip Jig

  • A Feg For A Kiss

“ここまで来ると、なんだかよく分からない。非常に似ているが違う曲であることも確かだ。ずっと前にBrendan Begleyが演奏していたが、それはそれで聞いたこともないタイトルで、また、聴いたことのない間合いでやっていた。ほとんどジョークの世界だった。しかし、これも美しいメロディーを持っている”

 

Esther’s          Reel

  • Esther’s

Aコードから入りDに行って、BパートはEmという変わった曲。エンディングはDだ。非常にユニークなメロディーだと言える”

 

Kid on the Mountain   Slip Jig

  • Kid on the Mountain

“非常に魅力的なメロディーを持った5パートのスリップ・ジグ。一般的に5パートとして演奏されるが、オニールのコレクションでは最後にもうひとつパートが付いている。そして、それはAndy McGannの古い録音で聴ける。デイル・ラスは6番目のこのパートを3パート目に持ってきている。僕はこのやり方が好きだ。何故かというと、4パート目のメロディーに対して非常に効果があるからだ。ただし、セッションでは5パートで演奏されることが通常である。僕らはアルバムKeep Her Litでデイルのアイデアによる6パートで録音している”

 

Irish Music その83

Pockets of Gold     Air

  • Pockets of Gold

“最近、ひょんなことからこの曲を録音した日本の演奏家のCDを見つけた。そこにはReeltimeというグループの録音から覚えたTradとしてクレジットされていた。僕自身、随分前にこれを録音したことがある。元々、Liz Carrollの1993年のアルバムで、ギタリストのDaithi Sproule(ダヒ・スプロール)が書いたTune For Mairead & Anna Ni Mhaonaigjhという長い、しかも読むのにも難しいタイトルだ。どういういきさつでReeltimePockets of Goldとしたのかはわからない。確かライナーにも書いていなかったと記憶している。1995年のリリースである。僕は当時カセット・テープで持っていた。因みにLiz Carrollの、このアルバムもカセットで購入したものだった。僕はReeltimeの付けたこのタイトルをあまり好まなかったが、なにせ元のままじゃぁ長ったらしくて言えないので、必ず本来は違うタイトルを持った曲ですよ、ということと、作者の名前を言うようにしている。この音楽ではとても大切なことだと思う。でないと、聴いた人は間違った情報を得てしまうからだ。Daithiは最も好きなギタリストの一人だし、彼に対する敬意としてもTrad、とクレジットして欲しくなかったのだが…”

 

Whelan’s Old Sow/Katie’s Fancy    Jig

  • Whelan’s Old Sow

“1930年代、Tommy Whelanによって書かれた曲。とても変わった曲だが、なかなかいい。Rolling Waves 別名 Lonesome Jigともいう曲と、出だしは酷似しているが、なんとも変わったBパートをもっている。因みにSowというのは雌ブタのことである。しかし、何故かCat’s Rambleという別名もある”

 

  • Katie’s Fancy

“この2曲をつなげるやり方は随分前に考案したものだが、だれかがやっていて耳にのこっていたのかもしれない。前の曲の最後の小節を強引に次の曲に挿入していく面白いアレンジでやっている。去年、ショーン・ギャビン(フランキーの兄)に誘われてセッションに行ったとき、彼がいちばん最初にこの曲を弾いていたことを想い出した。3パートの名曲中の名曲だと思う”

久しぶりの出会い

つい先日、とある人から連絡をいただいた。かなり個人的なことなので「とある人」とさせていただくが、僕がサイモン・ラトルと親交が深いということを知ったという連絡だった。

彼は、指揮者の佐渡裕の同級生であり、ベルリンにも出向いたことがある、という話。

ベルリンのサイモン・ラトルと僕が、そして同じくベルリンで指揮をした佐渡裕が頭の中で交錯して僕に連絡をくれたのだ。

事実、彼は佐渡裕のベルリンデビューの時に招待されて行っているらしい。

僕もサイモンから招待された。と、まぁ普通に聞けば自慢話の応酬みたいに聞こえるが、彼から受ける印象は爽やかそのものだった。

といっても、彼と交流があったのは実に37年か38年ほど前。

話によると、12歳か13歳の頃、僕の家に友達と来てバンジョーを教わった、ということだ。そういうことも確かにいっぱいあったが、なんといってもかなり前のことだ。

因みにその時一緒に来ていた友人も近くに住んでいるし、一度会おうということになった。

彼曰く「おっさんになってしもたし、多分顔わかりませんよ。赤いバラでもくわえていきましょうか」

果たして結果は、ジャカジャン!

「あ、なんとなく覚えてる」これが僕の第一声だった。

それから先は音楽談義に華が咲きっぱなし。

彼等は高校時代共にブルーグラスを演奏していた。ナターシャーの昼下がりコンサートに出演したこともあり、当時の写真を持ってきてみせてくれた。

熱い熱い音楽談義。途中から希花さんも加わってB B KingからStephane Grappelli,

Tony Rice David Grisman果てはJohn McLaughlinに至るまで。

そういえば、彼は「佐渡裕を自分の車に乗せたとき、Alison Kraussをかけた途端、大きな反応があった」と言っていた。

すぐに食いついてきて「素晴らしい音楽だ」と絶賛したそうだ。佐渡裕はそれ以来、彼女の大ファンになっているそうだ。

サイモンもAly Bainの音楽について語っていたし、キャパシティの広い人はやっぱり素晴らしい。

話は尽きなかったが、終電もあるのでまた近いうちに会う約束をして別れた。

当時のブルーグラス少年たちは立派な大人となって、今また新たな眼の輝きを見せてくれた。

「何年振りだろう。ギブソンのRBなんていう言葉を発したのは」と言った彼らの笑顔が忘れられない。

フィドルミュージック

1971年アメリカ・ツァーを終えたブルーグラス45のバンジョー弾き、渡辺三郎が、いみじくもこう言った「この音楽、究極、フィドルミュージックやで」

全く同感だ。

あれから45年も経とうとしているが、いまだに心に残っている言葉だ。

今僕はアイリッシュ・ミュージックのギタリストとして、様々なフィドラー(ここではフィドラーに限定しておくが)と関わっている。いや、関わってきた。

マーティン・ヘイズは僕が最初にステージを共にした大物だ。全くセットも決めず、次から次へと繰り出されるチューンの連続。すでにデニス・カヒルとの形が出来上がり始めた時、彼の代役を務めることとなった僕は大好きだったファースト・アルバムから、ランダル・ベイズのスタイルを自分のスタイルに取り入れて挑んだ。

マーティンはのりに乗ってくれた。

フランキー・ギャビンとはグループの一員として何日も一緒に動いた。レコーディングでさえも、突然予定されていない曲に突入する彼のフィドリングは強烈だ。

ジェリー・フィドル・オコーナーもケビン・グラッケンも、デイル・ラスも、ジョニー・カニンガム、そしてトミー・ピープルスも、みんなフィドルの怪物だった。

様々なスタイルのフィドル・プレイを体験してきた。

今、日本でもフィドルミュージックを生活の糧にしている人たちが一杯いるようだが、その多くは、ほとんど本物のフィドルミュージックを体感していないように思える。

特にクラシックからジャズなどを経てこの世界に入った人たちのアイリッシュ・チューンは素晴らしいテクニックに裏付けされ、文句のつけようのないものだと言える。

が、それだけだ。

それでも、残念ながらこの国では耳障りの良いもの、ポップにアレンジされたもの、テレビで流れるものが価値のあるものとして扱われる。

売れれば勝ち、表に出れば勝ちなのだ。

本物のフィドルミュージックに触れてしまえば、そんな日本の現状が如何に価値のないものかが分かるはずだ。

60年代のジャン・リュック・ポンティ、スタッフ・スミスやパパ・ジョン。勿論ブルーグラスではケニー・ベイカーやポール・ウォーレン。彼らを聴きながらもマハビシュ・オーケストラでのジェリー・グッドマンなども聴いていた。

それでも自分でフィドルを真剣に弾こうと思わなかったのは何故だろう。当時はやっぱりバンジョーが全てだったのかな。勿論難しい楽器だった、ということもある。

それでも「フィドルミュージック」という言葉はとても言い当てた言葉であることは実感していた。

フィドルとギターという自分にとっての基本形の中で、どのようにギターを乗っけて行けば一番フィドルにとっていいのだろうかを常に考える。

それは「フィドルミュージック」に対するリスペクトであり、45年にも渡って思い続けていることの証かもしれない。

 

ロストシティ・キャッツと今富秀樹

 今富君との再会から、彼とのツァーを経て、あの伝説のバンド「ロストシティ・キャッツ」のことを想い出すこととなった。

今富君はキャッツ(以下、キャッツとさせていただく)のギター&ボーカル。

キャッツは、神戸の元町にあった、かの有名なるバンジョー弾き、野崎謙治さんのコーヒー・ハウス、ロストシティから生まれた精鋭バンドだ。

ブルーグラス45もここから生まれた、といっても過言ではないかな。僕が高校生で、まだ静岡にいたころからの話だし、その頃は距離的にも東京の方が馴染み深く、関西に関してはあまり情報が得られなかった。

なので、間違っていることもあるかもしれないが、68年、京都に出向いてからのブルーグラス関連のことでは思い出すことがいっぱいある。

当時、どこの大学にもブルーグラスのグループが存在し、京都の烏丸通にあった「アメリカ文化センター」というところで月1回、ブルーグラスのコンサートが開かれていた。

そのころはまだキャッツというバンドは存在していなかっただろうか。その辺は、また今富君にでも訊いてみないとわからないが。

ナターシャー時代、それもかなり初期に神戸のそごう百貨店(だったかな)の特設ステージで、キャッツと共演したことを覚えている。

その頃から今富君のボーカルが冴えていたこともよく覚えている。

彼等のレコードも、「キャッツだドカーン」ともうひとつ、どこかの牧場で撮ったジャケ写のものと、どちらが先だったかは覚えていないが購入した覚えがある。

当時は、ブルーグラス45、三ツ谷君がいたロッコー・マウンテンボーイズ、桃山学院のブルーグラス・ランブラーズ、そして、キャッツ、その他様々なバンドが鎬を削っていた。

もちろん関東方面でも素晴らしいバンドがたくさんいた。

日本のブルーグラスの黄金時代と言えただろう。72年頃からは、ナターシャー・セブンもそこに一役買い、さらに人々の間にブルーグラスが浸透していった。

さて、キャッツの後輩バンドに“ロストシティ・マッドドッグス”というグループもいたはずだ。

確か、僕が産業大学の2回生の頃にギターとボーカルで参加していた藤田君という人は、後にマッドドッグスのリード・ボーカルで活躍したんじゃないかな。この辺のこともかなり前のことなのであまり定かではないが。

長身のハンサムな彼がギターを少し斜めに構えているのを見て、この人はJim&Jessieが好きなんだろうなと思ったら大当たりだった。

あの頃、みんな生で見たことのないプレイヤーに憧れていた。僕はEddie Adcockだったし、今富君は誰だったろう。やっぱりLester Flattかな。

彼の店「オッピドム」に行くと、Bill Monroeとの2ショットでにっこり笑った今富君の写真を見ることができる。

Bill Monroeは勿論、誰もがこの音楽の父として尊敬していた。

今富君は現在、自身の書き下ろした楽曲なども歌い、演奏している。彼の1949年製のマーティンD 28と共に。

それは、ロストシティ・キャッツのリード・ボーカルとしてブルーグラスの神髄を歌い続けてきた彼の別な一面でもある。

今度はもっとキャッツのことや、当時のブルーグラス・シーンのことを彼にインタビューしてみよう。

Irish Music その82

The Bank of Ireland   Reel

  • The Bank of Ireland

“初心者にもよく知られる有名な曲。事実、僕もこの曲は最初の方に習った。でも名曲である。これはどこのBankのことを言うのか、はたまた銀行なんだろうか、と議論が飛び交っている。そういえば、随分まえにアメリカで、Bank of Ireland と名付けたパブが出来たが、アイルランド銀行から“待った”がかかり、結局Irish Bankに名前を変えた、なんていう話があったなぁ。Francis ReynoldsというLongford のフィドラーによって書かれた曲で、

元々はFollow me down to Carlowというタイトルだったようだ”

 

Blackbird/Spike Island Lasses    Set Dance/Reel

  • Blackbird

“何とも変わった曲だが大好きな曲だ。パディ・キーナンとは必ず演奏した。最初はエアーで入り、そのままセット・ダンスに持っていく。Jody’s Heavenでもギター・ソロからセット・ダンスに入る手法で録音したことがある。カナダでパディと演奏した時のこと。彼がエアーで思い切り感極まって演奏している最中に、パイプのチャンターが抜けてしまった会場は一瞬水を打ったように静まり返った。彼はまるで“鳩が豆鉄砲を食らったような顔”をして助けを求めた。僕はそのままメロディをギターで引き継いだ。彼は一生懸命チャンターを差し込んでいた。その後は爆発だ。いい思い出である”

  • Spike Island Lasses

“この曲のBパートは前の曲(The Bank of Ireland)のBパートにそっくりなのであえて同じ場所に載せてみた。しかし、3パート、4パートと進んでいくとそのパートごとのメロディの美しさがなんとも心地よくなって何度も繰り返したくなる。勿論、最初のパートも何だか途中から入るようなメロディでなんとも言えない。やっぱり名曲のひとつだ”

Irish Music その81

Lost and Found/Auld Lark In The Morning Jig

  • Lost and Found 

Paddy Keenanがよくコンサートの最初に演奏したジグ。出だしがいかにも“始まる”という感じのメロディだ。どうやら沢山のタイトルが存在するらしく、いろんなバージョンでいろんな人がやっている。例えばMichael Colemanでは“Coleman’s Maid on the GreenTerry Binghamでは“Tommy People’s”他にも少しずつバージョンの違うものが存在するが注意深く見ていくと、それぞれに違う曲ではないかと思われる。これだからこの音楽はとても面白く、やめられない”

  • Auld Lark In The Morning

Seamus Ennisの素晴らしいパイプ演奏が聴ける。Edel Foxもこのバージョンでやっていたし、結構好きなメロディだ。特にAパートが少しひねったメロディで気に入っている。こちらは2パート。Lark in the Morningをやろう、と言われたら、どのバージョン?と即座に尋ねることが出来るようにしたいものだ”

 

Lark In The Morning   Jig

 ▪ Lark In The Morning

“ほとんど前曲と同じタイトルだが、少し違うところが面白い。80年代、Moving Heartsの録音で聴いていた4パートの美しいジグ。Morning Larkという曲もあり、非常に似ているパートを持っている”

アイルランドから帰ってきました

 1月のアイルランド。ゴールウェイは、ほとんど毎日嵐のような天気でした。

フランキー・ギャビン、そして、パディ・キーナン。共に元気でした。こちらも嵐のようでした。

ボタンズ&ボウズのメンバーであるギャリー・オブリエンの所有する、素晴らしいロケーションにあるスタジオ。

池のほとりで緑に囲まれて、夜になると真っ暗闇になってしまい、車も通らなくなるようなところ。

音が本当に山の中、奥深くまで通り抜けていく。

そんな素晴らしい経験でした。

詳しくはまた後日。何かの機会を見つけて書きます。OLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

Irish Music その80

Seanamhac Tube Station   Jig

  • Seanamhac Tube Station

“僕らはあまりやらない曲。何故かというと、いかにも若者のグループが張り切ってやりそうなタイプのものなので、敢えてレパートリーとしてとりいれようとはしていない。だが、トラッド同様、新しい曲でも常にアンテナを張り巡らしておかないと、引き出しの少ない狭い観点のミュージシャンになってしまう。この曲のメロディ自体は好きなのでここに掲載してみた。この聞きなれないタイトルに使われているのはアイルランドの小さな村の名前だ。だが、そんな小さな村にTube Station(地下鉄の駅)などない。これは一種のジョークであるらしい。そして、作者はJohn Cartyというのが頷けるところだ。ところで、なんと読むのだろう。こんな発音らしい「SHANNAWOCK」”

 

 

The Wren/October Rain   Breton/Jig

  • The Wren

“ブリタニーのグループKornogのアルバムから随分前に覚えた奇妙な曲。またの名をAn-Droという。ティプシー・ハウスのフィドラー、ケビンの大好きな曲だった。大体この手の変わった曲を持ってくるのはケビンか、もう一人のフィドラー、クリスだったが、彼はエジプシャン・ミュージックなどもやっていた変わった奴だった”

  • October Rain

“90年代中期に書いたオリジナル曲。10月のある日、空を見上げていたら、しっとりと冷たい雨が降ってきた。間もなくすると太陽が出てきて辺り一面陽の光に照らされた。まるで山のような天気だったその日にできた曲。坂庭省悟と宮崎勝之もレパートリーの中に取り入れてくれたものだ”

Irish Music その79

Brian O’lynn/Old John  (Jig

  • Brian O’lynn

“これは、かなり初期に覚えたジグ。ハンマー・ダルシマーのロビン・ピトリーとフィドルのスコット・レンフォートと共に録音もしたし、よく演奏したものだ”

  • Old John

“さて、この曲。長いことBrian O’lynnの別バージョンと思っていたが、どうやら違う曲らしい。Old Johnというのはパイパーでフルート奏者のJohn Potts(Wexford)で、Tommy Pottsのお父さんであり、Sean Potts のおじいさんであるらしい。そしてこの曲にこの名前をつけたのはBrendan Breathnachだ、という情報がある。この2曲、出だしは場合によってはそっくりなので注意した方が良い”

Irish Music その78

The Bluemont Waltz   Waltz

  • The Bluemont Waltz

Rodney Miller作のこのワルツ。希花さんがBottons and Bowsのアルバムから見つけてきた。そこで出どころを調べてみたら、Rodney Millerの1987年のアルバムに入っていたものだった。希花さんの生まれた年だ。とてもきれいな親しみやすいメロディを持った名曲だ”

 

Eddy Kelly’s/Moon Coin   Jig

  • Eddy Kelly’s

“別名Meelick Teamという。Eddy Kellyという名前でリールあり、また別メロディのジグあり、なのでこちらの名前で呼んだほうがいいかもしれない。ともかくEddyCo.Galwayで1933年に生まれたフィドラー兼ボックス・プレイヤーだ。20曲のコンポジションがある、と言われているが、これはどうもNo1らしい”

  • Moon Coin

“前の曲とのつながりは結構好きだ。3パートの美しいジグで僕はかなり前からやっていた。20年以上も前かな”

 

Eddy Kelly’s   (Jig

  • Eddy Kelly’s

“もうこうなってくると訳が分からなくなってきてしまうが、これは彼のNo2と言われている。Drumshanboというタイトルでも知られている。Bパートがちょっとつまらないので(あくまでも個人的意見)あまりやらないが、かのジョン・ヒックスがよくやっていたので思い出した。さすがにBパートを少しアレンジしているやり方だったかもしれない。ちなみに、僕らが通常ジグの最中にEddy Kellyと叫んではじめるのはNo1のほうだが”

Irish Music その77

Ceilier/Carraroe Reel   Reel

  • Ceilier

“長いことCalicoでの演奏しか聴いたことがなかったので、彼らの作品かと思っていたが、どうやらEd Reavyらしい。が、それも定かではない。ずっと前によく聴いていたThe Green Fields of Americaのライブ盤にも入っていたようだが、記憶にない。きっとCalicoの演奏が素晴らし過ぎたせいかもしれない”

  • Carraroe Reel

“このタイトルではジグの方が有名だ。勿論その場合The Carraroeとだけ表示されるが。こちらはOisin MacDiarmadaの作品。始まった途端、いかにも彼らしい世界に引きずり込まれるような曲だが、これを2曲目に選んだのは、非常に前の曲とテイストが似ている、という理由からだ”

 

Lady’s Fancy  Reel

  • Lady’s Fancy

“これはSay Old Man, Can You Play Fiddle?という曲をDan Craryがブルーグラス・ギターチューンとしてアレンジしたものだ。もともとの出どころは定かではないが、どうもアイリッシュ・チューンではなさそう。やりかたも人によって全く違うが、最もよく聴いたのはまだ10代後半だったSam Bushがグループ“Poor Richard’s Almanac”で残したものだ。(1969年)それを僕らは更にアレンジしている。アレンジする時も、できる限り多くの録音を注意深く聴くことが大切だ。たったひとつの曲でも実に多くの物語が存在する。そうして考えてみるとこのような音楽を演奏するということは、長い歴史に培われた物語を演奏することにもなるのだ”

Irish Music その76

Da Slockit Light  Air

  • Da Slockit Light

SlocketともSlokitとも書く。この曲を初めて聴いたのは、定かではないが70年代後半に手に入れたThe Fiddle Music of Shetlandというアルバムからだったと思う。真っ白いひげのおじいさんがフィドルを作っている。背後の壁にはいっぱいフィドルが並んでいる。それも白黒写真で、という明らかに“ジャケ買い”といえるものだった。Tom Anderson/Aly Bainというデュオアルバムだった。Aly BainThe Boys Of The Loughでお馴染みだったがTom Andersonとは、まだ誰だか知らなかった頃だ。そのアルバムの中のこの1曲はすぐにお気に入りの曲となった。それこそがTom Andersonの名作だったのだ。後年、僕は故坂庭省悟と共にツイン・ギターにアレンジしてよく演奏していたものだ。最近、クラシック畑の人が“シェトランド・エアー”と名付けてこの曲を演奏していたりするが、どうやら出どころを知らないらしい。Tom は1970年のインタビューでこのように答えている。

「それは1969年の1月の終わりころ、生まれ故郷のEshanessという村で見た光景だった。子供の頃は多くの灯りが灯っていたこの村も、一つ、また一つと灯りが消えていった。そして、それはまるで最近あの世へ旅立った自分の女房の想いでと重なるようだった。その時、古い言葉Slockitという文字が頭に浮かんだのだ。そして、その意味は“消えていく灯り”」彼のこの言葉を知らずしてこの曲を弾くわけにはいかない”

2014年もお世話になりました

  2014年。この年は希花さんにとっては大変な年でした。もちろん、その数か月前から1日のほとんどの時間を教科書との睨めっこに使い、睡眠時間もいつもの半分ほどにして勉学にはげんでいたわけですが、最後の追い込みに入り始めたのはこのころ。さらに睡眠時間は短縮され、ノロウィルスの恐怖からそれまで行っていた図書館にも行かなくなり、一日20時間ほどの勉学に励んでいたようです。

 

そんな中、以前からお話があった、ウィンドⅡ主催によるコンサートの準備も進み、ようやく試験が終えた希花さんも晴れて(まだ結果待ちでしたが)アイルランドの話に華を咲かせることができました。

このコンサートはアイルランドで過去に僕らが撮ってきた写真を見ながら、その風景を楽しんでもらい、そして音楽も楽しんでいただく、という企画でした。

ウィンドⅡには本当にむかしからお世話になっています。これからもお付き合いのほどよろしくお願いします。

 

さて、いよいよ合格発表という頃、ニュージーランドに来ていたコーマック・ベグリーが「桜を見たい」と、のたまってあらわれたのです。

 そして間もなくして発表があり、史上最難関の国家試験に見事合格、という偉業を成し遂げた希花さんも「ようやく寝れる」と言い、今までの生活が逆転。20時間ほど寝たようです。

しかしそうも言っておられず、コーマックとのツアーが始まりました。

大泉、京都、大阪、岡崎、とまわったコーマック。あちこちで桜を見ることが出来て、いたく感動していました。

もちろん富士山もきれいに見えたし、いろいろ味にもうるさくなってきて生意気に「パックのお茶より、葉っぱを買っていきたい」などと言うようになりました。

「彼にはどっちでも一緒だよ」と少し高価なパックのお茶を持たせたのですが、今回アイルランドに行って、ブレンダン(父親)のキッチンを覗いてみると、ちゃっかりそこに置いてあるではないですか。しかも、ほとんど手つかずの状態で。

やっぱり本物の葉っぱでなきゃ、と思ったのでしょうか。彼、意外と分かっているのかな。

とに角、大泉では勿論のこと、京都でもいつもの仲間や都雅都雅、ぴんさん。大阪ではオッピドム、岡崎でもみんなにお世話になりました。

 

4月に入っていよいよ卒業式も終えた希花さん。まだまだよく眠れるようで「春眠暁を覚えず…」とはよく言ったものです。

まだ滞在していたコーマックと、お茶の水のギター・プラネットや、下北沢のラ・カーニャ、そして三島とまわってみなさんにお世話になりました。

コーマックが帰ってから僕らは豊川の里估で極上のホルモン焼き&コンサート。

 

5月には鶴ヶ峰の「陽の当たる道」で、美味しいコーヒーと音楽。そして、初めての試みで、アイルランド文学の栩木伸明先生との「アイルランド音楽とモノ語り」この会は、僕らも勉強になる素晴らしい企画になったと思います。

そして、5月の最後は生まれ故郷、静岡で、多くの旧友たちと音楽に、お話に興じることが出来ました。

 

6月には岡山から四国へ。アイルランド行きをひかえて沢山の場所に行かせていただきました。

京産大の後輩、多くのブルーグラス関係者のみなさん、お世話になりました。

その後、京都法然院での音楽会。大阪での“よいよいよい祭り”それらが終わって群馬県の妙安寺でのコンサート。これは、4月に他界した名マンドリン奏者である宮崎君がずっと大切に続けてきたものだったのです。そこに僕らも参加できたことを彼に感謝。

 

そして、2日後にはアイルランドに向けて旅立ちました。

アイルランドに関してはもうすでに沢山書いてきているので先に進みます。

 

帰ってきたのが9月18日。なんとその2日後には宮津の世屋高原に出掛けました。体内時計は完全にアイルランド仕様になっていたのですが、みなさんにあたたかく出迎えていただいて幸せこの上なかったです。

1週間あとには東京の根津教会で。ここでもセッティングから後片付けまで、たくさんのお客さん(あくまでコンサートを聴きに来てくれている人達)に手伝っていただいて本当に助かりました。

 

10月に入って大泉のスペース結で。そして三島で、久しぶりに金海君との懐かしい曲を演奏。後半には阿佐ヶ谷のバルトでフォークソング中心のコンサート。

 

11月は来日アーティストの世話で明け暮れたような気がします。先ずイデル・フォックス。コンサルティーナ奏者としての実力は言わずと知れたものですが、その止まらないおしゃべりもなかなか楽しいものがありました。

彼女との演奏は、僕らを完全にアイルランドの生活へと戻してくれたような気がします。クレアーのリズムに。

イデルと別れて、僕らは四国、徳島の北島町創生ホールへ。なかなか会うことのできない骨太の達人たちとお会いできたことは大きな収穫でした。

ほどなくしてデイル・ラスがやってきました。越谷のおーるどタイムさん、ありがとう。イデルとは対照的にもの静かなデイル。こうして文字で(カタカナで)書いてみると同じ字が並んでいることに改めてびっくり。なんの関係もありませんが、またデイルは彼らしい誠実なプレイで僕らを、そして皆さんを魅了してくれたと思います。

各地の皆さん、イデル、デイル共々僕らからも「ありがとう」を言わせていただきます。

 

12月に入ってからはまた、栩木先生とのアカデミックな会を開かせていただきました。アイリッシュ・ミュージックを演奏するうえで大切なお話を沢山聞くことができたと確信しています。

 

今現在は12月21日のクリスマス・コンサートと、30日の僕の誕生日、京都の都雅都雅でのコンサートを控えています。

クリスマス・コンサートでは友人がパンを焼いて持ってきてくれます。以前彼女の作ったパンを食べて「これは美味しい。どこで買ってきたの?」と僕もコーマックも驚いて、いくつも、いくつも食べてしまったことがあったので、今回も無理を言って、来ていただける人たちのためにお願いしました。

アイルランドの紅茶と、ちょっと珍しいコーヒー、それと音楽で楽しんでもらえたらなぁ、と思っています。

京都では40年ものあいだ家族のように過ごしてきた仲間のためにも、いいコンサートになればいいな、と思っております。

2014年、もうすぐ終わってしまいます。今年はやっぱり3か月のアイルランド生活で得たものが沢山ありました。この壮大なる伝承音楽を、心から大切に演奏している人たちとの出会いは今一度原点に帰る、いいきっかけになりました。

そして、日本でも多くの人にお世話になりました。4年前に希花が「もう一度音楽をやろうよ。あなたが持っている本物の音楽をみんなに聴いてもらわないともったいないから」と言ってくれた時、多少の迷いはありました。でも、そのおかげで昔の仲間との再会や、新たな素晴らしい人達との出会いを経験しました。

まだまだ僕らにはやらなければいけないことがあるかもしれません。いや、きっとあります。

2015年がいい年になりますように。もちろん皆さんにとっても。

Irish Music その75

The Sligo Maid/London Lasses  Reel

  • The Sligo Maid

“非常に有名な曲。そんな意味でも特に最初の頃に覚える曲のひとつかもしれない。特筆すべきこともないが、コードについては考えてみたいものだ。最もトラッドなやり方はAパートBパート、共にDはじまり(key of G)だろう。何故かというと、パイプのドローンがDの音で鳴り続けるケースが多いからだ。その次はBパートでAmを使うやり方。更にAパートはAmで始まるやり方。こちらは大体の人がBパートもAmでやる。僕のやり方はAパートをAmで入り、BパートにCを持ってくる。Cをもってくることで、メロディとC6の関係を持つことが出来るが、同じメロディが4回出てくるので、3回目をAmでやり、AパートのAmを予感させる。この予感ということを習ったのは、ビル・キースからだ。彼のバンジョーでのリックでは細かいところで7th9thを入れることで、次の音やコードの予感をさせる、という方法。彼がこの方法をたまたまビル・モンローのバンドにいたときに使ったら彼が振り向いた、という話がある。ビル・モンローも流石にハッとしたらしい。1963年頃の話だ。大したことではないかもしれないが、アイリッシュに於いてもギタリストはこれくらい細かいところまで気をくばりたいものだ。相手に合わせる、ということも忘れてはいけないし”

  • London Lasses (その49参照)

“これも非常にポピュラーな曲だが、BパートはほとんどDバージョンのFarewell to Irelandと同じ展開だ。キーが違うので、こんがらがってしまうことはなさそうだが、それにしてもよく似ている”

 

 

Fraher’s/Frieze Breeches  (jig)

▪ Fraher’s

“非常にシンプルな古いパイプ・チューン。僕はMick O’Connerのバンジョーから習った。Paddy Cartyのフルートアルバムにバンジョー・ソロとして入っていたものだ。先日Edel Foxと演奏した時、彼女が弾いて想い出した。シンプル・イズ・ザ・ベストを絵にかいたような曲だ”

  • Frieze Breeches

“一般的には5パートあるジグだが、いや、8パート、9パートある、という人もいるようだ。特に前の曲と繋げてやらなくても、これ自体で充分に美しく、かつ、長い曲だ”

Irish Music その74

The Sheep in the Boat/The Gallowglass    Jig

  • The Sheep in the Boat

“希花さん、渾身のコンサルティーナ・セット。Junior Crehanの作と言われているが定かではない。悲しくも美しいメロディーが印象的な名曲だ”

  • The Gallowglass

“意味は「外国に雇われた兵隊」ということらしい。スコットランドでの言い方のようだ。Nathaniel Gow’s Lament For The Death of His Brother というタイトルでもある。これも悲しげな美しいメロディーを持った曲だ”

 

Irish Washerwoman   Jig

  • Irish Washerwoman/Rosewood

“おそらく最も有名なメロディーを持った曲だろう。これを聴けば“なんだかアイリッシュみたい”と誰もが思うことだろう。例え一切アイリッシュ・ミュージックと無縁の人でも。それだけにセッションに登場することは皆無といってもいいくらいだ。ところが、去年のフィークルで突然アンドリューが弾き出した。それが、あまりに演奏されない曲なのでかえって新鮮に聞こえたのだ。そうしてみると結構いい曲だ。アンドリューも「みんな嫌うけど意外といい曲なんだな」と笑っていた。多分彼の持っている独特なリズム感が、そう聴こえさせるのかもしれない。ひょっとすると、クラシックの高名な演奏家がバイオリンで弾いたりすると、とんでもなく情けない曲として、僕らには聴こえてしまうだろう。アイリッシュ・チューンの中にはそんな曲がいっぱいあるが、これはその最たる例かもしれない”

 

  • Rosewood

James Scott Skinner作のご機嫌な曲。古くはThe Boys of the Loughのレコーディングで知られているが、4年ほど前のDe Dannanの演奏が素晴らしく、また再発見した曲だ”

 

Irish Music その73

Black Rogue/Wake Up Paddy  jig

  • Black Rogue

“セッションでは、古今東西を問わずよく登場する曲だ。これは先日、栩木伸明先生にお会いして様々な話をしていたところ、翻訳本であるJ.M.Synge Aran Islandsを始め、多くの書物を見せていただいた中に出てきたので思い出して掲載してみた。一般的に良く知られている曲というのはあまりやらなかったりするが、そのせいかタイトルがなかなか思い出せなかったりする。また、逆にメロディがなかなか出てこなかったりする。この曲もそんな一つだ。たまにはやらなくちゃ”

  • Wake Up Paddy

“これはまぎれもなくSyngeAran Islandsに出ていた曲。「起きろパディ」という曲を弾いた、という文章があり、栩木先生に「この曲は?」と訊かれたが馴染みがなかった。帰って調べてみると多分これだろう、と思えるものが見つかった。Paddy Get Upというもの。しかしこれは僕の知る限りJerry’s Beaver Hatという曲と同じようだ。前曲と同じくポピュラーな曲といえるので、これを弾いた、というのはうなずけるような気もする”

 

The Humours of Kilclogher   Jig

  • The Humours of Kilclogher

“ちょっと聴くとスリップ・ジグかな、と感じるメロディを持った不思議な曲だ。デイル・ラスの素晴らしい演奏で聴くことが出来る。Kilclogherという地名はClareLeitrimの両方にあるそうだが、これはClareのほうではないか、と言われている。また、Elizabeth Kellyというタイトルでも知られているようだが、この人はクレアー出身の著名なフィドラー兼コンサルティーナ奏者であるジョン・ケリーのお母さんだそうだ”

Irish Musicその72

Tom Ward’s Downfall/The Reel of Mullinavat   Reel

  • Tom Ward’s Downfall

“すでに、その24に登場している曲だが、最近希花さんが新たにコンサルティーナのレパートリーとして取り入れている。本当は2曲目を先に練習し始めたが、曲のつながりを考えたとき、ふとMichael Colemanの古い録音でのセットを想い出し、この曲を頭に持ってきた”

  • The Reel of Mullinavat

Connemara Stockings(その30に既に登場)によく似ている曲だが、これはこれでとても有名な曲。読み返してみるとその時も今回の逆でこの曲に似ている、と書いていた”

 

King of Fairies    Set Dance

  • King of Fairies

“先日、ある著名な歌手のアイルランド紀行のDVDを観ていたら、ダブリンの街角でストリート・ミュージシャンと出会い、その彼が「アイリッシュといえばこれだ」と言わんばかりに弾いた曲がこれだった。しかしその演奏は、とてもアイリッシュ・ミュージックとはほど遠い感覚で弾かれているものだった。しかしナレーションでは本物に触れた、というようなことを言っていた。確かにこういう著名人のものから興味を持つ人もいるかもしれないので、その存在は貴重であるが、その興味を持った人がこれからそれを、どう消化していけるか、そこが分かれ道でもあると思う。しかし惜しむらくは、もしプロデューサーなり、周りの人間が本質をもっと理解していたら、と思ってしまう。まぁ、僕も含めて誰だって最初は初心者なのだが。それはともかくとして、これはホーンパイプとして掲載されているものもあるが、小節数からみてもセット・ダンスと言えるだろう。とても美しいメロディを持った曲だ”